旅行記 クライストチャーチ '18.09月 0
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いきなりだが、私にとってパリとウィーンは、その他欧州のどの都市と比べても別格だ。あ、ザルツブルクはそのまた上の別格だが。(笑)パリは私にパスポートを与えてくれ、ウィーンはオセアニア、南米、ニューヨークを訪れた後の私に、改めて欧州の魅力と気品を見せつけてくれた街だった。今回、再びウィーンを訪ねてみて、その特別さがよ~く分かった。そして、どちらも自分にとって大きな節目の旅であったと今なら分かる。今回の旧ユーゴを巡る旅、そして「ドナウの旅人」も、後で振り返った時にそう思えるものであって欲しい、そう心の底から願っている。そして またいつか、この旅の続きが始まることを楽しみにしたい。*:*:*:*:* *:*:*:*:* *:*:*:*:* ・2012.09.30オーストリア → ドイツ → オーストリア 09:02 ザルツブルク中央駅発 10:30 ミュンヘン中央駅着 ミヒャエル教会 マリエン広場 ミュンヘン新市庁舎 (外観) ミュンヘン旧市庁舎 (外観) バイエルン州立歌劇場 (外観) レジデンツ プリンツレーゲンテン劇場 (外観) ◆pikoさま、ご招待☆ オクトーバーフェスト会場 ◆これぞ、オクトーバーフェスト! ◆私も欲しい、ディアンドル。 19:00 プリンツレーゲンテン劇場入場 20:00~20:50 Max Raabe solo concert (第1部終了後、退場) 21:42 ミュンヘン中央駅発 23:45 ザルツブルク中央駅着 (宿泊) Hotel Ganslhof・2012.10.01オーストリア カフェ・トマッセリ レジデンツ広場 ノンベルク修道院 聖ペーター教会 ゲトライデガッセ バルカン・グリル・ヴァルター <ボスナ> (宿泊) Hotel Ganslhof・2012.10.02オーストリア 09:15 ザルツブルク発 10:45 バート・イシュル着 カイザーヴィラ ◆リベンジ☆ グーグルフプフ。 カフェ・Ramsauer 14:24 バート・イシュル発 15:57 ザルツブルク着 ミラベル庭園 ゲトライデガッセ (宿泊) Hotel Ganslhof・2012.10.03オーストリア → ドイツ → オーストリア 10:09 ザルツブルク中央駅発 13:01 アウグスブルク中央駅着 アウグスブルク市庁舎 (外観) ムラト氏宅 トルコ料理レストラン 19:42 アウグスブルク中央駅発 22:12 ザルツブルク中央駅着 (宿泊) Hotel Ganslhof・2012.10.04オーストリア カフェ・バザール カプツィーナーベルクの丘 ・・・昼寝 メンヒスベルクの丘 レストラン・ペーター・エステーラー 大聖堂 レジデンツ広場 ◆沢山の出会いに、ありがとう。 コレーギエン教会 馬洗い池 ゲトライデガッセ カフェ・ザッハー (宿泊) Hotel Ganslhof・2012.10.05オーストリア → ドイツ → アラブ首長国連邦 08:09 ザルツブルク中央駅発 10:18 ミュンヘン中央駅着 15:45 ミュンヘン国際空港発 エミレーツ航空50便 23:40 ドバイ国際空港着・2012.10.06 03:00 ドバイ国際空港発 エミレーツ航空316便 17:10 関西国際空港着 18:05 関西国際空港発 関空リムジンバス 21:37 JR高松駅着 ◆気になるシリア上空。 ◆世界地図を広げてみる。 ◆わが友、「トーマスクック」 ◆picchuko版・中欧8ヶ国周遊マップ ◆旅の意味が増す。*:*:* *:*:* *:*:*長い間、中欧旅行記にお付き合いくださいまして、まことに有難うございました。
2012.12.04
小雨の中 ザルツブルクに着いた私は、中央駅にあるインターネットカフェでホテルを抑えた。スプリットでは直接ホテルのフロントで宿泊を申し込んだが、やはり あらかじめ立地や料金、部屋の写真等を見比べてから決める方が安心だ。気分ひとつで行き先を変更する旅には、日本語が文字化けしないザルツブルクのネットカフェは有難かった。自分のパソコンを持ち歩くのは邪魔であるし。ついでに そこで、急に思い立った2日後のウィーンのホテルも予約した。それで一息ついたのか気持ちも緩み、だらだらと過ごすことが多くなる。(笑)そんな中、お気に入りの時間は、お菓子片手にホテルの庭で本を開くことだった。ま、それもいいかな、と思っている。*:*:*:*:* *:*:*:*:* *:*:*:*:* ・2012.09.24オーストリア ◆音符が降る町。 ミラベル庭園 ◆ミラベル散歩は欠かせない。 カフェ・バザール メンヒスベルクの丘 レストラン・ペーター・エステーラー カフェ・モーツァルト ◆今一番、恋しいもの。 ◆同郷の人。 (宿泊) Hotel Markus Sittikus・2012.09.25オーストリア ザルツブルク中央駅構内カフェ 11:10 ザルツブルク中央駅発 ◆ちょっとだけ小旅行。 ◆動かない。 ◆だって、ブログ書いてるから。(笑) 14:18 ウィーン西駅着 クリムト墓地 シェーンブルン庭園・グロリエッテ ◆花咲くシェーンブルン。 ◆やっぱりウィーンは素敵だと思う瞬間。 ◆私がウィーンへ来る為には、 (宿泊) Hotel Bergwirt ・2012.09.26オーストリア → スロバキア → オーストリア シュテファン寺院 (外観) 王宮・庭園 (外観) ウィーン国立歌劇場 (外観) ◆天井桟敷。 カールス教会 (外観) セセッシオン ◆クリムトだぁ。 12:10 ウィーン・シュヴェーデンプラッツ船着場発 ◆やっぱり素敵だ。 13:45 ブラチスラヴァ着 Sightseeing in Bratislava ツアー ・ブラチスラヴァ旧市街 ・ブラチスラヴァ城 16:00 ブラチスラヴァ発 17:30 ウィーン・シュヴェーデンプラッツ船着場着 カプツィーナー教会 中華料理レストラン ◆何故か、 ◆そして誰もいなくなった。 ◆これが、オペラ座だ!?(笑) (宿泊) Hotel Bergwirt ・2012.09.27オーストリア → (スロバキア) → ハンガリー → オーストリア 09:00 ウィーン・ライヒスブリュッケ船着場発 ◆「ドナウの旅人」になってみる。 ◆3000kmの旅。 ◆ドナウに例えると、 ◆後30分、ドナウの旅人。 ◆ドナウのように生きてゆく? 15:00 ブダペスト着 鎖橋 ブダの丘 漁夫の砦・カフェ ◆最高の気分だ。 ◆ブダペストと「Gloomy Sunday」。 ◆もう帰る時間。 マーチャーシュ教会 (外観) 国会議事堂 (外観) ◆点と線。 19:10 ケレティ <ブダペスト東駅> 発 22:10 ウィーン西駅着 (宿泊) Hotel Bergwirt ・2012.09.28オーストリア シェーンブルン宮殿・庭園 ◆シェーンブルンのバルコニーから更新だ。 ◆せっかくのウィーン。 ウィーン市立公園 シュテファン寺院 ケルントナー通り・プチポワン専門店 カフェ・ザッハー ◆これがホントのウィンナー珈琲? 15:50 ウィーン・ヒュッテルドルフ駅発 ◆愛しい町、ザルツブルク。 19:20 ザルツブルク中央駅着 (宿泊) Hotel Ganslhof ・2012.09.29オーストリア 聖セバスチャン教会 モーツァルト小橋 モーツァルト広場 ゲトライデガッセ ペーター教会 ミラベル庭園 (宿泊) Hotel Ganslhof
2012.12.03
・2012.09.18オーストリア → (スロベニア) → (クロアチア) → ボスニア・ヘルツェゴビナ 08:30 ザルツブルク発 17:00 ボスニア・ヘルツェゴビナ入国 ◆いざ、サラエボへ。 19:30 サラエボ着 バシチャルシァ <旧市街> (宿泊) Evropa Hotel Grani・2012.09.19ボスニア・ヘルツェゴビナ → クロアチア バシチャルシァ <旧市街> カトリック大聖堂 シナゴーグ (外観) セルビア正教会 セビリ (水飲み場) ラテン橋 ガジ・フスレヴ・ベイ <イスラム関連施設> ◆ユーゴに惚れた!?(笑) ◆増えるコレクション。 ◆picchuko&ムラト氏 おススメ、サラエボの教会。 ◆まさに引き金だった。 11:40 サラエボ発 13:30 モスタル着 14:00 モスタル発 18:15 スプリット着 リーヴァ <海岸通り> (宿泊) Hotel Bellevue・2012.09.20クロアチア リーヴァ <海岸通り> ◆逃れて、スプリット。 ディオクレティアヌス宮殿跡 ぺリスティル <中庭> ディオクレティアヌス大聖堂・鐘楼 前庭 ◆スプリットでも。 (宿泊) Hotel Bellevue・2012.09.21クロアチア リーヴァ <海岸通り> ディオクレティアヌス宮殿跡 ぺリスティル <中庭> 前庭 ◆明朝、ザグレブへ。 ◆スプリットへの誘い。 ◆私の抱く旧ユーゴ。 ◆ボスニアおじさん。 21:16 スプリット発・2012.09.22クロアチア → (スロベニア) → オーストリア 07:10 ザグレブ着 09:00 ザグレブ発 ◆縁 11:21 リュブリャーナ着 11:50 リュブリャーナ発 14:00 フィラッハ着 15:16 フィラッハ発 17:48 ザルツブルク着 (宿泊) Hotel Markus Sittikus ・2012.09.23オーストリア ミラベル庭園 カフェ・トマッセリ ◆暮らすように、オーストリア。 ザルツブルク旧市街 <フェスティバル> レジデンツ広場 ◆溢れる人、人。 ザルツブルク大聖堂広場 ◆大聖堂の鐘の音には敵わない。 ◆どれくらいかと言うと、 トルコ料理レストラン (宿泊) Hotel Markus Sittikus *:*:*:*:* *:*:*:*:* *:*:*:*:* スプリットからザルツブルクへ戻る途中、列車の故障で スロベニアの首都・リュブリャーナからオーストリアのフィラッハまで、QBBが代行のバスを出してくれた。なので、一旦リュブリャーナで列車を降りた。あの時、何も考えずにバスに乗ったが、今覚えば そのままスロベニアで滞在しても良かったのだ。あんなにも気に入ったスロベニアだったのに。それでも、あの時の私にはザルツブルクしかなかった。私の頭の中にあったのは、ザルツブルクの温かい表情だけだった。結局、ザルツブルク。やっぱり自分でもおかしくなるくらい『I love Salzburg』なんだな。(笑)
2012.12.02
今回、現地からその都度ブログを更新できたので、行程表と合わせて整理してみた。旅の流れと その時の気持ちがひとつになって、いい記録になると思う。*:*:*:*:* *:*:*:*:* *:*:*:*:* ・2012.09.12 スロベニア → クロアチア 08:15 リュブリャーナ駅発 ◆パスポートチェック中。 10:35 ザグレブ中央駅着 レストラン・ピヴニツァ・トミスラフ 青果市場 ◆ザグレブは都会なのか? ザグレブ聖母被昇天大聖堂 ◆道端に腰掛け、かじってみた。 聖マルコ教会・マルコ広場 ナイーブアート美術館 ◆ナイーブアートと丸亀市。 ロトルシュチャック塔 (宿泊) Hostel Nocturno・2012.09.13 クロアチア ◆雨だ。 08:50 ザグレブ発 11:00 プリトゥビツェ着 プリトゥビツェ湖群国立公園 ・・・トレッキング ◆幻想と現実と。 ◆ひやりとした。 ◆「プリトゥビツェ湖群」以上に輝く二人。 17:00 プリトゥビツェ発 19:10 ザグレブ着 (宿泊) Hostel Nocturno・2012.09.14 クロアチア → セルビア ザグレブ聖母被昇天大聖堂 ・・・ミサ ◆クロアチア美人。 11:03 ザグレブ中央駅発 17:19 ベオグラード本駅着 ◆旅のスタイル、読書スタイル。 (宿泊) 12 Monkeys Hostel ◆picchukoさんってそんな人?・2012.09.15 セルビア 08:15 ベオグラード本駅発 ◆今の私では、、、 ◆2つの安堵。 09:52 ノヴィ・サド駅着 ペトロヴァラディン要塞 ◆ノヴィ・サドで、晴れた気分。 スロヴォダ広場 カトリック大聖堂 (外観) セルビア正教会 シナゴーグ (外観) 13:30 ノヴィ・サド駅発 ◆セルビア青年とコンパートメント。 15:00 ベオグラード本駅着 カレメグダン公園 ◆それを見ずには、 聖サヴァ教会 ◆割れたマルコの携帯 (1) ◆割れたマルコの携帯 (2) 21:30 ベオグラード本駅発 ◆深夜列車に乗る。 ◆宿泊証明書。 ◆私は今、オリエント急行に乗っていて、・2012.09.16 セルビア → (クロアチア) → (スロベニア) → オーストリア ◆その名は、イワナ。 09:40 フィラッハ駅着 11:16 フィラッハ駅発 13:48 ザルツブルク中央駅着 ムラト氏合流 (~9/19 モスタル) ◆ナザール・ボンジュウ、その後? トルコ料理レストラン (宿泊) Hotel Goldene Krone・2012.09.17 オーストリア 聖セバスチャン教会 モーツァルト生家 カフェ・ザッハー メンヒスベルクの丘 レストラン・ペーター・エステーラー ホーエンザルツブルク城塞 ザルツブルク大聖堂 ミラベル庭園 トルコ料理レストラン (宿泊) Hotel Goldene Krone
2012.12.01
私の旅は、永遠に未完成のままだ。絶対にカッコよく終わることはない。「でも、普通じゃ物足りないんでしょ? それが病みつきなんでしょ?^^」 帰りの飛行機で隣りになったご婦人にそう言われた。そうだ、それが病みつきだ。(笑)だから、これからも無駄と失敗ばかりの旅を続けるだろうし、ここで一旦 中欧の旅日記は終了するが、私の旅行記は永遠に終わらない気がする。*:*:*:*:* *:*:*:*:* *:*:*:*:* ・2012.09.05 14:35 JR高松駅発 関空リムジンバス 18:10 関西国際空港着 ◆夜の関空 23:40 関西国際空港発 エミレーツ航空317便・2012.09.06 アラブ首長国連邦 → ドイツ → オーストリア 04:50 ドバイ国際空港着 ◆picchuko @Dubai 08:35 ドバイ国際空港発 エミレーツ航空49便 13:00 ミュンヘン国際空港着 ◆始まりは、この笑顔。 15:27 ミュンヘン中央駅発 16:56 ザルツブルク中央駅着 (宿泊) Hotel Meininger・2012.09.07 オーストリア → ドイツ → オーストリア ミラベル庭園 ◆ザルツブルクに着いて一番にしたことは、 Eagle's Nest ツアー ・ケールシュタインハウス <ヒトラー山荘> ◆世界一のパワースポット! ◆本日のナイスガイ(笑) ◆picchuko イチオシ☆ ・ベルヒテスガーデン ミラベル宮殿、庭園 レジデンツ広場 ◆picchukoは幸運の女神なのか?! ザルツブルク大聖堂 メンヒスベルクの丘 ◆ちょっとだけティータイム、のはずが、、 (宿泊) Hotel Meininger・2012.09.08 オーストリア ◆本日のナイスガイ 2 カフェ・ザッハー サウンド・オブ・ミュージック ツアー ・レオポルツクローン城 ・ヘルブルン宮殿 ◆マリア? ハイジ? ・ザンクト・ギルゲン ◆ザルツカンマーグート ・モントゼー ◆旅先では、いつも食欲の落ちる私だが、 ミラベル庭園 ◆本日のベストカップル☆ レジデンツ ・・・モーツァルトコンサート ◆ザルツブルクといえばモーツァルト、 ホーエンザルツブルク城塞 メンヒスベルクの丘 ◆ザルツブルクより最後の更新。 (宿泊) Hotel Meininger・2012.09.09 オーストリア → スロベニア 10:12 ザルツブルク中央駅発 ◆世界の車窓から。 12:43 フィラッハ駅着 12:52 フィラッハ駅発 ◆列車は旧ユーゴへと。 ◆本日のベストカップル(笑) 2 16:50 リュブリャーナ駅着 リュブリャーナ市庁舎前カフェ ◆君が為に鐘は鳴る。 リュブリャニツァ川ボートツアー ◆あの人は架空の人。 (宿泊) Hostel A.V.A・2012.09.10 スロベニア トロモストウイエ <三本橋> ◆トロモストウイエで朝食を。 Alpine Fairytale ツアー ・ブレッド湖 ・ブレッド城 ・ヴィントガル渓谷 ・ボーヒン湖 ・バプティスト教会 ◆本日のベストカップル 3 ・シュコーフィア・ロカ <古都> ◆本日のナイスガイ 3 ◆あなたもウルスのファンですね?(笑) ◆それは、宝石箱だった。 フランシスコ教会 竜の橋 (宿泊) Hostel A.V.A・2012.09.11 スロベニア リュブリャーナ大聖堂 中央青果市場 リュブリャーナ駅前カフェ ◆「ヤポニャ?」 09:40 リュブリャーナ駅発 10:45 ポストイナ駅着 ポストイナ鍾乳洞 ◆まだ酔っている。 ◆picchukoサンタ、未だ健在!(笑) ◆来た道すら戻れない女。 16:07 ポストイナ駅発 17:15 リュブリャーナ駅着 リュブリャーナ城 レストラン・ゴスティルナ・シェースティツァ ◆スロベニア最後の夜。 (宿泊) Hostel A.V.A ◆鉄子失格☆
2012.11.30
