「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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6月放送分
♪毎日モーツァルト♪
6月放送
<6月1日>第84回予約演奏会 ピアノ協奏曲第13番ハ長調 K415 第三楽章
ウィーンで人気作曲家としての地位を獲得しつつあるモーツァルト。当時彼の収入源はピアノレッスンと予約演奏会であった。予約演奏会とは、音楽家自らが会員を募って開く演奏会。貴族の邸宅や劇場なので行われた。
モーツァルトはメールグルーべでしばしば演奏会を開催した。そこには名だたる貴族や名士が名を連ねた。1784年の演奏会では会員が174人にのぼった。
ピアノ協奏曲第13番は1783年11月に初演。後に皇帝の前でも披露された。モーツァルトは数々の演奏会を成功させ、音楽家としての名声を高めていった。
<6月2日>第85回ハイドン 弦楽四重奏曲第14番ト長調K387(ハイドン四重奏曲第一番)
1782年モーツァルトは新しい弦楽四重奏曲集に出会う。尊敬してやまないヨーゼフ・ハイドンの作品集であった。
ハイドンはエステルハージ家の楽長として仕え、数々の名曲を生み出していた。
弦楽四重奏曲の父とも呼ばれるヨーゼフ・ハイドン
モーツァルトはハイドンから弦楽四重奏曲を学んだといわれる。
ハイドンへの尊敬の念をこめて弦楽四重奏曲の連作にとりかかる。第14番は1782年12月に完成した。明るい曲想ながら独特の緊張感を保っている。
1785年1月、2年の歳月をかけて6つの弦楽四重奏曲を完成させる。そして最終的な手直しを経て、その年の9月に出版。6つの楽曲を自分の息子に例えてハイドンへ捧げた。
モーツァルトとハイドン、二人の天才は生涯変わらない友情で結ばれる。
<6月5日>第86回 トルコブーム ピアノソナタ第11番イ長調K331「トルコ行進曲付き」
第一・三楽章より
1783年27歳のモーツァルトはブルグ館でコンスタンツェと暮らしていた。オスマントルコ戦勝利100年を迎えた町にはトルコブームが広がっていた。この頃手がけたのが「ピアノソナタ11番」
なかでも第3楽章「トルコ行進曲」はとりわけ有名である。
17世紀後半オスマントルコ軍に包囲されウィーンは没落の危機にあった。ウィーン北西部にある標高425mの山レオポルツベルクにはオーストリアからの要請を受けて救援軍が集結した。トルコ軍への総攻撃を前に兵士達は祈りを捧げた。
夕刻、救援軍の兵士達は山を一気に駆け下り、トルコの大軍の中に突入してついにウィーンを解放した。
モーツァルトはトルコの軍楽をモチーフにしてこの曲を書いた。その旋律とリズムはトルコ軍が勇ましく行進する情景をほうふつさせる。
打楽器を特徴としたトルコ軍楽の雰囲気を再現するため、この演奏ではピアノにシンバルも加えている。
流行の異国情緒を巧みに取り入れ作曲された代表作。モーツァルトの音楽はさらに成熟の度を深めていった。
6月6日第87回 妻の妊娠 ピアノソナタ第12番ヘ長調 K332
第3楽章
故郷の父の承諾を待たずに結婚に踏み切った事で、父との間にわだかまりが残っていた。その一方妻コンスタンツェが身ごもった。義父とのわだかまりに心を痛めていたコンスタンツェは、いつか心から打ち解けることが出来るよう願っていた。
モーツァルトは身重の妻を労りつつ、子供の誕生を待ちわびた。この頃作曲されたといわれる「ピアノソナタ第12番」円熟した手法で華やかな世界を作り上げている。
妻の出産が迫ったある日、父に手紙を書いた。生まれてくる子が父との和解を取り持ってくれるかもしれない。モーツァルトはひたすら我が子の無事の誕生を願っていた。
<6月7日>第88回 ホルン奏者 ホルン協奏曲第2番 変ホ長調K417
第2・3楽章
1783年作曲の「ホルン協奏職第2番」は最近の研究で、モーツァルトが最初に手がけた協奏曲である事がわかった。
