「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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ハル
連日続いた快晴が嘘のように思えるくらい激しい雨だった。
空はまるで黒の絵の具を塗りたくったような色をしていて、一縷の光さえ望ませてくれそうにない。
窓の外を見ても、どんよりとした空は地平線の彼方まで続いている。
地上に目を落とせば、味の無いコンクリートの雑居ビル群が身を隠すように雨の隙間からこちらを覗いている。
やれやれ。
取りあえず今日は良い事がなさそうだ。
朝から断定的な考え方はなるべくしたくはなかったが―それがさらにマイナスとなるものならなおさら―この漆黒の雨を見れば、そのように思うほか無かった。
ハルはしばらく窓枠に肘をかけ雨を眺めていたが、窓を閉めた。
部屋を一望してみたが、やはり空の天気と同様に、空気が重く沈んでいた。
ハルの祖父が集めたあらゆるアンティーク家具たちにも、少なからずその影響があった。
今までハルの机を煌々と照らしていた昇降式ランプの電気が何の前触れもなく切れたり、ガラス細工が見事に埋め込まれたキャビネットの取っ手が握っただけで取れてしまったり、体が沈み込むくらいゆったりと座れるソファーの生地が鋭い音を残して切れてしまったりと、ハルの断定的な予想は見事に当たっていた。
そのため、何をしようにも逡巡に駆られた。
今日は外に出ないほうが良さそうだ。
寝よう。
とハルは思った。
ハルは押入れから新しい電球を取り出しティッシュで一回り拭いた。
それから昇降式ランプに電球を丁寧にセットした。
次に接着剤を取っ手にまんべんなく塗りつけ、もとあった場所に貼り付けた。
最後に裁縫道具から針と糸を取り出し、糸を針の穴に通すと、ソファーの破れた箇所に簡単に縫いつけた。
その間も雨は絶え間なく降り続けていた。
洗面所に向かった。
歯磨き粉を歯ブラシにつけ歯を磨いた。
洗顔料を顔に塗り込み、冷たい水で洗い落とした。
髪に水を一吹きかけ、ドライヤーで乾かし髪をセットした。
そして素早くベッドに潜り込んだ。
ハルの部屋には生活に必要なものがシンプルに揃えられていた。
それはハルの微かな自慢でもあった。
部屋は一つしかなかった。
中央にベッドが位置し、ベッドから一メートル先には玄関があった。
玄関のドアも取っ手以外は木で作られていた。
ベッドの右には白いグラスキャビネットと茶色のショーケース。
ベッドの左には一本足の丸テーブルと肘掛椅子が二つ。
玄関からベッドを隔てた正面には冷蔵庫とブックケースとソファーがあった。
天井からは頭を垂らした花―どんな種類の花なのかいまいちわからない―の昇降式ランプが二つ、オレンジ色の淡い光を放っていた。
ハルはこの部屋を世界で最も簡潔化された部屋だと思っていた。
無駄なものは何も無い。
仕事もできるし、酒も飲める。
ハルにとってテレビは必要なかった。
特に、あっても無くても障害になるようなことは何一つ無かった。
ハルの仕事はそういうものだった。
時事とも金融の流れとも株価市場とも全く関係が無かった。
その仕事は始めからそこに存在し、形而的にいつまでも終ることなく続くのだ。
ハルはしばしばその仕事の虚構性にかられたが、しばらく時間が経てばその思いは消えた。
ハルはバタバタと音をたて降ってくる雨音を聴いていた。
今日は起きてからまだ一度も時計を見ていなかったため、どのくらいの時間をベッドの中で過ごしたのかわからなかった。
しかし、それはとても長い時間だったのだとハルは思う。
雨は時間が経つにつれさらに雨脚を強めた。
窓や地面に激しくぶつかる雨の音を聴いていると、太平洋戦争の特攻隊を連想させられた。
特攻隊のことを思うと、アフリカのような壮大な自然の夜空を連想した。
その夜空には宝石のように星がちりばめられていた。
しかし、そこで早くも連想を中断した。
頭の中がスパークしてしまう。
雨はハルの心の中にまで降り注いでいた。
冷たい雨水は静かにハルの体に染み渡っていった。
体は浸っていく。
静かに。
ハルの意志はそこに含まれない。