「君は僕の特別な友達だ!」ザルツブルク滞在中、私は暇があれば(暇ばかりだったが・笑)イゴールに会いにレジデンツ広場へ行っていた。イゴールは昨年10月に知りあった、モンテネグロ出身の絵描きである。ドゥブロヴニクで絵を学び、ユーゴ紛争前にザルツブルクへと移り住んだ。たぶん、彼はずっとここでザルツブルクの街並みを、そこで生きる人々を、行きずりの旅人達を見てきたのだろう。常にビールをラッパ飲みしながらも、彼は愛情を持って人に街に声を掛けてきたのが分かる。そんな彼だから、彼を慕う友人も多い。彼と共に広場でいると、ひっきりなしに声を掛けてもらえるのもなんだか楽しい。そして その度に、「彼女は僕の特別な友達だ」と一人一人に紹介してくれる。「特別」と言われて嬉しくないはずがない。私はいつも、そんな彼の隣りでニコニコしていた。(笑)「君は特別だから、お別れにこの絵をプレゼントするよ。 知っての通り、モーツァルトの生家を描いたものだ。」帰国の前日、彼はそう言って 両手で私の頬を挟み、鼻の頭にキスをした。「ありがとう。ザルツブルクにはまた来るよ。」 絵を受け取った私は、大きく手を振りながらレジデンツ広場を立ち去った。これで、手元にある彼の絵は二枚になった。一枚目は、昨年10ユーロで買ったもの。 ミラベル庭園から見上げたホーエンザルツブルク城塞で、私の好きな構図である。*振り返ると、いつもどこでも笑顔があった。その出会いの殆どが一期一会のものではあるが、ぬくもりは今も心に残っている。全ての人に伝えたい「ありがとう」、どこかを巡って一人一人に届きますように。では、とても優しい笑顔から始まった今回の旅、旅行記も心温まるこんな笑顔で〆たいと思う。 旅の総括は、改めて。
2012.11.29
そして、picchukoイチオシの場所はここ。ザルツブルクから車で40分ほど、ドイツはバイエルン州ベルヒテスガーデン郊外にあるケールシュタインハウス、かつてヒトラーの山荘があった場所だ。私はそれを、手塚治虫さんの漫画『アドルフに告ぐ』で知っていた。漫画で読んだだけなら気にもしなかったろうが、予言者としての顔も持つヒトラーが最もインスピレーションを受けた場所ということで興味を持った。ただ、友人などに話すと「え、ヒトラー? あのヒトラーなんでしょ?」と眉間に皺を寄せて嫌がられる。だが、ヒトラーは別にしても、ここは素晴らしい景勝地なのである。 そして、最高のパワースポットだと私は思っている。事実、アジア人の観光客は少ないが、欧米人からの人気は高い。右手に見えるのが崖の上に建てられた山荘の名残り。そこへは、真夏でもひやっとする長いトンネルを抜け、山をくりぬいて造った黄金のエレベーターで一気に登る。中には、イタリアの首相ムッソリーニから贈られた大きな大理石の暖炉があり、当時は昭和天皇から届いた絨毯も敷かれていたそうだ。そこでナチスは公式行事や政治的会談を行ったそうだが、今はレストランになっていて、そんな重苦しい雰囲気はない。私はここに来ると、その山荘からはすぐに飛び出す。なぜなら、この景色こそ堪能したいから!この場所は、これで二度目だ。本当はザルツブルクへ来る度に訪れたい場所なのであるが、なにせアルプスに囲まれた、1834メートルの絶壁の上にある。雪で覆われる11月から5月中旬までは閉鎖されている。だから、今回は一番にここへやって来た。その理由は景色だけじゃない。以前も書いたが、ここに来ると「今、世界中で私が一番 天に近い!」と感じる一点がある。空から目には見えない一筋の糸で釣りあげられるような、神経を集中させると天からのメッセージが直接下りてくるような、そんな神がかりな体験ができる場所がある。鈍い私でさえそうなのだから、予言者ヒトラーがビシバシ何かを感じていたとしてもおかしくはない。その霊感の使い方を過ったことで、彼の運は尽きたのだろう。その一点に立つと、選ばれた者の気分も味わえる。だが、それは一点だけだ。もちろん、その一点がどこなのかは記されていないし、そう感じるのは私だけかもしれない。(笑)Google map<2012.09.07 Kehlsteinhaus>
2012.11.28
旅に出るからには、事前に見どころや地理的なものをあらかじめ下調べすべきである。だが、私はそれができない。なのに、人一倍小心者であるから出発直前になって不安に負け、適当に旅程を立て、これまた適当すぎるほど適当に宿を取った。で、スロベニアでは首都リュブリャーナでホステルを3泊予約した。そのついでに現地ツアーを申し込んだわけだが、その行き先も実は事前に知らなかった。知らせがなかったのではなく、英語のメールなど はなから読む気もない。(笑)もともと、私にとって印象の薄いスロベニアは、ザルツブルクからベオグラードへの通り道に過ぎなかった。だから、まぁそんなもんだろう。私が初めて そのツアーの行程を見たのは、ザルツブルクからリュブリャーナへ向かう列車の中だった。ブレッド湖がスロべニアを代表する観光地だということも、その時知った気がする。そんな私に、同じコンパートメントに乗った若いカップルがブレッド駅で降りると言う。ブレッドは、オーストリアからスロベニア入りする場合、国境を越えてすぐの場所にある。リュブリャーナは、そこからさらに1時間も先だ。最初からきちんと計画を立てていれば、わざわざリュブリャーナから引き返さなくても良かったのに。私は無駄な時間とお金を悔いた。だが、やっぱり私は私だ。その後悔は、スロベニアン・ナイスガイとの出会いによって、あっけなく吹き飛んだことは ご想像通り。(笑)そして、その眩しい彼に案内されたメルヘンチックで美しい風景の数々に、スロベニアを素通りしなかった自分を心底褒めた。(笑)ツアーで巡った場所は、定番のブレッド湖とそれに面して断崖に建つブレッド城、そこから4kmほど北西にあるヴィントガル渓谷、さらに西のボーヒン湖などだった。ブレッドからリュブリャーナまでの帰り路では、また別の古城の町にも立ち寄った。ブレッド湖もボーヒン湖も、ユリアンアルプスの氷河によってできた湖だ。それは、訪れる人の心までも写し出す、透明な鏡のような美しさだった。そして、川底まで透き通ったヴィントガル渓谷でも言葉を失う。私はその時、初めて地上に流れる天の川を見た。1.6kmの遊歩道を、まるでリスのように軽く弾む彼に続くのはキツかったけれど、それでも心地よい疲れに気分は良かった。スロベニアはこれだけじゃない。そこには欧州最大のポストイナ鍾乳洞もあれば、そこはかとなく色気漂うリュブリャーナの街並みも魅力的だ。印象が薄いと思っていたその国だが、オーストリアとイタリアとクロアチア、その3つの国のそれぞれの美点を巧く融合したとても美味しい国なのかも。僅か四国ほどの小さな国・スロベニア。 それは、まるで宝石箱のようだった。Google map<2012.09.10 Ljubljana - Bled>
2012.11.27
「あなたも Alpine Fairytale tour に参加されるのですか?」アールヌーヴォー調の格式高いグランド・ユニオンホテルのロビーで、私は一人の女性に声を掛けた。あまりに酷い安宿から一夜明けたばかりの私には、それは悔しいほど高級感漂うホテルであったが、その日に申し込んだ現地ツアーの集合場所がそこであった。「ええ、あなたもなのね? 私はカナダから来たの。 主人と一緒よ。」50歳から60歳代のご夫婦であろうか、気さくな笑顔がとても素敵な二人だった。「あ、この方も参加されるそうよ。 偶然にも、私達と同じカナダ人なんですって。」「どうぞ、よろしく!」白髪ではあるが、まだまだ若さは負けないわよって感じの女性が、その先にいた。その時、「picchukoさんですよね」と肩を叩かれ振り向くと、爽やかな好青年が微笑んでいた。「今日、一日お願いします。」 ツアーガイドの彼は、客の中で唯一日本人である私を見つけ、まず声を掛けたようだ。確かに、欧米人ばかりの中で、名前しか知らない初めての客を見つけることは難しいと思う。「車にもう二方、今日のお客様が乗っています。 インドから来られたご夫婦です。」ガイド兼運転手の彼を含め総勢7人、車はスロベニアの首都リュブリャーナを出発した。さて、お気づきか。この日の写真は、何気に彼が登場する。(笑)あの「picchukoさんですよね」と声を掛けられたその時から、私はぽお~っとのぼせあがっていた。か、かっこいい。。。だが、本命になればなるほど「写真を撮らせてください」とはなかなか言えないものだ。結局、出来上がった写真の数々は、こんなふうに出来損ないか写りの悪いものばかりになってしまった。しかし、かっこいい。顔だけじゃない、全てのバランスといい、性格といい、若さといい(笑)。ちょっとした冗談にもきちんと反応してくれる。もちろん、そう思ったのは私だけではなかったようだ。カナダ人の奥さん、そして 一人参加のカナダ人女性、この二人も 何かにつけて彼に話し掛けていた。特に一人参加の女性は車においても助手席をキープし、彼を離さない。恋する気持ちに年の差はない。まあ、私は眺めるだけで幸せだから別にいいけど、、、 でも気に食わないっ☆*「あなたはどんな音楽を聴くの?」 彼女が尋ねた。「う~ん、大抵なんでも聴くよ。」二人の後ろに座る私は、素振りだけは平然と、耳だけはピンと立てらせていた。その時、彼女が言った。 「IL DIVOなんかどう?」はっ!?そうだっ!私は思わず膝を叩いた。 彼はウルスに似てるんだ!!!目といい、頭の形といい、横顔の骨格といい、ウルスにとてもよく似ている。はは~ん、あなたもウルスのファンなのね。 私は見抜いた。彼女も彼をウルス似と思ったかどうかは分からないが、だが近いものを感じたのだろう。だから、彼女も彼に魅かれたのだ。ふふ~ん、なるほどね。「ああ、IL DIVOも聴きますよ。彼らは、ここスロベニアでも凄い人気です。もうすぐリュブリャーナでコンサートがあるんだけど、あっという間にsold outでしたよ。」彼は普通にそう答え、運転を続けた。ここは、ボーヒン湖。かのアガサ・クリスティが、「ここは私の小説の舞台にはなりません、美し過ぎるから」と言った場所。Google map<2012.09.10 Ljubljana - Bled>
2012.11.26
もう2年前になる。ブログで知り合って以来 様々な見聞で楽しませてくれる 虹の木313さんの日記の中で、「原田泰治」という画家の存在を知ったのは。それは、さだまさしさんの話から広がった。私が高校時代を過ごした香川県丸亀市の市制100周年記念事業として作られた、さださん作『城のある町』、私はてっきり、丸亀市がさださんにお願いして作詞作曲してもらったものと思っていた。だが そうではなく、彼の親友である画家・原田泰治氏が、城下町・丸亀の春夏秋冬をテーマにした絵をまず描き、それに「まさしくん、この町を歌えないかなあ」と持ちかけたことがきっかけになったということだ。「それは、2000年に発売された さださんのアルバム『日本架空説』に収録されていますよ。だから、丸亀市から直々にお願いされたわけではないんですね」と、虹の木さんは丁寧に教えて下さった。* そして、その「原田泰治」という名前を、私はクロアチアの首都ザグレブで再び見つけた。1973年、原田氏は新聞紙上でイワン・ラブジン氏の『私の故郷』を目にしました。「心の生計を立てるために描く」というラブジン氏のふるさとの光景を心の内面から描く姿勢は、その後の原田氏の画家人生に大きな影響を与え、"日本のふるさと"をテーマとした「原田泰治の世界」に結実。全国の人々に深い感動をもたらしました。それは、「クロアチア国立ナイーブアート美術館」の入口に貼られてあった文章だ。美術館は、ザグレブの象徴・聖マルコ教会からすぐの場所にある。私とナイーブアートの出会いは日が浅い。今年の正月、ドゥブロヴニクのとある店先だった。まさに「素朴」という表現がぴったりの絵に、ふらふら~っと中に入った。なんだか癒されたのだ。その夜、ホテルでガイドブックをめくった。クロアチアを代表する絵画「ナイーブアート」は、1930年代初頭に独学で絵を描いていた農民画家たちのグループが誕生したことに始まる。それは、ガラス板の裏に描くのが特徴で、農民の日常生活や農村の風景といったテーマを叙情的に描き、近現代芸術として評価されている。なるほど。たまには前衛的な絵もいいが、今の私は素直に描かれた作品の方が好きだ。素直、そう素直なんだ、そこから感じるものは。ナイーブアートという呼び名にぴったりだと思った。そして、その作品の数々を一度に観賞できるのが、ザグレブにある「ナイーブアート美術館」だった。一口に素直といっても、色々な表現がある。写実的なもの、抽象的なもの、明るい色遣いに、どうしようもなく寂しさを感じる絵。各々の心の内をガラス板にぶつけることで生まれた作品が、様々な顔をして並んでいた。素直に自由。中には宗教的意味合いの濃いものもあったが、全体的に素朴な日常生活の中で、当たり前の風景の中で見つけたもの、感じたものを描いているように思えた。だから、どんな表現をしようとも、作品が素直であるから、見る方の心にも素直に入ってくる。まあ、感じ方は人それぞれであるから、絶対にそうだとは言わないが、私にはそう感じた。もちろん、物には好き好きもある。私もその全てが気に入ったとは言わない。そんな中で私の心を温かくしてくれたのが、イワン・ラブジン氏の作品だった。淡い色遣いがなんとも優しく包んでくれるようで、見ていて安心するのだ。で、そのラブジン氏の絵に衝撃を受け、影響され、その後 彼と交流が深かったのが原田泰治氏であった。私が気に入った画家が、偶然にも原田氏と懇意だったというのも嬉しく思った。そして、丸亀市をイメージした さださんの作品『城のある町』は、もしも原田氏がクロアチアのナイーブアートと出会わなければ、"日本のふるさと"の光景の一つ、丸亀の町を心の内面から原田氏が描かなければ、形にならなかった歌かもしれない。そんな風に思えてきた。意外にも、遥かクロアチアの街角で、私は自分と縁を感じる絵画と対面することができたみたいだ。城のある町、、、あ、そうそう、私は高校時代、授業を抜け出してまで、お城へ登ったこともある。(笑)Google map<2012.09.12 Zagreb>
2012.11.25
だから、旅先でついCDを買っちゃうのはよくある話。10回中、たぶん9.5回は買っている。(笑)こんな つい買ってしまったCDは、いつもドライブ中に流される。ブダペストはこれで2枚目。ま、収録曲が同じじゃないので構いはしないが、問題は曲のスピードだ。チャールダーシュに代表されるようなハンガリー音楽は、出だしこそゆっく~り哀愁漂う奏で方をしてくれるが、中盤からスピードが急速に変化する。ただ聴くだけなら手拍子でも打って、ハンガリーの場末の酒場をイメージする楽しみ方もあるだろうが、それを車で流すもんなら、まるで意味なくサツかマフィアに追われるような、ひたすら前のめりに、強くハンドルを握りしめるほどヒートアップする。当然、右足にだって力が入る。その音楽は、名の知れた演奏者よりも ジプシーたちの方が一層速く、目まぐるしい。おかげで何度 信号無視しそうになったことか。そんな一枚がまた増えた。(苦笑)『チャールダーシュ・モンティ』 古澤巌*それでも 旅先で耳にした曲は、自分が今どこに居ようとも、一瞬でその場に連れ戻してくれる どこでもドアだ。それは匂いも同じであるが、それらの感覚が視覚以上に研ぎ澄まされているせいだろう。で、その感覚を手っ取り早く呼び醒ますために、またもCDを買ってしまうのだ。一種の中毒である。それがクロアチアでも発病した。そこは、アドリア海に面したクロアチア第2の都市、古代ローマの面影残すスプリットだ。私は大聖堂前の中庭に腰かけていた。歴史を感じさせる遺跡の中で、ぽつんと一人座っていた。すると、どこからかアカペラが聴こえてくる。美しいハーモニー。真っ青なアドリア海に身を委ねている感じだ。この感じ、きっと海を挟んだ南イタリアでもそうだろう。ローマ以南を訪れたことのない私だが、そんな想像も膨らませた。自然と歌声のする方へ足が向いた。そこには、天井にぽっかりと穴が開いた筒状の空間があった。 綺麗なまん丸い その穴からは、アドリア海に負けない青い空が見えた。そこで、6~7人ほどの男性が合唱していた。彼らを沢山の観光客が囲んでいた。筒状の空間が音響効果を高めるのだろうか。石壁に反響した美しい歌声は、いっとき私たちを包んだ後、そのまま吹き抜けの穴から天へ昇っていくようだった。港町の香りがする。 「それ、買った!」帰国後 ガイドブックを開いてみると、彼らの音楽は、クラパ(Klapa)というクロアチアはダルマチア地方の、男性によるアカペラ合唱なんだそうだ。それは、無形文化財として、ユネスコの世界遺産になってるんだとか。へえ~、と続きを読んでみた。丸天井に開いた穴から大聖堂の鐘楼が見える、とある。私はすぐさま自分が撮った写真を出した。あら、真っ青。カメラを構える時、構図など全然考えてないもんな~私。でも CDジャケットがその写真だから、まあ、良しとしようか。(苦笑)『クロアチア・ダルマチア地方民謡』ちょうど、私が実際に出会ったメンバーの動画を見つけた。Google map<2012.09.19~21 Split>
2012.11.20
「一曲、リクエストある?」私の隣りに座るご夫婦は、ちょうどその日が奥さまの誕生日ということで "Happy birthday to you" をお願いしていた。「君は?」気が付けば、私の番だった。ぼおっとドナウ河の対岸に浮かび上がる国会議事堂に見惚れていた私は、とっさに言葉がでなかった。「グル、グルゥ、、、ええ~っとぉ、グルなんだったっけ? あのサンデーが好き。(笑)」「ああ、グルーミーサンデーだね。(笑)」笑顔で頷くと、離れた場所にいるピアニストに合図をし、彼はバイオリンを弾き始めた。しっとりとした出だしだ。このメロディは、本当にブダペストとよく似合う。3年前、ブダペストを旅した後で見つけた映画『暗い日曜日(Glommy Sunday)』で知った曲である。映画そのものがブダペストの持つ雰囲気をうまく活かしていたこともあるが、そのもとになった同名の曲が要所要所に流れてきて、映画を一層盛り上げる。哀しみと甘さの絶妙なバランス、、、 映画の中でこの曲はそう表現された。頬杖をつき、その切ない調べに耳を傾けながらブダの丘からペスト地区を見下ろしていると、それはブダペストの街を表す台詞でもあることに気付く。夕暮れ時の物哀しいその街を表現すると、もうそれ以外ないんじゃないか。それを音楽で表すと、もうこの曲しか生まれないだろう。そう思った。そして、以前この場所に立った時よりも、私とブダペストの距離が縮まったように感じた。気が付けば、薄紫色に霞む街に、一つ一つ光が灯りはじめていた。一つ一つ、まさにそんな感じだった。丁寧に優しく増えていく その灯は、ますますその街に甘さと切なさを添えてくれる。眼下にはドナウがゆったりと流れてゆく。*オーストリアでは、空から降ってくるような陽気で弾んだ音符たちだった。それが、雄大なドナウの流れに呑みこまれるうちに滑らかなメロディへと姿を変えてハンガリーまで辿り着いたみたいだ。ドナウとともに哀しみの味を知った美しい街、ブダペスト。『Gloomy Sunday』Sinead O'Connor 「あ、チップはいらないから。」フォリントは持ってないんだよな~と、ユーロの小銭を手渡そうとする私に、彼は言った。「で、これ僕たちのCDなんだけど。」雰囲気に流されて、つい買ってしまった。 15ユーロだった。あぁ~あ、チップの方が安くついたよな。(悔)Google map<2012.09.27 Budapest>