狩の合図に用いられた角笛を起源とする楽器ホルン。18世紀後半、オーケストラのなかで、重要な役割をになうようになっていた。
柔らかくうたいあげるように響くホルンの自然の音色。
モーツァルトはこの曲を親友のホルン奏者「ロイトゲーブ」のために書いた。ロイトゲーブはかつてザルツブルグ宮廷楽団の同僚だった。故郷ウィーンに戻り、チーズ店を営む傍ら演奏会も開いていた。
モーツァルトは「ロバのロイトゲープ」とからかうくらい仲が良かった。二人のユーモアと遊び心はホルンの演奏の中にも発揮されている。
ホルンが感傷的に歌い上げようとすると、すかさずヴァイオリンがからかうような合いの手を入れる。
硬い友情で結ばれた二人の交友はモーツァルトの生涯にわたって続いた。
<6月8日>第89回 長男誕生 弦楽四重奏曲第15番ニ短調K421(ハイドン四重奏曲第2番)
モーツァルトの長男はアム・ホーフ教会で洗礼を受けた。この弦楽四重奏曲は妻に出産の時期に作曲された。第三楽章はまさに出産の最中にかかれたと後に妻が回想している。
妻の陣痛が始まり、モーツァルトはそばを離れなかった。妻が苦しむたびに傍らで励まし、落ち着くと再び楽譜に向かいこのメヌエットを書き上げたという。
朝6時半、ついにマルマルとした元気な男の子が生まれた。出産後妻が体調を崩しモーツァルトは心配するが、その後ほどなく回復した。
モーツァルトは父親になった喜びを手紙にしたためる。
二人の結婚に承諾をしなかった父も、出産の無事を祈っていてくれた事がわかりモーツァルトは喜ぶ。
モーツァルトが最愛の息子に付けた名前は
ライムント・レオポルト
父の名と同じだった。
<6月9日> 第90回 帰郷の決意 幻想曲ニ短調 K397
17783年夏、愛する妻や息子とともに過ごす穏やかな日々。貴族の子女にピアノを教えるなど暮らしぶりも落ち着いていた。
二年前ウィーンに移り住んで以来、父や姉とは会っていない。モーツァルトは妻を連れザルツブルグに里帰りしようと考えた。
しかし二年前大司教と激しく衝突して宮廷を去った彼は気軽に帰る事は出来ない。ウィーンの友人達も口々にモーツァルトに忠告した。
「幻想曲」とは即興演奏のように自由に構成された器楽曲のこと。
この「幻想曲ニ短調」は憂いを秘めた美しい旋律が特徴。
モーツァルトの下に父から帰郷を促す手紙が届いた。父の手紙に後押しされ帰郷を決意する。長男を乳母に預け、コンスタンツェとともに旅立った。
<6月12日> 第91回 帰郷 弦楽四重奏曲第16番変ホ長調K428(ハイドン四重奏曲第3番)
1783年7月ハイドン四重奏曲第3番を書き終えた頃、モーツァルトは妻を連れザルツブルグに里帰りする。
2年9ヶ月ぶりの帰郷は家族とのわだかまりを解く事が目的だった。3ヶ月の滞在中に、家族や友人達と思い出の地を巡った。
モーツァルトは姉ナンネルの誕生日に合わせて帰郷した。ナンネルはコンスタンツェとミラベル宮殿のミサに参列した。表面は穏やかに見えてもわだかまりは簡単には消えない。妻と家族が打ち解けるようモーツァルトの努力は続く。
<6月13日>第92回 M・ハイドン ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲 ト長調 K425
第一楽章
ミヒャエル・ハイドンは1737年、オーストリアの地方都市コーラウで生まれた。モーツァルトが尊敬する「交響曲の父」ヨーゼフ・ハイドンの実弟。兄同様、シュテファン大聖堂の聖歌隊で教育を受ける。1763年にはザルツブルグ宮廷音楽家に就任。
モーツァルトはザルツブルグ時代から19歳年上のM・ハイドンを敬愛していた。特に教会音楽に強い影響を受けた。
M・ハイドンは教会音楽や器楽曲を中心に360あまりの曲を書いた。1781年モーツァルトがウィーンに移り住んだ後、後任のオルガン奏者になったのもM・ハイドンだった。
1783年ハイドンは大司教コロレドから作曲を依頼されていたが。途中で病に倒れる。帰郷していたモーツァルトが救いの手を差し伸べる。こうして書かれたのがこの「ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲」