まるで海に人知れず降る雨のように。
遠くから電話の音が聞こえる。
ハルは暗闇の中からそれを取り出す。
「もしもし」
とハルは言った。
「もしもし」
とくぐもった声で電話の声の主は言った。
「ああ、やっと居た。そこにいたのか。」
とひどく感動したように言った。
「どちらさま?」
とハルは言った。
「今から会いに行ってもいいかい?ひどく君と話がしたいんだ。」
こちらの応えには構わず男は話し続けた。
「随分この時を待っていたよ。家もわかっている。既にタクシーだって呼んであるんだ。ああ、ほら今来たよ。」
「今から来るんですか?」
「そうだよ」
待ちかねたように男は話した。
そしてそこで突然電話が途切れた。
ハルはしばらく暗闇の中で行なわれた「こと」をひとつひとつ確認してみた。
やれやれ。
ハルはそれを暗闇の中に戻した。
面倒なことになりそうだ。
そして再び深く暗い雨の中に落ちていった。
春の朝。
さわやかな春風が窓を通って部屋にやわらかく入ってくる。
暖かな太陽の陽射しがハルの顔にふりそそぐ。
まぶしくて寝返りをうつ。
どこからか、風に乗った桜の花びらが静かに一本足の丸テーブルに降り立つ。
ハルの家を囲むように聳え立つ高層ビル群も、身を潤すように太陽の光を体いっぱいに浴びている。
ハルはまだ覚めきらない頭で朝が来たことを感じていた。
ショーケースの上においてある小さな目覚まし時計を見ると既に九時を回っている。
ハルは身を起こし朝の支度をした。
一通りの用を足す。
そして朝ごはん。
ベーコンをカリカリに、パンもカリカリに、ジャムはたっぷりと。
ピーナッツバタークリームが見当たらない。
おそらくあの男が持って帰ったのだろう。
ひどくあれを気に入っていたから。
仕方なくベーコンとジャムを交互にパンに挟む。
最後にグラスキャビネットから綺麗そうなグラスを二つ取り出し、そこにオレンジジュースを注ぐ。
丸テーブルの上、ハルの小さな食卓。
ハルはむしゃむしゃと食べ始めた。
外からは、春休みなのだろうか、子供のはしゃぎ声が木洩れ日のように聞こえてくる。
今日はいい天気だ。
雲ひとつ無い快晴。
春の青空。
蒼天。
とハルは思った。
ふと自分の体が力強いエネルギーを生み出していることをハルは感じた。
体の中でエネルギーが回転している。
ゆっくりと。穏やかに。
ハルは皿にあったパンを全てたいらげ、オレンジジュース1.5リットルを飲み干した。
そして無地の白のTシャツと、ボロボロのジーパンに着替えた。
ジーパンはもともとボロボロであったものを買ったのではなく、自然にボロボロになってしまったものだった。
幾分ごまかせなくなってきた気もするが、大した人とも会わないのにわざわざ買いに行くのは面倒だった。
Tシャツもあと数枚ある。
大丈夫。なんら支障はない。
部屋と同様、服に対してもハルはとてもシンプルだった。
ハルはレンタカーショップに電話をし、白のヴィッツを予約した。
昼ごろに取りに行く、とハルは言った。
しばらく運転はしてない。
記憶を頼りに勘を取り戻さないと。
あいつは良く飲む。
帰りは運転できないだろう。
自分がやるしかない。
ハルは約束の時間の二時間ほど前に家を出た。
家の鍵を、唯一育てている植物、マーガレットの植木鉢の下に隠した。
簡単な隠し場所だったが、ハルの家に入ろうという物好きをハルは想像できなかった。
現金はいつも持ち歩いているし、持っているといっても万札が2,3枚程度。
わざわざ人を襲ってまで手に入れる金ではない。
目的地まで歩いて向かった。
歩けば相当な距離があることはわかっていたが、ハルは歩くことを選んだ。
べつに歩くことは自分にとってそれほど苦な事ではないし、春の訪れた町をのんびりと歩きたいという意志もあった。
二時間というのはハルの気持ちだった。
町には人がゴミのようにいた。
近くでお祭りをやっているらしい。
三年か四年に一度の大きなお祭りで、毎年春のこのくらいの時期にやる。
軒並みに続く屋台。
お面や、風車、綿菓子、犬を売っている屋台もあった。
神輿をかついだ体の大きな男達が、掛け声にあわせ歩いてくる。
沿道からは女達がバケツに入った水を男達にかけていた。
その度に男達の声は大きくなり、活気に満ち溢れた。
