星界の道~航海中!~

星界の道~航海中!~

国立戒壇論の誤りについて(2)


五、世界的宗教としての仏法

 已上のごとく国立戒壇論者の中には、宗祖大聖人の仏法を将来国教に奠定すべく、またそのために、憲法における宗教の自由を敢て改変すべき思想的要素があるものと推測される。しかし本来大聖人の下種仏法は、一国に跼蹐るものでなく、広く世界民衆を救済する世界的宗教の最たるものである。この点から国立戒壇論の執見を教訓したいと思う。
 世界における宗教の起源発達の歴史を通観するとき
 一、種族的宗教
 二、国民的宗教
 三、世界的宗教
の三に分類される。これについて比屋根安定著、世界宗教史(七三頁)の一節を左に引用する。
「先ず種族的宗教の特質を抽出して些か説明しよう。(中略)古代にては個人はその所属する社会の一員たる資格に依ってのみ、有形無形の生活資料を受用することを許可された。(中略)原始民族にとって宗教は社会団結に直接関係した事柄であった。例えばアニミズム(註…霊魂信仰)は社会共通の心理生活にて、タプウ制度は原始時代における宗教的道徳の社会性をしめし、トオテム崇拝(註…集団成員の特殊な自然種信仰)は種族の団結を固うする宗教的機能をなし、(中略)神話はその種族の業績を世々に語りつぎ語り伝える材料であった。
 然るに倫理教の時期に入ると種族が漸く国家を構成して釆て、宗教も著しく国家的に傾いてくる。かくて国家の基礎が固くなるに伴うて、宗教は国家固有の宗教となり、或る国民に限って信奉せられ、他国民はその宗教信仰に与らない。ギリシャやローマの宗教、バビロニヤやアッシリヤの宗教、ユダヤ教、神道の如きは国民を単位として之に基いている。
ユダヤ教の神のエホバがアッシリヤの神アシュシュルと同じく嫉妬の神と呼ばれたり、欽明天皇の朝に物部氏や中臣氏が、蕃神(仏)を祭らば国津神の冥罰を蒙るべしと掛念したのは、ユダヤ教や神道が国民的であった消息を語ろう。
 然るに国民が世界という広い観念を抱き、宗教も伝道を主にして来ると、宗教は発達して世界的宗教に化せざるを得ない。世界的宗教は広く伝道することを主眼とし、国民という障壁を撒し、地の果てに至るまで信奉さるべき宗教となる。キリスト教や仏教は世界的宗教に属し、信者がいかなる国籍の人であるかは措いて問わず、仏教経典や新約聖書には、世界的宗教の宣言が散見している)
 やや長いが敢て引用したのは、第二の国民的宗教の説明において、国教の背景となる宗教の時代、性質、程度等が浮き彫りされていると共に、第三段階としては世界的宗教としての仏教の位置が示してあるからである。
 右に明らかな通り国教の形をとるのは、日本においては神道あたりまでの第二段階の宗教である。神道が軍国主義者に利用され、第二次大戦前までは、明治憲法の信教の自由の規定にもかかわらず、これを空文化し、神社信仰が国教的性格をもって国民に強制されたことを記憶する人は多い筈である。立憲政治以後においてすらかかる状態があることは、神道が本来祭政一致態勢から出発したものであり、国教的性格を有つことを物語っている。
しかるに仏教は本来が世界的宗教なのである。その教理のドグマを排する普遍妥当性といい、一切衆生救済を標榜する慈悲の広大さといい、一国一地に執われることなく、より自由により正大に伝道救済へ進む性格を有つのである。キリスト教もその内容と実績におい世界的宗教の面目を保っているが、生命の原理を掘り下げた教義内容よりすれば当然仏教が勝れておる。この点現在より未来を指向するとき、仏教こそ真の世界的宗教といえるであろう。
 また仏教の中においても、小乗より大乗、権大乗より実大乗、迹門より本門、本門より文底下種の大法と従浅至深して、その教法の真実性と民衆救済の確実性は益々明らかとなる。日蓮大聖人の仏法はまことに広大な仏教の真髄であり、その目的こそ実に一閻浮提広宣流布と世界民衆の救済に存するのである。かかる大仏法を日本の国教とすること自体、第二段階の神道のあたりまで逆行し、引き下げる時代錯誤といわざるを得ない。
 国立戒壇の主張も右の国教論と終局的には同致同轍になると思われる。すなわち国立戒壇を目標として実践に移すとき、国家で建立する為には、国が特定の宗教に関与しないという現憲法の改訂が必要となる。その為には国会の議決を要しかつ国民大多数の支持がなければならない。それがあったとしても猶かつ異宗教異宗派の必死の反対と抵抗は当然ありうるので、従って必然的な対抗手段としての制圧が必要となることも想像される。
 かつてローマカトリック教会に於て異端者禁圧のため設けた宗教裁判が、十三世紀より十八世紀までの間、いかに惨虐と酷薄をきわめ、血を血で洗う非人道的なものであったかは西洋史が証明している。これと同様な事態が現出しないと誰が争えようか。それが果して仏教の精神であり大聖人の御本意であろうか。いな大聖人の御正意も立正安国論の趣意も決してそうではない。大聖人当時は為政者自身が邪教を保護し信仰し肩入れをしていた為に、先ずその謗施を止めしめるべく諌暁を加えられたのである。しかるに現在は当時と全く様相が異なり、為政者が公人として特定の宗教を保護することは憲法によって禁じられている。また主権者の意志によっての謗法禁断は全く不可能な状態である。かかる場合その表面相の一部のみをとって国教論や国立戒壇をのべることは、時代錯誤であり、まきに舷に刻するに異ならないのである。