ハイドンはモーツァルトの楽譜を友情の記念として長らく大切にしていた。モーツァルトもハイドンへの敬愛を変わらず持ち続け、ウィーンに戻ってからも度々ハイドンの楽譜を取り寄せた。
他の宮廷からも誘いのあったハイドンだが、この地にとどまり続け、一生をザルツブルグ宮廷に捧げた。
<6月14日>第93回 約束のミサ ミサ曲ハ長調「大ミサ」K427
「エト・インカルナートゥス・エスト」より
モーツァルトはコンスタンツェとの結婚前に一つの誓いを立てていた。それはもし、結婚の願いがかなうならミサ曲を作り奉納するというものだった。
1783年10月26日、妻を伴い神に誓ったミサ曲を演奏した。
姉ナンネルの日記----弟が自分のミサをあげた。宮廷楽団員がみな参加した。
指揮をしたのはモーツァルト自身。ソプラノのパートはコンスタンツェが歌った。
この曲はキリストを賛美する歌である。大編成のこの曲は聖ペテロ教会の小規模楽団では演奏できなかったため、宮廷楽団員が大挙してモーツァルトのために演奏した。温かく迎えてくれた楽団の仲間達。
結局、父と姉はモーツァルトが期待したほどには、コンスタンツェを受け入れてくれなかったといわれている。
ミサの翌日10月27日、モーツァルトはウィーンへの帰途に着いた。
<6月15日>リンツ 交響曲第36番 ハ長調 K425「リンツ」
第一楽章より
リンツはザルツブルグとウィーンの中間に位置する町。少年時代のモーツァルトも度々訪れている。1780年10月30日。三ヶ月間帰郷を終えたモーツァルトは、ウィーンへの帰途、コンスタンツェを連れリンツに立ち寄る。
リンツでモーツァルトを出迎えたのは旧知のトゥーン伯爵。りンツ滞在中この伯爵邸に宿泊する。現在はモーツァルトハウスとして中庭が公開されている。
到着早々モーツァルトはリンツで演奏会を開くことになる。当時、演奏会のプログラムには交響曲が欠かせなかった。交響曲を一曲も持参していなかった彼は、演奏会までのわずか4~5日で交響曲を書き上げた。
1783年11月14日、演奏会が開かれ出来上がったばかりの曲が披露された。こうして誕生した交響曲「リンツ」
短期間で書かれたとは信じがたい完成度で、たちまち人気曲になった。
<6月16日>第95回 長男の死 ピアノソナタ第13番変ロ長調k333
第二楽章より
このピアノソナタ第13番は従来パリで書かれたとされてきたが、近年の研究では1783年、リンツで着手したと考えられている。
夫妻がウィーンに戻ったのは11月末だった。ウィーンを留守中に悲劇が起きていた。そりあいの乳母に預けていた長男が8月19日に腸閉塞で急死していたのだ。生後わずか二ヶ月の短い命だった。
長男を失った深い悲しみは短い言葉に凝縮されている。
・・・・・僕らは二人とも あの哀れな丸々肥った
かわいい坊やの死を いたく悲しんでいます・・・・・
<6月19日>第96回孤独のアリア アリア「あたり吹く そよ風よ」k431
「あたり吹くそよ風よ」はブルク劇場で初演されたと言われる。オペラ「後宮からの誘拐」の主役も務めた人気のテノール、アダムベルガーが歌った。
このアリアは一人の男が愛する人に永遠の別れを告げるところから始まる。
この作品はモーツァルトが演奏会のために書いたアリアの中でも
傑作のひとつ。
ゆったりとした優しい曲調が急転する。運命の過酷さと、孤独の恐怖を乗ろう歌詞が繰り返される。
長男の誕生とその死に直面した1783年。モーツァルトにとって試練の年が暮れようとしていた。
<6月20日>第97回自作目録 ピアノ協奏曲第14番変ホ長調k449
第一楽章より
1784年1月モーツァルトはグラー弁の一角に引っ越してきた。ピアノのレッスンや演奏会に忙しく駆け回る中で、モーツァルトは作曲の記録をつけ始めた。
右のページには曲の冒頭部分、最初の4小節が書かれている。必要な時すぐに譜面が出せるよう、工夫されて作曲目録。このピアノ協奏曲も1784年3月トラットナー館で初演されたと言われる。
