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2024.04.27
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案内板があるので、そこから山に登る。城の遺構は樹木の中に土塁や空堀の痕跡が認められる程度である。この城は甲斐と 駿河に通じる街道を監視する役目を果たすために築城されたのであろう。
真篠城は、南に向かって流れる富士川西岸の河岸段丘上にある真篠集落北西背後の城山にある。標高は251m。城山は段丘東側 を南流する富士川に画され、川との比高差145mで、山裾の西側と南側を駿州往還(河内路)が通る要衝の地となっている。 城名は福士の城山・真篠砦とも呼称されるいっぽう、福士には真篠のほかに城山と呼ばれる場所が宮部にもあり、通説では
<遺構>
遺構は、東西約300m、南北約350mの範囲におよび、城山山頂の主郭を中心に、山腹や四方にのびる尾根上に見られる。主郭は 東西50m、南北約40mの不整は方形で周囲に土塁がめぐり、北。南東・南西に虎口をもつ。北と南西の虎口は平入りであるが、南東 の虎口は食違いで、南側に低い土塁をもつ10m四方の枡形が外側に付設された形態となっている。主郭から北側の尾根筋や山腹には 地形に応じた腰郭・帯郭を配し、先端部分や斜面の随所に竪堀を施している。主郭南西虎口直下から西に伸びる痩せ尾根の南斜面 
には連続して竪堀があり、先端部分には北と南に大きな竪堀がみられる。主郭東側の山腹には比高差の大きな平坦地が数段あり、段 造成された腰郭とみられるが、一部は耕作地の可能性も否定できない。主郭の南側には約35m四方の郭があり、その先には空堀の 入り込んだ腰郭がみられる。この主郭南側の郭の落差は8mと10mもあり、段差の大きな見事な切岸となっている。腰郭南側は尾根筋 の鞍部となり、幅20mにおよび大きな堀切状の凹地形となる。この堀切状の凹地を挟んだ対岸の尾根上には、頂の平坦面とその南側 の緩斜面にかけて東西方向も並ぶ南北の空堀9本が設けられる。この空堀の南側直下には旧駿州往還の道が通り、西側の集落の境には 道祖神場がある。さらに城山から離れた台地南西端の真篠集落仲間地区には、台地の縁辺に連続竪堀がみられ、これらが城郭関連の 遺構であれば、真篠城は集落を取り込んだ台地全体に及ぶ広大な城域をもつことになる。なお畝状空堀は、連続空堀あるいは連続 竪堀などと呼ばれ、防御上の弱点となりやすい緩斜面などを凸凹にして敵の侵入を阻もうとしたもので、県内の城郭では他にあまり 類例がなく、本城の大きな特徴で見応えのある遺構となっている。 

<歴史>
本城のある地域は山梨県の南にあたり、富士川が南北に貫流している。この富士川の流域は河内地方と呼ばれ、戦国期には穴山氏の領有するところで、穴山氏は各地に代官を置いて統治していたようで、福士の代官は佐野氏が勤めた。しかし、代官佐野氏と本城とのかかわりを示す同時代史料は見当たらず、その経営主体などについては不明である。永禄11年(1568)、武田信玄は駿河に侵攻する。それ以降駿州往還は、武田氏の進軍に度々利用され、河内地方の軍事的重要性は高まる。天正8年、武田勝頼は跡部勝忠 に、甲斐と駿河の境目である本栖と河内地方に油断なく警戒するように命じており、警固の一翼を担ったものと思われる。 
 <関連部将>原大隅守</関連部将>
  <出典>甲信越の名城を歩く 山梨編(山下孝司ほか)</出典>





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最終更新日  2024.04.27 06:07:03
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