 再び言う。日蓮大聖人の仏法は世界民衆救済の宗教である。撰時抄には
「彼の自法隠没の次には法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の、一閻浮提の内八万の国あり、その国国に八万の王あり、王王ごとに臣下並びに万民までも今日本国に弥陀称名を四衆のロロに唱うるがごとく広宣流布せさせ給うべきなり」(全二五八)
と世界広布の大確信が示されている。また法華取要抄に
「是くの如く国土乱れて後に上行等の聖人出現し、本門の三つの法門之を建立し、一四天四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑い無からんものか」(全三三八)
 また波木井三郎殿御返事に
「然りと錐も本門の教主の寺塔、地涌千界の菩薩の別に授与したもう所の妙法蓮華経の五字未だ之を弘通せず(中略)当に知るべし残る所の本門の教主妙法の五字一閻浮提に流布せんこと疑い無き者か」(全一三七二)
等の胤詔を拝する。まさに真の世界宗教としての下種仏法の意義を明示あそばされたものであろう。すなわちあらゆる人種と国境を超越し、主義や思想の村立を止揚して一切の世界民衆が救済されて行く大仏法である。人間生命の本源的な改革をもたらし、真の幸福を
教導する大宗教である。しかる故にこそ日本において、国教とか国立とかいう如く一国の殻にとじこもる考え方は世界各国における妙法広布を阻害するものに外ならない。その理由はかかる国家的宗教に対する各国の危惧と嫌悪を招来することが火をみるより明らかだからである。権力に依存するのでなくたゆまざる折伏教化によって、一人より一人と、人間本来具わる正信を湧現せしむることこそ正法弘通の本来の姿である。しかも、今正に世界広布の時が来ておる。本仏大聖人の三大秘法は世界に流布し、海外数十万の民衆が歓喜に燃えて信仰に励んでいる。終戦前において何人が此の姿を想像しえたであろうか。そして一昨年五月三日の猊下の御宣言こそ、かかる事態を背景とされての一閻浮提広宣流布の方略を大きく決定あそばされたものと拝すべきである。

六、三大秘法抄の戒壇の文意

 大聖人の御書においては、事の戒壇の法義は、三大秘法抄と一期弘法抄にのみ示したまう処である。国立戒壇が大聖人の本義でないことは、すでに様々な角度から論じたが、国立戒壇の論拠も、その解釈の是非は別として、三大秘法抄の戒壇の文になる。
 したがって、当抄の文意を拝し、根本的な形で、その是非を明らかにしたい。
 まず、その文を念のために、ここに掲げておく。
 「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人、懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下してふみ給うべき戒壇なり」(全一〇二二)
 右の御文中、初めの「王法」については、国家の統治主権などと解すべきではなく、王の法、すなわち王の政治内容であり、今日ではさらに進んで「政治をふくむあらゆる社会生活の原理」と解すべきであることは、すでに詳述した通りである。この点については、堀米日淳上人も「一般世間の法にも通うところで仏法の出世間法なるに対し、せ間法を意味せらる」という解釈をされていた。
 それでは次の「王法仏法に冥じ仏法王法に合して」とは、どういうことであろうか。
 第一に王法が仏法に冥ずるとは、王法が仏法の慈悲の精神、原理に冥々のうちにもとずいていくということである。王法の理想は、民衆の福祉にある。その理想を実現していくことが、そのまま仏法に冥ずることになる。具体的にいえば、表面に現れないが、妙法を持つ人が次第に数を増し、確実に正法を受持信仰するところ、それぞれ個々の目的、次元は異なっていても、政治をふくむ世間法の一切が、次第に仏法の正しい教意に契合するようになる。すなわち、これは、世間法を中心とする立場で、冥々時々裡に静かにその仏法的精神化が浸透することと解されよう。
 第二に仏法が、王法に合するというのは、仏法の慈悲の精神、原理が、仏法を持った人々の社会での活躍をつうじ、現実にあらわれていくということであり、仏法側の姿勢であるといえる。即ち、世間法中に仏法の精神があらわれ、契合する意と思われる。
 両句は結局世間出世開法の相互契合の両面というべく、必ずしも前後因果の差異あるを要しない。冥に即する合であり、一分の冥あれば一分の合あり、百分の冥あれば百分の合があらわれる。これこそ広宣流布戒壇建立の原理を示されたものと拝する。もちろん大聖人のお考えにおいては、当時の実情に即して一往国の主権者が中心となって、かかる冥合運動のあることを御想定あそばした事であろう。但し再往本仏三世の冥鑑においてはそうはいえない。今日の主権在民の上からは民衆自体の冥合運動であると拝せられる。
 また今日、王仏冥合は、境智冥合と同じように、冥合で一つの熟語と考えることも可能である。というのは、一般的にも冥合で一つの熟語を形成していたと思われるからである。大漢和辞典(諸橋轍次著)には、冥合とは「ふかく合一する」とある。