演奏会の前評判は高くそして大成功だった。モーツァルト28歳。
このご、自作目録には自身と意欲に満ちた作品が綴られていく。
<6月21日>第98回ハルモニムージーク セレナード変ロ長調「グラン・ハルティータk361
第三楽章
女帝マリア・テレジアの跡を継ぎ国を治めたヨーゼフ二世は、積極的に芸術を奨励し、モーツァルトのよき理解者であった。
ヨーゼフ2世はとりわけ「ハルモニージーク」を好んだ。そのための専用の楽団も作った。これをきっかけに、貴族達の間にもハルモニムージークが流行した。
モーツァルトもハルモニームジークの作品を3曲残している。この「セレナード」は7楽章の大作。通称「グラン・パルディーぜ(大組曲)」
13人で演奏する事から、「13楽器のためのセレナード」とも呼ばれる。その白眉と言われているのが、第三楽章。細かくリズムを刻む伴奏に乗って、オーボエとクラリネットの美しい旋律が滑らかに対話する。
1784年3月、旧ブルグ劇場で初演されたと言われる。モーツァルトのハルモにームジークの新曲と言う事で注目が集まった。
演奏を聴いた評論家達が・・・輝かしく、偉大で、卓越していて高貴だった!・・・といった。
<6月22日>第99回 人気ピアニスト ピアノ協奏曲第15番 変ロ長調k450
第三楽章より
1784年、ピアニストとしての活動は順調だった。予約演奏会も頻繁に行われた。3月にはトラットーナ館で予約演奏会を3回催す。モーツァルトが住んでいたこの建物にはコンサートホールがあった、申込者の数はこの時期最大に膨れ上がる。会員数174人、いずれも貴族や裕福な市民ばかり。
3月の予約演奏会で「ピアノ協奏曲第15番」を演奏した。ピアノ独奏部分には生き生きとしたメロディが軽快に展開し、まるで交響曲のようにダイナミックな響きが鮮やかに現れる。
モーツァルトは貴族の私邸で開かれる演奏会でも度々演奏した。ピアノ協奏曲は演奏会で人気が高く、作曲に精魂を傾けた。この年6曲ものピアノ協奏曲を書いた。
ピアノ協奏曲第15番はピアニストの高い技巧が求められる。モーツァルトはこの曲の完成度に満足していた。レベルの高い作品を自ら演奏会で披露し喝采を浴びるモーツァルト。ウィーンの人気ピアニストとしても日々は続く。
<6月23日>第100回 「最高の作品」 ピアノと木管のための五重奏曲 変ホ長調k452
第1楽章より
1784年4月、モーツァルトにとってそれまでにない大規模な演奏会をブルグ劇場でおこなう。その時演奏されたのが「ピアノと木管のための五重奏曲」編成はピアノ・オーボエ・ファゴット・ホルン・クラリネット。これは当時珍しい組み合わせだった。
この曲ではどの楽器も対等に扱われ、その魅力を発揮している。モーツァルトがそれぞれの楽器の特性を熟知していたからこそ生まれた作品。
歌声のように対話するピアノと4っつの木管楽器。演奏会で大喝采を浴び、モーツァルトは父へ「演奏会でぼくは大変な名誉を得ました」と手紙を書く。モーツァルトが「最高の作品」と呼んだ自信作。広く人々の心を捉える名曲がまた一つ生まれた。
<6月26日>第101回 「むく鳥」 ピアノ協奏曲第17番 ト長調k453
第3楽章より
この第3楽章冒頭の楽しげな旋律は、当時モーツァルトが飼い始めたむく鳥のさえずりを思わせる。
モーツァルトの家計簿にはむく鳥を購入した記録が残されている。
音楽と一緒に「ピアノ協奏曲第17番」の第3楽章冒頭の旋律が書き込まれていた。1784年の春、長男の死から9ヶ月あまり・・・
一編の詩をささげるほどこのむく鳥を愛した。
妻コンスタンツェの2度目の妊娠で夫妻は歓びに包まれた。暮らしぶりも豊かになっていった。午前中は貴族の子女のレッスン、夜は演奏会という日が続いた。
「ピアノソナタ17番」は生徒の一人、フロイヤー嬢にささげられた。ピアノと管弦楽とが詩情豊かに掛け合う洗練された作品である。
この曲は武路イヤー嬢の父が主催した演奏会で初演された。ブロイヤー嬢がピアノを演奏し、演奏会は大成功に終わった。
