星界の道~航海中!~

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興師会

【日蓮正宗の行事】 より。

【日興上人法要(興師会)こうしえ】
 年中行事の意義は、総本山富士大石寺に伝わる深遠な仏法を正しく伝えるとともに、僧俗が親しく行事に参加することによって、仏縁を深め、もって広宣流布への前進を期するところにあります。この興師会(こうしえ)は日興上人のご命日の二月七日に総本山はもちろん、末寺においても執り行われます。これは日蓮大聖人から仏法の正義を受け継がれ、後世にまで正しく法灯を伝えて下さった日興上人に対し奉り、僧俗一同心からご報恩申し上げるために厳修(ごんしゅう)する法要です。
 私達がいま宿縁深厚にして大聖人の仏法にあい、人生最大の目的である成仏の境界を得ることができるのは、ひとえに正法正義を堅く守り抜かれた日興上人がおわしましたからであり、それゆえに本宗では僧宝(そうぼう)の随一として崇めています。いまその末弟に連なる者が深い感謝の念をもって、ご報恩のため、日興上人ご入滅の二月七日に法要をいとなむのは当然といえましょう。
 総本山では二月七日はもちろんのこと、毎月七日にも<お講日>といって御影堂(みえいどう)において法主(ほっす)上人ご出仕のもと、日興上人ご報恩の法要がおこなわれています。

いま明治年間に記された年中行事の中から、興師会のところを見ると、
 六日、早朝雲板(うんばん)にて満山犬坊に集まり、メンドリ窪(くぼ)へ下男一人召し連れ出張、助番(じょばん)の当番は地主へ立ち寄り御開山会(え)の芹(せり)を摘みに来たる由を申し入れるなり、メンドリ窪にて、カンゾ、桑枝二本、ススキ二本取り来るなり(中略)芹は七日朝重箱に入れ
   進物台にのせて上るなり料理出来次第客殿へ御膳(おぜん)上る、雲板にて御本番来り共に御膳こしらえ上げ次第半鐘太鼓にて御前御出仕、御経世雄掲(せおげ)寿景品引題目、終って満山へ御膳を出す

 御流れ頂戴の事
 七日、衆会(しゅうかい)例の如し、早朝大梵鐘をつくべし料理は前日の如し、いり豆に桑の箸を付け、芹の重箱にススキの箸を付けて備うべし、仕度出来次第雲板にて客殿に来集、御膳上り次第半鐘太鼓にて御前出仕、御経世雄掲寿量品引題目、終って一同へ御膳出す、万事六日の通り御流れにて豆、芹は取り廻しの事とあります。もちろん年中行事は化導の儀式なので時代によって多少の変化はありますが、現在でもほとんど昔のとおりおこなわれています。右の中に芹摘(せりつ)みのことが出ていますが昔から興師会には芹をお供えするならわしになっています。伝えによると日興上人は粗衣粗食であらせられ、八十八歳のご老身に至るまでお弟子が摘まれた若芹(わかぜり)を常に愛好されたということです。それで現在でも興師会の前日、総本山では寒風が肌を剌す中を助番増や大坊在勤の所化が日興上人のご威徳を偲びつつ青々とした若芹を摘みご宝前にお供えしています。
またこれにはお初物を差し上げる意味も含まれていると思われます。日興上人のお手紙にも「せり(芹)御す(洒)の御はつを(初穂)仏にまいらせて候、いまだいづち(何地)よりもたび候はず」の文が拝され、芹つみの行事は六百数十年前の二祖日興上人にたいするお弟子方の給仕の面影を、ほうふつとさせるものがあるといえます。

 ここで日興上人について少し述べてみましょう。
 日興上人は後深草天皇の寛元四年(一二四六年)三月八日、甲斐国(山梨県)巨摩(こま)郡大井荘鰍沢(かじかざわ)にお生まれになりました。「師生まれながらにして奇相あり特に才智凡ならず」と日霑上人の興師略伝にもありますが、幼少の頃からすでにその非凡であられたことが想像されます。幼くして父を失ったため、駿河国(静岡県)富士河合の外祖父由比入道に養なわれ、附近の蒲原荘(かんばらのしょう)の四十九院に上って仏法を学び、兼ねて良覚美作阿闍梨(りょうかくみまかさあじゃり)から漢字を、冷泉(れいぜい)中将隆茂について歌道・書道を究められました。特に能筆の才腕は素晴らしく、後年日蓮大聖人のお手紙を代筆されたり、あるいは重要な御書を写し取って後世に残されるなど、今日もその見事な数多い筆跡を拝することができます。