 すなわち、この立場からいえば、王法と仏法とが深く合一することが、王仏冥合である。深く合一するとは、生命の奥深い所で合一するということで、仏法がそのまま生の形で王法にあらわれてくることではない。それは、仏法が仏法の使命に生き、王法が、その理想実現に専心していくとき、結果として自然に冥合するということなのである。したがって、今日、王仏冥合と政教分離とが抵触するものでないことは明白である。いずれにせよかかる冥合の文意において国立なる趣旨は全く見出しえない。
 この「王法仏法に冥じ仏法王法に合して」は[法]について述べられたものであるが、どうしてもそれを推進していくには[人]が大切である。そこで次に「王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて」と仰せられたと拝するものである。
 王法が仏法に冥ずるためには、王法の当事者が妙法を持たなくてはならない。そうしなければ、その当事者の生命の内に慈悲の顕現がないからである。しかし、今日、王法の当事者は、詮ずるところ民衆人一人であり、その一人一人が三大秘法の仏法を持っていく必要がある。また仏法が王法に合するためには、当然、妙法を持った人の社会での活躍が必須の条件である。
 すなわち「王臣一同」が「三秘密の法を持つ」ことが、王仏冥合の絶対の条件であることがここに明らかである。
 この「王臣一同」ということであるが、現代では、民衆が王であるとともに臣である。
ゆえに「民衆一同」と読むのが、今日では正しいのである。
 この王ということについて、現法主日達上人は、世間儀典的(即ち世間法)からいえば転輪聖王の出現と申されている。転輪聖王とは武力によらず、計り知れぬ知力と思想ならびに無限の徳をもって、戦わずして世界を平定する王といあれる。また信心内感的(即ち出世間法の信感)からいえば、正法を受持する民衆との意と承るところである。すなわち、今日信心実践の上から転輪聖王とは、武力、権力によらず哲学の力、慈悲の力、智慧の力で、時代をリードする民衆連帯の力であるといえる。
 「一同」とは大勢の形容と思う。この一同を日本国一人も残らずの意として固執すべきではなかろう。
 類文として如説修行抄(全五〇二)の
 「法華折伏破権門理の金言なれば終に権教権門の輩を一人もなくせめおとして法王の家人となし、天下万民諸乗一仏乗と成って妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壌を砕かず代は義農の代となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん云々」
の御文は、「一人もなくせめおとし」と「日本一同に」との関連から、表面的には日本国中謗法者一人もなくとの文勢なり、ニュアンスが受けとれるが、これは本仏の大慈悲であり窮極の理想として堅く信じ奉るところであるが、それと広布の現実をふまえた拝し方は、おのずから階梯が存するのである。大慈悲の理想をそのまま信受し奉ることも当然であるとともに、理想の現実化としての広布の実現に邁進して、その現実に徹してゆくことも必然の道理である。一辺のみに囚われるものは真理に通ずるとは云えない。故に一同の文をもって文字通りすべてが、信仰に入らねば戒壇建立をすべからずということがあれば、明らかに守文の徒というべきである。
 又再考するに、大聖人の御書における「一同」とか「一人もなく」という用例は、実際には[すべて]を意味するものでなく、ある意味を示される場合が殆んどである。
 撰時抄(全二七四)
 「其の上設い法然が弟子とならぬ人々も、弥陀念仏は他仏ににるべくもなく口ずさみとし、心よせにおもひければ、日本国皆一同に法然房の弟子と見へけり、此の五十年が間一天四海一人もなく法然が弟子となる。法然が弟子となりぬれば日本国一人もむく謗法の者となりぬ」
 右の「日本国一同」や「一人もなく」の表現は、念仏信仰の盛んな意味をあらわす形容であり、反対者や他の宗旨の者も数多くいたのだから、実数は三分の一にも充たなかったであろう。
 神国王書(全一五一六)
 「百済国の聖明皇金銅の釈迦仏を渡し奉る、今日本国の上下万人一同に阿弥陀仏と申す此れなり。」
 この「一同」もすべての人でなく、実際に称したのはごく少数であろう。当時の弥陀信仰の大意をとらえたのである。
 富木殿御書(全九七〇)
 「今日本国の八宗並びに浄土禅宗等の四衆、上主上上皇より下臣下万民に至るまで皆一人も無く、弘法慈覚智証の三大師の末孫檀越なり」
 右の「下臣下万民」「一人も無く」東密台密の三大師の末孫檀越との御表現も、実際にかかることではない。その証拠に実際にそうだというなら前掲撰時抄や神国王書は「一同に」「一人も無く」法然が弟子等とあり平仄が合わない。真言の教の賑いの意をとっての仰せである。
 本尊問答抄(全三六九)
 「其の後日本国の詩碩徳等各智慧高く有るなれども彼の三大師にこえざれば、今四百余年の間日本一同に真言は法華経に勝れけりと定め畢んぬ」
 この一同もその趨勢の意をとっての仰せであり、実際の数値としての意味でないことは明らかであろう。
 治病大小権実違目(全九九七)
 「物部の大連等の諸臣並びに万民等は一同に此の仏は崇むべからず(乃至)三災七難先代に超えて起り萬民皆疫死す」
