酒と映画と歌と、酒と映画と歌と、酒と映画と歌と、酒と映画と歌と、

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紹介:市川右太衛門


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』引用

市川右太衛門(いちかわ うたえもん、明治40年(1907年)2月25日 - 平成11年(1999年)9月16日)は、香川県丸亀市出身の日本の俳優。北大路欣也の実父でもある。生涯の当たり役・「旗本退屈男」こと早乙女主水之介(さおとめ・もんどのすけ)に代表される、明るく豪快な演技で親しまれた、戦前・戦後を通じての時代劇映画スター。立ち姿の美しさ、舞踊の素養(藤間寛蔵の舞踊名を持つ)を生かした立ち回りの見事さで知られ、映画出演総数は320本にのぼる。


来歴・人物
本名は浅井善之助。鉄工所経営者の息子として生まれる。両親が芸事好きなこともあって、5歳で日本舞踊を習い始める。踊りの師匠のつてで6歳の時「菅原伝授手習鑑」に菅秀才の役で出演し、初舞台。小学校卒業後、歌舞伎俳優・2代目市川右團次に入門、歌舞伎の世界で役者修行を開始。市川右一の芸名をもらう。

精進ぶりと若いながら堂々とした風姿を買われ、「勧進帳」の武蔵坊弁慶など大役も任せられる逸材に成長したが、逸材なれども門閥出身ではないため出世には限界があった(歌舞伎界での青年時代の友人の一人が林長三郎(後の2代目林又一郎)門下・林長丸(後の長谷川一夫)。やがて歌舞伎界の若手俳優を自社に迎えようと考えていた映画監督・牧野省三が右一の評判を聞き、自ら右一の弁慶を観劇。省三は右一に白羽の矢を立て、右一は映画界への転身を決意してマキノプロに入社する。市川右太衛門の芸名は、転身を機に、当時の名優・5代目中村歌右衛門にあやかりたいと右一が自ら考えたもの。

18歳の1925年、右太衛門として「黒髪地獄」で銀幕デビュー。「快傑夜叉王」、「鳴門秘帖」3部作(以上26)などでたちまち美剣士スターの座にのぼる。しかし1927年、デビュー以来の作品のほとんど、13本にのぼるコンビを組んできた沼田紅緑監督の早逝(享年36)や、スターたちの独立プロ設立が連続したことなどもあって、マキノプロを退社し、市川右太衛門プロダクション(通称:右太プロ)を設立して独立。独立と同時に奈良あやめ池に撮影所を建設し、自由な気風の中伊藤大輔監督「一殺多生剣」、深海卓二監督「日光の円蔵」(以上29)など、反骨精神漂う作品も含む多数の主演作を送り出した。また右太プロ時代の主演作の1本が、佐々木味津三原作「旗本退屈男」(30)で、好評を得て以後三十数年に及ぶ人気シリーズとなる。

その後発声映画(トーキー)の時代が到来。右太衛門も32年「忠臣蔵」前後篇から発声映画出演。無声映画のスターたちが苦戦する中、「天一坊と伊賀亮」(33/山内伊賀亮を演じた)などで成功、舞台で鍛えた発声を活用して転換期を乗り切った。製作規模の拡大する本格的なトーキー時代に入って、独立プロでは製作困難となり、右太プロも1936年で閉鎖し、右太衛門は新興キネマに入社。看板俳優として「国性爺合戦」(40)、「大村益次郎」(41)など大作に主演した。さらに1942年、戦時体制下の新興キネマの合併・改組に伴って新会社・大日本映画製作株式会社(後の大映)に移ったが、新興・大映時代にも「旗本退屈男」(第8作からはトーキー)を演じている。

終戦を迎え、占領軍による時代劇規制の時代が訪れるが「お夏清十郎」(46)など、本数を落としながらも右太衛門はあくまで時代劇映画にこだわった。大映時代は終戦後の1949年までで、同年片岡千恵蔵らと共に東横映画に移り、規制のため時代劇製作が困難な中、時代劇風味の現代劇諸作にも出演(“髷をつけない時代劇”といわれた)。規制の対象外となった時代劇作品にも無論出演したが、その中心になったのはやはり「退屈男」だった。そして1951年、本格的な時代劇製作解禁の時代となり、東横が改組して設立された東映に、千恵蔵ともども取締役兼任のスターとして迎えられる。京都在住の右太衛門は邸宅のある地名をとって「北大路の御大」(当時の京都の家は後に売却)と呼ばれて尊敬された。

数々の時代劇スターを擁し、時代劇王国の名をほしいままにした東映にあって、千恵蔵と共に東映スター・システムの頂点に位置するスターとして活躍。東映の2本立て興行体制もあって、東映入社以来1963年までの12年間、右太衛門の公開作品は年平均9作のハイペースで主演時代劇を連発、「旗本退屈男」に至っては上記の12年間で19作を製作、東映のドル箱のひとつとなってシリーズの通算本数は30作に到達。また1956年には「赤穂浪士」で念願の役・大石内蔵助を演じてもいる。

退屈男をはじめとして、明朗闊達で、自由な雰囲気をもち、かつスケール豊かな大名や浪人を得意にした。退屈男の他に複数回演じた時代劇の“著名人”は、大岡忠相(5本)、荒木又右衛門(4本)、清水次郎長、国定忠治、河内山宗俊(以上3本)、前述の伊賀亮、脇坂淡路守(「忠臣蔵」)、後藤又兵衛、近藤勇、吉良の仁吉(以上2本)がある。豪放な役どころを気持ち良さそうに演じるその姿は、観客にとり魅力十分であった。

やがて時代劇映画が斜陽化し東映も任侠映画路線に路線変更を図る中、右太衛門の映画出演も1964年を最後に途絶え、1966年、彼は東映を退社。主に舞台に活動の場を移した。舞台でも「退屈男」にこだわり続け、東映退社の頃から1972年までは定期的に舞台公演を開催、1973年にはテレビドラマ版に主演した(25回シリーズ)。テレビでは他に、壮年期の徳川家康を演じた「徳川家康」(64)などがある。80代に達しても、次男・北大路欣也と共に舞台で「退屈男」をつとめたり、北大路主演のテレビドラマに特別出演したりして元気な姿を見せていたが、1999年9月16日に老衰のため死去し、92歳の大往生をとげた。まさに一代の「退屈男」役者であった。


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