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田沼意次失脚の後を受け政治の実権を握ったのが、徳川吉宗の孫であり白河藩の藩主まで務めた経験のある松平定信です。定信は、吉宗時代の享保の改革を目標とし、さまざまな改革に取り組みました。この松平定信による改革を寛政の改革といいます。倹約を掲げ、それは庶民や武士だけでなく大名や大奥そして皇室にまでその政策が及びました。さらに農村の復興にも力を入れ、町へ出稼ぎに行く農民を減らすために、村に戻ったり残る農民を優遇するなどの政策をとりました。そして、町人に借金するなどして生活に困窮を極めている武士たちを救うために、一定時期を過ぎた借金は帳消しにする棄捐令を発令しました。さらに田沼時代は盛んであった蘭学を禁止し、寛政異学の禁を発令し、朱子学を幕府の正規な学問とし奨励し、昌平坂学問所をつくり人材の育成にあたりました。これらの政策はまさに田沼意次の政策とは正反対の政策であり、徹底して田沼時代からの脱却を目指しました。また、文武両道を奨励するなどの政策をとりましたが、あまりにも厳格な自由の少ない政策であったので、さまざまな方面から批判を浴び、田沼時代を懐かしむ狂歌なども出され、定信の改革はうまくいかなくなり、ついには職を辞職しました。↓は当時の狂歌ですね。当時の人々の心境が実にうまく表現されていますね。世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶというて夜も寝られず白河の清きに魚のすみかねて もとのにごりの田沼こひしき商業を活性化したりして町人文化も発展させた田沼と違って、棄捐令を出したりして武士を助けた定信は、庶民から見ても、結局武士たちの生活はよくなっても自分たちの生活は何ら変わらないと不満が多かったんでしょうね。また、文武両道は非常に良いことですが、あまりに厳しく義務的に言われると、うんざりするのもよくわかりますね。松平定信蔵書目録 ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.01.16
10代将軍家治の時代は側用人である田沼意次が政治の実権を握り、老中にまで上り詰めました。彼の政治方針は、商業を中心に財政を豊かにしようとする殖産興業であり、株仲間を積極的に認めたり、幕府の専売品を定めその専売権を商人たちに与え、その代りに一定の冥加金を納めさせるという冥加金制度などを設け、幕府の財政を安定させようとしました。また、商人の力をかり、新田開発を進めたり、印旛沼・手賀沼の干拓を行いました。さらに外国に対する規制を緩めたので、蘭学が盛んになり、学問も盛んになり町人を中心とする文化が盛んになりました。また、ロシアとの交易も考えたり、蝦夷地などの北方を探索することも行い、非常に広い視野を持った政治家とも言えるのではないでしょうか。一方この商業を中心とする政策は、商人と政治家との癒着を呼び賄賂が横行したとも言われています。しかし真偽は不明ですが、この賄賂政治は後の松平定信を中心とする意次反対派により作られた虚構である可能性も指摘されています。しかしこの意次の政策は、都市部の商業を発展させましたが、逆に農村の人々は都市部に流れていき農村は荒廃し、天明の飢饉なども起こり、厳しい税の取り立てに反対した百姓一揆が頻発し、都市部でも打ちこわしが起こり、次第に意次は批判を浴び、ついには失脚します。通説では田沼意次=賄賂というように悪評が高く広まっていますが、実際は政治家としての能力は非常に優れており、彼に対する評価も見直されてきており、彼を非常に高く評価する研究者もいます。 ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.01.11
江戸時代幕府は、幕府に対抗できる力を弱めようと、参勤交代などにより諸藩の財源を削減してきました。そして江戸時代半ばの1753年に幕府は、薩摩藩の財源を減らす目的で、薩摩藩に対して木曽三川の治水工事を命じました。この川には洪水が発生しており、それを防ぐための工事という名目でした。この工事は1755年の5月に終わりますが、幕府の監視下で行われたこの工事で、薩摩藩は多額の財源を使い、また工事にあたった薩摩藩士たちも幕府の監視下に置かれ、食事も満足に与えられず、その他必要品なども自由に扱えず、また工事した箇所が幕府の役人により破壊されるなどの嫌がらせが多発しました。そして、抗議のために自害した藩士が51名、さらに過度の労働や栄養不足、赤痢により病死した藩士が33名にものぼりました。総奉行に任じられた薩摩藩家老平田靱負も工事が終わり帰国した後に自害しました。このような自害者を報告することは幕府に対しての反抗とみなされるので、あえて自害ということは伏せて報告されました。この事件を宝暦治水事件といいます。この事件のおよそ110年後、薩摩藩は幕府を倒し、関が原の合戦と宝暦治水事件における幕府に対する雪辱を果たすことになったのです。 宝暦治水・薩摩義士箱根用水と宝暦治水物語ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.01.08
