古墳時代 0
奈良時代 0
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浅井長政は、織田信長の妹であるお市の方と結婚し信長と同盟を結んだ時信長に対して浅井に無断で朝倉に侵攻することはできないという約束を取り付けたといいいます。なぜなら浅井・朝倉両家は古くからの付き合いがあり、いわつる旧知の仲であったためです。ところが信長は、自分と将軍足利義昭の発した上洛命令を拒み続ける朝倉義景に対してついに攻撃を開始します。そこで浅井家ではどっちにつくか議論となりますが、長政は旧知の間柄である朝倉側につき、信長と対決することを選びます。(反信長派の家臣たちによる勝手な判断という説もありますが)どっちにしても、自分の妻の兄と戦わなくてはいけなくなってしまった長政の心中は相当複雑だったと思います。いくら信長が約束を破ったからと言って、仲が非常に良い妻の兄ですからね・・・しかも妻のお市の方の気持ちを考えると余計辛かったと思います。一方のお市の方も、兄と夫が戦わなくてはならなくなった状況に、やるせなさを感じたに違いありませんね戦国の世は、同盟などで武将同士の人間関係が非常に複雑な時代でもありました。 ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2008.10.19
県立小田原高校の旧校舎跡地で、小田原城最大級の堀が発見されたそうです。カナロコhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081011-00000004-kana-l14小田原城といえば、戦国時代北条氏が居城として名城であり、北条氏5代にわたり相模の地を支配しました。北条早雲が基盤を作り上げ、3代目の氏康の時代には戦国時代まっただ中で、武田や上杉などさまざまな戦国大名と争いました。しかし豊臣秀吉の力が強大になり、天下統一に突き進み九州の島津まで降伏すると、秀吉に服従を誓わない大名は北条氏だけとなり秀吉は小田原征伐に乗り出します。秀吉の圧倒的軍事力の前に次々と城を落とされた北条氏は、小田原城に籠城しますが、戦闘らしい戦闘も起こらないまま、ついに秀吉に降伏します。徹底抗戦を唱えた4代目の氏政ですが、もはや秀吉の勢いの前にはどうにもなりませんでした。籠城中の小田原城からは、秀吉方が茶会を開いたりしてくつろぎ余裕がある様子が見えたといいます。それを見た氏政はどう思ったのでしょうか。もしかしたら、最初からこのいくさには勝てるわけがないとわかっていたのかもしれません。ただ息子の氏直まで5代も続き、相模の地を支配したプライドが秀吉に服従するのを拒んだのかもしれませんね。 戦国武将の魁、北條早雲生誕の地 備中荏原庄今は井原市で作られたオリジナル切手北条早雲オリ...早雲&嫁いらず観音ふるさとセット早雲&甘味ふるさとセット 日本百名城 映像が物語る歴史ロマンの遺産ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2008.10.11
日常生活におけるちょっとしたことで自分自身の人生が大きく変わることがあります。例えばたまたまその日寝坊したおかげで事故に巻き込まれなかったとか、私自身のことで言いますと、転職活動をしている時いつもはみない転職雑誌のページをその日たまたま開いたら目についた会社があったので応募したら採用されたとか、そういったことで、自分の進む人生が大きく変わり、それに伴い自分たちが出会う人達も大きく変わります。そのようなちょっとしたことで日本の歴史が大きく動く可能性があった出来事があります。それは杉谷善住坊による織田信長狙撃事件です。信長を撃いた男なぜ彼が信長を狙撃したかは現在でもいくつか説がありますがはっきりしたことは分かっていません。彼は火縄銃の名手として名をはせており、当時の信長はいわば‘全盛期’であり信長と敵対する勢力はかなり多かったことから、それらの勢力から依頼された可能性もあります。千草街道で信長が通るところを狙撃しますが、失敗し彼はその後2年にわたり逃亡しますが捕えられ処刑されます。火縄銃の名手と言われた彼が狙撃に失敗した理由もいろいろ説がありますが、狙撃の時にたまたま蚊が飛んできて手元が狂ったという説もあります。もしその説が本当で蚊が飛んでこなかったら、狙撃は成功し信長は死にその後の日本の歴史も大きく変わった可能性も考えられます。さらに考えると私自身も生まれてきてない可能性もあるわけですそう考えると歴史って、いろんな偶然がいろいろ絡み合って起きてる面もあるんですね~。HANWEI 織田信長 等身鎧NHK大河ドラマ「信長」DVD-BOX1&DVD-BOX2セット【送料無料】ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2008.09.18
私が住んでいるところから車で15分もかからないところに豊明市の名鉄前後駅があります。実はこのあたりは戦国時代に桶狭間の合戦があったところで、地形も上ったり下ったりで起伏が非常に激しい土地です。従来の説だとこのあたりの盆地で休息をとっていた今川義元が、織田信長の奇襲にあい討ち死にしたといわれていましたが、最近の研究だと実は奇襲でもなんでもなく、高地に陣をとっていた今川勢に織田勢が正面から攻撃を仕掛けたという説が有力になってきてますね。まあ、確かに‘海道一の弓取り’とも言われた今川義元が周囲を見渡せない盆地に陣をとるということ自体あり得ない話ですよね(^^;ちなみに前後駅という駅名の由来は、この合戦時、織田勢の兵士が討ち取った今川方の兵の首級を肩の前後に担いで運んだことからついたという説もあります。日本の歴史を大きく変えることになった合戦の痕跡が、こういうところにも表れているんですね~。 馬にも乗れないなど愚将のイメージで語られることの多かった今川義元ですが、実はそれは言い伝えであり、実像は文武両道の優れた武将であり、領国支配の政策にも長けていたまさに‘海道一の弓取り’でありました。その面からとらえた本です。戦国武将の甲冑をリアルに再現!武家人形 今川義元(戦国武将甲冑フィギュア)今川 義元(いまがわ よしもと)戦国ミラープレート/今川義元ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2008.09.14
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