 正嘉二年、日蓮大聖人が立正安国論執筆に当り駿河加島荘(かじまのしょう)岩本の実相寺において一切経を閲覧された時、久遠の師資(しし)ここに相い会(え)し、大聖人の弟子となられました。それ以後は、内にあっては影の形(かたち)に随うが如く常に大聖人のおそばを離れずお給仕申し上げて弟子の道を尽くし、外にあっては、甲斐・駿河・伊豆・遠江(とうとうみ)の各地において折伏弘教の大法将として活躍されました。とくに弘長元年の伊豆ご流罪、文永八年の佐渡ご流罪には大聖人と艱苦(かんく)を共にされました。このように師に対する不断の奉仕と熱烈な信仰により、師弟相対の上からおのずと大聖人の真の教えを会得(えとく)されたのです。

 先にも述べたとおり日興上人の折伏はすさまじいものがあり、あの壮烈を極めた熱原(あつわら)の法難も、その大折伏に対してひき起されたものでした。しかし大聖人の指導と日興上人の指揮によって信徒は一致団結して退転することなく、死地にあっても従容(しょうよう)泰然として声高らかに妙法を唱えたのです。弘安五年九月に大聖人から一切の仏法を付嘱され、十月十三日には身延山の貫主(かんず)としての付嘱も受けられました。

 大聖人滅後、関東方面の五老僧達は権勢を恐れて軟化し、もろもろの師敵対謗法をおかし、次第に大聖人の正義を失いましたが、日興上人はいささかも教義を曲げることなく、正義を守り抜かれました。身延に在ること七年、地頭の四箇の謗法により身延の山もついに魔の栖(すみか)と化してしまい、断腸(だんちょう)の思いで去ることを決意されました。これも偏に゙日興一人本師の正義を存して本懐をとげ奉るべき者゛との信念によるものと拝されます。
 そして戒壇の大御本尊をはじめとしてすべてのご霊宝を富士へお移しし、大聖人のご遺命によって広布の基盤をこの地に奠(さだ)められました。富士山に本門戒壇を建立するということは深いご仏意(ぶっち)によることであり、日興上人によってその第一歩が印されたのです。
 後年五老僧中の日朗師は日興上人のもとに来て前非(ぜんぴ)を悔い、また日頂師も富士に帰伏しています。これらの史実は゛大聖人の仏法、富士に在り゛という明らかな証拠といえましょう。富士へ移った日興上人は南条時光殿の寄進により大石寺を創立して戒壇建立の基礎を築き、門下の養成、御書の結集、全国的な折伏弘教、あるいは国家諫暁と、広宣流布への指揮をとられました。
 このころ弟子の日尊師があることから破門された時、発奮して三十六ヶ寺を建立し許されたといわれています。日興上人門下の清純な信心と盛んな折伏精神をよく物語るものといえましょう。

 かくて本門弘通の大導師・白蓮阿闍梨日興上人は、八十八歳の長寿をまっとうされ、元弘三年(=正慶二年、一三三三年)二月七日薪(たきぎ)尽きて火の滅するが如く安祥(あんじょう)として富士重須(おもす)の寺(現在の北山本門寺)でご入滅されました。
 大聖人滅後七百年、室町・戦国時代の動乱の中、また布教活動弾圧の江戸時代を経て、連綿として法灯が厳護されてきた根元は、この日興上人の死身弘法(ししんぐほう)、令法久住(りょうぼうくじゅう)のお働きがあったからこそといえます。
 この日興上人の御精神(みここ)を精神として、広宣流布を目指し僧俗一致して前進することが、ご鴻(こう)恩に報い奉る唯一の道であり、興師会を奉修する精神なのです。

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