右の例もすべてが崇むべからずと主張し、すべてが疫病で死んだのでないことは無論である。
 乙御前御消息(全一二二〇)
 「日蓮をば日本国の主人より下万民に至るまで一人もなくあやまたんとせしかども、今までかうて候事は一人なれども心のつよき故なるべし」
 これも国主権臣等が大聖人を憎んで行なう流罪死罪に、万民の意志をも含ませられたのであり、中心にすべてを例する意味の上からの仰せである。
以上差し当って六文を挙げたが、「一同」「一人もなく」の御用例は、数値の上の絶対性を示さるるものでなく、何らかの意義を表わすためのものである。従ってそれを数値的意味に解することは誤りである。とすればこの「王臣一同」も文字通り王臣のすべてという解釈に執われる必要はない。
 次に
 「有徳王覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」
とは、涅槃経金剛身品に出る仏法守護の因縁である。無量劫の昔、歓喜増益如来の滅後、破戒の比丘等が正法を持つ覚徳比丘を害せんとしたとき、有徳王の擁護によって難を逃れることが出来た。王は敵と斗い全身に庇を負って命を失ったが、その功徳により阿しゅく仏の国に生まれその仏の第一の弟子となった。この有徳王とは釈迦仏であり、正法を守る果報によって、今日法身不可壊の身を成就したのであると説かれてある。
 この文を引き給う趣旨を拝するに、正法を立てることは迫害反対があってまことに難事である。すなわち末法において権実雑乱して人々は如来教法の帰趨に迷い、正法に対する怨嫉盛んなるとき、身命を惜しまずこれら一切の障擬を打ち破って正法を守護確立し、弘通を図ることあるを、大聖人はかねて鑑みきせ給うたのである。
 有徳王、覚徳比丘は経典の事例であって、これを説いた釈尊の己心に存することである。従って末法の我々も信心の内感の上に考えるべきことであろう。この有徳王、覚徳比丘の関係は、同じく涅槃経に「内に智慧の弟子有って甚深の義を解り、外に清浄の檀越有って仏法を久住せしむ」とあるように、僧俗一致しで異体同心に広宣流布に進んでいくことをいうのである。
 「末法濁悪の未来に移さん時」とあるごとく、決して、戒壇は、安穏と平和のうちにつくられるものではない。むしろ濁乱の世に、苦悩の民衆を救うために、令法久住、広宣流布を願う信心強き人々によって建立されていくのである。したがって、この文の意は、広布完成のみを示すものと拝するよりも、完成にいたる因の道程をも含ませられたものと拝すべきである。
 以上「戒壇とは……移さん時」の文全体が戒壇建立の時を決する条件を示された御文であるが、なかでも「王法仏法に冥じ仏法王法に合して」とは、総じて王仏冥合を[法]の面からその姿を示し、「王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて」というのは [人] の面からその様相を述ベ、さらに「有徳王、覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」というのは、戒壇建立の時の世相を述べられると兵に、我々の実践を示されている。
 したがって、戒壇の建物は、広宣流布が一切完結した後に建てられるという見解にとらわれてはならない。また、昔の一国は、今日の全世界であり、世界的にみれば、日本一国の広宣流布が進んでも「末法濁悪」の時代であることには変わりない。
 さらに、大聖人の仏法は、本因妙の仏法であり、民衆救済を根本とする。一切の人々を救った後に建てるというのではなく、むしろ一切の人々を救うために建立するところに正意がある。
 次に「勅宣並に御教書を申し下して」とは、戒壇建立の手続を示されたものであろう。ところでこれは、国家が戒壇を建てるという勅宣並びに御教書を出すのか、それとも、宗門で本門戒壇を建ててもよいという許可を勅宣と御教書という形で出すのかという問題がある。歴史上の事例から考えると、まず後者の方ではなかろうか。
 かの戒壇の歴史で述べたごとく、梵漢和の三国における戒壇について、強いて一往その建立の趣意より名称を付すれば、僧立、宗立、官立、王立、といろいろに呼ぶことができよう。但しこれもその出資者のいかんによって定めるのか、建立の発願者によるのか、官の命によるや、はたまた官の許可によるや、官供によるや、その時々の趣旨実状において、その何れを採るかはさらに一定できぬものがある。このなかで、勅によること、及び官費と思われることからして、東大寺の戒壇が国立的といえばいえるが、これも厳密にいえば国王の個人的造立である。大聖人が、しばしば先例として引用される叡山の戒壇は、義真の建立(実質的には伝教大師の努力)であって、官の許可並びに天皇の詔が下りたのみである。大聖人の場合も、この叡山の先例にならって「勅宣並に御教書」と仰せられたのではなかろうか。
叡山の場合は、平安時代初期であったので勅宣のみであって御教書はない。御教書とは平安中期以降に行なわれた書札用の文書の一種であり、平安当時の用例では、天皇以下公卿たる三位以上の出す書札用文書をとくに御教書と呼び、摂関政治以降は公的性質を帯びるようになったという。鎌倉幕府が開けてからは、将軍の命令を伝える文書として広く用い、六波羅や鎮西の探題も出すようになった。
