―対馬丸に乗船する前、暮らしていた村ではどんな日々を送っていましたか?
川の傍に生まれたので、小さい頃から泳ぎは得意でしたし、釣りも好きでした。
当時は釣りをする女の子はほとんどいなかったのですが、橋の上から泳いでいる
魚が見えると、つい釣りたくなってしまって。
私の家は川の中流近くだったので、そこで釣れたハゼなどは、飼っていた
豚のエサにしていました。
母も私をあてにしていて、「ハゼ釣ってきて」と頼まれると喜んで
川に駆けていったものです。
飛び込むと石と石の間に時折ウナギの陰が見えて、銛でひと突きして
川べりでそのまま絞めました。
海水の混ざりあう下流まで行くと美味しい魚がいっぱい釣れて、
晩ご飯のおかずにしていましたよ。釣り道具は全部手作り。
畑から掘り出したミミズや川原のエビをエサにして、竿も裏山から切った竹で作りました。
いとこの時子とは同い年だったこともあって、よく一緒に遊んでいました。
ままごとをしたり、あとよくやったのは「お産ごっこ」。
あの頃何もなかったから、親たちが自宅でお産するんです。
弟や妹が産まれるのを、私も後ろからじっと見ていました。
だから「お産ごっこ」するときは、弟の着物で人形みたいなものを作って、
たらいの水まで用意してやってました。
今思うと恥ずかしいですけどね。田舎の子たちの遊びは、あるもので
何とかするしかないんです。
時子は泣き虫だったけれど、仲良しでした。
私が入学したときにちょうど、尋常小学校から国民学校になって、
ますます軍国教育、皇民化教育が進められていったんです。
幼かったので違和感を持ついとまもなく、押し付けられた通りにそれを聞いていました。
天皇のため、男の子たちは国のために戦うように、女の子たちは
従軍看護婦となってけが人を助けるのが任務だと教えられました。
疎開の話は校長先生や区長から通達されたようです。
私の地区では村の区長が中心となっていましたが、本土に縁故のある者を
優先するとのことだったんです。
だから「本土に行けば、東京のお父さんたちに会えるよ」と勧められました。
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