昭人のマンションへ、妹夫婦が彼のことを心配して、夕食を作りにきていた。
妹夫婦と一緒に食事する彰人。だが、あまり食は進まない。
彼女が生きていた頃は、よくリビングのテーブルに色とりどりのきれいな花が飾られていたものだった。今ではすっかり色あせてしまったその部屋は、まるであるじを失ってしまった抜け殻のようにも見え、何となく悲しさが漂っていた。
「お兄ちゃん、食べなきゃ身体もたないわよ」
箸のまったく進んでいない兄に向かって、理沙子は心配げに言う。
「悪いな。2人とも忙しいのに、わざわざ夕食作りにきてくれて…」
妹夫婦の気づかいはとても嬉しかった。だが、その礼を言う彼の笑みには誰にも救うことのできない悲哀が秘められているのだった。
「なに言ってんのよ。どうせうちに帰ったってご飯作んなきゃいけないんだから、2人分も3人分もそんなに変わらないわ。だから、そんなこと言わないで」
さっぱりとした口調で言って、さわやかな笑顔を見せる理沙子。そんな妹の優しさが、彼にいっそう幸福だった頃のことをフラッシュバックさせた。
「ありがとう」
「気にしないでくださいって。それよりお兄さん、明日からロスへ出張なんでしょう?今のうちに和食いっぱい食べとかないと、後で恋しくなるかもしれませんよ」
理沙子の夫、秀樹も実に気さくで誰からも慕われる好青年だった。婚約者を亡くした昭人のことも、よく気がけてくれる。だが、今の彼にとって人の優しさなど少しの癒しにもなりはしなかった。優しくされればされるほど、悲しみが募るばかりだった。
「あぁ、そうだね」
そう小さく言った彼の瞳はどこか遠く、幸福だったあの頃を見つめているかのようにも思われた。
翌朝、彼が出勤途中駅前を歩いていた時だった。
若い妊婦が、苦しそうにしゃがみこんでいる姿を発見してしまう。
出張のことはもちろん頭にあったのだが、どうしても放ってはおけず昭人は、急いで傍に駆け寄り声をかけた。
「大丈夫ですか?しっかりしてください!」
妊婦は、それに答えることもままならない様子でぐったりとうずくまっている。
「がんばってくださいね!今、救急車呼びますから」と彼は苦しそうに顔をしかめている妊婦に励ましの言葉をかけながら、スーツのポケットに入っていた携帯電話を取り出し119番通報した。
救急車を待っている間も彰人は、妊婦に優しい言葉をかけ続けた。間もなく救急車が到着し、救急隊員達が素早く車内に妊婦を運び込む。
「さぁ早く、ご主人も乗ってください」
「いえ、僕はその」
「いいから急いでください!一刻を争うんです」
「いやしかし、僕はですね!」と昭人は必死に自分は妊婦とは何の関わりもないことを伝えようとするが、隊員2人がかりで車内に半ば無理やり引き込まれてしまう。
走り出す救急車。駅がどんどん遠ざかって行く。ロス行きの飛行機には、今ならまだ間に合う。しかし、彰人はあえて降りようとはしなかった。ゆきがいなくなってしまった今となっては、仕事も何もかも彼にとって、もうどうでもよいことのように思えてしまっていたからなのだった。
年代を感じさせる古めかしい産婦人科の待合室で、昭人は長椅子に腰かけぼんやりと白い壁を見つめていた。
ふと彼が、壁にかけられている時計に目をやると時刻は10時20分を過ぎていた。飛行機の出発時刻は10時35分。どんなに足掻いたところで、今さら間に合うことはない。彰人は、大きな溜息を1つ落とした。
妊婦が分娩室に入ってから3時間ほど経過したころ、元気な赤ん坊の産声が室内から聞こえてきた。それとほぼ同時に、妊婦の夫であろうと思われる青年が院内へと駆け込んできたのだった。昭人は急いで椅子から立ち上がり、
「あの、岡野さんのご主人ですか?」と尋ねた。
「あ、はい。では、あなたが妻を」
「はい」
青年は「どうもありがとうございました!」と深々と頭を下げた。
分娩室のドアが開き、ナースが赤ん坊を抱いて出てくる。
「岡野奈絵さんのご主人はいらっしゃいますか?」
ナースが室内を見渡して言った。
「はい!」
青年はすぐさま赤ん坊の傍へと歩み寄った。
「かわいらしい女の子ですよ」と優しく微笑する中年のナース。
「いや、本当に…」と照れたように言って、青年は満面の笑みを浮かべる。
青年の幸せそうな笑顔を見て、彰人は久しぶりに笑みを浮かべた。
「よかった」
ほっとしたように小さく言って、昭人がその場から立ち去ろうとしたその時だった。待合室のテレビからこんなニュースが耳に飛び込んでくる。それは、午前10時35分発のロスアンゼルス行き飛行機墜落事故のニュースを知らせるものだった。ニュースキャスターが、乗客のほとんど全ての命が絶望的であることを伝えている。彰人も予定どおりその飛行機に乗り合わせていたならば、確実に彼は今この世に存在していなかっただろう。
病院からの帰り道、晴れ渡った大空を仰いで彼は想った。-「予定どおりあの飛行機に乗っていたら、君の元へ行けたのに…」
澄んだ空を見上げたまま彼は
「ゆき、また僕は死に損なってしまったよ」と力なく呟いた。
潤んで行く陽光が眩しくて瞼を閉じると、いくつもの涙が彼のまつげの端からキラキラと散った。

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