大聖人が、勅宣のほかに御教書をあげられたこと自体、当時の時代背景を考慮されてのことと思う。したがって、現代には、現代の時代状況を考えなくてはならない。勅宣にしろ御教書にしろ、一定の制度の下における一定の地位にある者の発する公文書という性質のものであり、これを日蓮大聖人が絶対不可欠のものとされるはずがない。
 今日においては、もはや大聖人の時代におけるような勅宣はありえない。また、当然、御教書もない。したがって、現在もなお、こうした古い時代の形式に固執し、戒壇の本意を失うことがあるとすれば、それは誤りというべきである。
 もし、これにあくまで固執するなら当然、憲法改定が必要になる。これは、まさに時代逆行であり、また宗門としてこれを主張することは、宗教の立場と政治の立場を混同することになる。宗教の立場は直接政治に容喙することでく、宗教自体の徳化において政治その他を善導するにある。大聖人の御書もこの御こころに貫かれており、宗門の理想の達成が、直接の政治の場としての憲法改定を前提とせねばならないということは、まさしく大聖人の仏法の本意に背くものである。
 それでは、現代においては、この「勅宣並に御教書」は、どのように考えるべきか。結論からいえば、そうした文書は現代ではありえないし、必要ないのである。消極的意味からすれば、先の叡山等の例から考え合わせて、一宗としての正統かつ独自の主体性を獲得せんがためと解することができる。これはすでに現憲法の信教の自由の保証によって実現されていをと見てよい。事実、この結果、戦後民主主義下になって、はじめて、宗門始まって以来の、幾百万人にも及ぶ未曾有の布教が達成されているのである。また、積極的意味においては、民衆に対し、また各分野の指導者に対し、大聖人の仏法の偉大さを知らしめ、理解せしめていくことのなかに、この御文の精神は含まれると考える。
 これについて、勅宣を天皇の国事行為としての承認、御教書を国会の議決、行政府の意思として国立戒壇を、主張することの誤謬は、すでに詳述した通りであるので、ここでは略す。
 次に「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて、戒壇を建立す可きものか」
の文中の「最勝の地」とは、一期弘法抄に「富士山」とあるごとく、富士の麓の地であることは明らかである。現在の富士大石寺を中心とする広々たる富士の霊地に、大聖人の戒壇建立の本意があったと拝する。本門の戒壇は、一宗の中心であり、かつまた民衆救済の根本道場である。現在、本門戒壇の大御本尊まします富士大石寺こそ、本門戒壇建立の地であることは明らかである。
 凡そ戒壇建立地の大前提たる富士山は、大聖人の定め給うところながら、その山麓の何処であるかは、唯授一人の血脈を紹継され、時に当っての仏法上の決裁を示し給う現法主日達上人の御指南を基本とすべきである。戒壇建立の地は、正本堂の意義に徹するも大石寺であることを拝信すべきである。
 次に「時を待つ可きのみ、事の戒法と申すは是なり」の文を拝する。
 まず「時を待つ可きのみ」の「時」をどのように考えたらよいのか。
 仏法の「時」というのは、本質的には、随自意で判断すべきものである。日蓮大聖人が今こそ、三大秘法の大白法流布の時と判断されたのは、究極するところ、大聖人の御内証からの叫びであった。人が、どう理解しようが、どのように反対しようが、この「時」だけはどうしようもない。すなわち、人々の機情よりさらに根源的なところに流れている仏法上の「時」に立って、大聖人は、御本尊を建立遊ばされたのである。
 また「時を待つ」といっても、それは、時をつくりつつ待つのであって、ただ手を拱いて待つのではない。
 さらに、仏法の「時」は、決して固定化した一時点を指すのではなく、もっと、ダイナミックで、かつ大きいものである。したがって大聖人が「時を待つ可きのみ」と仰せられたのも、一つには末法万年尽未来際の広宣流布を望んで壮大なビジョンの上から仰せられたものと拝する。
 むろん、ここに示された「時」とは「王法仏法に冥じ……末法濁悪の未来に移さん時」との、戒壇建立の時と条件を示された御文を受けて仰せられたものであるか、その御文じたいも、決して固定化された一時点を指すものではない以上、「時を待つ可きのみ」の「時」も、幅をもったものとして解釈すべきである。
 かっての世界の有名な建造物も、それこそ何百年という歳月の年輪が刻まれて、人々の心の依処となっているものが少なくない。そうした大局観に立てば、大聖人の仏法が、七百年後の今日開花しつつあるのも、その間の深い底流があったればこそであると思う。ゆえに「時を待つ可きのみ」といわれたその時が今日すでに到来したともいえるし、さらに未来を望んで、新しい時代の開拓に努力しなくてはならない。大聖人の仏法は、一人一人の幸福を、生命の次元から、根本的に確立していくところから出発し、またそこに帰着する。たんに形式的に、戒壇を国立にしなければならないといった論議は、仏法の本質を見失った、本末転倒の考え方であるといわざるをえない。
 さらに考えれば、大聖人が「時を待つ可きのみ」と仰せられた御聖意を拝するに、予め社会次元での形式を論ずることは、かえって一定の制約をつくることになり、むしろ、時代に応じて、最も適切な方法をとるべきであるとの余地を残されてこのように仰せられたとも考えられる。大聖人が、他の御書においても、一切戒壇の内容についてふれられていないのも、こうしたご配慮があったればこそではなかろうか。
