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父の痴呆の事



診断の結果、『アルツハイマー型痴呆』といわれ、今すぐリハビリをはじめなければ、進行していくと言われた。その時、先生から「皆、リハビリが馬鹿らしいといって、止めてしまいますが、必ずひどくなって再診にきます。とにかく、進行を遅らせるためにリハビリに来させてください」と言われ、週一回、2時間のリハビリに通うことにした。

が、案の定、父は「あんな、ばかばかしいことは出来ない」と言い出し、リハビリを勧めると不機嫌になりだした。ついに母も説得を諦めるようになり、リハビリは数回で中断された。

私は先生の言葉通りになっていくのが不安で母を説得したが、実際に八つ当たりされるのは母なので、イマイチ強気に言えなかった。その後、緩やかに、しかし、確実に症状は進行しながらも専門医にかかることなく過ぎていった。

平成14年の初秋、体調を崩し、入院。そのころは、かなり痴呆が進み、2つ、3つの話題で何時間も話す状態になっていた。病気事態はたいしたことはなかったが、入院という環境の変化で痴呆症状が激しくなり、病院という認識も出来ず、点滴を勝手にはずしたり、数々の奇行で病院に迷惑をかけた。母も私もへとへとになった。

退院後、少し落ち着いたけれど、時に感情を爆発させることが多くなり、母に暴力をふるうことが多くなって、私も精神的に追い詰められていくような気がして、対応に苦しむ日々になった。

近所に住んではいるが別居なので、夜は、2人っきりになる。悪いことばかり想像して怖かった。不機嫌なときは、実家の窓の下で耳を澄まして中の様子を伺う夜もあった。痴呆とはいえ、男の父に対して、いざという時、どうすればいいのか・・・、不安で仕方なかった。

母が状況をかかりつけの内科医に何度も相談したが、数分の診察なので痴呆の深刻さを理解してくれず冬を越し、平成15年2月、やっと痴呆検査をしてもらいすぐ介護申請、デイサービスの手続きとなった。

が、本人はもう自分がおかしいという自覚がなくなっているので、デイサービスはうまくいかず、ただ不機嫌にさせるだけでますます家族の苦悩は深くなっていった。
結局、母と相談して平成12年に診断してもらった最初の病院へもう一度行くことにした。

医者は父の進行の早さは、私たち家族の対応のまずさに原因がある・・と言った。
が、とにかくデイサービスに行かせることを目標に、先生の指示にしたがってやっていこうと、母を励ました。

しかし、デイは嫌がるばかりで暴力や不機嫌が激しくなり、感情をコントロールできない状態が多くなり、母も腕に青あざを作り、私もますます追い詰められるようで、切羽詰った気持ちだった。

父はもともと神経質だったが、ますますぴりぴりして、電気製品をつけるのを極端に怖がるようになり、エアコンも付けず暑い夏を過ごした。おかげで、脱水状態になり、昼夜を問わず内科へ点滴に通ったり、暴力や不機嫌に苦しめられ、まさに、毎日が修羅場だった。

母も、限界だったのか精神科に入院させたいと言いだし、私もどうしていいのかわからなくなっていた。主治医は、暴れても何でもデイへ行かせろ!と、そればかり言うので、ますます追い詰められた心境になった。

結局、24時間父と過ごす母の気持ちを尊重しようと、精神科に行くがたいした効果も得られず、あとで主治医に叱られて、叱られてますます凹んだ。

そんなこんなの嵐の夏を過ごし9月、あまりに暴力と不機嫌がひどい・・と主治医に強く訴え、初めてお薬を処方してもらった。それまでも、安定剤は内科で貰っていたが、違う安定剤と軽い睡眠導入剤を処方してもらった。

お薬を服用して2日目くらいから、効果が現われ始めて、だんだん精神的にも穏やかさを取り戻し、嘘のようにおとなしくなった。それに伴いデイサービスも少しずつ行けるようになってきた。

現在、介護3の認定で、一応週6回デイにいけるように、なっている。行く前は、嫌がるけれど、何とか行けるようになってきたし、感情を爆発させることもなくなり、母も自由な時間が持てるようになってきた。今、あの嵐のような日々は何だったのかと思っている。

その間、私は子供たちの高校受験、大学受験とそれぞれの節目を迎えたにもかかわらず、精神的にも肉体的にも余裕がなく母親稼業も手抜きとなり、ろくに相談にも乗ってやれなかった。
おまけに、体の節目の年齢ということも手伝って、かなり苦しい数年だった。これから、私たち家族がどうなっていくのかわからないけれど、父の痴呆の進行によって右往左往の日々は続くことになるだろう・・・


この後の出来事が、このHPへと続いてきます。

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