一羽のむく鳥に愛情を注ぐほど、心に余裕が出来たモーツァルト。そして妻の2度目の妊娠。目の前には明るい展望が広がっていた。
<6月27日>第102回 「天才の競演」 ヴァイオリンソナタ 変ロ長調k4542
第一楽章より
1784年4月29日、モーツァルトはゲレントキートーア劇場でイタリア出身の女性バイオリニスト「ストリナザッキ」と共演した。彼女はその才能を讃えられ、ヨーロッパ各地を演奏旅行していた。
「ヴァイオリンソナタ変ロ長調」はこの共演のために書かれた。ヴァイオリンとピアノの個性を生かしたスケールの大きな作品である。
演奏会当日までにピアノパートの作曲が間に合わなかった。モーツァルトは楽譜を見るフリをして、見事にピアノを演奏し、演奏終了後、皇帝ヨーゼフ2世からからかわれたという。
2段目と3段目のピアノパートは後から書かれたという。ピアノの音符はところどころで小節の線からはみ出している。
この日の演奏会は大喝采を浴び、二人はお互いの才能を讃えあった。
ストリナサッキは翌年結婚して以来あまり演奏旅行をしなくなった。二人の天才の共演はこの日が最初で最後であった。
<6月28日>第103回 「姉の結婚」 ピアノ協奏曲第16番二長調k451
第二楽章
サンクト・ギルゲンはモーツァルトの母の故郷である。1784年8月23日姉ナンネルが結婚式を挙げた。家計のやりくりや父の世話に追われてきた姉に幸せが訪れた。相手は15歳年上の地方管理官だった。
式に参加できなかったモーツァルトは、愛する姉に祝福の手紙を書いた。
ナンネルはいつもモーツァルトの作品のよき理解者であり、助言者でもあった。「ピアノ協奏職第16番」にはナンネルからの指摘が反映されている。姉の助言によってピアノの旋律に装飾的な音符が付け加えられた。
モーツァルトとナンネルは再会をはたすことはできなかった。
<6月29日>第104回 「トラットナー」 ピアノソナタ第14番ハ短調k457
第1楽章
1784年1月から9月までモーツァルトはトラットナー館で暮らした。書籍商で材をないたトラットナーが建てたウィーンを代表する建物。トラットナーはモーツァルトの終生に渡る友人であり支援者であった。モーツァルトの子供達の洗礼立会人も務めていた。
トラットナー夫人はウィーンでの最初の弟子の一人であった。「ピアノソナタ第14番」はトラットナー夫人に捧げられた。この曲はウィーンで完成された唯一の短調のピアノソナタ。自らの手でたびたび演奏し、楽譜も出版した。
1770年に創業されたアルタリア社はウィーン最初の出版社。「ピアノソナタ第14番は」作曲の翌年、1785年に出版された。モーツァルトはアルアリア社から多くの作品を出版した。ウィーンでは皇帝の芸術保護政策により書籍の出版が盛んになっていた。
貴族や裕福な市民が我が子のピアノ練習用に楽譜を買い求めた。
<6月30日>第105回 「次男の誕生」 ピアノ協奏曲第18番変ロ長調k456/b>第二楽章より
1784年9月21日次男カール・トーマスが誕生した。モーツァルト一家は手狭になったトラットナー館から新居へ引っ越す。
そこで書かれたオペラの名前から人々は彼の新居を後のこう呼んだ。「フィガロハウス」
「フィガロハウス」はウィーンに現存する唯一のモーツァルトの住居。生誕50年を記念し改修され「モーツァルトハウス」となっている。
ピアノ協奏曲第18番はこの家に引っ越した翌日に完成。充実した暮らしぶりを映すかのような豊かで流暢な作品。この家で次男はすくすくと育っていった。
翌年ここを訪れた父レオポルトはカールの様子をナンネルに書き送っている。・・・・・小さなカールがお前の弟にそっくりです。この子はとても健康なのがわかりました・・・・・
モーツァルト一家はここで2年余りを過ごす。」
作曲の翌年モーツァルトは御前演奏会でこの曲を披露した。演奏が終わると皇帝ヨーゼフ二世は「ブラボー!モーツァルト」と叫んだ。列席していた父レオポルトも満足感で目に涙があふれたと書いてある。
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