 以上のことを前提において現在は仏法上いかなる時であるかを決し、宗門緇素にこれを指南し給う方は、現法主上人にあらせられる。
 今や現実に創価学会を中心とする信徒の大折伏は世界に及び、信徒数また甚しく強盛に信行に精進されている。此の時において法華講総講頭池田大作先生の発願による正本堂は、世界に冠たる大殿堂の雄姿を現わし、来る十月に完成の運びとなっている。かくて日達上人には、さる四月二十六日の教師指導会の席上において、更に四月二十八日の訓論において、正本堂の意義を明らかに発表あそばされた。すなわち
「正本堂は一期弘法抄並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。但し現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり」
との御指南である。右文中「一期弘法抄、三大秘法抄の意義を含む-」とは、正本堂が広宣流布の暁が釆たとき、本門寺の戒壇となるベき大殿堂である、という意味である。
 従って正本堂は現在直ちに一期弘法抄、三大秘法抄に仰せの戒壇ではないが、将来その条件が整ったとき、本門寺の戒壇となる建物で、それを今建てるのであると、日達上人が明鑑あそばされ、示されたのが此の度の訓諭であろう。
 さて右の訓諭の意を三大秘法抄の
「時を待つ可きのみ」
の御文に照すと
「一期弘法抄、三大秘法抄の意義が、完全に顕現するときは未来であるが、すでにその用意としての建物を建てるベき時が来ており、それが正本堂である」
という御意と思われる。
 けだし王仏冥合の文意は、前にも述べたが冥合の二字に於て、時間的に相当の経過が考えられ、その間ある顕著な趣向的時点より、達成に至るまでの道程が当然有すべきである。
換言すれば、流行の広布の熾盛なる段階より、流溢の広布への道程の全体が王仏冥合の時と考えるべきである。
 とすれば宗門未曾有の流行の広布の相顕著なる現在も、王仏冥合の時と云える。此の時に感じて法華講総講頭池田大作先生が大願主となって、正本堂を建立寄進され、日達上人猊下は今般これを未来における本門寺の戒壇たるべき大殿堂と、お示しになったのである。
 もしいまだ建物建立の時も至らずと考え、三大秘法抄の前提条件も整わないとして、前もって戒壇を建てるのは「時を待つ可きのみ」の御制誠に背くという意見があるとすれば、それは不毛の論に過ぎない。時を待つ可きのみの文は、たんに建てるべからずという御制誡としてよりも、広布への大確信と共に時至るを待てとの御意であり、時至らば進んで建立にはげむべしという激励を言外に込められたものと拝される。そして三大秘法抄の戒壇の文全体にたいし、今迄述べ来たった拝し方において当然いえることは、現在戒壇建立の意義をもつ建物を建てるべき時であるという事である。否むしろ我々宗門僧俗の信心の熱情の表われとして、進んで全員一致し、事の戒壇を建立して広宣流布に邁進することこそ大切である。したがってこれに反対し誹謗する者は、猊下に反し、また三大秘法抄の文意にも背くものとなる。
 さて次の「事の戒法と申すは是なり」について、
「事の戒法」の語自体としては、解釈上三つの意味が含まれている。
 その第一は天台の迹門の理戒に対する本門の事の戒法という相対的な立場である。すなわち釈尊の一代仏教中、小乗権大乗では五戒十戒比丘の二百五十戒此丘尼の五百戒十重禁戒四十八軽戒等を説いて、行者の実際の行動を律するゆえに事戒という。これに対し迹門の円戒は、これらの事を捨て、専ら法華の理に意を注ぎ、観念することにより悟りを顕す。これいわゆる廃事存理の法華一乗戒である。三大秘法抄(全一〇二二)に
「この戒法立ちて後延暦寺の戒壇は逆門の理戒なれば益あるまじき処……」
と仰せあるごとく末法に入っては無益の戒なのである。
 これにたいし末法の大聖人の仏法では、現実に吾々が不受余経一偈の誓いをもって下種妙法を受持し、その行体が即妙法蓮華経である故に事戒といわれるのである。しかるに末法の妙法とは御本尊であるから、御本尊を受持することが天台の理戒にたいし事の戒法となる。また御本尊安置の場所を戒壇というから、大聖人の仏法において戒法は即戒壇に当るのである。
 第二の事の戒法(戒壇)とは、大聖人の一期弘通の本懐たる三秘惣在の本門戒壇の大御本尊であり、またその所住の処である。釈尊の法華経本迹二門が通じて迹門の理の一念三千であるに対し大聖人の仏法は寿量品文底の本門事の一念三千の法体である。故に大聖人の本懐の戒壇の大御本尊は三秘惣在の事の法体であるからその当体直ちに事の戒法であり、事の戒壇である。これに対し、僧俗信心の徒が、夫々の住所において書写の御本尊を受持する処、その義が事の戒壇に当るのである。
 第三には正しく三秘抄の文のごとく、広宣流布して仏国土が顕現される処を事の戒法というのであり、先師は事相の戒壇ともいわれている。これは、要するに妙法受持の功徳が社会層の内面に広く深く浸透し、仏法の正義があらわれ、平和福祉社会に正法が顕現する。いわゆる王仏冥合の理念が現実に現われること、それが根本朗な本門の金剛宝器戒の捨悪持善の相である。