2012.11.19
これは、ブダペスト行きの船が出るウィーンのライヒスブリュッケ船着場に貼ってあった地図だ。(写真はクリックで大きくなる)ドナウの全容をじっくり眺めたのは、この時が初めてかもしれない。『ドナウの旅人』を読んでたら、ドナウの旅人になりたくなった私は、ウィーン滞在2日目に、ウィーンからスロバキアの首都ブラチスラヴァへ、そして その次の日は、再び同じルートを通って、その先にあるハンガリーのブダペストまで船に乗った。オーストリアでドナウ河を遊覧する場合、最も有名なコースは世界遺産にも登録されているヴァッハウ渓谷なんだそうだ。渓谷の美しさは言うまでもなく、川沿いに見える修道院や古城を巡るのも良い。そこはウィーンから西、列車で1時間ほどの街メルクか、もしくはクレムスから遊覧船が出ているらしい。だが この時の私は、ウィーンからドナウを上るのではなく、流れに沿って下りたいと思った。輝さんの本を読んでたら、、ドナウ河の流れが人生と同じように思えてきたからだ。旅の前半、ここに来るまでに すでに私は、さらに下流のセルビアの二つの街でドナウを見ていた。セルビア北部の街ノヴィ・サドと、首都ベオグラードでだ。この先に、あのドナウが待っているのか。感慨深かった。 例えば、今の私をベオグラードのドナウとしよう。だとすれば、人生の岐路に立つこの時に自分の人生を振り返り、再び追っているような錯覚をした。事実、3000km近くあるドナウ河は、ベオグラードでやっとほぼ半分なのだ。私にも人生が80年与えられるならば、ちょうどベオグラード辺りが今の私の立ち位置になる。ウィーン、ブラチスラヴァ、ブダペスト、ノヴィ・サド、そしてベオグラード。それは、10代最後から20代前半、20代後半、30代はじめ、30代半ば、そして そろそろ40才、まさにそんな表情のドナウだった気がする。ウィーンでは気付かなかった大河の母性を、ブラチスラヴァからブダペストへ行く途中で感じたことも、そう考えると納得できる。ドナウの流れは、ドイツの黒い森で生まれた後、僅かに南下しながら東へ東へと向かい、ハンガリーのヴィシェグラードでほぼ直角に折れて、南へ向きを変える。そして、ベオグラードまで降りてきたところで、再び東へと進路を変えていく。それから後もくねくねしながら、最後は3つに分かれて黒海へと注ぎこむ。いや、それから後の方がくねくね度合いが大きいのも、人生後半戦、そう甘くないよと語っているようで興味深い。何倍もの広さになった川幅は、それまで呑みこんできた濁りをどっと押し流す為だろうか?最後、進むべき道が3つに分かれているのも、人生の果てに待ち受ける天国か地獄かそのまた中間か、、、まぁ、そこまで考えると怖くなったりもするのだが。(笑)とにかく、今、私はベオグラードに立っているはず。ベオグラードは、ドナウがもう一つの大河サヴァと合流する街だ。それじゃぁ、私にとってサヴァ河は一体何なのか誰なのか、それはまだ分からない。もしそれが見つかれば、まさに人生ドナウ河というような気がして、、、この時にドナウと出会えた奇妙な縁に、これから先の大きなくねくねを恐れながらも期待している。(笑)ウィーン(オーストリア)ブラチスラヴァ(スロバキア)ブダペスト(ハンガリー)ノヴィ・サド(セルビア)ベオグラード(セルビア)あ、ムラトさんは私のサヴァ河ではないらしい。
2012.11.18
「あいつの声は、ただの音だよ。オペラってものを知らないで、上手にさえ歌えばいいって思ってんだ。ああいうオペラ歌手に拍手を送る客が、最近増えたよ。昔は、贋物はすぐにばれたんだ。 観客の中には凄い耳の人がたくさんいた。」 ~宮本輝著 『ドナウの旅人』より~私はそんな、誰にでも拍手を送る客だ。(笑)ウィーンの国立歌劇場の横を通る度、ここでオペラを観たいものだといつも思う。9年前はまだ自分には早いと思って諦めた。そして今年の9月、風邪気味で鼻水ダラダラであったため、なんとなくオペラ座気分にはなれず、やはり諦めた。だが、未練たらしく行ったり来たり。(笑)「でもね、国立歌劇場の天井桟敷はたった3ユーロなのよ!」 目を見開いてM子は言う。「私はウィーンで5泊したんだけど、3晩 そこに通ったわ。でね、その日の歌手の善し悪しが分かるようになったの。 全然違うのよね。」ほおぉ、私と違ってインテリの彼女は、さすが聴き分ける耳まで持ったのか。私は興味津々で、話の続きに身を乗り出した。「だってね、素晴らしい歌手の時は 全然オペラが進まないの。一曲歌い終わる度に、みんな立ち上がって「ブラボ~~~~!!!!!」って叫び続けるもんだから。」な~んだ、聴き分けではなくて観客の反応なのか。 彼女の耳も私と大差ないと知って、ちょっぴり安堵した。(笑)だが、そんな彼女をさすがだと思った。 彼女の親友として誇りに思ったのである。「天井桟敷は何階だい」長瀬が訊いた。「さあ、四階か五階じゃないのか」シギィは、切符を係員に見せ、何階かと訊いた。係員はただ階上を指差しただけだった。麻沙子も絹子も額に汗をうっすらにじませて息を弾ませ、階段の手すりに凭れかかっていた。「コイズミも他の学生たちも、どうしてこんなに俺たちを急がせたんだよ。」とシギィは腹立ちまぎれに言った。「彼等はただの観客じゃないのよ。幕あき前のオーケストラの演奏とか、幕があがった瞬間の、間合いなんかを目に焼きつけておきたいんでしょう。そのために急いだんだと思うわ」幕あき前のざわめきが、各階の回廊をいっそう暗く静謐なものにしていた。最上階の係員に切符を提示し、中に入った。天井桟敷はすでに満員であった。 ~同~そして、M子は知ってたんじゃないかと思う。貧しい音楽学生達のような、純粋にオペラを愛でて楽しむ人達は天井桟敷を選ぶことを。天井桟敷からは、ボックス席の着飾った人々の姿がよく見えた。天井桟敷は、立ち昇ってくる香水や化粧の匂いが溜まる場所でもあった。 ~同~それだけ最上階は観客や舞台上の様々な反応が直接に、そして本物や贋物のそれらが素直に立ち昇ってくる場所だということを。私は以前、このウィーンの国立歌劇場よりも美しいと言われる、ハンガリーはブダペストのオペラ座の、それもボックス席という なんとも贅沢な場所に、清水の舞台から飛び降りる覚悟で座ったことがある。私は酔っていた、その雰囲気に。でも、違うんだよな~、あの頃の私は分かってなかったんだよな~。 今はそう思う。いや、誰にでも拍手を送る私にはちょうどいい席だったのかもしれないが、やっぱり不釣り合いだった。ボックス席などというものは、それ相応の年月を重ねてきた者にお似合いの席だと今なら分かる。そして、そこで登場するのはやっぱり天井桟敷なのだ。次回、ウィーンを訪れることがあるならば、その時こそ天井桟敷に通いまくろう。(笑)そんな私になりたい、M子のキラキラした瞳を見ながらそう思った。Google map<2012.09.25~28 Wien>
2012.11.17
今回の旅行記は、旅先で一瞬一瞬思ったことを記していくことが目標だった。だから、わざわざパソコンを開くのではなく、常に手の中にある携帯から更新していた。おかげで、9月分の電話料金は4万円近くも掛かってしまったが。(苦笑)だが、その時の言葉を逃したくなかった。せっかく長旅に出るチャンス、記録も自分の望む形で残したいと思った。では、帰国後の日記に意味がないのかというと、そうではない。瞬間の気持ちと、時間をかけて熟成させることで深みが増す感情と、私はどちらも大切だと思う。特別な旅ほど、何年先までも書き続けられる、それを知った。実際は終わった旅でも、心はどこまでもその旅を広げていけるから。振り返ると、この旅行だって これまでの記録の続きみたいなもの。そうやって旅を重ねる度、旅を綴る度、一つ一つの旅は繋がり、そして自分探しに繋がっているようで面白い。これも、私の旅のスタイルだ。* * *帰国後、一気に書きたかったのがセルビアとボスニアのこと。この二つはとりあえず、その時の感情と、そこを離れ、だがさほど時間の経過のないうちに記しておきたい場所だった。あ、今の時点で省略すべきと思ったものは記していない。そして、その流れでオーストリアまで戻ってきた。私が初めてウィーンのシェーンブルン宮殿を訪れたのは2004年の元日だった。その朝一の観光客は私を含め2人しかおらず、あの大広間を独り占めする幸運に恵まれた。そこで毎夜繰り広げられていた舞踏会を思い描き、私は陶酔した。両手を広げ、くるくる回る私を笑う者は誰もいない。(笑)先日、人間フランツ・ヨーゼフを感じられるには、絢爛豪華な宮殿よりもこじんまりとしたカイザーヴィラの方がいいと書いたが、シェーンブルンはシェーンブルンで、ここでしか感じられない特別なものもある。それは偉厳を持つ皇帝の姿と、まさに頭上に鳴り響くワルツの調べだ。自然と体が踊り出す。 今回は大勢の観光客が居たために、さすがに目に見えて踊ることはできなかったが、それでも気が付けば足先はステップを踏んでいた。もともと私はウィンナーワルツが好きだ。普通はアイドル達に心ときめく中学時代に、私はいつもヨハン・シュトラウス父子のワルツばかりを聴いていた。とりわけお気に入りだったのが、息子作曲の「春の声」だ。楽譜を買い、一人ピアノの練習に励むほど好きだった。たぶん、あの頃から私はシェーンブルンの舞踏会に参加していたのだと思う。(笑)実際のドロドロした人間模様までは子供の私には関係ない。 その夢見心地だけが私のシェーンブルンだった。さて、庭園内の小高い丘にあるグロリエッテ。それは、プロイセンとの戦いに勝利した記念に建てられたという、ギリシャ建築の記念碑。現在はカフェとなっていて、ここから見渡すウィーンの景色は最高だ。だが、見晴らしの良い席には限りがある。というか、普通の席を選べば、こんなふうに背筋をぴんと伸ばしきっても、残念ながら外の景色は見えない。(笑)ウィーンだからか、シェーンブルンだからか、たぶん そのどちらともだろうが、可愛いマリアテレジアイエローに彩られ、庭園には色鮮やかな花達が咲き誇り、例え真っ白な冬になっても、この場所に居るだけで春を感じる。やっぱりウィーンは素敵だと思う瞬間だ。ウィーン・フィル ニューイヤーコンサート 2006 - ワルツ「春の声」Google map<2012.09.25~28 Wien>
2012.11.16
ご存知、サラエボの銃声に倒れたオーストリア・ハンガリー帝国皇位継承者のフランツ・フェルデナント夫妻は貴賎結婚だった。妻ゾフィーは伯爵妃付き女官であったため、本来なら結婚は許されなかったのだが、すでに数少ない皇位継承者であった彼は、「王冠も欲しいが、恋も欲しい!」と意思を貫いた。しかし、ハプスブルク家の一員とは認められず、冷遇され続ける妻。あの時もそんな彼女を気づかって、皇太子は二人揃ってサラエボへと旅立った。だから、皇太子だけが暗殺されてゾフィーだけ生き残るよりは、二人一緒で良かったのかもしれない。二人は並べられて埋葬されたが、妃の方は女官なみの粗末な扱いだったという。生前、皇太子はそれを予想して、せめて同じ場所に葬られることを希望し、ドナウ河畔のアルトシュテッテン城に墓地を用意していた。だから、ハプスブルク家の皇帝納骨所・カプツィーナー教会に二人の柩はない。ある意味、国のせいで命を落とした二人なのに なんだか可哀想な気もするが、同じく貴賎結婚したフランツ・ヨーゼフ皇帝の孫娘エリザベートも、そこに埋葬されることはなかった。ちなみに、エリザベートはマイヤーリングで情死したルドルフ皇太子の一人娘。で、こちらが そのカプツィーナー教会だ。 ウィーンの王宮近くにある。それにしても、150人近くものハプスブルクさんが地下で眠っているなどと思えないような、どちらかといえば一見地味な教会である。それでも、一旦地下に足を踏み入れると、ずら~っと並んだ柩はある種の迫力があった。怖くはないが、霊界の入口に相応しい空気が流れる。まぁ、私がそこを訪れたのが閉館ぎりぎり、まさに扉を閉めようとするところだったので、余計に不気味だったのかもしれないが。それにしても、闇の向こうまで延々と続く柩の列は、ぞくっと背筋に冷気を感じて不思議ない景色だった。もしかして、この場で生きてる人間は私だけ?そりゃあ、閉館直前、一人で滑り込んだ者の特権(?)だろう。(苦笑) その長い沈黙の列の先に、フランツ・ヨーゼフ皇帝と妻エリザベート、長男ルドルフの柩がある。エリザベートは向かって左。次回はもっと早い時間帯に、そして国母マリア・テレジアの豪華な柩なども拝みたいと思う。あ、ここはあくまで納骨堂。ここに眠る彼らの心臓は王宮内のアウグスティーナー教会に、内臓はシュテファン寺院に納められているのだとか。。。「私はお墓なんて見に行かない!」 そうはっきり言うのは、私の大学時代からの親友M子。彼女とは年に数回会うのだが、お互いひとり旅好きとあって、旅の後には必ず二人で語り合う。先日も、岡山まで写真持参で会いに行った。その写真を見る為に、彼女も地図を持ってきた。「だって、知らない国が多いんだもん。」 だが、そんな彼女もヨーロッパ好きだ。この春だって、ベルリン、ミュンヘン、プラハにウィーンと旅して回った。その彼女が、バルカン半島だけはさっぱり分からないと言う。彼女が新しく命名した「ユーゴスロバキア」には大ウケした。「それってどこよ!(笑)」「だって~、ホント全然分かんない。」 写真の場面が変わる度、地図でその場所を確認していた。何度も欧州を一人旅している彼女でさえそうなんだ。ならば、このブログを読んでくださっている方達は、よほど辛抱されてるんだとつくづく思った。あまり役には立たないが、それぞれの日記の一番下にはその記事に関するGoogleマップのURLを表示してある。宜しければ、参考にして戴きたい。Google map<2012.09.25~28 Wien>
2012.11.15
ここで、話はオーストリアへ飛ぶ。ザルツブルクからバスで1時間30分、そこはアルプスの山々と湖が眩しいザルツカンマーグートにある街のひとつ、バート・イシュルにやって来た。そこはスパリゾートでも有名だが、私にとって二度目となるこの訪問の目的は、前回と同じくカイザーヴィラという皇帝の別荘にあった。そこは今でもハプスブルクさん所有の建物なのだが、その宮殿の一室で合図が鳴った。サラエボ事件の続きである。ここで、当時の皇帝フランツ・ヨーゼフはセルビアに対する宣戦布告に署名したのだ。1914年7月28日。 サラエボ事件からちょうど一ヶ月後のことだ。暗殺者がセルビア青年というだけでなく、暗殺に使われた武器が実はセルビア政府からの支給品だったということで、オーストリア政府はセルビアを非難し、宣戦布告することとなる。敵はセルビアだけではすまなかった。そして、偉大に見えていたオーストリア帝国は、多民族バラバラの形だけの巨大国家だった為、崩れ出すと勢いは止まらない。すでに84歳という高齢だったフランツ・ヨーゼフ皇帝。彼の心うちを思えば、きゅんとする場所だった。そういえば、ここを3年半前に訪れた時も、肩を落とした皇帝の寂しそうな姿が目に浮かぶようで、彼が息を引き取ったシェーンブルン宮殿よりも深く胸が痛んだことを思い出した。その生涯の殆どの夏をここで過ごしたフランツ・ヨーゼフ。妻エリザベートと出会ったのもこの街、この宮殿は二人の結婚を祝して彼の母親から贈られたものだ。好きな狩りにも没頭し、彼もスパを利用したのだろうか?質実剛健な皇帝らしく、愛する家族の写真以外は最低限の身の周りの物しか置かなかったという寝室は、皇帝をより身近に感じさせる場所だった。絢爛豪華な宮殿もいいが、緑多くひっそりとしたこんな場所の方が、人間フランツ・ヨーゼフの姿が見えるようで、結構私は気に入っている。それに、ここには私のお目当てがあった。それは、前回の私が食べ損ねていた、フランツ・ヨーゼフ皇帝の大好物グーグルフプフ、つまり、クグロフだ。毎朝4時に執務を開始した皇帝が、熱い珈琲とともに、いつも6時半きっかりに食べていたそのお菓子、実は、マリー・アントワネットの大好物でもあったというそのケーキ、それが このカイザーヴィラ内の小さなカフェで食べられるという。クグロフなど どこででも食べられるじゃないかと言われそうだが、ハプスブルク家の味を楽しみたいのだ。(笑)前回は真冬の為に閉まっていたそのカフェだが、今日こそはリベンジだ!だが、そんな意気揚々と向かったその先は、またも「closed」だった。私が訪ねたのが10月2日。 カフェは9月中旬以降はお休みだと貼り紙が寂しく伝えていた。そんな殺生な~とも思ったが、ここはオーストリア、夏の離宮はそろそろ役目を終える季節なのかも。次回、三度目の正直か。。。この写真は、皇帝がセルビアに対する宣戦布告に署名をした書斎。当時から、机の上には出会ったばかりの15歳の妻エリザベートの石像が置かれていた。(写真はクリックで大きくなる)Google map<2012.10.02 Salzburg - Bad Ischl>
2012.11.14