江戸時代には身分制度があり、身分の高い順に士農工商という順序になっており、武士の身分が最も高く、武士の下に対等にその他の職業が位置するという位置づけでした。しかし身分上はそうでありながら、経済面では圧倒的に商人が優位に立っていました。様々な商売で成功し豪商になり多くの富を得た者もいて、大坂の淀屋や江戸の紀伊国屋などが挙げられます。一方大名や武士たちは生活に困窮することが多く、商人から金を借りることが多くなり、さらに物価の上昇も伴いますます生活に困窮することになっていきました。中には火砲などを質屋に持っていき金に換える者もあり、かさはりやぬりものなどの内職をするものも多く出ました。またそれ以外にも、植木屋や金魚屋や小鳥屋などをして生活の足しにする武士もいました。しかし武士という身分上、商人のような振る舞いをすることがプライド的に許せず、なかなかうまくいかないことも多かったらしいです。また、生活の困窮のために武士の身分を売る者さえいました。身分上は上であった武士たちも表面上では商人にはかなわなかったケースも多かったんですね~ 真説淀屋辰五郎(上巻)真説淀屋辰五郎(下巻)ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.01.05
時代劇の‘暴れん坊将軍’で有名なのが第8代将軍徳川吉宗です。実際の吉宗は、ドラマのように悪人を退治することはないわけですが、その人物像はドラマで描かれているように非常に勇ましい人物であったといわれています。武術に長けており、冬でも薄着をし狩などをしたそうです。政治面では、幕府の財政を立て直すために倹約令を発し、ぜいたくな品物を身につけたり食べたり売買してはいけないことにしました。他にも上米の制の実施し、参勤交代で江戸にいる期間を半年に縮めるかわりに1万石につき100石の割合で幕府に米を納めさせました。また足高の制を設け、以前は役職から退いた後もその役職の給与をもらっていたのを改め、役職から退いた後は元の給与に戻すことにしました。こうした制度を実施したおかげで幕府の財政は安定しました。司法面では公事方御定書という法律を発布し、また有名な大岡越前を江戸町奉行に登用し司法面での充実を計りました。また率直な民の意見を聞くという目的で目安箱を設置し、意見があるものは箱に投書することができました。その意見を採用した例として、町の病院である小石川養成所がつくられ、町火消し制度も作られました。これら吉宗の政治改革を享保の改革といいます。この改革は非常に効果がありましたが、幕府の財政を安定させるために、農民に対して税率を上げ、そのために百姓一揆が頻発したという事実もあります。吉宗の政治は、落ちてきた将軍の権威を高めるために、幕府設立当初のような将軍権威の復活を掲げたために農民や町人の不満は多かったんでしょうね。 徳川吉宗の謎徳川吉宗徳川吉宗101の謎 NHK大河ドラマ総集編DVDシリーズ 八代将軍 吉宗 / 西田敏行ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.01.03
現代では旅というと、車や電車や飛行機などで目的地にはすぐ行くことができますが、江戸時代の旅というと徒歩で行くことが大半でした。江戸には日本橋には出発点として五街道が走っていて、東海道・奥州街道・中山道・日光街道・甲州街道があり、いちばん有名なのがたぶん東海道五十三次で知られる東海道だと思います。東海道は江戸の日本橋から京都までつながっていて、その街道を行けば京都までたどり着くことができました。東海道五十三次の五十三次というのはその街道の途中にある53か所の宿場のことを言います。当時旅に出る時は、通行手形という今で言うとパスポートが必要で、街道の途中にある関所で調査を受けました。ちなみに関所破りをすると死罪になりました。当然旅は徒歩で行くので、夜になる前に宿に入る時は足が非常に汚れているので宿に上がる前に足を洗うのが原則でした。よく時代劇などで足を洗う様子が描かれていますね。また、夜の街道は非常に物騒で、物取りなどが横行していることもあり、夜になる前に宿に着くようにペースを考えながら歩かなくてはいけませんでした。旅も安全ではなかったんですね~。街道の途中で籠屋もいて、それを利用することもありましたが、悪徳な業者もいて法外な値を要求する場合もあったので、安全とはいえない面もあったとおもいます。