人々は幸せを顔いっぱいに広げて、楽しんでいた。
しかし、ハルにはまったく興味がもてなかった。
何故彼らが嬉しそうに歩いているのか、そのようなことを考えることにも興味が持てなかった。
ハルは春の朝が見たかったのだ。
そのためハルは気分を幾分か損なわれた気がした。
ひどい。
一時間も早くレンタカーショップに着いた。
店員の女性は時間を間違えたと思ったのだろう。
気を利かせて、ゆったりとしたソファーと暖かいホットコーヒーをハルにサービスしてくれた。
「時々他のお客様でもこういうことがあるんですよ。」
とやわらかな笑顔を顔に浮かべて彼女は言った。
「そうなんですか。」
とハルは言った。
女性はふっくらとしていて、ピッチリと規則正しく制服を着ていた。
「あと、本当にすいませんね。いつもは予約された時間の一時間前には確実にここに着いているんですけど、今日はちょっと遅れてしまっていて。」
と今度はとても残念そうな笑顔を顔に浮かべて彼女は言った。
なんで残念そうなんだろう。
とハルは思った。
「いや、いいですよ。元はといえば早く着すぎてしまったことが間違っているんですから。ソファーだけでなく、おいしいコーヒーまでご馳走していただいて、こちらこそお礼を言わなければいけない。」
「嫌だわお礼だなんて。」
ハルがそう言うと、女性店員は少し照れてから満面の笑みを浮かべた。
「今日はどちらに向かわれるのか訪ねてもいいかしら?」
と彼女は言った。
「ちょっと気晴らしに友人とドライブ。ほとんど車に乗らないから自家用車を持ってないんです。」
「いいですねぇ。是非ごゆっくり街の風景でもご覧になって楽しんできてください。楽しむときは楽しまなきゃ。あ、今車が着きました。三十分遅れ。後で厳しく言っておきます。」
「ではこちらで契約のご確認を。」
ふっくらとした女性店員はカウンターへ向かった。
ハルも席を立ち、カウンターへ向かった。
ハルは夢を見る。
暗闇の中ハルが一本足の丸テーブルに座っている。
丸テーブルに置かれたランプがゆらゆらとハルの顔を照らしている。
ハルはしきりに何かを喋りかけるが口が開くだけで言葉は出てこない。
いつからかハルは涙を流している。
いつからかハルは自らの鋭い爪を体に喰い込ませている。
いつからかハルは歯を食いしばっている。
いつからかハルは暗闇に飲み込まれていく。
いつからかハルは意識だけになる。
暗闇を漂うだけ。
何も感じない。
突然大きな開き窓がハルの目の前で開く。
顔の無い男が闇の中からこちらへ歩いてくるのが見える。
そして彼は眼球の無い眼窩でハルを見つめる。
ハルはその男に笑いかける。
「君がこんな小さな車に乗ってくるとは思わなかったな」
男は窓の向こう側でそう言った。
ハルと男が出会ったのは待ち合わせ時間を十五分も過ぎてからの事だった。
「大きい車は動かしづらい。ましてや暫くハンドルを握ってないんだ。」
男はハルの隣に入ってきた。
「いや、別に意見として言ったんじゃない。君の性格を考慮した上での僕の見解とは全く違った結果だったからね。タバコ吸ってもいいかい?」
「かまわないよ。」
とハルは言った。
男は窓を開け、ライターでタバコに火をつけた。
「マイルドセブン?」
「マイルドセブン」
男は溢れ出すように煙を口から吐いた。
そしてタバコを口にくわえたまま、ぼんやりと過ぎていく街の風景を見ていた。
二、三年前に区が沿道に桜の木を植え付けた。
道路も沿道も綺麗に舗装していた。
そのため、近くの公園は花見の名所として知られるようになり、毎年大きな賑わいを見せている。
「今年も華やかだな。」
「季節が変わったくらいであんなに大騒ぎしなくてもいいのに。」
「彼らにとってはそれほどのことなんだろう。」
「なるほど。」
「うまいパスタが食べたい。」
男の要望に応えて、ハルはこの街一番のイタリア料理店に連れて行った。
通常より値段は幾分高めだったが、それに充分対応した味と量だった。
量は一,五人分ある。
席はいつもほとんど満席状態で、客の話し声がBGMになっていた。
ハルたちは三種類のパスタと二種類のリゾット、グラスワイン、それと野菜たっぷりサラダを注文した。
