Rainbow Seeker 

2.カルチェラタンを歩く その1

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2.カルチェラタンを歩く その1


 10月1日のパリの朝は曇っていた。珍しく私が一番に目覚めた。カーテ

ンを開け白い空を見上げ、窓を少し開けパテオ(パリでは建物が四方囲んで

その真中は採光のためもあり空洞になっている)の向かいを見ると、やはり

私と同じように一人の女性が窓から空を見上げていた。一瞬目が合う。下の

方からカフェやテーを飲みながらプティ・デジュネを取っているらしく、フ

ランス語に交じってカチャカチャと食器の当る音がなんとも心地よく聞こえ

て来る。どうやら私達もそこで朝食を取ることになるらしい。今パリにいる

んだなあと改めて思う。そう思うと昨日の疲れは消え去り、めきめきと内か

ら力が湧いてきた。そして私が初めてパリを訪れた日のことが自然と思い出

されてきた。


 当時、N市でジャズ喫茶を営んでいた私は(と言っても父親の所有する店

だが)一年前から、つまり立命館大学英米文学科を卒業した25歳の春から

ヨーロッパ行きの準備に取りかかっていた。まず韓国へ10日間旅した。私

にとっては実に重い暗い旅であった。当時、法律上、日本に生まれながら永

住権を持つ在日韓国人二世として外国人登録証を常に携帯しながら日本国に

居留していた私(1985年日本国籍取得)が祖国?を訪問する前に他の

国々に行くことは非常に困難だった。それはパスポートを発行する末端機関

である居留民団が快く思わなかったからである。自分の国も行かずに他国を

訪れるとは何たることか、愛国心のかけらもないのかということであろう。

確かにそれにも一理はある。かねがね私自身も自分の目で父の生まれ育った

国、また日本で生まれたが韓国から来た祖父母によってハングサラム(韓国

人)としての誇りを持って育てられた母の国を見たいとは思っていた。


 1977年3月下旬、ホテルの予約もなしに、大阪空港から背広姿で軽い

気持ちで、昼過ぎのJALの便で心配そうに見送る親父を残してソウルへと

旅立ったのである。この度の話をすると、私の心情に深く係わってきて随分

長くなるので別の機会に回そう。

 韓国から帰って来た私はより具体的なヨーロッパ行きの段取りに入った。

4月のある日、梅田の紀伊国屋で「トーマス・クックの時刻表」「六ヶ国語

のポケット版」「若い人のためのヨーロッパ旅行」各国のユース・ホステル

のアドレスが載っている本、西欧諸国のガイドブック等、旅行に必要な本を

買い揃えた。東欧は韓国と当時国交が結ばれていず、訪れることは不可能で

あった。ビザの要・不要、滞在期間も含め常に気を付けねばならないのは韓

国とヨーロッパの国々の関係であって、私にとっても最も情報の入り易い日

本をそれらの国々との関係ではない。心情は別にして、当時私はTHE R

EPUBLIC OF KOREA のパスポートを所持していたのだから

当然と言えば当然のことである。


 だが、私が国際化の意味を知り始めたのはこの時からである。並大抵のこ

とではない。国という立場が変われば大きく軌道が変わる。世界に約180

か国ものそれぞれの関係が無数と言ってもいい位あるわけだ。今の様にソ連

が分裂してCIS(独立国家共同体)という複雑な形をとっていない東西の

冷戦下だったから、まだ図式は比較的単純な方だった。たとえビザが不要で

も自分が訪れる予定の国を大阪の韓国領事館でパスポート内に記入してもら

う必要があった。スイス、オーストリア、スペイン、ポルトガル、イタリ

ア、ギリシア(当時これらの国はビザが必要)以外の北欧四国、西ドイツ、

ベルギー、オランダ、フランス、イギリス、がそれにあたる。 それらを記

入してもらって、さらにスイスのビザを世邦旅行社の許可の印をもらって、

いよいよ出発。


 それまでに私よりも数年前にパリに行ったことのある妹から資料を貰った

り話を聞いたりし、また妹の知り合いの関係で我が家に一泊しに来たフラン

ス娘を連れて妹と3人で散策市内案内し、フランスにはパリ以外に訪れるべ

き素晴らしい名所があり、特に自分の出身地に近いモン・サンミッシェルは

必ず訪ねるべきだと英語で強調しながら話すのを一語一句漏らさず真剣に聞

いた。フランス語もいろいろ教わった気もするが、砂糖はスィクルという以

外は覚えていない。また、ある夜来店したパリ在住のフランス人の男と知り

合い、結構話が合い、彼の住所と電話番号を教えてもらった。近々行くので

着いたら電話入れると言うと、彼は快くOKと言った。後に実際パリに到着

して間もなく、私は彼とコンタクトを取り、出会ったのである。


 出発は4月28日昼頃羽田発。大韓航空なので、一旦ソウルへ集合し、夜

9時頃DC10でアンカレッジ経由パリ、オルリー空港に着くいわゆる北回

りである。前日、両国に住んでいた弟のアパートに泊まるつもりで、六本木

で4時頃まで、以前私の店でバイトしたことのあるM嬢と3人で彼女のイギ

リス旅行体験談も含め、これからの僕の旅について、ビールを飲みながらい

ろいろ話した。


 翌日目が覚めた時はもう昼前で、慌てて羽田へ弟と一緒にタクシーで向か

った。かろうじて間に合った。M嬢はもう来ていた。大韓航空のカウンター

で集合した行きだけの仮の団体は十数名いた。私のチケットは一年間のオー

プンチケットだった。もうすっかり搭乗するつもりでいたら、突然出発は名

古屋国際空港に変更と知らされ、しかも時間が押し迫っているので急ぎこち

らが用意したタクシーに乗ってくださいとのこと。3人タクシーに乗って、

東京駅に再び舞い戻った。赤いリュックを担ぎながら階段を上がると「ひか

り」が待っていて間髪を入れず乗り込むと座席に着くやいなや発車した。2

人に手を振る。すまないなあ、ありがたいなあと思いながら。


 すぐに弁当が配られた。名古屋に着くとすでに待っていた数台のタクシー

に乗り込み郊外にあるらしい国際空港へと向かった。名古屋空港が国際空港

とは知らなかった。噂によれば、我々の乗るはずだったKALの飛行機のエ

ンジンか何かにトラブルが発生したらしい。少し前にKALはトラブルを起

こし新聞沙汰になっていたので神経質になっていた。出国カードも適当に記

入して、向こうに待機している飛行機に向かって走った。どうやら一番最後

の組のメンバーになったようだ。もう必死である。タラップを上って中に入

るとすぐ上で待っていたスチュワーデスが扉を閉めた。座席に着いて安全ベ

ルトを締めるやいなや機体は動き始めた。こりゃ大変な旅になるぞと思った


 オルリー空港には、朝9時半頃着いた。みんなの動きに合わせて行けば例

の荷物を忘れた騒動も起こらなかったのだが、ソウルからずっと隣同士の座

席ということで随分いろんな話をして親しくなったダンサーだという女性が

オルリーはトタンジット(通過)で最終目的地はロンドン、ヒースロー空港

だがどちらの方向へ進めばよいのか分からないと言うので、経験のない私が

ええ格好して彼女のために熱心に係員に尋ねたりしていたのである。彼女が

去ってしまうと私は一人ぽつねんと立っている自分を見つけた。そのために

後の行動に狂いが生じ始めたのである。


 バスでアンバリッドのターミナル到着後、私は日本語で何度もシュミレー

ションしたパリの地図を片手に持ちながら取りあえずメトロを探した。後で

わかったのだが、すぐ近くにLATOUR・MAUBOURGというメトロ

があった。その時はそれをあっさり見落としてしまい、かなり歩いてアンバ

リッド駅でRERに乗り、サンミッシェルに着いた。前もってのシュミレー

ションってなものはその程度である。実地訓練に優るものはない。しかしし

ないよりはずいぶんマシである。結果的には上手な行き方であったのだが。


 うまく当初からの狙い通りサンミッシェル広場に上がった私は噴水を見な

がらさてどっちへ行こうかと迷った。こういう所であまり地図を持ってうろ

うろするのは極めて危険なので、サンミッシェルをリュクサンブール公園の

方へ向かって歩き始めた。適当にその辺の路地に入りつつオテルの看板を探

した。あるにはあるのだが、行く所行く所で足元から頭のてっぺんまでじろ

じろ見られ、「コンプリ(満室)」と言って断られるのである。お昼の時間

だったがそれどころではなく、どんどん歩いて少しメインストリートを外し

てやろうと考えた。黄色人種の男が一人ふらっと訪れることは相手に警戒心

を呼び起こすのである。ほんとうにコンプリかどうかはわかったものではな

い。


 どこをどう歩いたか分からないが、2,3軒HOTELの看板のある区域に

辿り着いた。最初に入った所はインド人専用らしく断られた。2軒目は入り

口を覗いた感じが良くないので止め、いよいよ最後の3軒目の一つ星の付い

ている「プログレ」というオテルに入った。開いている大きな扉の横を通っ

て中に入り、「ボンジュール」と声をかけたが誰もいない。奥の方からラジ

オにのってエディット・ピアフ風の古いシャンソンが流れてくる。ガツガツ

していなくて何となく佇まいがのんびりしていてとってもいい感じ。「この

感じや。僕の描いていたパリは」直感的にそう思った。うまく行く予感が走

った。再度呼ぶと、ゆっくりと30代位の結構格好の良い男の人が現れ、

「アヴェブーユーヌシャンブルプールラニュイ?」(宿泊するための部屋あ

りますか?)と訊くと「ウィ」と言った。


 9軒目か10軒目にして初めて僕のオテルが決まったのである。何日いる

のか訪ねたので、「トロワジュール」(3日)あたりまでは何とかフランス

語で応対したが、後は英語で話してよいかと訊くとOKと言ってくれたので

ほっとした。彼の英語は例の如くフランス語のイントネーションがかなり強

くついていた。先払いし、メモのような形だけのレシートをもらった。3階

か4階の一人部屋だ。鍵をもらってエレベーターもあったのだが、階段で上

がることにした。エスカルゴの様な階段は1階(つまり2階)あたりから随

分暗くなってきた。フランス人ってこんな暗い階段をどうやって上るのかな

あと不思議に思いつつ、もはや這いながら上っていると上り切った所に小さ

なオレンジ色のランプが灯っているのに気付いた。少し躊躇したがそれを押

してみた。すると階段の裸電球色の明かりがパッと灯ったのである。しばら

くすると消えるが、その時には次のランプが手元付近にあるって寸法になっ

ている。なるほどと感心した。


 ベッドが一つと洗面用水道と小さなクローゼットのある四畳半位の三角形

の部屋に入ると靴を脱いでベッドに転がった。そしてよくもここまで来れた

ものだと思いながら、ボーッと縁のデザインが凝った白い天井をながめた。

そのまま少し横になって体を起こし小さな窓を覗いた。そこは外に向いてい

るのではなく、狭い中庭に向いていた。でも光を採るには十分であった。安

堵感からか急に空腹を感じた私は帰りの飛行機のチケットやトラベラーズチ

ェック腹に巻いておき、約3万円の入った使い慣れない札入れ用の財布をさ

ほど深くないジャンパーのポケットに入れて街へ出かけたのである。

サンミッシェル広場付近の本屋に立ち寄って「そうだ!パリだからジターヌ

(スペインのジプシーという意味のフランスのたばこの名)を吸わねば」と

思い、広いブールミッシュを渡ろうとした時、白人の子供が意味不明の文字

が書かれた大きな紙を突然私の前に突きつけた。一瞬のことだった。少しす

ると彼は去って行った。


 何だか変だなあと思ったがさほど気にならなかった。たばこ代を払おうと

してはじめて気が付いたのである。米ドルで100ドルと幾らかのフランと

円、合わせて3万円位が入った財布がすられたことを。動揺した私はひょっ

としたら先ほどの本屋さんで落としたかもしれないと思い、行ってみたが無

駄であった。なんて自分は馬鹿なんだろうかとがっかりしてクリュニー美術

館の横付近を歩いていると段々怒りが込み上げてきた。「何かフランスだ、

パリだ。同じ人間じゃないか、馬鹿だな、お前は。しっかりせえよ」という

風に。すると今まで遠い存在に見えていたカフェに座っている人々も、近い

存在に思えてきた。じっと顔を、そして目を見るようになったのである。何

も恐るるに足らずと。宙に浮いていた足取りもしっかりし、足の裏で石畳を

しっかり踏みしめながら再び歩き始めた。私はそれ以来、財布を持ったこと

がない。 (つづく)
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