のんびり生きる。

のんびり生きる。

ぬきさしならない決定的なイメージ


著者名:長田弘    
出版社:人文書院


かれらが成長するのは、矛盾によってだ。
身を起こして出かけるのが、いちばんいいことのようだった。
身を起こせというのは、元気のつく力づよいこたえだった。
立っているということの本当の意味は、飛べないということだ。

(エンプソンの詩)

・・・・・・日常性の文学。路上の経験ということ。もっとだれでもが持ちうる経験、だれでもが持ちうる経験だけれども、そこに詩人でなければ感じえない意味を発掘する。そこのところに文学が成り立つ。・・・・・・ただ花がきれいだというだけでは、これは詩にはなりません。日常の素材が、高慢な慷概の志がふくらまねばならない。あるいは高慢な志があればこそ、いっそう日常を見つめるわけです。ただ慷慨の志がマンネリズムになると、詩に退屈さを生む。それはありますが、全人生といいますか、あるいは人間だけではなしに、世界全体の秘密は、もっとわれわれの身辺にあるのじゃないか。毎日の経験するものの中にも、それを掘り下げていったらあるのじゃないか。・・・・・・思索を経たのちの詩でなければ詩でない。思索がすぐ詩の内容になるというのではない。思索しつづけている姿勢が、詩を作る。もはやそういう時期になっているのではないかな。好むと好まざるとにかかわらず、そうなってきているのじゃないか。・・・・・

詩ぐらい、せめて、好きな詩を好きな人に手わたすように読みたい。そう思うのです。できるならば、話しながら、歩きながら、なにげなく、親しく、さりげなく。

カフカが『田舎の婚礼準備』のなかに遺している小文です。
・・・・きみはぼくから去ってゆくのか。うん。その決心もいいとしよう。だが、どこへゆくつもりなのか。どこへゆけば、ぼくから去れるのか。月の世界か。そこだって、だめだ。それに、そんな遠くまできみに歩けるものか。・・・・・・
では、どうしてそんなことをかんがえるのか、とカフカは誌しています。・・・・・それよりも、この片隅に静かに座っていたほうがよくないか。すこしはましだろうが。そこの片隅は、温くて暗いだろう。きみは聞いていないのか。手さぐりで、扉を押してみろ。ほら、どこに扉がある。ぼくの記憶にまちがいなければ、この部屋に扉はないのだ。さて、まだ何物も失われてはいない。そのような思想が失われるはずはない。ぼくたちで、それをじっくり検討しようじゃないか。どっと笑い声が起きれば、それをきみの報酬としよう。・・・・
 いま、ここにはどんな「遠く」もないんだということ。扉のないいま、ここ、それゆえ何物も失われていないいま、こここそ、「ぼくたち」という関係がなりたつ唯一の場所なんだということ。



何故 ぼくの孤独でなきゃいけないんだい
何故 ぼくの歌でなきゃいけないんだい
何故 ぼくの夢でなきゃいけないんだい
実現延期で
むやみと長く?

たとえば、この「教えて」という短い詩は、わたしを、わたしたちの社会における〈私有〉とは何かという問題への直面にまで衝いてゆかずにはいない。強いられた〈私有〉による権力化された魂のアパルトヘイトの苦悩がここに律動的に滲みでる。


一人の詩人にとってぬきさしならない決定的なイメージというのがあります。中桐さんの場合、この二本の箸はそうでした。二本の箸はいかにも平凡ですが、食物をはさむのが二本の箸ならば、死者の骨をはさむのも二本の箸です。二本の箸は、何でもないただのものであると同時に、日常におかれた生と死の暗喩です。

中桐さんについていえば、中桐さんが戦後に書きつらねた詩のほとんどは、反問にみちていました。・・・・・・なぜ君は、君を殺した僕に微笑みかけるのか・・・・・すべての紙は巨大な手で引き裂かれている、その紙と紙の間には涙の壁があるのだろうか?・・・・・おう、何が見える、何が君を支えている? 爪楊枝のような足を恥しいとは思わないか?・・・・紐でつなぎあわされた骨と肉の断片―――人生のやさしい場面は終わってしまったか・・・・おれはすなおに失敗者の列にはいる人生の臨時雇か・・・・・


「かえりみはせじ」という日本語の一行と No Time To Look Back という英語の一行が、おなじ戦場の風景のなかでどれほどちがった意味をもったか、言葉のもつ二重の意味へのきびしい留意をうながされています。鮎川さんがどんなときにも拒否されたのは、言葉で言葉を裏切ることでした。



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