その際、量のことについて指摘されたが二人にとってなんら意味の無い質問だった。
「しかしこういう店に来て君は大丈夫なのか。」
とハルは言った。
「君は有名人がわざわざ賑やかな店に来ると思うかい?」
「確かに。」
ウェイターが彼のグラスにワインを注ぎ、彼は軽くグラスを回し、香りを試し、味を試し、静かにうなずいた。
そして二人のグラスにワインが注がれた。
「有名人と言うのはね、あらゆる偏見の上に確立する存在なんだよ。それは人に知られた時点で仕方のないことなんだ。しかし誰がどんなことを思ったところで僕自身は生まれた頃から全く変わっていない。僕だってうまいパスタを食べたい時には美味いパスタがあるイタリア料理を食べに行くんだよ。誰だってそうだろ?」
ハルはうなずいた。
「渋谷に行きたかったら渋谷に行くし、新宿に行きたかったら新宿に行く。女が欲しかったら歌舞伎町に行くし、男が欲しかったら二丁目に行くんだよ。僕達は一般の人と生活スタイルは全く変わったところはない。時々高級車や高級マンションとやらに住んでるやつらがワイドショーに出ているだろ。あれは事務所が脱税隠しを経費と偽って成金芸能人に与えているだけ。会社はなんでも経費で買ってくれる。むしろ金を使って欲しいとさえ思ってる。不動産は簡単に値が下がらないからね。僕らはそれに応じて、応じられた物を買うんだ。僕の名義だって実際は会社の金だからね。」
そこで彼は一口ワインを飲み、口を潤した。
「随分長い文を話してしまった。」
男は気付いてしまったというように言った。
「べつにかまわないよ。話を聞くのはなれてる。」
とハルは言った。
「要するに僕が本来言いたかったことは、ここは僕がおごるよ、ということだけなんだ。」
彼は人の良さそうな笑顔をしてハルに言った。
「自分の食事代くらい自分で出せるよ。」
男は運ばれてきた野菜たっぷりサラダをフォークとスプーンを巧みに使い、適量に二つの皿に盛った。
「別に僕の金ではない。経費は使った方が得になる。」
と男は言った。
「どちらでもかまわない。君が満足するならね。それより料理を食べよう。汚い金の話は後でゆっくりと首を絞めるように話そう。」
とハルは言った。
「すごい表現だ。」
ハルは自分でもそう思った。
ハルたちは全ての注文した料理をとても美味そうにたいらげ、それは見るものにとっても、とても満足できる食べ方だった。
「貴方達ほどお召しになる方はそうはいませんよ。」
とウェイターは皿を下げる際、にっこりとそう言った。
店の料理は彼を想像以上に満足させたらしく、ウェイターにたっぷりとチップを払った。
そして次にシェフを呼び出して、如何に素晴らしい料理だったかをしつこいくらい賛美した後、そのシェフにもたっぷりとチップを払った。
「これは僕の金。」
と彼はハルに言った。
ハルたちは素晴らしきイタリア料理を堪能したあと、再び宛ても無く町を彷徨った。
お互いにこれまでのことやこれからのこと、そして昔の友人について言葉を交わした。
男はしばらくして両親が癌で死んだことをハルに告げた。
「本当にあっという間に死んでしまった。本来回復に向かうはずの薬が僕の両親には毒にしかならなかったんだよ。副作用って恐ろしいものだね。」
ハルは男を見た。
男は哀感を込めた笑みを浮かべていた。
「でも副作用よりふしぎだったのは、両親がほとんど同じ時に倒れていたということだ。僕は何度も目を疑ったよ。二人とも覆い被さるように倒れていたからね。最初は転んだだけかと思ったんだけど、末期癌だったらしい。医者がステージ4とかなんとか言ってくれたけど、僕にはなんだかよくわからない。僕が久し振りに家に帰ったらすぐ倒れたんだ。僕は死神か?」
男はバックミラーを確認した後、遠くを見るような目でハルを見た。
「君はどう思う?そういう偶発的なことってあると思うかい。それとも必然的な条件がそこには整っていたのかな。もしかしたら僕がきっかけとなっていたのかもしれない。それまで普通に暮していた爺さんや婆さんが何かの拍子に死んでしまうことは良くあることだからね。」
「偶発的なことにせよ、必然的なことにせよ、それを結果から見返したのだったら全て必然的なことになってしまうんだと思うよ。」
とハルは言った。