また、当時は川には橋がかけられていないことが多く、わたし船で渡りました。有名なのは大井川で、この川はわたし船がなく、業者に肩車してもらうか、自分で歩いて渡るか、れん台に乗って渡るかの選択でした。今から考えるとなかなか面倒な面もありますが、徒歩で街道を歩き、各地の様々な風景や名産などを体験しながら時間をかけ旅をするというのも、結構魅力あることだと思いますね一度経験してみたいものですが、さすがに過去にタイムスリップするのは無理ですね(笑) 歌川広重(安藤広重) 陶板東海道五十三次 日本橋・朝之景ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2008.12.30
9代将軍徳川家重の側用人として幕府の実質上の実権を握った闇将軍大岡忠光は、自らの悪の実態を知った伊賀一族を抹殺しようと伊賀狩りを行った。生き残った伊賀の棟梁柘植新八とその仲間たちは、一族の復讐を誓い、大岡の手下となり動いている二十六人衆と大岡を倒すことを誓う・・・これが時代劇影の軍団2のあらすじです。ところでこの大岡忠光は実在の人物であり、実際の彼はドラマで云われているような悪人だったのでしょうか?大岡は8代将軍吉宗の死後、病弱で言葉もうまく話せなかった9代将軍家重の側用人に任ぜられます。しかし、ドラマで云われているように闇将軍として横暴な権力をふるったことはなく、将軍に忠実に仕えたそうです。実際家重は障害を患っており、そのために言葉がうまく話せなかったために、その言葉を聞き分けられた大岡が重用されたのもうなずけます。しかし、将軍の力がそのようなものであったために、重用された大岡が権力をふるったように世間からは思われていたのかもしれませんね。そのような誤ったイメージが現在まで残っているとは、大岡にとっては思ってもみないことでしょうね・・・ちなみに大岡越前と大岡忠光は遠縁の親戚にあたるそうです。2008年11月21日発売影の軍団2 COMPLETE DVD 壱巻【初回生産限定】2009年02月21日発売影の軍団 COMPLETE DVD 弐巻【初回生産限定】ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2008.12.23
南町奉行所跡から「大岡越前守」と書かれた木札が発見されたそうです。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081221-00000530-san-soci産経新聞大岡越前守といえば時代劇によく出てくる名奉行としても知られていますね。時代劇でしか想像できなかった有名な人物の痕跡が出土したなんて、なにか歴史が身近に感じてきちゃいますね。大岡は徳川吉宗のもとで、さまざまな政策を実施し、庶民の人気者になり最終的には大名にまで昇進した人物です。実際、物語やテレビなどで放送されている事件の全てを大岡が担当したわけではなく、創作や他の人物が担当した事件や他国の出来事などが含まれているわけですが、それもやはり大岡が庶民に慕われていたために、そのような美談や英雄伝として現代まで伝わっているんでしょうね 炎の奉行 大岡越前守(ビデオ)ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2008.12.22
日本における死因の第一位はがんであり、総死亡数の約30%を占めています。以前は胃がんや肝がんが多かったですが、近年は肺がんや大腸がん、乳がんなどの割合が増えてきています。これは食生活などの生活様式が、だんだん欧米化してきたことによるといわれています。ところで、日本では江戸時代、世界初の全身麻酔による乳がんの手術を成功させた人物がいます。その人物の名前は華岡青洲といいます。華岡は、手術に有効な麻酔薬を作ることに励み、数種類の薬草に麻酔効果があることを突き止めて動物実験を試み、最終的に人の体で実験を試みたいと思い、母と妻が自ら実験台になることを申し出、彼女たちに薬を飲ませて実験を続けていきます。その結果妻は失明してしまいます。このような犠牲の結果ついに華岡は、麻酔薬である通仙散を完成させ、のちに通仙散を用いた世界初の乳がん手術に成功します。現在、外科手術には欠かすことのできない麻酔を開発した華岡青洲の功績の裏には、彼の妻による自らの身をも犠牲にした事実があったんですね。これはやはり、妻の華岡に対する尊敬の念と愛情がそうさせたに違いありませんね。 華岡青洲の妻(DVD) ◆20%OFF!DVD 華岡青洲の妻ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2008.12.10
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