のんびり生きる。

のんびり生きる。

読みうるかぎりのじぶんの経験


著者名:長田弘 
出版社: みすず書房



「幸せであることを誰も恥じる必要はない。」
                   (本の本と本の話 極上の時間)

本を読むこと、本を書くことが好きなのではありません。もちろん本は好きですが、好きなのはよい本を書く人。大事に思うのは本をよく読む人。もちろん重んじるのは言葉。しかし何より重んじるのは、言葉を誰より重んじる人。
                   (本の本と本の話 世界一馬鹿げた職業)

ナチスに言葉を禁じられた著作家が次々に国を去ったあとの、第二次世界大戦の時代、ローヴォルトは問われて、友人に答えています。
「この戦争はわれわれの敗けだと思う。だからこそ、私は敗者のもとにとどまりたい。敗者のもとにあってこそ、人びとは私に信頼感を抱くだろう。戦争の後でまた出版の仕事をはじめようとするならば、この信頼感こそ必要なものだ。」
本を世にだす仕事は、時流の最先端をいくように見えて、その実は時勢にそむく仕事です。             (本の本と本の話 世界一馬鹿げた職業)

 「私たちの記憶や心は、いつまでも忠実でありえるほど偉大ではない。私たちの現在の思考は、生者と並んで死者をとどめておけるほど広い場所をもってはいないのだ。私たちは、先行するものの上に次のものを築かなければならないが、そうした先行するものは、何かを発掘しながらたまたま見つける以外に方法はない」(プルースト「失われた時をもとめて」)より  (本の本と本の話 時代は変わっても)

詩は創造ではありません。言葉は創造できないからです。詩の言葉は、ですから本質的な意味で、言葉を翻訳する言葉です。   

これが世界の終わりのすがただ
これが世界の終わりのすがただ
これが世界の終わりのすがただ
ドンともいわないで、すすりなきのひと声で
                (エリオット{うつろな人間})
                    (ソクラテス以前の言葉)

コールリッジのいわゆる「読者の四類型」とはー
(1) 海綿。読んだものをぜんぶ吸い取り、それをほぼおなじ状態でもとに戻す、ただ少しばかり汚れただけで。
(2) 砂時計。何ものこさない、そして、一冊の本を時間つぶしのために読みとおすことで満足する。
(3) 味噌漉し。読んだもののカスだけのこす。
モガル・ダイヤモンド。稀にして貴重。読んだものにより益を得、かつそれによって他をも益する。
(省略)本を四つにわけることにしているといったのは哲学者の鶴見俊輔で、その四つとはー
・ わかる、そしておもしろくない本。
・ わかる、そしておもしろい本。
・ わからない、しかしおもしろい本。
・ わからない、そしておもしろくない本。
そして、わからない、しかしおもしろい本というのはなるべく傍において読むことにしている、としています。     (いつ、どこで、誰が、どのように)
二十世紀という時代の経験から、戦争の経験を引くことはできません。平和もまた戦争の贈りものだったのが、二十世紀という時代です。それまでの「古きよき時代」の世界地図をすっかり描きかえた第一次世界大戦以後の時代は、たとえそう思いたくなくても、今日にいたるまで、すべてが戦争の贈りものによってつられてきた時代です。             (言葉の贈りもの 戦争の贈りもの)

空想する力が観察する力を引っぱりだす。と同時に、観察する力によって空想する力の絞りが深くなる。    (物語は伝説と日常をつなぐ)

本というのはおもしろいもので、どんな本も読み手とおなじ背丈けしかもたない。読み手がこれだけであれば、本もまたこれだけなのです。ひとが本を読みうるのはつまるところ、その本を通して読みうるかぎりのじぶんの経験だからです。
                          (なぜ本なのか)

繰りかえしは退屈だ。だから「何かおもしろいことはないか」ということです。今日があったように明日もつづくだろうというような、そういう繰りかえしの意識が一つの前提としてあって、平穏無事のイメージと退屈のイメージとが裏腹になって、日常が繰りかえしのための繰りかえしのように生きられる。繰りかえしがなにかしら無力な感じを通して感じられているので、繰りかえしがうっとうしい。で、「何かいいことないか」という一回性への期待が、気散じ、気晴らしとして、本との付きあい方というようなところにも、気付かないかたちではたらいている。  (子どもの本の秘密)

平凡なというのは、アリーおばさんにならって言えば、誰も素晴らしいと思っていない素晴らしいもの、という意味です。   (アパラチア・ストーリー)

アリーおばさんがとても大事につかっているのは、三つの言葉です。ハード・ワーク、たいへんな仕事。グッド・ライフ、いい生活。そして、リヴィング・バイ・マイセルフ、じぶん自身で生きること。アリーおばさんのように生きた人のことを考えるとき、いつも思いだす詩があります。作家のジョン・アップダイクの文章で読んだカーレ・W・ベイカーという人の詩です。
      古い樹木はひとの心を癒す。
      古い街の通りには魅惑がある。
      どうしてそれらのように、私が、
      うつくしく老いてはいけないのか?
                           (アパラチア・ストーリー)

ある日突然に何もかもがのぞましいと思える時代がはじまるなんてことはありません。どこかに幸福というものがあってそれをうまく手にいれさえすれば、すべてが変わるなんてこともありません。もしいい時代とよぶに値する時代があるのであれば、それはいつかどこかにあるものでも、あったものでもなくて、それは今、ここにしかない時代のはずです。               (もう一つのアメリカ)

大事なことは、じぶんがふだんつかっている言葉を落ち着いてつかうことだと思う。
                          (もう一つのアメリカ)

正義というのはつねに割に合わない側にいる人間のあいだにあるのではないか。割りが合わない人間の側というのは、社会において弱い人の側、権力をもたない人間の側ということです。オーウェルが重んじた正義というのは、どんなときにも弱い人間にとっての正義であり、その他の正義を必要としませんでした。
                         (オーウェルという人は)

奴は雑草の中に埋められている、
神よ、奴の間違った行いを許したまえ。
ヘイホー、ランベロー、
ランポプローラム、
幾世紀にもわたり、
永遠に。                     (ロビン・スケルトンの詩)
今日では人の死をこんなに陽気な態度で書ける人は文字通り誰もいないと、オーウェルは言いました。個体が不滅であるという信仰が廃れてから、人の死はもう滑稽なものには見えなくなった、と。  
                         (オーウェルという人は)

「愚か者がじぶんを賢い者と思い込まないように。」
オーウェルが後世のわたしたちに遺したのは、まさに愚かな人間が自分を賢い者と思い込まないための言葉です。

いまもひとの胸を叩く言葉として手元に置きたいのは、漱石が親しい友人に宛てた別の手紙に遺した、これ以上はないと思う、簡潔な挨拶の言葉です。
――――読書如何。
                        (あとがき)

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