そして、「ここだよ、サラエボ事件があった場所。」と、私はムラトさんに教えた。サラエボのどこもかしこも興味深いといった表情の彼は、一段と目を見開いて頷いた。それは、この橋のたもとで起こった。セルビア青年が引いたその拳銃の引き金は、まさに世界中を戦争に巻き込む引き金となってしまった。第一次世界大戦のきっかけとなったサラエボの銃声だ。「picchuko、ほら。 犯人はここで拳銃を打ったんだ。」 ムラトさんは顎に手を当て、もう一度深く頷く。 真剣な目だ。1914年6月28日、オーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルデナントとゾフィー妃はここで暗殺されたのだ。当時、ボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリアに統治されていた。すでにかつての勢いをなくした老大国オーストリアと、南スラブ人統一を望み オーストリアによる併合に反発するセルビア人。不穏な情勢に、何かが起こっても不思議ではなかったはず。だが、そんな中でパレードは行われた。暗殺に関わったのは7名。最初に投げられた手榴弾は皇太子夫妻の乗った車ではなく、後続車のそばで爆発、失敗に終わる。この後、後続に居て怪我をした将校達をすぐに見舞いに行こうと予定を変更したのが、皇太子にとって運の尽きだった。いや、病院へ向かう車が道を誤り、ラテン橋のところで方向転換したことこそ、運命の分かれ道だったに違いない。最初の爆発音で持ち場を離れていた暗殺犯の一人、19歳のガブリロ・プリンツィブはそこで皇太子に気付き、二発の引き金を引く。皇太子とその妃ゾフィー、絶命。皮肉にも、その日は皇太子夫妻の結婚記念日だったとか。すぐさま捕らえられたプリンツィブではあるが、セルビア愛国者として称賛され、一時 この橋はラテン橋からプリンツィブ橋へと名を変えた。ユーゴスラビアが崩壊するまでは、そう呼ばれていたらしい。彼は自分の一撃が、こうも世界も時代も変えてしまったことを知ってこの世を去ったのだろうか?1918年、獄中にて結核で亡くなっている。銃撃は橋目前の、現在は博物館になっているこの建物前から発射された。上のプレートはそれに埋め込まれたもの。流れるミリャツカ川の水量は少なく、さほど広くもない道の、一つの小さな橋のたもと。ここがその現場などときっと誰しも思いはしない、そんな場所だった。「ここなのか~・・・。」 ムラトさんも意外そうに、しばし詳細な説明に釘付けだった。ところで、私は小学校でその歴史を習った時から、何故かいつかはここに立つような気がしていた。理由などないが、そこに立って改めて当時の予感を思い出していた。ま、その時 自分の隣りにトルコ人が居ようなどとは、さすがに予知できなかったけど。(笑)Google map<2012.09.19 Sarajevo>
2012.11.13
「さぁ、案内してくれ。」朝食を終えて 荷持を車に詰めた後、ムラトさんは私に言った。「え? 私が案内すんの?」「さっき、一人で見て回ったんだろ? ガイドブックを持ってるのも君だし。」ということで、たった今見たばかりのサラエボ旧市街を、私は再び巡ることとなる。まぁ簡単な道なので もう地図は要らないが、私に任すという彼の度胸は感心だ。(笑)スタートはここ、カトリック大聖堂。この国は、旧ユーゴの中でも特に民族が入り乱れた地域であり、ボシュニャク人(イスラム教)が48%、セルビア人(セルビア正教会)が37%、クロアチア人(カトリック)が14%、と主要民族を持たないことが、民族間のもめごとを一層 複雑にしたようだ。だが、おかげで各々の個性を知れる宗教施設が、限られた場所に目白押しというのは面白い。カトリックの大聖堂から東に100メートルもないところにシナゴーグがあり、その隣りにイスラム関連施設がある。そのイスラム施設の斜め前が、セルビア正教会という具合。目を引くのは塔の高いイスラム教のモスクばかりだが、僅か500メートル四方にシナゴーグも正教会も一つだけじゃない。その中で、私とムラト氏おススメの教会をご紹介しよう。あ、仮面仏教徒と、豚肉も食べちゃう なんちゃってイスラム教徒の二人だから、そこに宗教的意味はない。見た目の好みということで予め願いたい。(笑)それは、知らなければ素通りしてしまいそうな、古い小さなセルビア正教会だった。なんとなく 雰囲気が気に入った。ご存知 セルビア正教会は、セルビアを中心にセルビア人の間で信仰されているキリスト教で、ロシア正教と同じく東方正教会の一つ。この壁中に描かれた、イコンと呼ばれる聖画が印象的だ。モスクワで見たロシア正教のそれよりは圧迫感もなく、異次元に連れていかれる錯覚もないが、日本では滅多に見れない空間だけに、私にとっては興味深い。私は、そのイコンの、頭に輪っかのついた平面的な聖人たちを眺めながら、つい今しがた訪れたカトリック大聖堂のイエス・キリスト像を思い出した。十字架に手足を大きな釘で打ち付けられ、しな垂れたイエス・キリストのその姿。赤い血を流す体が、いやに白く浮かびあがって見えたのだった。イコン画に比べると 彫像はリアルである。特に、サラエボのカトリック大聖堂の彫像はリアルすぎた。よく考えれば、あんな痛々しい姿はむごいじゃないかと思い始めた。イエス・キリストを処刑に掛けた十字架をシンボルにするのも、信者じゃない私には残酷この上ない。そうそう、同じ十字でも正教会の形は、なんだか足置きがあるみたいで(笑)、意味を知らない私には優しく見える。ああ~、さっきのカトリックのイエス様、あれは可哀想だったな~、何度もそう思った。ま、地元の人は宗派の違う教会を梯子するはずないだろうが、正教会の穏やかな聖人たちとちょっと見比べてしまった。それ以来、十字架のイエス像を見る度に、一刻も早く降ろしてあげたくなるpicchukoである。で、ちなみにムラト氏は、、、そんなこと気にもしてない。Google map<2012.09.19 Sarajevo>
2012.11.12
おっと、両替しとかなきゃ。サラエボも街中に両替所があるので困ることはない。とりあえず、私は50ユーロをマルカに替えた。 9月19日現在、1ユーロ = 1.9558マルカ。旧ユーゴスラビア圏において、通貨がユーロの国は、スロベニアとモンテネグロの2ヶ国のみ。コソボを一つの国とみなすのであれば、3ヶ国。あ、EUに加盟してないモンテネグロとコソボが何故ユーロなのかは、私は知らない。セルビアはディナール、クロアチアはクーナ、そして、ボスニア・ヘルツェゴビナがマルカ(コンベルティビルナ・マルカ)である。今回 訪れなかったマケドニアはデナルで、複数形になるとデナリという。このように、旧ユーゴを旅すると両替がいちいち面倒なのだが、新しい紙幣と硬貨コレクションが増えていくのは何気に嬉しい。ちなみに、写真はマルカ。 ユーロでいうセントに当たる単位は、フェニング(複数形でフェニンガ)といい、10円硬貨の色をしているのがそれだ。で、この20マルカ紙幣であるが、これはボスニア・ヘルツェゴビナ国の「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」のもの。(写真はクリックで大きくなる)ボスニア・ヘルツェゴビナの紙幣なのだから、そんなこと改める必要ないじゃないかと思われるだろうが、同じ国でも「セルビア人共和国」側とでは肖像が異なるらしい。この国は、「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」と「セルビア人共和国」という、未だ二つの独自性の高い地方政体で構成されているのだ。紙幣くらい同じ絵柄で良いだろうに、と思う私はこの国の複雑さをまだ理解できていない。セビリの傍にある両替所を出た私は、その後 一本の橋を目指した。そのラテン橋。たぶん、日本人の誰しもがここで起きた事件によって、サラエボという名を最初に知るだろう。ずばり、「サラエボ事件」だ。ここがそうか。息を呑み、そこへ立とうとした瞬間、携帯が鳴った。ムラトさんからの着信だ。私は慌てて写真を撮り、急いでホテルへと引き返した。Google map<2012.09.19 Sarajevo>
2012.11.11
「昨日は12時間も運転したんだ~、もう少し寝かせてくれ。」朝食の時間が気にはなったが、まだしばらく寝かせておいてあげようと、私は音を立てずに身支度を済ませた。「ちょっと散歩してくるから。」 耳元に小声で告げる。「うん、気を付けて。 あ、ユーロからマルカに両替しといて。」寝ぼけてるわりには しっかりしている。*ふふふ、これで写真が撮れる。(笑)翌19日の朝8時過ぎ、私はひとりサラエボの街へと飛び出した。サラエボの主な見どころは、旧市街にあるバシチャルシァという職人街に集まっている。映画などによく登場する水飲み場・セビリもここにある。そこに無数の鳩がたむろする景色は、まさにお馴染みのサラエボだ。私もこの場所に立って、改めて自分の居場所を確認できた気がした。そして、感じた。 世界の中心は、いつも私の足元にあるんだってこと。ニューヨークでも東京でもない、その時 世界はサラエボを中心に回っているような気がした。(笑)あまり遠くまで行くと迷子になりかねないので、ホテルの周囲をぐるっと一巡。ひょいっと奥まった通りを覗いたり、するりと電車の合間をすり抜けたり。中東の香り漂う古い煉瓦と石畳の街並みは、決して綺麗でも斬新でもないのに不思議とモダンな感じがした。一見 それとは対角線上にありそうなのだが、何故かモダンだ。そのモダンさにオリエンタルなミステリアスさが加わって、絶対に他の街では醸し出せない魅力を放っていた。 それも、さりげなさがいい。しかし、これも現実だった。街のあちこちには20年近く前の傷痕がそのまま残されている。私は立ち止った。前日の夜も、ホテルを探しながらこの前を通った。ムラトさんは、「ほら、picchukoも知ってるだろ? 内戦のこと。 ごらん、セルビア人はとんでもない奴らだ。」と言って、銃弾の痕を指さした。でも、私は違うことを考えていた。それは、ユーゴスラビアという国が生まれた時のこと。あまりに遠い昔のことは知らないが、この辺りは、かつてオスマン帝国やハプスブルク家に統治され、また第二次世界大戦下ではドイツを中心とする枢軸国に占領分割されて、その辛い厳しい歴史を乗り越えて、南スラヴ人という共通意識の下、ユーゴスラビアとして統一を果たしたのではなかったか。「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」というユーゴスラビアの誕生を、全員とは言わないが喜んだはずではなかったか。みんなが「ユーゴスラビア人」だったはずだ。そこに、どんな歯車の狂いが生じたのだろう。一度は統一を果たしたものの、セルビア人もクロアチア人もボスニア人もお互い隣人以上にはなれなかったか。そして、一番身近で理解し合えるのが隣人ならば、一番もめごとが起こるのも隣人。仕方ないと言えば仕方ないけど、戦争しかなかったものか。こんな傷痕は辛いなあ、めちゃくちゃ辛い。私はつかの間、その銃弾痕に手を当てた。だが、その泥沼化した民族間の争いに、人間というどうしようもない生き物の 必死でもがく姿が見えてきた。その人間臭さに、なんだか惚れたような気がした。ユーゴスラビア、いいんじゃない。たぶん、本気でユーゴに惚れた。(笑)Google map<2012.09.19 Sarajevo>
2012.11.10
不思議なことに、それから後はベオグラードに戻ってからも携帯の電波は届いていた。ムラトさんとのやり取りが続く。「とりあえず、少しでも早くセルビアを出ること!」「常にどこにいるかメールしてくるように!」彼はよほどセルビアを警戒しているらしい。その日の夜行でオーストリアへ向かうことを彼に伝え、残り僅かなセルビアでの時を過ごすことにした。* * *翌9月16日。 午後2時前にザルツブルクに到着した私は、ドイツのケルンからこちらへ向かうムラトさんを待つ。午後5時前、中央駅にて無事に彼と合流。それから18日にサラエボへ向けて出発するまでの話は、ここでは省略させてもらう。18日の午前8時30分、私達はモーツァルトのパパが眠る聖セバスチャン教会前にあるホテルを出て、いざサラエボへと車を走らせた。あ、ここから先、ムラトさんと一緒にいる間の写真はほとんどない。 カメラを構えると、必ず写真に入ろうとする彼に、段々と写真を撮らなくなったからだ。(笑)いや、別に彼が写ってもいいのだが、何百枚と彼ばかりの写真というのも なんとなく照れくさいし、たぶん、それより私は彼の腕にあるタトゥーが気に入らないのだ。肩には彼の愛犬、そして左胸にも" HIROSHIM "と彫ってある。「何?ヒロシムって?」 「ヒロシマだよ。」「なんで、ヒロシマ?」 「だって、ヒロシマが好きで、いつか行きたいと思ってるんだ。」「ヒロシマって日本の?」 「そうだよ、あのヒロシマだよ。」広島で住んだことのある私でも、いくら広島が好きだからといって胸に刻もうとは思わないが、彼は私と付き合う前から このタトゥーを入れていた。「でも、ヒロシムだよね、これ。」「あはは、あぁ これね、彫ってる時のあまりの痛さに、最後の A が耐えられなかったんだ。」「なんじゃそりゃ。」「今度は右胸に" picchu "って入れるよ。」 「えっ! やめてよ!」「なんで、僕の勝手じゃん。」 「そうだけど、もうこれ以上 タトゥーはしないで。」以前、こんなやり取りがあった。今思うと、私の名前のタトゥーをしなくて本当に良かったと心の底から思う。そんなもの体に彫られたら、なんか呪縛されてるみたいだ。とまぁ、話はあらぬ方向に逸れてしまったが、そういう訳で写真はない。*ザルツブルクからアルプスを越えてスロベニアへの道中は、真っ青な空とわたがしのような雲、頂上に雪化粧した山々が美しかった。スロベニアからクロアチアに入ると、若干 道路の舗装が悪くなったものの、広がるトウモロコシ畑はセルビアで見たそれと打って変わって気持ちがいい。晴れた日の、どこまでもどこまでも広い大地とは、なんと気分を大きくさせるものか。ところどころに家並みを見かけても、ビルのない爽快さ。だが、その晴れ晴れとした気分はボスニア入国とともに少し変わってくる。夕方になり、少し薄暗くなってきたせいもあるが、土地は荒れ、侘しい景色が目の前に続く。バルカン半島には禿げ山が多く、アドリア海側からボスニア・ヘルツェゴビナ入りする時は、灰色に茶色い点々模様のような、少し乾いた感じの景色と出会うのだが、同じクロアチアでもザグレブ側(北側)から下りて来たこの時の印象は、錆びた赤茶色だった。どんな田舎の村にも20年前の紛争痕は残っており、寂しい感じは否めない。二人とも、明らかに口数が減ってきた。それでもサラエボに近づいてくると、山の斜面にも灯りがともり、少しづつ開けてくるのが分かる。大都会のようなキラキラした眩しい夜景ではないものの、品の良い白い光の玉がいくつもいくつも真っ黒な背景に散らばってきた。「なんか、お洒落だよね。」 二人とも同じ感想だった。サラエボに着いたのは、夜の8時くらいだったろうか。街にはこれからが今日の本番!とでもいうような、なかなか粋な若者たちが行き来していた。モダンな服装に、吸い込まれそうな綺麗な顔、スタイルだってバッチリだ。「picchuko、何してるんだ!」 そう何度もムラトさんに叫ばれるほど、私は道行く若者たちをじっと見つめてしまってた。美しすぎる。。。 ここは昔から洋の東西が出会ってきた場所に違いないが、東と西が絶妙なバランスで混ざり合うと、かくも美しくなるものか。私は感動を抑えきれなかった。「picchuko! 行くぞ! 早くホテルを探さなきゃ!」まったくその通りである。 我に返り、小走りで彼を追った。3つ目のホテルで手をうった。サラエボの見どころ、旧市街の真ん中という立地で手頃な宿を見つけた。サラエボは意外とホテル料金が高い。 だが、レベルも高いと思われる。そんな中で私たちが決めた『Evropa Hotel Garni』は、朝食、駐車料金込みで一部屋一泊8000円くらい。トルコ風の絨毯と家具も洒落ていた。トルコ人のムラトさんが喜んだことは言うまでもない。貴重な写真は、一枚目がそのホテルにて、二枚目は次の日の朝に撮ったホテル界隈の風景。Google map<2012.09.18 Salzburg - Sarajevo>
2012.11.09
ノヴィ・サド(セルビア)もドナウ河沿いに発展した街だ。市の中心部を挟んで突き出た対岸の陸地部分は、ベオグラードの旧市街と地形的によく似ている。そして、ここまた堅固な要塞に守られた街だ。ベオグラードと同じく、あらゆる民族が奪い合ってきたこの土地は、10~12世紀にはハンガリー王国の支配下となり、たぶん その時代 ハンガリーにとっての重要な戦略拠点であったと思われる。この時計、一体何時を示していると思う?そのペトロヴァラディン要塞に立つ、街のシンボルとされる時計なのだが。「何言ってんの、時計の見方も分かんないの!」と、少々馬鹿にされた気分になった人もおられるかもしれないが、これは、3時52分ではなく、10時20分を表している。この時計、ドナウ河を行き来する船から見ても分かりやすいようにと、長針が時針に、短針が分針になっているとガイドブックに書いてあった。いかにも良心的に思えるその配慮、しかし それを知らずに見た者は、きっと素直に短針を時針と思うに違いない。そう勘違いさせるのも、何かひとつの戦略か? 気になる。そんなどうでもいいことを考えながら、要塞にある この街一番の高級ホテルのレストランの、その一番安いホットサンドをつまみながらドナウ河を見下ろしていると、だんだん気分が晴れてきた。たぶん、それほど裕福な街ではないのだろう。駅から要塞までに利用したタクシードライバーのおじさんだって、そう言っていた。「私はベオグラードよりノヴィ・サドの方が好きかも。」 そういう私に、「確かに、一見 ノヴィ・サドは美しい街に見えるだろうが、よく見てみるがいい、結構寂れた建物も多く、ベオグラードに比べると貧しい街さ。」「ここも民族間で色々あるし。」クロアチア人をあまりよく言わないおじさんは、やはりセルビア人だった。それにしても、セルビアにしては珍しく(?)中欧チックな街並みだ。実際のところは別として、セルビアを知って日の浅い私には、表面だけを見れば実に嬉しくなる街だった。この後に訪れたサラエボでもそうであったが、ここには、カトリックの大聖堂、セルビア正教会、シナゴーグなど、あらゆる宗教施設が目と鼻の先にある。街並みは中欧、でも一歩踏み込めば、あらゆる宗教や文化がカラフルに混ざり合い、私の興味をぐいぐいとひいた。調和さえすれば、こんな素敵な景色に変身する。どうしようもない民族間のいざこざはあるが、ピタゴラスの定理のような、意外とシンプルな命題はないものか。だって、セルビア人もクロアチア人もボスニア人も、韓国人も中国人もその他の人も、一対一で接するといい人ばかりじゃないか。長い歴史に絡み合った糸を解くのは人間では不可能にも見えるけど、いっそ私が解いてみる?(笑)日本人しか知らない守られた環境で育った私に言えることではないが、そんな冗談を考えていたら、本当に気分が晴れてきた。だが、それは万民の心からの願いだったりする。写真は、どれもノヴィ・サドにて。下から二枚目はセルビア正教会内部、最後の写真はユダヤ教のシナゴーグ。Google map<2012.09.15 Beograd - Novi Sad>