 ただし、一切の民衆に妙法の功徳が授与されるのは、本仏大聖人の仏法の根本法体たる、本門戒壇の大御本尊がまします故である。ややもすれば三大秘法抄の広大雄壮な御文や眼を奪われ勝ちであるが、その文の裏底には戒壇の大御本尊が厳としておわしますことに注意すべきである。
 この大御本尊は三大秘法惣在の御本尊であり、三大秘法抄(全一〇二三)の
「今日蓮が所行は霊鷲山の稟承に芥爾計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり」
の文の「事の三大事」に深く心を致すべきである。
 故に日達上人の
「本門戒壇の大御本尊のおわします処、何処何方においても事の戒壇である」
という御指南が示される所以である。従って現在の奉安殿も事の戒壇であり、正本堂に戒壇の大御本尊がお出まじになれば、その処直ちに事の戒壇である。これが訓諭の
「現時における事の戒壇」の意味である。故に三大秘法抄の「戒壇……事の戒法」の文は、事相の事の戒壇を示されるものであり、「現時における事の戒壇」とは根源の戒壇を指すのである。
 ここに至って日寛上人の戒壇論を学んだ人は、例えば文底秘沈抄の
「夫れ本門の戒壇に事有り義有り。所謂義の戒壇とは即ち是れ本門本尊所住の処、義の戒壇に当る故なり、乃至正しく事の戒壇とは、一閻浮提の人懺悔滅罪の処なり。但然るのみにあらず梵天帝釈も来下してふみ給うべき戒壇なり。秘法抄に云く云々」
等の文を拝して、本尊所住の処は事の戒壇でなく、義の戒壇にあらざるやとの疑いを持つかも知れない。日寛上人は一般論的な説明の上から、一大秘法、三大秘法、六大秘法の開合において、戒壇の義と事を述べ給うたのである。ゆえにその広汎の著述中戒壇の法門として義と事に触れるところは多い。然るに「本門戒壇本尊」との名称を挙げて、そのおわしますところ(所住の処)を義の戒壇と説かせられる文は一か処も有しない。いな、むしろ本門戒壇の本尊の処義理の戒壇でないことを決し給うている。ここに深意のある所以を拝さなくてはならない。
 以上の理由として更に一文を引こう。日寛上人の法華取要抄文段に
「当に知るべし、本門の戒壇に事有り理有り、理は謂く義理なり、是れ即ち事中の事理にして迹門の理戒に同じからず、其の名に迷う勿れ、故に亦義の戒壇と名づけんのみ。
 初に義理の戒壇とは本門本尊所住の処は即ち是れ義理事の戒壇に当るなり、経に云く当に知るべし是の処即ち是れ道場とは是なり、天台云く仏其の中に住す即ち是れ塔の義等云々、故に当山は本門戒壇の霊地なり、亦復当に知るべし広宣流布の時至れば一閻浮提
山寺等皆嫡々書写の本尊を安置す、其の処皆是れ義理の戒壇なり、然りと雖も仍是れ枝流にして是れ根源に非ず、正に本門戒壇の本尊所住の処即ち是れ根源なり。
 妙楽云く像未の四依仏法を弘宣す、化を受け教を稟く須く根源尋ぬべし、若し根源に迷うときは増上して真證に濫る等云々、今日本国中の諸宗諸門徒何ぞ根源を討ねざる耶浅間し々々々云々、宗祖云く根深ければ枝繁く源遠ければ流れ長し等云々、凡そ此の本尊は久遠元初の自受用の当体なり、豈根深く源遠きに非ずや、故に天台云く本極法身微妙深遠等云々。
 次に正しく事の戒壇とは秘法抄十五冊一云く、王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に三の秘法を持ちて、有徳王覚徳比丘の其の乃往を末法濁世の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か、時を待つ可きのみ、事の戒法と申すは是なり等云々、問う景勝の地とは何処を指すべきや、答う応に是れ富士山なるべし、故に富士山に於て之を建立すべきなり」(以下略)
と示されている。右文を大別すると「当に知るべし」より「義の戒壇と名けんのみ」までは戒壇に事と理とあるを示す文である。次に「初に義理の戒壇とは」より「微妙深遠等云々」までは義理の戒壇を明し、次に「正しく事の戒壇とは」より以降は事の戒壇を明されている。
 そして問題は義理の戒壇を明す部分の
「広宣流布の時至れば」
以下の文にある。
 まず「広宣流布の時」とは後に示される事の戒壇を相望して広布に約される言であるが、この場合は広布の条件を示す文ではない。(その理由は後述する)従って以下の文意は広宣流布の時至って始めて顕われる意味ではなく、それ以前の法相にも通ずるものである。さてそれはいかなる文意か。いわく、
 多くの山寺に嫡々血脈付法の書写の本尊を安置するが、その処は皆是れ義理の戒壇である。然りと雖もなお枝流であって根源ではない。本門戒壇の本尊所住の処すなわち根源である。
と拝するのである。したがって各山各寺の本尊は義理の戒壇で濁り、枝流であるが、本門戒壇本尊は根源であるから義理の戒壇ではないとして、戒壇本尊の所住と、義理の戒壇とをはっきり区別された文と思われる。日寛上人の著書の各処に「本門の本尊所住の処義の戒壇」と示されるのは三秘六義に立て分けての説明であって、本門戒壇の本尊はその総体であるからである。
 但し右の拝し方については、左の二点の疑難が残ると思われる。
 その一は、先にものべたが「広宣流布の時至れば」とある以上、その時が来なければ決定しない筈である。いわゆるこの文意は未来広布時に約すべく、現在に約すべきではない、との難である。