男はその言葉の意味を十分程考えていた。
「時間を逆の位置から見てしまうことが間違いなのだろうか。矛盾も多々出てくる。しかし、先に起こることが本当は後に起こっていることなのだとしたら、僕らはどちらに向かっているのだろうか。不思議だ。どうやら実にやっかいな難題を僕は抱えてしまったようだ。」
と男は言った。
考えてみてもどうしようもないことだ、とハルは思った。
いずれにせよ時間は僕達を乗せたまま運動を続けている。
変わりは無い。
陽はゆっくりと地平線に沈んでいった。
紅色を次第に滲ませ、少しだけ自らを膨張させる。
雲は薄くなって太陽に向かって延び、その身に大きな影をまとう。
そして空は夜に変わっていった。
ハルたちは途中でレコードショップに寄った。
ほとんど廃れていたが、店の中には驚くべき量のレコードがおいてあった。
年代と種類にきちんと整頓されている。
ハルはピアノジャズのレコードを四枚買った。
男はマイルス・デイビスの最新版レコードを買った。
CDに転換された時、音楽は死んだんだ、と男は言った。
「君は暇。」
ベッドの中で男はそう呟いた。
ハルはBGMを消した。
こういうホテルのBGMは気に障る。
「僕は忙しい。」
「君は忙しい。」
とハルは言った。
ハルはビールを冷蔵庫から取り出し、ソファーに座った。
「シアトルに行かないか。」
と天井を見ながら男は言った。
その言葉はハルだけでない他の者にも聞かせているようだった。
「飛行機とホテルは僕が手配する。空港にはハイヤーを迎えに来させる。」
ハルはビールを飲み続けた。
「ホテルだって最高の部屋だ。シアトルは良いよ。山も近いし海も近い。夏になれば九時まで陽は沈まない。ハイウェイでスピードを限界までぶっ飛ばす事もできる。」
と男は言った。
ハルはビールをテーブルに置いた。
闇の中で二人は言葉だけで通じていた。
「なにかシアトルに用があるのかい。」
とハルは言った。
男は静かに起き上がり、月が窓の外にあることを確認した。
「運んでもらいたいものがある。」
「事務所の人にやってもらえば?」
「あいつらじゃダメだ。君が持っていかなければ意味を成さないものなんだ。」
歯を喰いしばるように男は言った。
「どうして。」
「それは、僕が今ここで言っても君は理解できないことだと思う。全てはシアトルに行かなければ進まないことだよ。」
男はベットから手を伸ばして、冷蔵庫からビールを取った。
プルトップがなかなか開かなかったので、ハルが開けて男に渡した。
「昨日爪を切ったばかりなんだ。悪い。」
と男は言った。
「どうせっていう言い方も変だけど、君は暇だろう。久し振りにバカンスを楽しむのも悪いことではないよ。」
「別にかまわない。」
とハルは言った。
日本で過ごそうがシアトルで過ごそうが、ハルの日常には変化は無い。
「すまないな。」
「仕方のないこと。君が進む上でもそれは必要なことだと思う。」
男は目を細めた。
「とてつもなく重要な行為であることは確かだ。」
翌日の夕方、男はハルの家にやってきて、ハワイのチケットをハルに渡した。
「時間があるならハワイのビーチでも行ってきな。」
「じつに面倒くさいんだけど。」
とハルは言った。
「残念なことに、ハワイの知り合いにシアトル行きのチケットを取ってもらったんだ。その知り合いが現地を案内してくれる。」
男は得意そうな笑みを浮かべてそう言った。
「やれやれ。」
男はハルに押し付けるようにチケットを渡すと、仕事がある、と言ってどこかへ行ってしまった。
ハルは見送ろうとして外に出たが、その時既に男の影は無かった。
外は思っていたより暗かった。
冬に比べ日は長くなったが、それほどではない。
薄氷を踏むことを楽しむ子供も既に家路についている。
ハルがふと眼下に広がる街を眺めると、春の生暖かい夜風が悲壮感を漂わせていた。
ハルは郵便受けをチェックし、数枚の手紙を確認して家に戻った。
野沢敦。
御手洗彰子。
七原美佐。
四谷カエコ。
ハルは仕事に取り掛かった。
ペンマスターという仕事をしていた。
ペンマスターというのは、一定の期間ごとに担当している生徒から手紙が届き、添えられている文章をチェックするという仕事。
