【ゆるしの40日--DAY 3--】

「ゆるし」は必ず皆に必要か?
●「ゆるし」は必ず必要なものなの?
今回のDAY3と、次回のDAY4では二回続けて、「ゆるし」は必ず皆に必要か?のテーマで考えて見ましょう。
ある人が、こんな風に言っていました。「わたしは、あの人、この人を ゆるす必要がない!
」
なんだか、「 私の辞書に、『ゆるし』という文字はない!
」と、ナポレオン風に
言っているように聞こえましたが・・・。そう言いたくなる気持ちも分かります。
でも、もし「ゆるし」が必要ないのであれば、ある意味、 「天国も必要ない」「永遠の命も必要ない」
と、言っているのと同じよーうに聞こえてしまうんデス・・・。どうしてだと思いますか?
●あなたに立ち阻む問題
聖書はこう言っています。
人は皆、罪を犯して
神の栄光を受けられなくなっています...(ローマ3:23)
このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入 り込んだように、死はすべての人に及んだのです。 すべての人が罪を犯した
からです。
(ローマ5:12)
つまり、 すべての人は例外なく、神様の前では罪人
であり、裁きを受けなければならないと、聖書は教えています。
なぜなら、わたしたちは皆、キリストの 裁きの座の前に立ち
、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに 行ったことに応じて、報いを受けねばならない
からです。(Iコリント5:10)
そして、 行き着く先は、死
である、とも聖書はハッキリと語っているのです。
罪が支払う報酬は死です。
(ローマ6:23)
それは、 誰一人として、避けて通ることのできない、あなたの目の前に必ず立ち阻む問題
なのです。
●あやふやな「罪」意識
全員が罪人だ、と言うと多くの方々が、怒りをもってこのように反発します。
「オレは何も悪いことしてないよー」
「犯罪などに手を染めたことないよー」
「罪人っていうのは、宝石強盗とか、人殺しとかのことでしょ。わたしは違うね」
「子供のころ、拾った100円でお菓子買ったり、ちょっとのウソはあるけど、それは罪には入らないでショー。大げさだよ(笑)」
これは、世間一般に信じられている、罪に対するあやふやな定義から生まれたものです。では、イエス・キリストは、罪をどのように定義づけて教えたのでしょうか。
●主イエスが教えた「罪」の意味
主イエスは、 「わたしはあなたがたに新しい掟を与える」
(ヨハネ13:34)と、 罪に関する正しい解釈を教えました
。それは、神様はいかに罪に対して厳しいお方か、そして、表面的な部分ではなく、何よりもその人の「心」を見つめておられるお方であるか、を示しているのです。
例えば、実際に浮気はしていなくても、心の中でいやらしいことを考えればすでに神様の前で姦淫の罪を犯したことになります。殺人はしていないにしても、「あんなやつなんか、いなくなればいいのに」と心で思えば、神様の前で殺人の罪に定められるのです。
姦通の現行犯で捕まった女性が、主イエスのもとへ連れてこられました。律法どおりに「石打に刑に処すべきかどうか」を問われた主イエスは、このように答えられました。 「 あなたたちの中で罪を犯したことのない者
が、まず、この女に石を投げなさい。」(ヨハネ8:1-9)
すると、年長者から始まって、一人、また一人とその場から立ち去り、主イエスとその女性以外、皆帰ってしまったのです。
自分の心の中を直視したとき、自分がいかに罪深いものだということを、誰よりもよく知っているのが自分自身だということなのでしょう。あなたはいかがでしょうか。
その他にも主イエスが、わたしたち人間の心に巣食う罪について、このような例を挙げています。 「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」(マルコ7:20-23)
「えー!?そんなこと言ったら、みんな罪人になっちゃうじゃないのー!」
と思われた方、 その通りなんです
。一点の汚れもない、聖なる聖なる全能の神様の目から見れば、すべての人は例外なく罪を犯す性質を持っているのです。
●的(まと)はずれ? 的違(まとちが)い?
罪(ハマルティア)を直訳すると「的はずれ」という意味
になります。まさに弓道やアーチェリーのように的の真ん中を目がけて矢を放ち、その的から外れて別方向に飛んで行った状態です。
では、いったい何から的が外れてしまっているかといえば、 「神様の御心」から外れた状態
を指すのです。別な言い方をすれば、 「神様の目的」「神様の計画」から外れた状態
とも言えます。
人はとかく 「これこそ、私の生きる道!これこそ正しい道だ!わたしはこの道を、ただ行くだけー♪」
と、自分の欲求と満足を満たすために、的が定まらない、あっちに行ったりこっちに行ったりとフラフラとするような生き方をします。
それはまるで、矢を射るたびに、違う方向に飛んでいくようなもので、時には、 その矢が通りがかりの人に当てて傷つけてしまったり
、 跳ね返った矢が、こっちに飛んできて、自分が傷つく
場合もあるのです。
的はずれであるならば、的の方向に向かっているからまだましな方で、多くの場合は 全然関係ない正反対方向の「的違い」な生き方
をしているようです。つまり、見当違いな生き方です。
ここでは、罪について、ちょっと面白おかしく説明しましたが、しかし、 笑えないのが、罪はすべての人に死をもたらす、という恐ろしい現実
です。
しかし、先ほどの姦通の現場で捕らえられた女性に主イエスが語りかけられた言葉に、私たちは皆、 大きな希望の光
を見出します。
イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
(ヨハネ8:10-11)
ですから、誰もが皆、ゆるしを必要としているのです。
DAY4へ続く
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