2012.11.09
携帯電話が繋がらない、というのもベオグラードでの私を一層落ち込ませた。知らずと自分の先入観が作り上げた緊張の中に、隔離されてしまったような気がした。助けを呼ぶ声は届かない。大袈裟ではなく、そこまで私を追い詰めたのだった。ノヴィ・サドへ行こう!張り詰めた空気にこらえきれなくなった私の心が、ベオグラードからの脱出を試みた。ベオグラードから鉄道を使うと、ノヴィ・サドへはブダペスト(ハンガリー)行きに乗るのだが、地理的にはベオグラードより僅かながらクロアチア寄りにある。もしかしたら、そこなら電波が届くかも、期待もあった。列車は、ハンガリーから南下するドナウ河とその支流を跨ぐ橋をいくつも越える。汚れた窓ガラスの向こうには、黄色いトウモロコシ畑がどこまでも続き、その広大さがより侘しさを感じさせた。ゴトン、ゴトン。列車の揺れに身をまかせながら、ただ漠然と流れる黄色い景色を見つめていた。30分くらい経ったろうか、携帯が電波をキャッチした。これを逃してはいけない、私はすぐさま日本の母と、トルコからドイツへ向かっているはずのムラトさんにメールをした。「しばらく電波の届かない場所にいますが、心配しないでください。」 これは母へ。そして、「どこまで帰って来ているの? 私はベオグラードに居ます」、そうムラトさんに送った時、列車はトンネルへと突っ込んだ。かろうじて送信完了、でも彼からの返事は届かないかもな。だが、そこから先は電波に支障がなかった。 ひとつ安堵した瞬間。「次がノヴィ・サド?」 車内のアナウンスがない為に、列車が名も知らぬ駅に停車する度、私は同じ車両の誰かに尋ねまくった。その誰もが地元の人であることは分かった。あまりよそ者は この路線を利用しないのだろうか? 「僕たちもノヴィ・サドで降りるよ。^^」2人の子供連れの若いお父さんが声を掛けてくれた。 もう一つ安堵した瞬間だった。写真は、どちらもセルビア第2の都市、ノヴィ・サド。ノヴィ・サドを流れるドナウ河と、市の中心部にあるカトリック大聖堂。Google map<2012.09.15 Beograd - Novi Sad>
2012.11.08
米原氏のソビエト学校時代、彼女の親友・ユーゴスラビア人(あえてそう呼ぶ)のヤスミンカは地理の授業で、ベオグラードは『白い都』という意味だと説明した。ベオグラードには二つの大河、ドナウ河とサヴァ河が流れ込んでおり、それらに挟まれた地区が旧市街であり、かつての城跡残るカレメグダン公園がある。そこには城壁の一部が残っており、今は市民が集う憩いの場所だ。そこに、14世紀、オスマン・トルコの軍勢が攻撃をかけた。この街は古代からバルカン半島の交通、戦略上の要衝として、また温暖な気候と肥沃な大地をめぐって、いくつもの民族が果てしない抗争、破壊、略奪を繰り返してきた。トルコ軍が計画したその襲撃は、夜闇にまぎれて城塞の対岸に集結し、城壁を包囲し、そして夜が明ける直前、人々の眠りが最も深い時間帯を狙うというものだった。だが、秋も半ばにさしかかったその朝の冷え込みは厳しく、白んだ空に 河面から立ち上がった乳白色の靄がベオグラードを包み、それは折から射し込んできた陽光を受けてキラキラ輝いていたという。そのあまりの美しさにしばし見惚れ、戦意を失い、その日の襲撃を中止したトルコ軍。「こうして、この都市は、『白い都』と呼ばれるようになったのです。もっとも、まもなく『白い都』は、結局トルコ軍の手に落ちてしまうのですが……」当時13歳だったヤスミンカの発表は、後に米原氏の日本語に取って替わっても、目の前に白く浮かび上がった美しい街を容易に想像させてくれた。あ、列車で出会ったセルビア人女性のイワナも言っていた。二つの大河に挟まれた場所が旧市街ならば、それらが合流して幅が広くなったところにある大きな中州、それが近年開発された新ベオグラード。そこから対岸の旧市街を臨む眺めが最高だと。そして、そこに立った米原氏は言う。絶景とは、こういう風景を指し示す言葉だったのだ。サヴァ河とドナウ河が交わってできる鋭角的な陸地部分が、崩れかかった城壁に囲まれていた。城壁の向こうに旧市街の建物群が並び、その背後に起伏に富む街並みが息づいていた。さらに、その向こうには、のどかな農村地帯が広がっている。* 私はそれを見ずにその街を去った。カレメグダン公園からの眺めだけでも十分すぎるほど美しかったが、何人もがここまで讃える風景を見なかったことは実に勿体なかったと思う。だが、あの時の私には余裕がなかったのだ。あの時というのも、ベオグラードに到着してすぐの印象で私の心は閉じてしまった。泣きそうだった。空は低く暗く、季節外れの寒さが身にしみた。「それでもこの夏は40℃を超える日々が続いてね、公園の緑が全て枯れちゃった処もあるくらい。」今にも降り出しそうな重い空を見上げ、「ほら、あれが空爆痕、、、」と一部が黒焦げとなり崩壊している建物をイワナは指さした。あの時、もしも青空が私を迎えてくれたなら、せめて一面沈んだ雲に 少しだけでも切れ間が見えたなら、私はもう数日 ベオグラードに滞在したかもしれない。そして、かつてトルコ将兵が息を呑んだように、ヤスミンカやイワナが誇らしく見つめたように、私もその風景を前に佇んでいたかもしれない。破壊と創造を繰り返す都市、『白い都』ベオグラードの象徴とも呼べる気高い景色。やはりそれを見ずには死ねないな、私。Google map<2012.09.14~15 Beograd>
2012.11.07
最近、やっと自分の読書スタイルが分かってきた気がする。一冊でも多く良書に接しようとする人、一冊を何度も何度も読み返して熟読する人、まぁ、読書家と呼ばれる人は、そのどちらもというのが多いだろうが、私は恐ろしいほど本を読まない。1行読んで止めた本は山ほどあるし、今でも その殆どが3行読んだら寝てしまっている。だから私の文章がこんな陳腐で幼稚なわけであるが、だが本は好きだ。この旅にも3冊の本を同行させた。その一つが、途中 旅の行き先にも影響を与えた、宮本輝著『ドナウの旅人(上)(下)』、もう一冊が、私のユーゴ贔屓を確立させた、米原万里著『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』である。どちらも以前、このブログで引用させてもらったが、今日はセルビアはベオグラードについての彼らの描写を抜きだしてみたい。荒っぽい運転で、タクシーはネマーニン通りからミロシュ通りへと曲がり、チトー将軍通りへと入った。道行く人の顔立ちは、ラテン系もあれば、あきらかにスラヴ系と判るものもあった。石造りの建物は殆ど目につかず、大きなガラス窓が目立つ近代建築には、日本の電機メーカーの看板がかけられていた。チトー将軍通りが、ベオグラード市内における目抜き通りらしく、車で混雑していた。少し大通りから外れたら、閑静な場所もあるには違いなかったが、麻沙子には、ベオグラードという街が汚れた猥雑な街に思えた。これは、『ドナウの旅人』の中で、主人公・麻沙子が見たベオグラードの姿である。それはたぶん、宮本氏が持つこの街の第一印象であろう。最初に読んだ時は、彼が描くブダペストとの違いに驚いたほどだ。そんなベオグラードも米原氏の目から見ればこうなる。そうこうする内に、列車はベオグラード市街を走っていた。その街並みも予想以上に美しく、そこに暮らす人々の豊かな生活を物語っていた。ついに列車が終点に到着した。車掌に別れを告げて列車を降りると、外は11月とは思えない暖かさだった。早速着ていたオーバーを脱いだ。「ようこそ、バルカンへ。ここはもうヨーロッパではありません。バルカンです。」達者な日本語が聞こえてきた。 (略)なんだか、とても嬉しくなった。空は高く青く、プラハやブカレストでたまった鬱屈が晴れていくような爽快な気分になる。「気に入ったわ、その言い方。ここはもうヨーロッパではなくバルカンです、ていうの」こうも書かれている。行き交う人々は、それぞれ個性的な、それでいて趣味の良い身なりをしている。ショーウィンドウに並ぶ商品も多彩で豊かだ。ブカレストとは較べものにならないのは言うまでもないが、プラハやブダペストにいささかも見劣りしない。宮本氏は1983年頃、米原氏は1990年代前半のボスニア紛争真っ只中のベオグラードを描いたもの。だから時代が異なるのだが、たぶん二人の持つベオグラードに対する感情からして違ったのだろうと私は思う。私は当初、どちらかといえば宮本氏が見たベオグラードと出会った。猥雑、その通りだと思った。だが、そこで会った温かい人達との交わりと、旅を終えて 旅を熟成させるにあたって、あの街の印象は米原氏のそれに近づいていった。もちろん、二人が訪れた後にコソボ紛争は起こり、NATOによる激しい空爆を受けているベオグラードであるから、そう無条件に爽快なことはない。けれど、今は思う。その街並みも、そこに暮らす人々も予想以上に豊かで美しいはずだと。私と本の繋がりも、また旅である。本が旅に深みを与えてくれ、本の描写が旅によって私の実在になる。ギリシャ人のリッツァは同級生のマリ(米原氏)にこう言っていた。「マリ、ヨーロッパ一の美男の産地はどこか知っている? 覚えておきなさい、それは、アラン・ドロンの生まれ故郷、ユーゴスラビア。悔しいことに、ギリシャは隣国なのに、あれほどの美男には恵まれていないのよねえ」(笑)Google map<2012.09.14~15 Beograd>
2012.11.06
ドンドンドンドンッ! だめだ、どうしよう。しばし茫然となった。だが、焦りながらも もう一人の冷静な私が判断した。試しにもう一度、1階まで降りてみようか。再び1階のボタンを押す。ぐい~~~ん。やはりのろいエレベーターだ。今度はうまくいった。 あれほど頑固だった扉がすっと開いたのだ。ちょっぴり拍子抜けをし、安堵で胸を撫で下ろした。あ、携帯! 我に返る。もうエレベーターはご免だ。私は階段で5階まで駆け上がることにした。重いスーツケースはここに置かせてもらおう。このビルは各部屋だけでなく、その入口も頑丈なオートロックだ。ドンドン。 今度はホステルの扉を叩いた。「picchuko?」「ごめん、携帯を忘れたみたいだから、もう一度 中へ入らせて。」「君のスーツケースは?」私の言うことに返事をせず、マルコは聞く。「少しの時間だから、1階のエレベーター前に置かせてもらってる。ちょっとベッドを見させてね。」「picchuko! 荷持が危ない!」彼は慌てて部屋を飛び出した。「picchuko! 君は携帯を見つけたら、後からゆっくり降りて来い!」ビルの空間に、マルコの声が響く。エレベーターを待ち切れず、階段を2段飛ばしで降りて行くマルコに、私も慌てた。すぐさまベッドを確認するも、携帯はない。あ! もしかしたらスーツケースに紛れ込んだのかも。。。先にそっちを確認すれば良かったと思いながら、私はマルコを追った。ガッチャーン! 派手に、何かが割れたような音がした。「マルコ?」 私は何とかマルコに追いついた。あ! マルコの携帯がまっぷたつに割れている。あまりの勢いに、ズボンのポケットから飛び出たのだった。「マルコ、、、、。」「そんなのことより君の荷持だろ!」マルコは割れた自分の携帯を拾うとすぐ、さっきよりも更に速く階段を駆け下りた。「もしかしたら、私の携帯、スーツケースの中かもしれない。」1階に着いたばかりのマルコに、私の叫び声が届く。「良かった、無事だ。」マルコは安堵した表情で胸を撫で下ろす、エレベーターの扉が開いた時の私のように。私はスーツケースを広げてみた。 携帯はあった、真ん中に。「picchuko! いいかい、ここは日本じゃない、セルビアだ。今は偶然にも荷持は無事だったけど、この先 絶対に手から離すんじゃない。」貴重品の鞄は持っているのに?、という表情の私に彼は続けた。「picchuko! いいかい、セルビア、ボスニア、ブルガリア、ルーマニア、クロアチアだってそうだ。この辺りはまだまだ安心できない国なんだよ。絶対に荷持は離しちゃいけない。」「だって、このビルは入口の鍵が掛かってると思って、、、。」「いいかい、picchuko! ここはセルビアだ。 そんなことで安心しちゃぁいけない。」マルコの表情は真剣そのものだった。「それより、あなたの携帯、、、」「いいかい、picchuko! 僕の携帯はいいから、この先 絶対に気を緩めるんじゃないよ。」そう言って、彼はビルの外まで重いスーツケースを運んでくれた。胸が熱くなった。「今から行けば、まだ列車に間に合う。くれぐれも気を付けて、picchuko。」「ありがとう。」お見送りをしてくれると言うが、私が彼を見送りたいと思った。「マルコ、ありがとう。 もう中へ入っていいよ。」最後にもう一度握手を交わし、彼は1段飛ばしで階段を駆け上がっていった。この話を一番にムラトさんにした。 イワナの話もした。「私、セルビア人って ちょっと怖いイメージがあったけど、私が出会った人達は本当に優しかったよ。」「へぇ、それは親切な人達だ。」 ムラトさんも意外さを隠せないといった感じで驚いていた。というのも、ボスニア紛争時の西側諸国の情報から、ムラトさんの頭には極悪非道なセルビア人のイメージが出来上がっていたのだ。絶対に許せない奴等だというほどに。「でも、実際に会った人達はみんな優しかったよ。」 私は繰り返した。なのに この話を忘れ、この後訪れたサラエボで、ボスニア人と一緒になってセルビア人の悪口をくり返したムラトさん。私はブチッとキレた。バルカン半島がヨーロッパの火薬庫じゃない! 火薬は人の心にあるんだ!青島刑事の台詞ではないが。。。写真は、どれもセルビアはベオグラードのカレメグダン公園。見えるのはサヴァ川。Google map<2012.09.14~15 Beograd>
2012.11.04
予定では3泊することになっていた、セルビアはベオグラードの『12 Monkeys Hostel』。チェックアウト時間は10時だが、夜行に乗ると決めたのが2日目の夕方だったので、バタバタと慌ただしく帰り支度をすることとなった。「マルコ、今夜の列車は21:30発だから、余裕を持って ここを20:45に出るよ。」「分かった。何時にチェックアウトするかは君の自由だ。でも、その時 宿泊証明書に出発日を記入するから、それだけは覚えてて。」昨今、セルビアでも宿泊証明書の提示を求められることは稀になっているそうだが、もし滞在先の証明が必要な時に持っていなければ面倒なことになる。それは、宿泊先が発行元の警察に代行して取得してくれる。個人宅に滞在する場合、その家主に義務が生じるのだとか。大きな図体の割に結構几帳面なマルコは、こんな面倒な国でのホステル管理に向いているかも、そう思った。携帯を充電し、シャワーを浴び、ベオグラードからザルツブルクへの行程をムラトさんにメールする。次の日に、ムラトさんとザルツブルクで落ち合う約束を先ほどしていた。「良かったら、向こうでお喋りしない?」 振り返ると、英国人の若いお兄ちゃんだった。すでに宴会が始まっているのに、その輪に入らず 無言で荷持を整理する私に気を遣ってくれたのだろう。「ありがとう。でも私、もうすぐチェックアウトするから。」20:30。 マルコを呼んだ。マルコは宿泊証明書に日付とサインを記入し、スタンプを押す。「この先も気を付けて。」 そう言って、握手を交わした。玄関の扉まできちんとお見送りしてくれた彼は、別れ際にも早口で喋り続ける。「僕の友達は日本人と結婚したんだ。日本人は本当にいい人ばかりだと言ってたよ。僕もそう思う。君にも会えて良かったし。」私が時計を気にしなければ、たぶん もっと喋り続けただろう。「ありがとう、、、じゃぁ。」 もう一度握手をし、エレベーターに乗った。ビルの5階(欧州式に言えば、4階)に『12 Monkeys』はある。古いエレベーターは2重扉になっていて、外側のドアを引くと内側が自動で開くようになっていた。降りる時は、その逆。のろいエレベーターが2階まで降りた時、あれ? 携帯をどこに入れたんだろう。はたと気が付いた。いつも入れている鞄のポケットに携帯がない。充電した後、どこに置いたか記憶を辿るも、どうしても思い出せない。もしかしたら、ホステルのベッドの枕元に忘れて来たのかも。私は1階ではエレベーターを降りず、ボタンを5階に押し直した。ぐい~ん。どこまでものろいエレベーターだ。余裕の時間を見ていて良かった。ぶちぶち言いながら、5階で扉を開けようとした。しかし、これが開かない。内側のドアは開いたのに、外側の扉が頑固として動かない。うそ。。。 顔面蒼白だ。ドンドンと叩いてみる。どうかホステルにいる誰かに聞こえて欲しい。「マルコ、助けて!」 叫んでもみた。ドンドン! ドンドン! ドンドンドンドン!!!ホステルの扉もまた、頑丈で分厚いものだ。 少々の外の音など聞こえるはずもない。しかも、今日の宴会開始はいつになく早く、すでに大音響で盛り上がっていたのだった。Google map<2012.09.14~15 Beograd>
2012.11.03