月額2000円を払えば自分にペンマスターが一人つき、文章の向上を手助けしてくれる。
勿論、これを受講しているのは作家の卵とかそういった者たちではなく、家で日中暇をもてあましている主婦達だった。
ほとんどの生徒は文章、というより日頃の愚痴や、世間話で文章の向上など頭には入っていない。
隣に誰が住んでいるのかもわからないこの東京で、話し相手を彼らは探していたのだ。
人さえも、ハルの家を囲むビルの様に見えてくる。
その気持ちはハルにも幾分理解できた。
「先日のお手紙どうもありがとうございました。
私にとって文章と言うものは遠くはなれた存在だと感じておりましたが、先生に出会ってそれが単なる誤解だとはっきり理解できました。これからの私の人生に良い刺激となるよう、これからもご指導ご鞭撻の程宜しくお願いします。
ところで、先日・・・」
受講したものは皆、まるで偉大な指導者でも見つけたかのように、えらくハルの事を気に入っていた。
しかし、実際はその中のほとんどがハルより年上だった。
そのためハルは不思議に思ったのだ。
この人達は渇いている。
しかしハルにその渇きを潤すほどの力は無かった。
渇いた砂を手ですくっても、指の間から落ちてしまう。
ハルはそのことを理解していた。
ハルはこの仕事で月3,4万程貰っていた。
毎月手紙の量でその額は変わる。
もちろん、それだけで生活は出来ない。
ペンマスターの仕事はハルにとっても暇つぶしの気分転換くらいのものだった。
受講者になるなら金を貰って文章を書いたほうが得なことに何故彼らは気付かないのだろう。
その疑問は手紙が郵便受けに届く度に浮かんだ。
ハルはコールガールだった。
電話を事務所から貰い、指定されたホテルに行き、セックスをする。
誰かからのプレゼントであれば、右の手首に赤いリボンを結んで行った。
「キュートだね。」
彼らはそう言った。
ハルは指名されれば誰とでも寝た。
その中でもハルの人気は高かった。
ハルと一度でも寝れば、彼らは何度もハルを指名した。
ハルの登録している事務所は、一般の人を相手にしたものではなかった。
ある一定の地位と財産を築いたものにしかその番号は知られない。
昨夜ハルと寝た男が数年前ハルをその事務所に紹介してくれた。
ハルはその時のことをよく憶えていない。
記憶なんていつ消えるかわからないもの、だから別に何を忘れようが忘れたものを忘れているのだから悲しくはない。
とハルは思っていた。
寝た相手の顔も一週間経てば憶えていなかった。
その仕事でハルは月に百万単位の給料を貰っていた。
ハルは金で困ったことは一度も無かったし、欲しいものも特に無かった。
貰った金のほとんどを銀行に預けていた。
ハルは文章を一通り眺めた後、街のスーパーに出かけた。
一週間分の食糧を買った。
日常的な食事ではあまりハルは食べなかった。
日に一度しか食べないこともよくあった。
美味いものは同伴した時に数え切れないほど食べたので興味は既に無くなっていた。
帰り道。
電燈が路地に規則正しく並んでいる。
発せられるやわらかな光は、闇の中にもたらされたステージのように見えた。
その空間は他の空間と隔絶されていた。
夜の闇の中でも桜は静かに散っている。
誰に見られなくともそれが止まることは無い。
夏になれば此処には新たな息吹が生まれるだろう。
だが、それまでには長い時間を過ごさなければならない。
ハルは空虚な時間がもたらす恐怖を誰よりも知っていた。
春泥の中、ハルはもがいていた。
足掻いていた。
その行為を他者が知ることは無い。
花筏のようにハルは水面を漂うだけの存在なのだ。
非日常の延長上に日常の生活は成しえないのだ。
十四になって間もない頃、ハルは女の子と初めて交わった。
相手は同じ境遇に立たされていた子だった。
その子と交わった時、ハルは自分の中に恐ろしいほどの空洞を見つけた。
ポッカリと空いたその空間に彼女は滑り込むように入ってきた。
「女の子はね、こんなことしちゃいけないんだよ。」
彼女はそう言っていた。
ハルたちは泣きながらそれを続けた。
感情の昂りを止めることはできなかった。
しかしそれを続ければ続けるほどハルの空間は広がっていった。
「この傷、この顔、この体。どれもこれも私の両親のもの。一体どうすればいいの?」