 しかしこれは文になずんで義に達しない解釈である。広布の時、とは一国全体の範囲に約されたのであって、その時であっても、山寺の本尊は枝流であって根源でない。(況んや現在も亦同様である。)との意を含んでいる。その証拠に以下の法相は明らかに、広布の時を待たねば現われないというものではない。広布以前に於ても、正宗門家の山寺に安置する本尊は義理の戒壇であり、また本門戒壇の本尊を根源と称することは変りないからである。
文底秘沈抄に
「根源とは何ぞや、謂く本門戒壇の本尊是れなり、故に本門寺の根源というなり」
とあり、根源は全く広布の以前以後にかかわらないのである。従ってこの文は再往現在に約して解釈すべきである。
 その二は、この文を含めてその前後が義理の戒壇を明す部分に当るから、山寺等安置の嫡々書写の本尊が、義理の戒壇における枝流であるに対し、本門戒壇の本尊は義理の戒壇における根源であると解すべしという難である。それなら前文の「広宣流布の時」の文をどう拝するか。もしその考えによると、広宣流布の時本門戒壇本尊安置の処は義理の戒壇で、事の戒壇ではないという解釈になる。本門戒壇の大御本尊が広布の時も義理の戒壇だいうことは、次の事の戒壇の文と全く関係がないことになり、これは大変な誤りとなる。また事をあえて理というのであるから(事の戒法)の文に明らかに背反する。
 次に根源の文字そのものが義理の戒壇に当ることは絶対にありえない。従ってこの「根源」の二字は「枝流」の二字を簡ぶと共に、「義理、戒壇」の四字をも簡んでいる。すなわちこの文は、本門戒壇本尊の所住の処は根源であって、義理の戒壇でないことを明されたのであり、その区別を示されたのである。          ′
 しからば何故に義理の戒壇の一連の文相中に、義の戒壇でない「根源」について示されたかといえば、これは一閻浮提の山寺等の義理の戒壇と対当関連して表示する意味があるから、その便宜に随われたのである。文になずんで意義を見失ってはならない。
 以上述べたごとく、本門戒壇本尊所往し給う処は、日寛上人の通途の御説明による義ないし義理の戒壇には含まれないことが明らかとなった。この大御本尊の所住を日寛上人は根源と表現あそばされたが、今日達上人は現在の時に臨んで事の戒壇なりと御指南あそばしたのである。
 これに対し諸寺諸山並びに檀信徒各位の奉安し守護する御本尊は、義の戒壇に当るのである。
 かかる根本の事の戒壇ある故にこそ、その霊場を踏み奉るともがらは、無始の罪障忽ちに消滅し、妙法受持の功徳と確信を深めうるのである。かくて五十展転の随喜による折伏教化を盛んにして、遂に三大秘法抄の王仏冥合の事相を顕現するに至らんことは必然である。随って三大秘法抄の事相の事の戒壇は、根本の法体の事の戒壇まします放であることを見失ってはならない。これを忘れて事相の戒壇のみを論ずるものは、遠きを見て足元を忘れ、高きを見て先ず昇ることを忘れるに等しいのである。
 訓諭の「現時における事の戒壇」が国立戒壇でないのは勿論であるが、三大秘法抄の事の戒壇もこれを国立と見ることは、仏法の如実の展開上誤りであり、前来論ずる通りである。
 最後に「三国並に一閻浮提の人、懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王帝釈等も来下してふみ給うべき戒壇なり」
の文は、戒壇の意義内容および世界平和論を展開されたものである。本門戒壇は、日本、中国、インドの三国のみならで全世界の民衆が、ここに集って、金剛宝器戒、防非止悪捨悪持善を誓い、過去遠々劫の宿命を転換し、そこから、世界平和、仏国土を現出していくとの御意と拝する。
 大聖人の仏法は、一国のためのものではない。全世界の人々のためのものである。大事なことは、本門戒壇が何のために建てられるか、という意義内容である。この御文によれば本門戒壇は、全世界の人々の幸福と平和の実現のために建立すべきであり、全人類に開かれたものである。
 もし「勅宣並に御教書」という当時の時代背景を考慮された御文に固執し、大聖人の仏法の本質、そして仏法の全体観、また時代観を見失い、戒壇の目的自体をも失うならば、いたずらに、大聖人の仏法を「死す」所行となろう。現代において、いかにしたら戒壇の意義を実現させることができるか、これが、大聖人の末弟が最む心をくだくべき課題なのである。

七、結  論

  以上において国立戒壇の名称や意味するところを、各方面から検討を加えたのである。しかるに今日以降の宗門においてこの名称が必要であるという理由は全然発見出来ない。かえって宗門の前進を寒ぐものであると思われる。
 国立戒壇の名称自体明治以後のものであり宗門古来の法義ではない。また法義の本質からいえば必要ないものであり、現在では非常な誤解を生ずる。とくに法主上人みずから以後この名称は用いないことを宣言あそばされている。
 いまだにこの見解に執着しているものがあるとすれば、猊下の御指南を拝し、一刻も早く執見を捨てるべきである。そして輝かしい広宣流布への大道である正本堂の建立に向って異体同心の聖訓を体し、僧俗全体が一致団結して邁進することが肝要であろう。(完)


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