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小野猿丸大夫(おののさるまるたいふ)
小倉百人一首の中に、『おくやまに もみぢふみわけ なくしかの こゑきくときぞ あきはかなしき』という歌がある。この歌は、三十六歌仙の一人で『古今和歌集』の『真名序(漢文の序)』の中にその名のある猿丸の作と伝えられているが、彼の実作と信じられるものは一首もないという。これもまた、彼の非実在説を補強するものとも思われるが、この真名序には、六歌仙の一人である大友黒主について、「大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次(つぎて)なり」と述べられていることから、少なくとも『古今和歌集』が撰ばれた頃には、それ以前の時代の人物として知られていたものと思われている。それにしてもその名とともに、不思議な有名人である。
ところでこの猿丸という名であるが、どうやら命名の理由はその容貌にあったらしく、まるで猿のような顔で大変見苦しいものであったからだという。しかし猿丸という名が公的史料にまったく登場しないことから、これは本名ではないとする考え方もあるようである。いずれにせよ猿丸は、伝説上の人物という説が濃厚なのである。それにはこの人物、おとぎ話とでも言えるような話にも出てくるからであろう。
『二荒山神伝』によると、下野国(栃木県)二荒山の男体権現と女体権現が合祀された日光権現と、上野国(群馬県)の赤城大明神が互いに接する神域に接する中禅寺湖をどちらのものにするかについて度々争った。しかしなかなか決着がつかなかったので、日光権現は鹿嶋大明神を呼んで、この事について相談した。すると鹿嶋大明神は、「あなたの孫に陸奥国小野郷に住んでいる猿丸という弓の名人がいるから、彼を頼みにしてはどうか」と言った。そこで女体権現が姿を鹿に変え、陸奥の熱借山(阿津賀志山)へ行って猿丸を見つけたが、猿丸は鹿の姿の女体権現を見てよい獲物がいたと、そのあとを追っていった。女体権現は猿丸を日光山まで誘い入れると姿を消し、代わって日光権現が現れ、猿丸に次のように言った。「自分は満願権現(日光権現の別号)である。上野国の赤城大明神が、わが国の下野の湖や山を奪おうとしているので、汝は弓においては天下無双の聞えあれば、我らに力を貸してはくれないか」と。猿丸はこれを了承した。
いよいよ決戦の日、日光権現は大蛇の姿となり、その従える神兵は雲霞のごとく飛び出す中で、猿丸は櫓を立て、その上から敵が来るのを待ち構えていた。すると湖に、大きな百足に姿を変えた赤城大明神が現れる。猿丸はその百足めがけて矢を射ると、矢は百足の左目に命中した。百足はそのまま退散し、戦いは日光権現が勝利した。
日光権現は猿丸の働きを喜び、「汝の働きでこの国を守ることが出来た。汝はそもそもわが孫に当たるから、今からこの国を汝に譲る。わが子太郎大明神(馬頭御前)とともにこの山の麓の人々を助け守るがよい。そして汝をこの山の神主としよう」と言ったので、猿丸は喜びのあまりに舞い踊り歌を唄った。それで湖の南の岸をうたの浜(歌ヶ浜)と言うのである。
これにより猿と鹿は日光での居住権を得、猿丸は宇都宮明神となったという。また民間伝承によると、猿丸を二荒山神社の神職・小野氏の祖であるとする説などもあるという。この鹿島明神の使い番の鹿がモデルとなって、冒頭の歌が作られたのかも知れない。また『日光山縁起』にも、同様の伝承が記されているという。
さて、ここに出てくる陸奥国小野郷とは、どこなのであろうか。猿丸が本拠としたのは、現在の伊達郡の熱借山(阿津賀志山か?)であったとされるが、この以外にも、田村郡小野町や南会津郡下郷町の小野岳、さらには秋田県雄勝町大字小野などが挙げられている。しかしここに伊達郡の阿津賀志山という名が出てくることから、その地理的関係から考えてみても田村郡小野町が距離としても一番近く、小野町が妥当と思えるのだがどうであろうか。いずれにせよ、猿丸が伝説上の人物であるかも知れないとしても、これほどの英雄である猿丸についての言い伝えなどの類が、現在の小野町には一切残されていないようである。なお哲学者の梅原猛氏は、著書『水底の歌-柿本人麻呂論』で、柿本人麻呂と猿丸大夫は同一人物であるとの仮説を示しているが、これにも有力な根拠は無いという。
これらの例のように猿丸に関する伝説は各地にあるが、そのうちの一つが小野町かも知れないというのが、興味を引く。なお、猿丸大夫の大夫とは、五位以上の官位を得ている者の称である。
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