彼女の体にはいくつものリストカットの跡があった。
その傷は彼女の経験のすべてを刻むように残されていた。
真っ白で華奢なその体には到底耐え切れるものではないことをハルは感じた。
次の日、彼女は自ら命を絶った。
学校でその知らせを聞いた。
やれやれ。
とハルは思った。
別に悲しくは無かった。
興味もほとんど持てなかった。
彼女の存在が消えた事実。
しかし、何故かハルの心は僅かに満たされていた。
その、僅かに、という量のせいでハルはしばらく悩んだ。
時は過ぎていった。
ハルは一週間後ハワイへ旅立った。
空港に着くと、「男の友人」がハイヤーに乗って迎えに来てくれていた。
彼は日系人で、良く日焼けされた艶のある肌を持っていた。
体は長年のサーフィンのせいでがっしりとしていた。
歳はおそらく三十代半ばというところ。
ランニングシャツと短パンと金色のネックレスをつけていた。
「飛行機の飯は不味かっただろ?この島の美味いものでも食いにいこう。」
彼はワイキキビーチを眺望できるレストランに連れて行ってくれた。
空は気持ちの良いほど晴れ渡っていて、遠くに大きな入道雲が浮かんでいた。
海辺から吹いてくる薫風が静かにハルの髪を撫でていった。
耳を澄ませれば、波の音も聞こえた。
ビーチは既に観光客でごった返していた。
「日本人はなんでハワイがすきなんだい?」
確かに。
とハルは思った。
しかし、ハルにはよくわからなかった。
星の光は波に揺れる。
そしてハルの体を這っていく。
まわりに建ち並ぶレストランの光は、その空間を幻想的に映し出していた。
「きれい」
夜のプールも悪くない。
日本とは違ってここは静かだ。
ハルはプールに浮かんでいた。
泳ぐこともなく、ただ体を任せていた。
「わるくないだろう?」
と男の友人は言った。
彼はマサシとハルに名乗った。
戦後のどさくさに紛れて祖父がこの島に辿り着いたんだ。
そしてこの島に身を落ち着かせた。
僕は彼の孫だから日系三世にあたるね。
母親はこの島の生まれ。
僕の家族の唯一のアメリカ人だ。
まぁ、僕も国籍ではアメリカ人だけどね。
でも時々もの凄くリアルに日本人の血を感じるときがある。
言葉では上手く言えないんだけど、それは確かにある。
いつか君にも感じるときが来るよ。
いや、確実にそれは来るだろう。
現に今、このハワイのオアフ島に来ている時点で君は感じているのかもしれない。
でもそんなことを恐れる必要は無い。
僕らは日本人の以前に人だ。
人でしか僕は無い。
「ふーん」
とハルは言った。
彼はウェイターに頼んでカクテルを二つ持ってこさせた。
「青い珊瑚礁」
「なにそれ」
「このカクテルの名前」
と彼は言った。
あまりカクテルを飲まないハルにとって、それは表現のつかない味だった。
飲んだ液体はハルの体を静かに流れていった。
月を仰ぐように雲は流れる。
一日でいろいろなところを回った。
海岸を車で走り、街々の小さなレストランに入った。
どれもこれも美味しかったわけではないが、食べることにいくつもの諸要素が含まれていることをハルは感じた。
食べることには意味がある。
生理的に食べるだけでは食べる意味は無い。
と彼は食べる度にハルに論した。
ただ、アルコールを昼間から入れることに小さな喜びを感じた。
店を出ると形の違う大きな入道雲がハルたちを迎えた。
空は青々と透き通っていて、宇宙が本当に黒いものか疑問に感じた。
一周し終えたところで、映画館に入った。
今一番人気、というやつで期待通り面白くなかった。
その映画は、憧れのヒロイン、恋に悩む青年、彼らに人生の兆しを与える死に掛けた祖父、そして物語には関係ない事件が多発。それに巻き込まれ、最後はヒロインが死ぬ。途中、青年がある女と寝ているところをヒロインに見られてしまう、なんとも時間軸がずれているシーンがあったが、マサシは噴き出していた。
「正義って自分勝手」
「アメリカ?」
「アメリカ」
この世の中に、はっきりと判れた善悪は存在するのだろうか。
浮気と言う言葉は人を裏切る言葉ではない。
神への誓いを裏切る言葉だ。
人は不確かな存在ほど確かに信じる。
それは否定も出来なければ肯定も出来ないものだからだ。
