放浪の達人ブログ

桜と椿

   【桜と椿】

桜の季節も終わり新緑が眩しい本格的な春となってきた。
今年の春は近場の色々な桜を見に行った。つまりヒマなのである。
特に良かったのは奥山田のしだれ桜のライトアップだった。
ここの桜は「空から流れ落ちるような桜」というオーバーな謳い文句だが
実際に真下から眺めるとなるほどその通りである。
それどころかスターマイン花火を真下から見ているような迫力だ。
さすが樹齢1300年の天然記念物というだけある。
俺は雨上がりの夜に行ったせいで見物人も少なくゆっくり見れたが、
翌朝はテレビで中継したそうで当日からは大混雑だったんだろうなあ。

次に良かったのは岡崎と豊田の境にある行福寺の桜だ。
夕暮れ迫る境内で独りで桜を見ていると心が洗われる気分だ。
まあ俺は一点の汚れもない純白な心の持ち主なので洗っても変わらないが、
一般的な皆さんにはぜひ日頃の罪を洗い流すという気持ちを持って
ぜひ行福寺を訪問していただきたいものである。
ここには見事な椿も咲いていて、桜が咲く時分には椿の花がボタボタと散って落ち、
諸行無常の儚さも同時に味わえるので本当にお薦めである。

ここでふと疑問に思ったのだが、桜と椿が散る際には
儚さだとか切なさ(刹那さ)という諸行無常の感があるというのに、
なぜ同じ春に咲いて散る梅とか桃にはそういった感情が湧かないのだろうか?
桜も梅も桃も同じような色や形だというのにだ。
これは俺達日本人が小説やテレビや音楽に感化されている証拠ではなかろうか?
三島由紀夫の大作「豊饒の海」に描かれるシーンが脳裏に残っているとか、
時代劇の侍が桜の木の下で自害するシーンだとか、桜吹雪の場面だとか、
歌謡曲やJポップスなどで「桜は別れのシーズンの象徴的な花」として、
俺達が洗脳され続けてきた結果なのではないだろうか?
一昔前には受験の合否を「サクラサク」「サクラチル」なんて電報で送ったりと、
桜はそういった別れや悲しみを表すアイテムとして利用されてきた気がするのである。
皆さんつい先日まで桜を見ながらドンチャンと酒を飲みながら宴会をしていたのに、
1週間も経てば桜吹雪が舞う光景を見て涙しているのである。(あ、涙までは流さんか...)
日本に桜鑑賞に来た外国人は桜の散り際にどんな感情を抱くのかも興味深いところだ。

話は桜から離れるが、山茶花(さざんか)と椿は似ているが散り方が違うのである。
山茶花は花びらが1枚ずつ散るが、椿は花ごとボトリと落ちる。
だから椿は病院へのお見舞いの花としてタブーとされているし、
武将の家紋としても使われていないそうなのだ。

あと俺が思ったのは、もし桜の色が黄色や真っ赤、水色だったとしら
散る儚さというのを感じることはないのではないか?ということである。
やはり薄い桃色だから春のイメージカラーとして使われるのだろうし、
風に吹かれて桜吹雪に感嘆の溜め息を出すのも桃色だからこそなのかな、と。
桜吹雪が真っ赤や水色だったらそれはそれできれいなんだけどね、
やっぱ儚さ感というのはゼロになっちゃうのかなあ。

俺の大豪邸の中庭には2種類の椿の木が植わっている。
桃色に赤い線が入る花が咲く木の方に、先日一輪だけ白い花が咲いた。
いわゆる突然変異というやつだが、これには非常に感動した。
あまりにきれいだったので写真を撮ってブログに載せたので
花に興味のある人は「放浪の達人ブログ」で見てやってくれ。
放浪の達人ブログ、いよいよ今月ぐらいに100万アクセス突破じゃないかな。
この時期になると花の写真ばっか載せてるので俺もジジイになったってことだなあ...。


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