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1878年、西南戦争の翌年、大久保利通が暗殺されました。この事件は紀尾井坂の変といわれています。以前は人通りの多い道を通り出勤していた大久保でしたが、かっての宿敵江藤新平の弟の姿を目撃して以来、人通りの少ない道を通っていたことで刺客達にも狙われやすくなったとも言われています。ところでこの事件で、ある人物が大久保と共に命を落としています。その人物の名前は、中村太郎といいます。孤児でいたところを大久保に召し抱えられたそうです。事件当日馬車を運転していて、島田一郎率いる刺客達に大久保ともども暗殺されてしまいます。刺客たちが現れた時、大久保を守ろうとして大久保が乗っている馬車に近づこうとして切られたとも云われています。事件当時まだ25,6歳ほどであったといわれています。現在大久保利通の墓の傍らに、彼の墓もおかれています。佐賀の乱での江藤に対する処遇や、西南戦争で地元鹿児島を攻め立てた張本人として、どこか冷酷なイメージがあるせいか、地元でも英雄西郷隆盛に比べ、あまり評価が高くない大久保ですが、プライベートでは孤児を養うなど、政治面で見せたイメージとは異なる、人情味ある一面も持ち合わせていたんですね。中村太郎もそのような大久保の一面に惹かれて仕えていたのかもしれませね。 【送料無料】 NHK大河ドラマ 西田敏行 「翔ぶが如く 完全版」 全巻(第壱集+第弐集) DVD...ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2010.03.27
明治7年に起こった佐賀の乱について、当時の英国駐日公使が母国に送った報告書が英国に存在します。http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1455771.article.htmlそれによると、この乱の原因や乱後の処置に対してやはり、過去の政府内での対立が大きく影響していると書かれています。征韓論に起因する明治6年の政変や、江藤新平に対する大久保利通の憎しみなどが挙げられると思います。英国駐日公使の客観的視点から見ても、この乱の背後には様々な因縁が潜んでいることは明らかだったんですね。ちなみに岩倉使節団の一員として通訳を務めた香月経五郎は英国のオックスフォード大学で学んでいます。帰国後は江藤の下野とともに帰国し、佐賀の乱では中心人物として処刑されてしまいます。有能な人物だっただけに惜しまれますね。 ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2010.03.21
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