前回の日記に、夜行列車のコンパートメントについて書いた。その記事をアップして、「しまった!」と後で気付いた。スロベニアはリュブリャーナのホステルの話を覚えてくれているだろうか。あの、まるで50年前の芸術家アパートみたいだった酷い宿のこと。一つの部屋に、2人の男性とともに押し込まれた あの宿のことだ。ま、押し込まれたという表現は正しくないが。(笑)「picchuちゃんは誰とでも寝れるから。」帰国後に2人の元同僚と会った時、はぁと溜め息をつきながら いきなりI崎さんがそんなことを言う。あの日記がよほど強烈だったらしい。え"? 一瞬、空気が固まる。そ、そんなふうに言っちゃぁ、知らない人が聞いたら変な誤解しちゃうじゃない!!!(><)すでに遅し、同席するK西さんは目をまん丸に見開いていた。「え"? picchukoさんって、そんな人だったの?」「picchukoさんと旅すると、ミステリじゃなくホラーになっちゃう。」誤解が解けた後も、K西さんにインプットされた「誰とでも寝れるpicchuko」が訂正されることはない。(涙)それなのに、またも真夜中のコンパートメント車で男性と二人きり、などと書いてしまったものだから、次に会う時の彼女らの反応が怖い。せめて驚く時は声を低めに、周囲に漏れないようにしてもらいたい。(苦笑)リュブリャーナだけではない、セルビアはベオグラードで泊まったホステルも私的にはきつかった。彼女達が驚く、"男性2人に私だけ"という、そこまで酷くはなかったが、その名も『12 Monkeys Hostel』、名前の通り 一部屋に男女まぜこぜで12人が寝泊りする。「12 Monkeys ? なかなかユニークな名前ね。」ザグレブからベオグラードまで、7時間近く列車で隣り合わせになったセルビア人のイワナでさえクスッと笑った。滅多に表情を変えない彼女にとって、珍しい場面。まぁ、『12 Monkeys』でなくとも、セルビアのホステルはビルの1フロアーを利用しているものが多い。大きな部屋に2段ベッドを押し並べ、バス&トイレ、キッチン、リビング、そして玄関のスペースがフロントだ。昼間のリビングではインターネットをしたり、読書したりと各々気ままに時間を過ごしている。2段ベッドについては特筆することはないが、敷かれたマットは意外にも並みのホテルより寝心地が良かった。私が滞在した時はちょうど男女6人づつだったろうか、ある意味バランスよく(?)ではある。英国から来た人、スペイン人も現地セルビア人もいた、ちょうど欧州人ばかりだった気がする。それらをまとめ、こまめに このホステルを管理しているのが、セルビア人のマルコ。ちびまる子ちゃんではない、背が高く、剃っても剃ってもくじけない 逞しく濃い髭を持つ男性だ。彼はホステルを管理をするだけでなく、夜にだって活躍する。このホステル、夜更けから早朝まで、狭いリビングでは毎夜パーティが開かれるのだ。まこと、うるさい。夜は寝ましょ、という空気ではない。 一晩中、飲み明かしましょ、なのだ。しかも、大音量のミュージック付き。若者だけかと思いきや、明らかに年配である女性までも上機嫌で踊っている。彼らは観光のためにここに来ているのではなく、多国籍パーティを楽しむために滞在している。眠るのは、夜が明けてからでいい人ばかり。だが、私が宿に求めるものは、質の良い睡眠だ。 宴会になど興味はない。ここでは居られない、一晩目からそう思った。「マルコ、私、今晩の夜行でザルツブルクに戻ることにしたから。」ベオグラードの重い空気だけではなく、無機質のビル群に追い込まれただけでなく、このホステルの夜に付いていけなかったことも、ザルツブルクまで引きかえす私の背中を押したのだと思う。「ベオグラード? ユーゴスラビアの? picchuko!そこはとても危険な国だ!」私がベオグラードに居ることを知るや、30分ごとにメールしてくるセルビア嫌いなムラトさんの勢いに負けたところもあるのだが。picchukoさんが誰とでも寝れることは事実だが(笑)、あまりにも大勢で騒ぎ立てる部屋はご免だ。しかし、「誰とでも寝れる」というこの表現、もっと他に言いようはないものか。。。写真は、どちらもセルビアの首都ベオグラード。一枚目が、秋のカレメグダン公園。 二枚目は、『12 Monkeys Hostel』の近く。Google map<2012.09.14~15 Beograd>
2012.11.02
さすがに、夜行列車は乗客も少なく、全てのコンパートメントが埋まるというのは珍しい。それなのに、そのコンパートメントが全て満室だとは、ミシェル車掌が言うように、世界中の人が今夜旅行に出ることにしたか、前もって、全て計算されていたか、、、あ、これは、アガサ・クリスティ作『オリエント急行の殺人』での話。さすがに寝台車両を使うほどの贅沢な旅は、今回の私にはできなかった。それでも一応、予約席なのだが。だから、6席ある3つずつ向き合う形のコンパートメントに横たわった。一人きりの時もあるし、見知らぬ男性と一緒になったこともある。そういう時、なまじ個室なだけに異様な緊張感がある。照明を消した室内は、車窓から時々忍び込む青白い灯が走り去るくらいだ。そして、静寂の中をゴトンゴトンと響く音。そんなコンパートメントでも、昼間となれば話は別だ。個室ゆえか、目が合えば二言三言交わしたり、先に降りる者は「じゃ、お先に」と声を掛けて席を立つ。全く目も合わさない乗客は、数知れず乗った列車の中で2~3人もいただろうか。それは、セルビアのノヴィ・サド駅から乗った時のこと。珍しく大混雑の乗客で、私は一つだけ空いた席を見つけた。コンパートメントの6つの席のうち、埋まっている5つの席には仲間らしい16、7の男の子達が陣取っていた。何やら大いに盛り上がっている。だから、わざわざドアを開いて、そこへ座ろうとする者はなかった。かといって、ぎゅうぎゅう詰めの廊下に立つのもしんどい。ノヴィ・サドからベオグラードまでは1時間半ほど掛かる。 しかも、列車はすでに30分遅れだ。「ここ、いいかしら?」 私はドアを開けながら、恐るおそる尋ねてみた。「どうぞ! どうぞ!」 全員が手を伸ばし、にこやかに答えてくれた。え? 意外な反応に思わず拍子抜け。向かい側の真ん中の席に座る男の子が、一番に話し掛けてくれた。「もしかして、日本人?」「ええ。」「ほら!やっぱり~。俺の勝ちだ!」とでも言っているのだろうか、勝ち誇った表情で仲間を見回した。この列車内を見渡しても分かるように、あまり東洋人を見かけることはないらしい。もしかして、私が何人(なにじん)か賭けていたとか?(笑)「こいつ、日本語の詩を知ってるんだぜ。」 彼は一人の男の子を指さした。すると、私の同列の右端に座っていた男の子が、ひとつの詩を音楽に乗せて歌い出した。どこで聴いたか、それは戦前の古い映画にでも出て来そうな唄。私はそれを知らなかったが、日本人なら懐かしさを感じる唄だ。男の子にしては高音の、優しい歌い方だった。君、本当にセルビア人? 私は驚きを隠せず、彼の顔を覗きこんでみる。「ね、合ってる?^^」 そう言って、今度は彼の方が私を覗きこんできた。「うん、合ってるよ。^^」間違いなく、日本語だ。 だから、合っているはず・・・。しかし、その歌詞が古過ぎて、正直、意味すら分からなかった私は、自分が日本人かどうかの自信がなくなってきた。(笑)見るからに大柄で、眉もまつ毛も太くて濃い 西洋人にはない彫りの深い顔達だった。だから、本当はこの席に座るのに勇気がいった。だが、列車の風景にこんな思い出を残していってくれたのも、セルビア青年の気さくで温かい人柄と、コンパートメントという独特の空間のおかげだろう。社交場としても、はたまた殺人事件の舞台としても(!)、列車はスペシャルな存在感でもって楽しませてくれる。写真は、一枚目がドイツ、ミュンヘン中央駅構内。二枚目が、この日記に登場するセルビアはノヴィ・サド駅ホーム。Google map<2012.09.15 Beograd - Novi Sad>
2012.10.31
そのシンプロン=オリエント急行は、終点のカレーを目指し、イスタンブールを出発した。カレーという町が、海峡を挟んで英国と向き合うフランスの都市だということは、ロダン作の彫刻『カレーの市民』のおかげで、私でも知っていた。順調に進めば、3日後にはヨーロッパ大陸を横断できるはずだった。だが、事件は起きた。 ユーゴスラビアで。 ベオグラードを21時15分に発車し、その3~4時間後のことだった。列車は大雪のため、立ち往生している。ここまで書けば、いや冒頭でお気づきか、私は今、アガサ・クリスティの代表作『オリエント急行の殺人』を読んでいる。日頃 推理小説に手を出すことのない私が、夢中で貪っているその理由は、ユーゴスラビア、そして列車という舞台設定に引かれたからだ。育った処が鉄道と縁の深い町だからか、私は乗り物の中で一番列車が好き。四国鉄道発祥の地であるとともに、高知行きと松山行きの列車が私の町で分かれる。キキィ~。 昔はここで、それらの列車を連結したり切り離したりしていた。時に不愉快に感じる その音も、知らぬ間に町の音風景となっていたようだ。今でも夜になると、駅から数分のわが家には、ゴトンゴトンと走る音が風に乗って運ばれてくる。だから、乗らなくても それは子供時代の私の日常にあった。EU を出ると、列車においてもパスポートチェックが行われる。クロアチアはクロアチアの、セルビアはセルビアの独特の雰囲気でもって、それは行われる。真夜中の国境越えでは顕著に表れた。 ドキドキする瞬間である。真っ黒な夜のとばりの中、キキキキキィ~とブレーキがかかる。話し声が隣りから漏れてくる。すると、私の居るコンパートメントのドアが開き、シャッとカーテンが開かれた。紺色の制服を着た2人の男が立っていた。 無言の圧力感がある。外には、照明の乏しい長いホームと、何本も伸びる線路の上を寄り添って歌いながら去って行く4~5人の男の子達が見えた。吐く息が白いのが私からも分かる。セルビアは 『Sid』 という駅だ。彼らはフードを頭に被せ、ズボンのポケットへ手を突っ込む。彼らが身を寄せ合っているのは、思いの外 寒さ厳しいせいだ。執拗にジロジロと人の顔を眺めた警官からパスポートを受け取ると、私は足を伸ばした。なのに、すぐ別の男が入って来る。変な物を持っていないか、探知機のようなもので座席下まで調べられた。30分くらいしただろうか、確か20分は優に過ぎたと思う。ゴ、ゴトン、ゴトンゴトン、、、ゆっくりと列車は再び夜を走り出した。しかし、それも数分のこと。またも列車はキキキキィ~と停まり、クロアチア側のチェックが始まった。気持ち、セルビア側よりも優しい感じがしたのは気のせいか?オリエント急行のような贅沢な列車の旅はできなくとも、その線路も そこから見える風景も変わりない。作品が生まれて80年近く経ているといっても、暗闇に隠れた正体は、どこまでも続く黄色いトウモロコシ畑に違いないだろう。雪が降っているか、殺人事件が起こったか、、、の差ぐらいである。(笑)果たして、犯人は私の思う人物なのか。異文化の行き交う孤絶の空間、それが立ち往生した場所に、アガサ・クリスティは何故ユーゴスラビアを選んだのか。ヨーロッパ鉄道の旅、私はまだしばらく楽しめそうだ。写真は、一枚目と二枚目が、どちらもセルビアのベオグラード中央駅。三枚目はこの日記と日にちもルートも異なるが、二度目の夜行となったクロアチアのスプリット駅ホーム。Google map<Salzburg ~ Beograd >
2012.10.29
もう一つ、是非とも紹介したいこのブログ。夏のヨーロッパが一晩で晩秋に姿を変えた、9月中旬のプリトゥビツェ湖群国立公園(クロアチア)で出会ったカップルのブログである。見るからに良い笑顔だが、実際はもっと輝いていた。幸せ~~~!が伝染する この笑顔。プリトゥビツェ湖群国立公園でというより、ザグレブからそこへ向かうバスの中で出会った二人だ。「おはようございます。^^」バスに乗った途端、爽やかな挨拶が聞こえてきた。 彼だ。二人の前に座る。その時 耳に入る背後の会話から、バスに乗る客の殆どが観光後に再びザグレブへ戻るのに対し、彼らはスプリットへ向かうことを知った。バスは一通り乗客を拾うと、一つの大きなホテルの前で停車した。恰幅のいい係員のおばさんが乗って来て、これから向かう国立公園の説明を始める。「ここで、バス代の残金を集めます。国立公園の入場料は現地で支払うか、今一緒に支払うかは皆さん各自で決めて下さい。ここで払った方は、バスを降りる時にドライバーから入場券をもらって下さいね。」そう言って、バス内を集金し始めた。一番目は最前列に座っている私。「入場料はどうします?」 おばさんは聞いてきた。しかし、この時の私は頭が真っ白だった。理由は現地から生の声で伝えたが(笑)、しまった! 入場料のことなど全くもって計算に入れていなかった!(><)一瞬 固まった私に、「入場料もここで払うか聞いてますよ~。^^」と彼が声を掛けてくれた。「はい。」 反射的に答えて、財布を掻きまわす。なんとか入場料分くらいはありそうだ。だが、これで手持ちの現金がないに等しいに変わりない。親切な彼らと色々話はしたいけど、その先の不安から、目的地までの2時間、私はずっと無言であった。クロアチアといえば、ドゥブロヴニクを連想するように、オレンジ色の屋根と碧いアドリア海のコントラストが印象的だが、大小16の湖と92もの滝の織りなす こんな表情のこの国も、この上なく美しい。私達が訪れた時は あいにく雨であったが、それはそれで 湖面を煙る蒸気と雨が描く輪が、まるで舞踏会を連想させた。よくエメラルドグリーンと表現されるが、そんな単語一つで片づけるなんてごまかしだ。(笑)寒さで凍えながらの遊歩道であったが、瞼に贅沢な自然の美が焼きついた。「どのコースを回りました?^^」 3~4時間コースをそそくさ終えてカフェで暖まる私に、チャーミングなその笑顔に滴る雨の雫を拭いながら、彼女が聞いてきた。「バスまで時間があるので、一緒にお話でもしませんか?」二人は今年の4月から一年間、世界各地を巡っているという。「やっぱり醤油味が恋しいですね。」 そう言う彼女と、何でもOKという、可愛い顔からは想像できない頼もしい彼。どうやら彼の方は何度もバックパッカーとして、世界を周遊してるんだとか。「どこでも生きて行けそうだよね。」それは、単なる誰からでも受け入れられ、どこででも生活できるという意味だけでなく、どんな困難があっても、ちゃんと対応できるだけの知恵も力もある人物だと、尊敬を込めて言ってみた。二人は最高に似合いのカップルだと思った。別れの時、「私、ホームページ 持ってるんです。」と名刺をくれた彼女。帰国後、ワクワクしながら開いてみた。そこには、やっぱり最高に素敵な二人の世界があった。なんと、旅立つ前に入籍を済ませた二人は、世界一周をしながら結婚式の準備をしていると書いてある。ブログでは、その様子をリアルタイムで載せているのだ。彼らが見た、世界の結婚式やプロポーズプランも紹介されている。すごく恵まれた人生だな~と羨ましくなりながらも、彼らはその特別にも見える幸せを引き寄せるだけの力を、幸せを描ききる力と、実現する力、その両方を兼ね揃えていることに気付く。その名も、『 One Heart Wedding 』☆女の子なら、男の子もそうかな?、誰もがうらやむ日記だ。Google map<2012.09.13 Zagreb - Plitvice >
2012.10.26
この旅は、私の人生における何かしらの節目になると感じていた。1ヶ月という期間は物足りない感もあったが、病気持ちの高齢者を両親に持つ私には この辺りが限度だろう。それでも、仕事を続けていれば決してできなかったことであり、この為に退職したわけではないが、自分の選択を認めている。だが、帰国後の私は何から手を付けていいか分からず、無駄に生きてるという後ろめたさが、どこか心の中にあった。このまま私はどうなるのだろう。 時々、不安が私を襲う。そんな時、救世主のような言葉をくれた友がいる。勝手に友と読んでいるが、まだ一度しかお会いしたことのない、ブログを通して知り合った友だ。センスの良い 少し大胆な語り口と、彼女の天性によるものか、バックグラウンドによるものか、たぶん両方からだと思うが、鋭く気持ちの良い感性にたまらなく憧れた。物にも息吹きを与えられる人、そう私は思っている。彼女の言葉は一つ一つに力があり、的確だ。 そして、褒め上手。私より2つ年下とは思えない大人なのである。ブログでも感じたそのことを、今年4月に大阪で出会った時にも強烈に感じた。知り合って4年、それは念願叶う瞬間であった。昨日、彼女からメールが届く。またも彼女はどんぴしゃりな言葉をくれた。「今は刺激的な日々の後に現実に戻って、何をしたらいいやらみたいな感じになってるかも知れませんが、動かないときは動かないでいいと思います。時期が来て動きたくなったら全部が動きます。全部なくなったときは全部が新しくなるチャンスで、前に進む準備ができたときにいろんなチャンスが突然やってきます。なくなったものは未来の自分には必要のないもの。これは違うと思ったら手放す勇気と前進する勇気があれば大丈夫。未来が先に見えたら楽なのにね^^」不安だった私の胸に閊えていたもの、それを一瞬で取り払うだけのものがある。体現している人の台詞は直球だ。生き返った。大袈裟ではなく、そう思った。今、彼女はネパールと日本を行き来し、ヒマラヤの青い石・Kyanite(カイヤナイト)に携わる仕事をしている。彼女の手にかかると、石はより強く意思を持つ。その意思は、自分(石)に合った相手を引き寄せる。人間が石を選ぶのではない、石が人間を選んでいる。そう確信させる力を、彼女自身も持っているから不思議だ。私も彼女の下で、ひとつカイヤナイトを選ぶ。彼女の手の中にあった時の輝きが失せているのは、今の私が輝けていないからだと素直に納得。それでも、その石は現在の私を知りつくした上で、半年前に私を導いたのだと思う。石を手にして以来、私の変化は目まぐるしかった。その目まぐるしさ故、不安も大きかったのだが、それを彼女は理解してくれたのであろう。彼女に感謝したい。おかげで、この愛しい旅も より深い意味を感じられるようになったのだから。私が撮ると平凡になってしまうが、彼女が写すと息を吹き返すだけでなく、その中に虹が現れ、美しさも増す。是非、一度覗いてもらいたいブログである。⇒ Nepal Kyanite ヒマラヤの青い石
