のんびり生きる。

のんびり生きる。

どれだけ少ない言葉でやってゆけるかで


著者:長田弘

:一羽の鴉の死はようやく大人になりかけていたわたしから、無垢な感情をうばった。「ゆたかさ」の過剰も「善意」の過剰もまた、生きものを殺しうる。そのことに気づいた少年の目の苦痛をいまも自分に負っているような気がする。……それはほんとうは飛びたかった鳥だった。必要な飢えによって飛ぶ鳥。しかし不必要なゆたかさによっては、どこへも飛べなかった鳥だった。
               「鳥」より

:ひとは大人になって、高さを忘れる。平行になじんで、垂直を忘れる。
               「ジャングル・ジム」より

:あれから、あの少女は幸福といえるものを 九本の指で つかんだろうか。指一本ぶんの隙間からどうしても、幸福がこぼれおちてしまうということはなかったか。 それとも、いまも指一本足りない拳を、握りしめたままでいるのだろうか。
               「少女と指」より

:橋はどこも吹きっさらしで、吹きぬけで、何もさえぎらず、とどめない。むきだしでいて、あらわなかたちをあらわなままに、何一つ隠すことをしない。内と外との閉ざされた区別を、橋は知らない。みせかけとほんとうの区別も知らない。橋が知っているのは、向こう側だけだ。ここから向こう側へゆく。向こう側へゆこうとするその橋の上で、思いがけずじぶんのこころに出くわす。
               「橋をわたる」より

:一人の日々を深くするものがあるなら、それは、どれだけ少ない言葉でやってゆけるかで、どれだけ多くの言葉ではない。
               「海を見に」より

:あとにのこるのは、在る時の、或る状景の、或る一場面だけだ。こころにそこだけあざやかにのこっている或る一場面があって、その一場面をとおしてそのときの日々の記憶が確かなものとしてのこっている。そこだけこころに明るくのこっているものだけが手がかりというしかたでしか、過ぎさったものはのこらない。日々に流されるもののかなたではなく、日々にとどまるもののうえに、自分の時間としての人生というものの秘密はさりげなく顕われると思う。

木下杢太郎の、とどまる色としての青についての詩を思い出す。
ただ自分の本当の楽しみの為めに本を読め、生きろ、恨むな、悲しむな。
空の上に空を建てるな。思ひ煩ふな。かの昔の青い陶の器の地の底に埋れながら青い色で居る――楽しめ、その陶の器の青い「無名」、青い「沈黙」。(「それが一体何になる」)
人生とよばれるものにはわたしには過ぎていった時間が無数の欠落のうえにうつしている、或る状景の集積だ。親しいのは、そうした状景のなかにいる人たちの記憶だ。自分の時間としての人生というのは、人生という川の川面に影像としてのこる他の人びとによって、明るくされているのだと思う。
書くとは言葉の器をつくるということだ。その言葉の器にわたしがとどまたいとねがうのは、他の人々が自分の時間のうえにのこしてくれた、青い「無名」、青い「沈黙」だ。
              「自分の時間へ」より

:「ここはまっすぐゆける道がない街です」
 ヤノーホがいうと、カフカは静かに微笑していった。
 「わたしたちにとってそもそもどこかに、まっすぐな道などというものがあるで しょうか。近道とは夢にすぎない。それは迷いの道にすぎぬことがおおいのです」
              「プラハの小さなカラス」より

:「そう考えない自由が私にあるのだ」
 「いったいいつ、きみは単純であることを楽しむようになるだろうか」
 「ここで生きているとすれば、もうよく慣れていることだ。またよそへいくとす れば、それはきみののぞむままだ。また死ぬとすれば、きみの使命を終えたわけ だ。そのほかには何もない。だから、勇気を出せ」
         by マルクス・アウレーリウス
          「みずからはげます人」より

:記憶は過去のものではない。それは、すでに過ぎ去ったもののことではなく、む しろ過ぎ去らなかったもののことだ。とどまるのが記憶であり、じぶんのうちに 確かにとどまって、自分の現在の土壌となってきたものは、記憶だ。
          あとがき より

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: