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巣伏の戦い
延暦八年の征夷がおこると、朝廷軍は延暦8年3月9日(789年4月8日)に多賀城から進軍を始め、延暦8年3月28日(789年4月22日)に「陸道」を進軍する2、3万人ほどの軍勢が衣川に軍営を置いた。
征東将軍・紀古佐美は4月6日(5月5日)付の奏状で衣川に軍営を置いたことを長岡京へと報告するが、その後30日余りが経過しても戦況報告がないことを怪しんだ桓武天皇は延暦8年5月12日(789年6月9日)に衣川営に長期間逗留している理由と、蝦夷側の消息を報告せよと勅を発した。
衣川営での逗留を責める桓武天皇からの勅が陸奥へと届けられたと思われる延暦8年5月19日(789年6月16日)頃、古佐美は進軍するよう命じた。5月下旬から末頃、中・後軍より各2000人ずつ選抜された計4000人の軍兵が、衣川営を出発後、北上川本流を渡河して東岸に沿って北進、阿弖流爲の居宅やや手前の地点で蝦夷軍300人程と交戦した。
蝦夷軍は北へと退却したため、朝廷軍はこれを追いつつ途上の村々を焼き払いながら北上し、前軍との合流地点であったらしい巣伏村を目指した。しかし前方から800人ほどの蝦夷軍が現れて朝廷軍を押し戻すと、東の山上に潜んでいた400人ほどの蝦夷軍が朝廷軍の後ろへとまわって退路を絶ち、川と山に挟まれた狭い場所に追い込まれた朝廷軍は蝦夷軍に翻弄されて総崩れとなった。
朝廷軍の損害は戦闘による死者25人、矢疵を負った負傷者245人、溺死者1036人、裸で泳ぎ生還した者1257人と、胆沢の蝦夷軍は朝廷に対して驚異的な惨敗を与えた。
『続日本紀』には「賊帥夷阿弖流爲が居(おるところ)に至る比(ころあい)」とのみあり、胆沢の蝦夷軍は阿弖流爲の居宅やや手前で朝廷軍と交戦しているが、阿弖流爲が蝦夷軍を指揮していのかまでは不明。高橋崇は蝦夷側の抵抗戦線の中心人物であったといってよいだろうとしている。
降伏
延暦20年10月28日(801年12月7日)、延暦二十年の征夷から平安京へと凱旋して桓武天皇に節刀を返上した征夷大将軍・坂上田村麻呂が、延暦21年1月9日(802年2月14日)には陸奥国胆沢城を造営するために再び胆沢の地へと派遣されてきた。
同年1月11日(同年2月16日)には駿河・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野等の10国は、国中の浪人4000人を陸奥国胆沢城の柵戸とするようにとの勅が下っている。胆沢城造営についての史料は僅少で、造営開始の時期や完成した時期などは不明である。
延暦21年4月15日(802年5月19日)に陸奥国にいる田村麻呂から、大墓公阿弖利爲と盤具公母禮が種類500余人を率いて降伏した報告が平安京に届けられた。大墓公阿弖利爲らの根拠地である胆沢はすでに征服されており、北方の蝦夷の首長にはすでに服属していた者もいたため、大墓公阿弖利爲らは進退きわまっていたものと思われる。
田村麻呂に付き添われて盤具公とともに平安京へと向かった大墓公は、延暦21年7月10日(802年8月11日)に平安京付近へと着いた。これを受けて同年7月25日(同年8月26日)に百官が桓武天皇に上表を奉って、蝦夷平定の成功を祝賀している。
『日本紀略』には「田村麿来」とだけあり、大墓公と盤具公が「入京」したとまでは記されていない。また「夷大墓公二人並びに従ふ」とあることから、この時点では大墓公と盤具公は捕虜の扱いではなかったと考えられている。
延暦21年8月13日(802年9月13日)、大墓公阿弖利爲と盤具公母禮の2虜は奥地の賊首であることを理由として斬られた。公卿会議で田村麻呂が「この度は願いに任せて返入せしめ、其の賊類を招かん」と大墓公阿弖利爲と盤具公母禮を故郷に返して彼らに現地を治めさせるのが得策であると主張したが、公卿たちは執論して「野生獣心にして、反復定まりなし。たまたま朝威に縁りてこの梟帥を獲たり。もし申請に依り、奥地に放還すれば、いわゆる虎を養いて患いを残すなり」と田村麻呂の意見が受け容れられることはなかった。
そのため大墓公阿弖利爲と盤具公母禮は奥地の賊首として捉えられ、河内国 □ 山(現在の枚方市、交野市、寝屋川市、守口市、門真市、四條畷市、大東市、東大阪市、八尾市、柏原市、松原市、藤井寺市、羽曳野市、富田林市、河内長野市、大阪狭山市、太子町、河南町、千早赤阪村、大阪市の一部 [ 注 2] 、堺市の一部のどこか)で斬られた。
死後
阿弖利爲の死後、胆沢や周辺地域で阿弖利爲と母禮が殺されたことに報復する弔い合戦などの反乱が発生した形跡は一切ない [17] 。
弘仁5年12月1日(815年1月14日)、嵯峨天皇は「既に皇化に馴れて、深く以て恥となす。宜しく早く告知して、夷俘と号すること莫かるべし。今より以後、官位に随ひて称せ。若し官位無ければ、即ち姓名を称せ」と蝦夷に対して夷俘と蔑称することを禁止する勅を発し、ここに征夷の時代が終焉した。
年表
アイヌ説の否定
古代の蝦夷(えみし)について、近年でも「蝦夷=アイヌ説」に立脚した論著が散見されるものの、現在では学会の共有財産となる標準的な見解が成立している。
蝦夷の中には渡嶋(北海道)の蝦夷などきわめて僻遠の地の集団も含まれているが、本州内にいた蝦夷については、概ね現代日本人の祖先のうちの一群であったことが明らかである。また奈良時代から平安時代初期には、奥羽両国の蝦夷が関東から九州までのほぼ全国に移住させられたことがあり、彼らはその後各地に血統を伝えたこともうかがい知れる。
及川洵は、アテルイを研究し、遺跡を調査研究している者の疑問として、アテルイがアイヌ人の祖先であるとされていることについて、古代蝦夷がアイヌ民族であるかどうか「思いつきやムードではなく、純粋に学問的に考えて頂きたい」と論じている
河内国と終焉の地
アテルイ終焉の地について『日本紀略』延暦21年8月13日条は「即捉両虜斬於河内國 □ 山」とだけ記録している。そのためアテルイが斬られた地は河内国内(現在の枚方市、交野市、寝屋川市、守口市、門真市、四條畷市、大東市、東大阪市、八尾市、柏原市、松原市、藤井寺市、羽曳野市、富田林市、河内長野市、大阪狭山市、太子町、河南町、千早赤阪村、大阪市の一部 [ 注 6] 、堺市の一部)のどこかであるということ以外は不詳である。
一方で「 □ 山」については、テキストとして広く利用されてきた新訂増補国史大系『日本紀略』では「 杜 山」、旧輯国史大系『日本紀略』および増補六国史『日本後紀』(逸文)では「 植 山」、鴨祐之『日本逸史』では「 椙 山」とあり、異同があることがかねてから知られていた。
「河内國」の後に続く地名は、神英雄が写本を調査した結果、主に以下のように分けられた。
「(木へんに欠)+山」
蓬左文庫本(江戸時代初期)、国立公文書館林家本(江戸時代中期?)
「(欠)+山」
宮内庁書陵部松岡本・日本紀類(江戸時代中期)
「椙山」
宮内庁書陵部編年紀略(江戸時代末期)・日本逸史(宝永7年(1710年))、神宮文庫天明四年奉納本(江戸時代中期)・三冊本(江戸時代末?)、無窮会神習文庫大覚寺本(江戸時代後期?)、国立公文書館内務省地理局本(江戸時代後期 ? )、東洋文庫東洋文庫本(文政7年)
「榲山」
無窮会神習文庫会田家蔵書本(江戸時代後期 ? )
「植山」
宮内庁書陵部久邇宮文庫本(江戸時代末期)、無窮会神習文庫菊屋幸三郎校本(江戸時代後期?)
「木山」
神宮文庫明治写
神英雄は、『日本紀略』の写本を調査した結果、新訂増補国史大系が「杜山」としているのは、宮内庁書陵部所蔵久邇宮文庫本の「植」のくずし字を読み誤ったもので、「杜山」と記す写本が存在しないことを明らかにした。調査した30本程度ある『日本紀略』の写本のうち、判読不能なものもあるが24本を閲覧調査して、おおむね「植山」と「椙山」に分けるとこができた。
また神は、「植山」を「椙山」へと訂正した写本が複数あること、「植山」と記された4例の写本はすべて興福寺門跡一条院の伝本に関連した同一系統であることに対して、「椙山」と記された10例の写本は原本を一つの系統に求めることが困難であるため、『日本紀略』の原本に掲載されていた本来の文字は「椙山」であると結論した。
今泉隆雄は、神の述べる通り「杜山」は誤りだが、植山説と椙山説のどちらが正しいかはわからないとしている。
宇山説・杉山説ともに有力な批判もあり、現在、アテルイが斬られた地は河内国のどこかであること以外は不詳である。
椙山説と比定地
河内国椙山説は、枚方市東部の「杉」(旧交野郡杉村)を比定地とみなす説がある。
植山説と比定地
河内国植山説は、枚方市北部の「宇山町」(旧交野郡宇山村)が江戸時代初期に「上山村」から改称したため比定地とみなす説がある。
宇山 …… 延暦二十一年坂上田村麿蝦夷二酋を河内植山に斬ると云ふは此なるべし …… 乃斬於河内植山。〇宇山の東一里菅原村大字藤坂に鬼墓あり夷酋の墳歟。 …… 津田 …… 於爾墓オニツカ〇河内志云、王仁墓、在河内國交野郡藤坂村東北墓谷、今稱於爾墓。按ずるに此は百濟博士王仁にや、又蝦夷酋を植山に斬りたれば、是其墓にあらずや。 —
吉田東伍は、処刑地は旧宇山村で埋葬場所は旧菅原村藤坂と記載しているが、藤坂の該当地は今は並河誠所が企画し、並河を中心として編纂された『五畿内志』を根拠に「伝王仁博士墓」とされている。また発掘調査の結果、宇山の丘は古墳だったことが判明している。
舊名の上山は植山ならんとの説あり、植山は大日本史坂上田村麻呂の傳に「延暦二十一年 …… 乃斬於河内植山」と見ゆる植山是れなり。 — 大阪府全志 (1922) 、 [28]
大字宇山 旧交野郡宇山村で牧ノ郷に属して古くは上山村と称したが、元和元年宇山村と称する様になった。延暦二十一年征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷の二酋長を率いて京師に帰り、次いで之を斬った河内植山とは当地の事と考えられる — 枚方市史 ( 1951 ) 、
…… 宇山=植山説が成立するためには、(a ) 河内国杜山や、 ( b ) 河内国椙山よりも、 ( c ) 河内国植山の方が正しいことを論証する必要がある — 枚方市史第二巻 ( 1972 ) 、
その後に出版された地名辞書類でも、河内国植山は宇山説は書かれ続けている。
うやま 宇山 < 枚方市 >…… 延喜年間坂上田村麻呂が蝦夷の首長2人を斬った土地とする伝説がある(地名辞書・全志4) — 角川書店、角川地名大辞典 27 大阪府 Ⅱ ( 1983 )
宇山村 …… 延暦二一年(八〇二)坂上田村麻呂が蝦夷の二首長を率いて帰京、二人は八月一三日に斬られたが、その場所を当地に比定する説がある(大日本地名辞書・大阪府全志) — 平凡社、日本歴史地名大系第二八巻 大阪府の地名 Ⅱ ( 1986 )
2006年の「伝 阿弖流為 母禮 之塚」の建立当時、枚方市で勤務していた馬部隆弘は『大日本地名辞書』(1900年)からはじまる「アテルイ宇山で斬られ藤阪で埋葬される」という記載は一般には広がらなかったと述べている。
『日本紀略』無窮会神習文庫本では「河内国植山」でアテルイを斬ったと表記される。現在河内国には「植山」なる地名は残されていない。ただし、近世の宇山村は元「上山村」と称し、元和元年(一六一五)に宇山村と改称している。 …… この説の初見は、明治三三年 ( 一九〇〇 ) に出版の始まる吉田東伍『大日本地名辞書』である。この書の「宇山」の項には「牧野村大字宇山は大字坂の北に接す。延暦二一年坂上田村麻呂、蝦夷二酋河内植山に斬ると云ふは此なるべし。」と記されている。『大阪府全志』や旧『枚方市史』にもこの記述は踏襲されるが、この説が一般に広まることはなかったようで、昭和末期に至るまで管見の限りガイドブックなどの一般書への掲載は確認できない。 — 馬部隆弘、
2020年、枚方市宇山で蝦夷が殺害されたという「伝承」を話す人達は確かに何人も存在したが、それらは『大日本地名辞書』の記載が発端となったものにすぎず、伝承とは先祖代々伝わってきたものがそう呼ばれるべきであるのだから伝承には該当しないと判断、この程度の事は説明する必要がないと考え記載しなかったと述べている。
アテルイが当地近くで殺害されたという言説は、明治33年 ( 1900 ) に刊行された吉田東伍氏の著書に始まり、昭和47年 ( 1972 ) に刊行された『枚方市史』などにも引用されている。これらは、『日本紀略』の解釈から提示された仮説・学説で、当然ながら伝承ではない。 一方で、枚方市には蝦夷が殺害されたという「伝承」があると熱心に主張する方々もたしかに何人もいた。しかし、蝦夷が殺害されたという「伝承」は、どう聞いても先祖代々伝わってきた類のものではなく、明らかに上記の学説が発端となったものばかりであった。このようなものは到底伝承として扱えなかった。また、この程度のことを説明する必要もないというのが当時の筆者の判断である。 — 馬部隆弘
河内国と禁野
杉村・宇山村がある枚方市周辺は桓武天皇がたびたび遊猟をおこなった交野の地で、桓武天皇の外戚で陸奥鎮守将軍等を務めた百済王氏の本拠地付近となる。
旧杉村・旧宇山村がある枚方市には明確にいつからかは不明であるがかつて天皇が所領する「禁野」があり、一般人の鷹狩は禁じられていた。
朝廷が自ら禁野を穢すとは考えられないため杉・宇山を比定地とすることに対して批判もある。
宮内庁書陵部「満基公記 合綴 河内国禁野交野供御所定文 道平公記抄出」にて記された禁野の大まかな地理的記述からその範囲を推定した馬部隆弘も旧宇山村説を否定しているが、室町時代の禁野の範囲とアテルイが処刑された平安時代初期・西暦802年の禁野の範囲や禁野の定義、穢れについての概念が合致していたかどうかは定かではなく、また旧宇山村他は京都府と大阪府の国境線上の山地に飛び地があり墓地等ももうけられていた。
アテルイが斬られた802年の後の大同3年(808年)河内国交野雄徳山(男山)での埋葬が禁じられているが、宇山村東山飛地は男山の裾野にあたる。
一定の鎮定がみられたとして行われた天応元年の論功行賞であるが、これは形式的な終結にすぎず、根本的な解決には至っていなかったのである。
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