2012.10.26
日頃、アクセサリーを身に付けない私がアップしたこの写真は、ムラトさんのお母さまから戴いた、トルコのお守りナザール・ボンジュウである。実は、5月に貰ってすぐ失くした(苦笑)ナザール・ボンジュウについて、まだムラトさんに告白していない。なのに、またも貰ってしまったのは、「是非、picchuに!(トルコでは親しい間柄では名前の末尾を略する)」と、先月 帰省した彼に持たせてくれた、彼のお母さまの愛情を感じたからだ。(なのに、その息子を外国で捨ててしまってごめんなさい!)前の(失くした)ブレスレットもそうだったが、お母さまが選ぶデザインは何気に私好み。ザルツブルク中央駅前のカフェに座り、早速 首に掛けてみる。なのにだ。なのに、またもすぐさま鎖が切れる。いくら手先が器用なムラトさんでさえ、繕えない場所がぷつんと切れた。まぁ、その犯人が私ではなくムラトさんだったのが救いであるが。(笑)「大丈夫。肝心なのは、災いを跳ね除ける青い目玉とコーランだから。」と当の本人はけろっとしている。しかし今思えば、鎖が切れたのは、モスタルでの大事件をすでに予言してのことかも。筒の中には、コーランが書かれた青い紙が丸まっている。青い目玉だけでもプレッシャーだったのに、今度はコーラン付き、、、。ますます責任重大だ。身につけてまた失くすより神棚へと思ったが、いやいや これまでお世話になった氏神さまがアラーの神に負けそうだ。喧嘩にもならない力の差が予想される、たぶん。(苦笑)だって怖そうだもの、アラーの神さま。神さまどうし 仲良くしてくれれば、人間の世界も平和になるのに。。。。。それも、たぶん。こちらは、世界を股に掛ける わが大親友 K美嬢から届いたトルコのチョコレートと、気分だけトルコ紅茶。
2012.10.24
一ヶ月間、常に私の足元にあり、ヨーロッパ大陸を私よりも近い場所で感じていたのが このスニーカー。それは、ちょっぴり奮発したカンガルーの革製品で、柔らかい生地は決して靴ずれすることなく、無職な主人に対して実に誠実で働き者だった。(爆)今日、やっとそれを磨いてあげることができた。ヨーロッパの土を落とすのが惜しい気がして、半月以上もそのままにしておいたのだ。(苦笑)そして、それと共に旅の大活躍者だったのが「トーマスクック」君、言わずと知れたヨーロッパ鉄道時刻表である。今回は、出発直前に届いたトーマス君をそのまま鞄に押し込んで旅に出た為、ルート選びと時間割にのみ重点を置いたが、前もって彼をじっくり読み込んでおけば、旅は一層充実したものであったろうと、それは今後活かすものとする。それでも、当初の計画はどこへやら、すでに10日目から行き先不明であった私にとって、この時刻表は大いに活躍してくれた。地図を読むように、いつもトーマス君とにらめっこだった。国境越えの場所を、駅舎の絵でもって表していることも有難い。今も何気に手にしてみると、またも私を旅へといざなう。特に消化不良で終わった旧ユーゴへの思いは、自分でも驚くほど膨れ上がっている。ただ、今の自分では まだ訪れるに等しい器でないことを その場でもって理解できたので、これから先の課題が山積みなのだが。今、最も懐かしいのがベオグラードだ。一番、私がしんどかった場所。なのに、一番先に浮かび上がってくるのが、あの切ない風景であり、重い空である。そして、サラエボ。ここだけムラトさんと二人で観光したのだが、次回は時間を掛け、一人でじっくり向き合いたい。そして、今回パスしたマケドニアもやはり気になるし、時代が許せばコソボにも立ってみたいと思っている。*実は、きちんとガイドブックや外務省のホームページを開いたのは帰国してからのこと。そして、少しニュアンスが違うかもしれないが、知らぬが仏・見ぬが秘事という故事をしかと噛みしめている。(笑)特にサラエボは、一つの町の中にクロアチア人・ムスリム人の連邦側とセルビア人共和国が今なお別々に存在し、その見えない境界線上を越えないことが最低限の安全であった。そんなことも知らずに自家用車でサラエボ入りした私達が、気軽に町を散策し、何のトラブルにも巻き込まれなかったことは、単に運が良かったのかもしれない。だが、それでは旧ユーゴにいつまでたっても近づけない。現在、比較的治安が落ち着いている旧ユーゴであるが、未だ戦犯逮捕作戦も進行しているのだそうだ。そういえば、ボスニア紛争時の大量虐殺における法廷も終わりを見せてはいない。つい先日も、ベオグラードで公判があった。傷痕は建物だけではない。人々の心における過去の傷痕だけではない。まだ現在進行形の問題が、地雷のごとくあらゆる場所に潜んでいる。勉強不足で飛び込んだことを改めて恥じた。クロアチアからセルビア入りする時も、その逆の時も、それぞれの国境駅の、不愉快に感じた まるで地雷探知機のような道具での荷物検査でさえ、よく考えれば当前のことだった。これまで、国境意識、民族意識があまりにもなさすぎたのだ。次はもう少しましな旅ができるかな。できるといいな。今もトーマスクックを捲りながら、ベオグラード・サラエボ間の鉄道ルートを思い描いている。Google map<Salzburg ~ Beograd >
2012.10.23
これ(↑)は、ミュンヘンではなくザルツブルクのお祭りで撮ったものだが、ドイツ南部のバイエルン州やオーストリアはチロル地方などの伝統行事に欠かせないのが、彼らが着ている民族衣装であろう。活気あるオクトーバーフェストをより一層 楽しく見せるのも、これら民族衣装のおかげであるし、これなくしてはオクトーバーフェストはあり得ないと言えるほど、思いっきりジョッキ風景に同化している。「picchukoさんも一着買ってみたら?^^」そういうsuhさんは、お顔を明るく見せる赤いキュートなエプロンが印象的なディアンドルを身に付けていた。この民族衣装、逞しい男たちが着る肩紐つきの皮製半ズボンをレーダーホーゼン(Lederhose)といい、広い襟ぐりの、ホックか紐で締め上げた袖なしの胴衣に、半袖の白いブラウス、それにスカートとエプロンという女性のいでたちをディアンドル(Dirndl)というらしい。あ、同じアルプスでも、ハイジの着るスイスの衣装は少し違う。本当は、私も欲しいと思っていたのだ。(笑)以前も書いたが、ザルツブルクにもこの民族衣装を扱うとても素敵なお店があって、店先に飾られた数々のディアンドルを、これまで私はいくつ写真に納めただろう。自分で言うのもなんだが、数ある世界の民族衣装の中で、たぶん私が一番(唯一(笑))似合う衣装だと思っている。だって、どう逆立ちしたってサリーやチャイナドレスは無理であろうし、フラダンス衣装なんぞ着たもんなら、それこそ冗談になってしまう。(爆)「最近の流行は、スカート丈が膝上辺りなんだけど、少し前は超ミニが流行ってね~。私はそれより随分前の、ロングが主流の時に買ったものなの。」ちょっぴり短めのスカートを穿く若い女性が多い中、踝まで隠す衣装のsuhさんは、逆に慎ましくて愛らしかった。あまり流行を感じさせないディアンドルであったが、そう言われてみれば、意外と個性豊かでもある。それら衣装を見比べるだけでも、オクトーバーフェスト会場や、期間中のミュンヘン市内歩きはたまらなく面白い。そして、夢膨らむ。(笑)私は少し長めか、膝下辺りの丈がいいな。そして、色々観察していると目も肥えてくる。ミュンヘン近郊のバイエルン州と、そのバイエルンから僅か10kmしか離れていないザルツブルクの衣装とでも、趣向の違いを若干感じる。私はやっぱりザルツブルガーデザインが好き。今すぐにでも買いたい衝動に駆られたが、" ちょっと待て、それを日本で着るつもり?"たまにしか顔を出さない、もう一人の冷静なpicchuko嬢(?)に止められた。(笑)でも、欲しい。とりあえず、すでに一着 目を付けている。
2012.10.22
今日は一日中、町のあちこちで笛や太鼓の音が響いていた。秋晴れの清々しい週末、お祭りにはもってこいの日和だった。だが、私の気分はラーベ氏のまま。お祭り気分も、一足先にミュンヘンですませている。(笑)ミュンヘン行きをsuhさんにメールする時、私は深く考えずに「30日はどうですか?」と提案した。その日がマックス・ラーベ氏のコンサートであったことも幸運だったが、もう一つ、ちょうど世界最大のビールのお祭り・オクトーバーフェストが開催中というのも、これまたツイていたとしか言いようがない。なぜなら、これぞミュンヘン! これぞドイツ!という姿を、日頃のうっぷんを力強く吹き飛ばす、ドイツ人ならではの気質を生で感じられたからだ。なんという盛り上がりだろう。大きなジョッキを掲げる男たちの、太く逞しい腕にほれぼれしながら、力強いドイツを肌で感じ、お腹の底からふつふつと湧きあがる興奮を感じていた。このダイナミックさ。ウォ~、ウォッウォッウォ~。 地響きのような太く大きな男たちの声が会場を覆う。ノリのいい音楽に、私だって負けずに踊り出したい気分だった。う~、たまらないっ!今じゃ、世界各地でこのオクトーバーフェストの真似事をしているらしいが、この骨のある空気は、ドイツでなければ出せないだろう。そして、その空気だからこそ余計にビールも旨いはずだ。・・・はずだ。 そう、私はビールを飲んでいない。(笑)「ごめんね。ビール飲みたいでしょうけど、ちゃんと席に着かなければビールを注文できないのよ。」せっかくのビールの祭典なのに、、、という思いからか、suhさんは申し訳なさそうに言う。十万人を収容できるほどの会場とはいえ、とっくの昔に満席である。この盛り上がりを止められるものはない。「ううん、私、そんなにビール好きじゃないし、この輪の中にいるだけですごく楽しい!!!」それはsuhさんに気を遣ったのではない、その時の私の一番正直な気持ちだった。それに、こんな派手な祭りにおいても、その律儀さがなんともドイツらしいではないか!(笑)「あ、でもソーセージは食べたいかな。」 これも私の本音である。「え? もう食べっちゃったの?」ただでさえ大きな目を、ますますまん丸に見開いて、suhさんは言った。「え"? 全部食べっちゃったの?」「食べちゃいました~!!!」 口の周りについた油を拭いながら、私は満足そうに答えてみた。「あのソーセージ、50センチもあったのよ!」と、やっぱり驚きを隠せないsuhさん。「え"?」ショックのあまり、次に問い返すのは私の番であった。。。(笑)Google map<2012.09.30 Salzburg - München >
2012.10.21
いきなり旅のクライマックスから書くのもどうかと思ったが、興奮冷めやらぬうち、したためておこう。この旅で、私は信じられない幸運に恵まれた。本物のジェントルマンというものに間近で接したのだ。 しかも、VIP待遇で?!「さて、30日ですが、実は私、ミュンヘンに行く用事があるのです。大好きな、マックス・ラーベさんのソロリサイタルで、コンサート前にCDを持って会場の裏口で待機する予定です(照)。」これは、私のブロ友第1号であるsuhさんから戴いた9月21日付けのメールだ。ドイツ在住の彼女に、私はクロアチアのスプリットからメールを送っていた。同じヨーロッパ、ましてミュンヘン近郊滞在を考えていた その時の私は、彼女に会いたい、そう思ったのだった。ちなみに、今年5月にもお会いしている。「観光はpicchukoさん お一人でも大丈夫だと思いますが、ワイマールの栄光時代の歌を艶やかなバリトンで歌い上げる紳士なマックス・ラーベさんを一緒に待ちませんか…。」そのラーベさんをご存知だろうか?私は彼女の以前のブログで知っていた。モノクロで写し出された彼から、どこからとなく古き良き時代の品格と色気(笑)が漂っていたのを覚えていた。ワイマールの栄光時代。艶やかなバリトン。上質なワインの酔いを連想させる彼のステージを頭に浮かべ、そのラーベさんをまちぶせするという 彼女の誘いに飛び乗った。*9月30日、午後2時。ミュンヘン中央駅で待ち合わせた私達は、その足で地下鉄に乗り、コンサート会場へと向かう。「その会場もちょっと素敵なの。^^」suhさんは冷静に見えてはいたが、きっと胸弾んでいたに違いない。ちょうどミュンヘンはオクトーバーフェストの真っただ中で、年下の私が言うのは失礼かもしれないが、バイエルンの民族衣装に身を包む彼女はなんとも可愛らしかった。会場の右奥手にある関係者入口で、ラーベさんの到着がまだであること、ここから入って来るという確実な情報を得たsuhさんと共に、2時間ほど待ったであろうか。背の高い細身の男性が、颯爽と目の前を横切った。小さなスーツケースを引きながら、まるで鼻歌でも歌っているかのような風情で。「ラーベさん!」suhさんが声をあげた。彼女の声で、私も「あっ!」と思う。たった一人で あまりにもさりげなく目の前を通ったものだから、私は普通に見過ごすところだった。(笑)彼は「荷物を置いてくるから」と会場に入り、再び現れた時には手にサイン用のカードを持参していた。3人揃って石段にしゃがみ込み、「綴りはこう」と私達それぞれの名前を手持ちのレジ袋に書いて示す。彼はそれを見ながら写真にサインをし、同じくsuhさんが準備していたCDにもさらさらっと記入した。まちぶせのファンは私達だけ。 完全に彼を独占だ。suhさんは流暢なドイツ語で彼と話し、私も何か一言をと「今度、広島か大阪にも来てください。」とお願いしてみた。当然のこと四国は無理であろうと この2都市をあげた。「大阪と東京には行ったことあるよ。」そうなのである。 彼はすでに2回の来日公演を果たしていたのである。握手をし、一緒に写真を撮った後、「コンサートには来てくれるの?」とラーベさん。「もちろん行きます。 あ、彼女はザルツブルクに帰らなくてはならないので、コンサートには出ません。」suhさんの返事もドイツ語なので、たぶんそんなことを言っているのだろうと想像して聞いていた。CDに書かれたサインのインクが早く渇くよう、サイン入りカードでパタパタと扇ぎながら。(笑)「ちょっと信じられない出来事だったね。」興奮する二人を前に、もう一度姿を現したラーベさんが私に問う。「コンサート、聴きたい?」「後ろの方の、あまりよくない席だけど。」一瞬、脳裏に帰りの列車が気になったが、思わず「Yes!」と答えてしまった。だって、例えファンであろうとも、見ず知らずの私達にこんなにも親切に接してくれた彼の歌声、チャンスがあるのなら、是非ともと思うのは当然であろう。(ちなみに この時点まで、私は彼の歌声すら知らないエセファンである。)「ちょっと待ってて。」そう言って、またも会場に戻るラーベ氏。次は手にナプキンを持って来た。「pikoで席を取っているから。 当日券引き換えの場所で名前を言えばいい。」piko? picchukoと覚えられずに、彼の中にはpikoとインプットされていたらしい。(笑)「あ、お金は要らないから。」と彼。そう言って、来た時と同じ、颯爽と会場を去って行った。数十メートル先で振り返った彼に、大きく手を振る。彼もそれに応えて手を振る。あ、この写真の信号待ちしている男性がラーベさん。(写真はクリックで大きくなる)さて、こんな素敵な劇場がコンサート会場であった。後でガイドブックを見て知ったが、ここはプリンツレーゲンテン劇場(Prinzregententheater)といって、ミュンヘンでも指折りの劇場だ。白亜の外観、そして それこそワイマール時代を彷彿させてもおかしくない趣きある内観である。コンサートを前に会場についた私は、ふと思った。まさか これはラーベさんによる上質のジョークで、実は席など用意されていないのではなかろうか?いやいや、もしかしたらステージの袖に罰ゲームのような席が設けられているとか?想像して笑いの止まらない私に、「もしかしたら、座った瞬間、ブーッって大きな音が鳴ったりしてね。(笑)」と、suhさんも負けてはいない。^^ ・ ・ ・ ・ ・「pikoね。聞いてるわ。」本当に席はあった。しかも、本当にpikoの名で。しかも その席は、なんと前から3列目のほぼ中央であった。これまた後で知ったことだが、実はマックス・ラーベ氏は、ドイツでは知らない人はいないと言い切ってもいいほどの大スターであった。改めて、suhさんに大大大感謝の気持ちを贈りたい。 もちろん、マックス・ラーベ氏にも。Google map<2012.09.30 Salzburg - München >
2012.10.20
さて、気ままに話を進めていくが、前述した I石家のY郎くんが大の地図好きだということも、過去のブログに書いた。先日も、ライトで浮かび上がる お気に入りの地球儀を眺めるY郎くんに、I石ママは私が巡った国の位置を尋ねようと、一瞬思ったらしい。だが、サンタの葉書を思い出し、慌てて言葉を呑む。(笑)Y郎くんの地図好きは小学校に上がる前からのことで、それを知って以来、私も時々 海外の本屋を覗くようになった。珍しい世界地図はないかな、と。だが南半球でもない限り、日本のそれとは変わりなく、ただ地名が現地の文字に変わっただけだ。というよりも、店員による監視の目が厳しく、おちおち見比べもできやしない。(苦笑)そんな中、ある時から私は、海外の地図において日本の領土がどう示されているかが気になり出した。で今回、店員の視線を感じながらも、セルビアのノヴィ・サドとオーストリアはザルツブルクの2つの町で地図を広げてみた。オーストリアでは、国境問題がはっきりしない箇所は色を違えてあったり、2つの国名で記されてあったりと、それぞれの国への配慮が見られる。例えば、北方領土はどちらつかずの白色で塗られ、竹島は「Dokdo/Takeshima」、日本海は「Japanese sea/East Sea(ドイツ語表記で)」というふうに。この二つの表記を見て少し可笑しかったのが、日本名と韓国名のどちらを先に記すかということにも気を遣っているらしいということ。それは私のいらぬ考えか、それは分からないのだが。では、セルビアはというと、こちらははっきりしている。北方領土は完全にロシア領として描かれており、日本海はそのまま「Japanese sea」のみであった。ちなみに、竹島と尖閣諸島は島自体が描かれていない。(笑)セルビアとロシアの関係は詳しくないが、コソボを独立国と認めるかどうかについてを見た場合、その両国の距離感が分かるような気はする。セルビアがコソボの独立を認めないうちは、ロシアもコソボを独立国とは認めない、そうはっきり言い切った。なので、ロシアの地図も、北方領土がロシア領であることはもちろん、コソボはセルビア領として表されていることは当然のことと予想つく。もちろん、セルビアではコソボは支配下のままである。逆にオーストリアは日本と同じくコソボの独立を認めており、そこにはきちんと国境線が引かれていた。たかが地図なのだが、その国の国際的立場などが面白く反映されていて、時代別だけでなく、国別で地図を楽しむことをY郎くんのおかげで気付かせてもらった。結局、サンタも子供達から夢や面白さをもらっているのだ。(笑)写真は、全てノヴィ・サドの町。Google map<2012.09.15 Beograd - Novi Sad>
