京都府紹介/奈良県紹介 京都の舞妓はん

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江戸時代



● 1620年,垂水を含む明石藩主に小笠原氏が就任し、明石
  城が築城されました。
● 参勤交代の大名が,絶景で名高い舞子ヶ浜で休憩するよ
  うになり、たくさんの休憩茶屋が建ち並び,垂水の景気も上
  昇しました。
● 1659年,明石藩主になった日向守松平信之氏は、藩民の
  教育に力を入れ、また未開拓地をどんどん開発し、新田を
  造らせた名藩主でした。その信之が大和郡山に転封された
  後、亡くなったとき、明石藩下の人々は日向守の供養石碑を
  各地に建てました。今でも現存しています。
● 1688年、松尾芭蕉が西国の旅に出て、明石海峡の景観を
  句に残しています。
          「かたつむり 角ふりわけよ 須磨明石」
● 1719年、松平直常は著名な儒学者を藩臣として召し抱え、
  藩下に儒教を広めました。このため明石藩の人々の教育程
  度は非常に向上しました。1830年頃からは垂水でも、論語を
  教科書にした寺子屋ができ、村の子供たちに読み書きそろ
  ばんを教え始めました。
● 18世紀末、明石郡山田村の衣笠宗兵衛、舞子焼を始める。
● 1825年、舞子の漁民や農民が、村の子供たちを守っても
  らうために、御影の石大工に注文して、大きな石地蔵を造ら
  せました。これが今も西舞子の国道二号線沿いに現存する
  叩き地蔵です。
● 江戸末期になると、欧米諸国の脅威が増してきました。明
  石藩でも侵略外国軍艦を撃滅するため、海岸沿いに12基の
  大砲を備え付けました。明石海峡をおさえる砲台は特に重要
  でしたので、幕府の海軍奉行勝海舟が監督して、舞子ヶ浜の
  西端に3ヵ所の電光形出張りのだい場を造り、3基の大砲を据
  えました。
    1864年にはこの舞子が浜の砲台で,沖を航行する長州藩の
  船を砲撃しています。
    昭和初期の国道二号線改修の際の護岸工事でこの砲台後
  は再現されました。石碑とともに現存しています。
● 1867年、兵庫港が開港されると、上陸してくる欧米人と攘夷
  の藩士や武士との間にトラブルが起こる恐れがあったため、兵
  庫港を避けるバイパス道路を建設する計画が立てられました。
  大蔵谷から舞子(元舞子ゴルフ場の北端辺り)を通って名谷、
  鈴蘭台を経て、住吉で山陽街道に合流する道路で「徳川道」と
  か「大名道」と呼ばれ、現在も一部が残っています。


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