2012.10.15
私の『旅行記・ドゥブロヴニク&モスタル』を読んで下さった方は覚えておられるだろうか?昨年暮れ、クロアチアはザグレブの空港から、サンタに成り済ました私が送った一通の葉書のことを。送り先は、前職場でお世話になった I石氏の次男坊・Y郎くんだ。→ ('11.12.31日記) ・ ('12.01.14日記)昨日、1ヶ月半ぶりに Y郎くんのママ(以下、I石ママ)と会った。旅話のクライマックスは、やはりムラトさんとのいざこざであろう。(笑)そして、もう一つ。 picchukoサンタの続編である。旅先からもアップしたポストイナ鍾乳洞。8500以上ものカルスト地形の鍾乳洞を持つスロベニアの、代表的な観光地である。規模はヨーロッパ一、美しさは世界一とも言われ、その日(9/11)も数えきれない観光客でいっぱいだった。本当のところ、首都リュブリャーナから列車で1時間以上も掛かる辺鄙な場所、なんとなく面倒で、行こうか行くまいか迷っていたのだが。前日に参加したツアーで知りあったインド人カップルより「是非とも!」と勧められ、しかし、さほど期待もせずに行ったせいか、余計にその美しさ、見事さに驚きを隠せなかった。内部は撮影禁止なのだが、至るところでシャッターを切る観光客の多さに、私も一度だけ誘惑に負けてしまう。それはブリリアント鍾乳石という、この鍾乳洞内でもとりわけ目立つ存在の、ポストイナのダイヤモンドと呼ばれるものだ。もちろん、ここだけでなく、その全容をカメラに納めたい衝動をひたすら押し殺さなければならなかった。ただただ自然が生み出す大芸術に圧倒され続け、この感動を今すぐにでも誰かに伝えたい、そう思った。歩いて見学できる最終地点の、コンサートホールと呼ばれる場所に着いた時、洞窟内から葉書が投函できることを知る。そこは、高さ40mもある鍾乳洞内一の空間で、約10000人も収容可能な広さを持つホール。6秒間ほどの残響があり、実際にコンサート会場としても使用されている。天然のシャンデリアの下、ダンスパーティーだって大いにありだ。ますます感動を抑えきれなくなった私は、サンタ計画続編を思い出す。この旅に出る前、「向こうから季節外れのサンタ葉書を出すから」と I石ママに言ったことを思い出したのだ。その時はサラエボから送ろうと考えていたのだが、この感動こそ伝えよう。地球の凄さを、この神秘さこそを伝えよう。私はペンを走らせた。投函してから10日近く経ったある日。スプリットの港でぼぉ~っとカモメを眺める私に、I石ママからメールが届く。「Y郎にサンタの手紙ありがとう。 大事にしまってたから、私が知るのは時間差がありました。学校の日記に、一番の宝物……と長々と興奮気味に書いてました。」*昨日もその話に花が咲く。どうやら、Y郎くんはあの葉書を友達に見せに学校まで持って行ったのだそうだ。今は机の奥底に、大切に仕舞ってくれているという。ピュアな小学5年生の男の子。私としては、サンタクロースをずっと信じてもらいたい気持ちは大きいが、この先のことを考えると少し心配もある。だから、葉書の最後に「君だけのサンタより」と、ちょっとだけヒントを与えておいた。だが きっと、彼はまだ純粋にサンタクロースを信じ続けているだろう。Google map<2012.09.11 Ljubljana - Postojna>
2012.10.15
帰りのミュンヘン発ドバイ行きの飛行機の中で、ふと思い立った。この飛行機、大丈夫なのだろうか?飛行機の機体に異常があるというわけではなく、飛行ルートが気になったのである。それは、すでに時差ボケの前兆だったと思われる。(笑)しかし、確かに行きはシリア上空を飛んだ。まさか この飛行機、シリア軍によって撃ち落とされたりはしないよね?!(爆)* * * 現在、緊迫を続けるシリア対トルコ。そして、その緊張を一層高めたのが、10月3日のシリア側によるトルコへの越境砲撃であろう。そのニュースを、私はドイツのアウグスブルクという街において、ほぼリアルタイムで知っていた。ちょうどその時、トルコの現地ニュースを流す とあるトルコ料理店で、私は食事をとっていたからだ。ムラトさんと彼の友人アランとの3人で。トルコ側が直接流すその映像は、他の国を経由するよりも激しいものだ。ムラトさんに限らず、レストラン内の大勢のトルコ人がテレビに釘づけであったことは言うまでもない。と ここで、「え?ムラトさん?」と思われた方もいらっしゃるであろう。実は、、、ちょっとお恥ずかしい話、最後の最後で仲直りをして帰って来たのだ。(笑)本当は、10月1日まで私は怒っていた。彼に対し、訳もなく腹が立っていた。ところがだ。これもヨーロッパの甘~い空気のせいであろう。長期で一人旅するには、ヨーロッパはあまりにも刺激的で淋し過ぎた。そんな私の心の隙間に忍び込むように、ホーエンザルツブルク城塞は優しいまなざしで語りかけて来る。「日本へ帰ってからだと、もう取り返しがつかないよ」と。正直、ひとつだけ気になっていたことがあった。それは、私にモスタルで捨てられた彼が殆ど無一文(無一セント?笑)であったこと。9月半ばまでトルコに帰省していた彼は、私とザルツブルクで落ち合うため、残りの手持ちを全て叩いて駈けつけて来てくれたのだった。ビザカードも手元にはなく、僅かな小銭もザルツブルクで姿を消し、だからザルツブルクからサラエボまでの高速代などは全て私が負担した。ちなみに、高速・ガソリン代とボスニア入国の際に掛かった費用の合計は150ユーロ弱、ホテル代80ユーロ弱。全てといっても3万円にも満たないのだが。あの後、彼はどうしたのだろう。無事にドイツのアウグスブルクまで帰れたのだろうか?モスタルからアウグスブルクまで、優に1200kmはあるだろう。ボスニア・ヘルツェゴビナでは個人の車での入国の際、パスポートを取り上げられ、ムラトさんは別室へと呼ばれた。出国時も難しいことになってやしないか?それらが頭を巡る。私は、本気で彼のことが心配になってきた。そんな私を、オペラ『魔笛』の登場人物パパゲーノの像は呑気な顔で見下ろしていた。像の前にあるベンチに腰を降ろし、私は彼にメールを送った。「今、どこにいるの? 連絡ください。」その後も何度か電話するも全て留守電になっており、結局、私はアウグスブルクの彼のアパートまで訪ねることに決めたのである。喧嘩の内容がどうのこうのではなく、あの捨て方はなかったよなと。謝ろう。10月3日。その日は、22年前に東西ドイツが統一を果たした日で、ドイツ国内は祝日であった。私はアウグスブルクに到着して早々、市庁舎前から電話をした。「picchuko? 今、アウグスブルクのどこに居るんだ?」はじめは怪訝そうな声で答えた彼だが、私がアウグスブルクに居ることを知ると声を和らげて聞いてきた。私は彼も怒っていて当然だと思い、本当のところ、少し怖かった。なので、思いがけない優しい声に、一瞬、ひるむ。そして、知った。彼はその前日に、スプリットから戻って来たばかりであったことを。無一文の彼は、親友オザールに連絡をし、オザールから送られてくるお金をスプリットで待っていた。モスタルからクロアチアへ出て、スプリットでガソリンがなくなったのだそうだ。10日間以上、そこで足止めしていたという。彼から逃れようとスプリットへ向かった私は、結局、彼と同じ町に居たことになる。ごめん。 私は何度も謝った。が、彼を気の毒に思う反面、ちょっぴり可笑しくなっていた。あ、そうそう、話は大きく逸れてしまったが、ミュンヘンからドバイへの飛行ルートは、トルコから直接イラクへと入り、シリア上空を飛ぶことはなかった。Google map<2012.10.03 Salzburg - Augsburg>
2012.10.13
かなりアバウトだが、旅のルートを直線で表してみた。(距離数も直線距離)大阪⇒ドバイ⇒中欧8ヶ国⇒ドバイ⇒大阪 : 29,601km中欧8ヶ国周遊 : 5,293km実際は陸路なので、この2倍ほどになると思う。picchuko版・中欧8ヶ国周遊マップ<URL> : https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=201849347358222749504.0004cbb704e3f4d9e1def&msa=0* Googleマップの作成は初めてで、かなりの労力(?)と時間を費やしたのに、こんな失敗作。(苦笑)写真は、セルビア第2の都市、ノヴィ・サド駅正面。★ FC2ブログ『I love Salzburg(2012.10.11日記) 』においても同記事をアップしており、そちらの方が地図は見やすいです。
2012.10.11
ザルツブルクを発つ直前、私は大学時代の友人Y野くんにこんなメールを送った。10月5日が、彼の誕生日だったからだ。「Y野くん、お元気ですか? お誕生日、おめでとう。私は8月末で退職し、一ヶ月間ヨーロッパを旅してました。 今日、ドイツのミュンヘンから帰国します。今回、ドイツ、オーストリア、スロベニア、クロアチア、セルビア、ボスニアヘルツェゴビナ、スロバキア、ハンガリーと8ヶ国も周遊しました。 色んな民族がいて面白かったよ。 肌も髪も瞳の色もみんなバラバラで、でもそれが普通なんだよね。その中で、私はやっぱり日本人だなぁと実感しました。(笑) そして、どれほど日本に守られているかということを。 Y野くん、私達、日本人で良かったね。(笑)というわけで、39年前に日本で生まれたY野くんに乾杯です!(笑) 」これが今の私の気持ちを最も表してるなと思いコピーしたわけだが、 この旅で、僅か一ヶ月とはいえ多民族の中に身を置いてみて、 民族や人種、宗教を超えて人間の繋がりを感じる反面、 このように自分の基本の部分、「日本人」を痛いほど、そして、嬉しくて泣けてくるほど実感していた。(笑) *Y野くんといえば、彼からの言葉で一番嬉しかったものがある。あれは、大学を卒業して2、3年後の夏のことだ。 「picchuちゃんなら、何処でも生きていけるよ。 受け入れてもらえるよ。」いつもは口が悪くて人を褒めることを知らないような彼が、たま~に呟くように言う こんな台詞がたまらなく嬉しかったのを覚えている。(笑) そろそろ列車がミュンヘンに到着という時、彼から返事が届いた。「picchuちゃん、一人で知らん国によう行けるよね~。感心するよね~。」 彼も年を取った。 昔のような毒舌ぶりは、そのメールからは全く姿を消していた。(笑) アラブ首長国連邦時間 2:20 ドバイ国際空港にて これから搭乗、後12時間後に関空着だ。真夜中なのに、アナウンスは「Good morning ~!」なのね。(笑)さてさて、帰国前にドバイからクイズです。(笑)写真のアラビア語の意味は何でしょうか? マークが少し写ってしまってるので簡単かも。(苦笑)
2012.10.06
もう陽も傾いて、白いお月様は線路がカーブする度に行ったり来たり。この列車は、後20分もすればザルツブルクに着くだろう。 無事、ここまで帰って来た。 帰国まで まだ一週間ほどあるけれど、現地レポはこれを最後にしようと思う。 その時々に見たもの感じたものを、そのまま整理せずに記してきた。 お恥ずかしいこと、この上ない。(笑) いかに私が浅はかか、中身のない旅をしてきたか、全て暴露してるも同じだった。 しかも、リアルタイムで。(爆)この旅行記は、まだ続く。 だが、それは私が日本へ帰ってからのことである。 オーストリア時間 19:20 ウィーンからザルツブルクへ向かう列車にて写真は、ザルツブルクのとある店先にて、モーツァルト君たち。(笑)* ここまでお付き合いして下った皆様、誠にありがとうございました。 拙い日記を読んで頂き、感謝しております。
2012.09.28
ウィーンに出て来て以来、ずっと紅茶ばかり飲んでいた。 でも、最後の一杯くらいお洒落なカフェで珈琲飲まなきゃ。 お洒落なカフェ?ウィーン中、何処もかしこもだ。そこで、ありきたりなのだが、かつて皇室御用達だったデーメルか、 昔の優雅な宮殿を用いたツェントラルが頭に浮かんだ。 だけど結局選んだのが此処、ザッハー。(笑) 歩き過ぎて、くたばった先に見えたのがザッハーだったのだ。ザッハーの向かいにはスタバもあるのだが、やはりウィーンならザッハーであろう(?)。ザッハーさん、ウィーンでもザルツブルクでも、何故かいつもお世話になります。と、一応挨拶。(笑)あ、ザッハ・トルテは3週間前にザルツブルクで食べたので、今日はやめた。どうしても私には甘過ぎるから。 オーストリア時間 14:50 カフェ・ザッハー ウィーンにて
2012.09.28
お天気に恵まれている。 この3週間、ザグレブ以外は全く雨にあっていない。 どんよりと泣きそうなくらい重~い曇り空はベオグラードだけだった。夜、窓の向こうに雨音を聞いた日もあるが、大抵 日中は晴れていて、汗ばむ陽気が続いている。ただ、雲の出具合で気温が一気に下がる。それだけが読めない。暑いのか寒いのか、毎朝 服選びに悩むところで、その殆どが裏をかかれる。(苦笑)で案の定、本格的に風邪をひいた。しかし、身体の火照りもウィーンの魔法で気にならない。唯一、止めどなく垂れてくる鼻水だけが私を苦しめた。せっかくのウィーン、せっかくのブダペスト。 一方では、鼻歌まじりに落ち葉を踏み締め、ウィンナーワルツにスキップし、 もう一方では、チャールダーシュにきゅんとなる。 そんな夢見心地のはずの晴れ女。だが その鼻は、、、、、真っ赤にずるずる、じゅ~るじゅる(苦笑)。 ウィーンもブダペストも似合わない、、よな。(涙) オーストリア時間 11:40 ウィーン・シェーンブルン宮殿のカフェにて
2012.09.28
今、シェーンブルン宮殿のバルコニーを独占している。ゆっくりと、まるで自分の宮殿のように回ろうと思ってやって来た。 (笑)あちこちから聞こえて来る甲高い中国語には興ざめするが、それさえ除けば、気分は少女時代のマリー・アントワネットといった感じか。(爆) 赤にピンクに紫に、様々な花が咲き誇る庭園を見下ろしながら、 マリー・アントワネットという女性は、ブルボン家の王妃という立場より、ハプスブルク家の皇女としての誇りが最後まで彼女を支えていた、そんなことを思っている。 中国人の集団が去ったと思えば、次は続々と日本人団がやって来た。 「はい、チーズ!」・・・もう、去ろう。オーストリア時間 9:10 ウィーン・シェーンブルン宮殿のバルコニーにて 写真は、庭園内で見つけた可愛い門。 あまりにも気に入ったので、「これはもう、私のもの!」と唾を付けて来たところ。(爆)
2012.09.28
バタバタと駆け足で回った2日間を終えようとしている。 明日、ザルツブルクへ帰る。 「帰るたって、ウィーンの観光してないじゃん!」 という声が聞こえてきそうだが、ブダペストも全く観光してないことを、こっそり小声で告白しよう。(笑) これまで、旅といえば、それはいつも点だった。 その一点を短い時間の中、どれだけ多くのものを見、回れるか。 まるで勝負のようだった。(苦笑)だが今回、船にしろ鉄道にしろ車にしろ、点と点を結ぶ線が引けた。それって、実は大きなことだと自分で思う。気が付けば、3週間で8ヶ国も巡っていた。この旅を終えたら、次はその線をより太く、たまには色付けしていきたい、そう思っている。 ハンガリー時間 19:00 後10分でブダペスト発。 写真は、ブダペストの鎖橋から見たドナウ河対岸の国会議事堂。 今日は同じ写真ばかり撮っている。
2012.09.27
ブダの丘から見下ろす景色は、夕暮れ時から夜に掛けてが一段と美しさを増す。 しっとりとした優しい風景をお届けしよう。
2012.09.27
ブダペストの漁夫の砦にあるカフェで、ドナウ河と国会議事堂を見下ろしている。 3年前に来た時は、冬場の為に閉まっていたカフェだ。先程、せめて鎖橋と国会議事堂ぐらいは眺めたいと書いてすぐ、目の前に国会議事堂が現れた。 そうか、ウィーンから大河を下れば、国会議事堂、鎖橋、エルジェーベト橋を越えたところがブダペストの船着き場だ。 相変わらず、美しい。いきなりのお出迎えに心弾む。 心弾ませながら、自然とチャールダーシュを口ずさんでいた。ハンガリーといえば、チャールダーシュだ。そう思ったら、カフェで演奏会が始まった。一曲目は、やはりチャールダーシュ。(笑) ありがたい。そして彼らは、一人一人にリクエスト曲を尋ねて回る。 私は「Gloomy Sunday (暗い日曜日)」をお願いした。 この曲もブダペストでこそ聴きたかったもの。 眼下にはドナウがとうとうと流れる。 最高の気分だ。 帰りは最終列車に乗ることにしよう。(笑) ハンガリー時間 16:40 ブダペスト・漁夫の砦にて
2012.09.27
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