自爆テロも戦争も暴動も。
神の名の下に。
神の名の下に。
ピナコラーダを4杯程体に入れ、プールから上がった。
マサシは、僕はもう少し泳いでから帰るから先に車に乗って帰りな、と言った。
ハルは待たせておいたリムジンに乗り、ホテルに向かった。
運転手に一日分の料金と、100ドルをチップとして支払った。
―御用がありましたらなんなりとお申しつけくださいませ―
ホテルのベッドに座ると、土砂が体を覆いつくすように疲れがどっと沸いた。
思えば24時間まるまる起き続けていた。
さらには一日中アルコールを飲み続けた。
疲れも出るはずだ。
さっさとシャワーを浴びて寝よう。
と思ったとき、自分がまだホテルのフロントから荷物を預かっていないことに気付いた。
日本人だから忘れられたのかな。
ハルはドアを開けた。
長い廊下を歩く。
血に染められたような赤い絨毯の終わりは見えない。
エレベーターの前には誰もいなかった。
下へ。
スウィッチを押す。
頭上の階ランプが上がってくる。
チーン、というパンが焼けたような音を出してエレベーターは止まった。
中には日本人のカップルがいた。
そして楽しそうに腕を組んで降りていった。
ハルはエレベーターに乗り込み1階のボタンを押す。
扉は閉まる。
ハルは8階の部屋に泊まっていた。
時間と共にハルを含んだ無機質な四角い空間は下がり続ける。
そして1階に着く。
そこにエントランスはない。
在ったのは「闇」
無かったのは「光」
ハルは間違えて駐車場まで降りてしまったと思ったが、階ランプはどの階も消えていた。
どのスウィッチを押してもエレベーターは動かなかった。
「二人目」
闇の置くから地面を這うようにその声はハルに届いた。
「早くこっちにきな。そこはもう
止まっている
」
やれやれ。
今日はもう疲れているんだ。
別にそれは明日でも今日でも良かったんじゃないのか。
わざわざこんな夜中に。
とハルは思った。
ハルは一直線に進んだ。
右も左も上も下も感じられない。
もはや眼球は本来の機能を失い、アメーバのような緑でも黄色でもない何かを漂わせている。
地面の反動は感じられない。
しかし、ハルは歩くしかなかった。
後ろを振り向いても無駄な行為でしかない。
次第に存在を確定させるその扉からは光が漏れ出していた。
ハルは自らの手が何処にあるのかわからなかったが、ドアのノブを捻った。
「やあ」
扉から木のこすれる高い音が溢れる。
「待っていたんだよ」
光は大きなまとまりを作っていく。
「君で二人目だ。でもまだ足らないんだよ」
部屋の中は光に溢れていた。
「そんなことはどうでもいい。ここは断片化された世界。」
ハルはテーブルの脇に佇む小さな男を見つける。
黒いシルクハットを被り、黒ずくめのコートを首まで上げて着ている。
男はテーブルに手をついて立っていた。
そしてその男の額には古い懐中時計が埋め込まれていた。
「ジャンレノンだ」
音にならない声で男はそう言った。
「僕はジャンレノンだ」
男は繰り返した。
コートからおそろしく細く長い腕を出し、闇の中からコーヒーカップを取り出した。
初めてその光景をみるハルにとってもそれは至極自然な行為だった。
「君のぶんもあるよ。砂糖とミルクは要るかい?」
「あぁ、あと椅子ともっと大きなテーブルが欲しいな。それと出会いを祝して何か美味しい物を食べよう。腹は膨れないし体に含まれないから、いくら今日たくさん食べたとしても食べられるはずだよ」
「テーブルクロスとナイフとフォークを二組ずつ」
「ワインでも飲むか」
「肉はミディアムレア」
「前菜は野菜と魚を適当に盛り付けて」
「コーンスープ?要る」
「やっぱり要らない」
男は何かぶつぶつと呟き続けた。
その度に長い腕は闇の中から言葉に出てきたものを取り出した。
腕は三本になったり四本になったり一本になったりした。
それらはもの凄いスピードで何かを形作っている。
まるで一つの生き物のよう。
「ジャンレノン」
そう、ジャンレノンの意思とは関係ない独立した機関として動いている。
それぞれに意思と意志を携え、懸命に自らの生命を削るように動き続ける。
ハルはそう思った。
この部屋に入ってからは不思議と恐怖はなくなっていた。
今にもこの場から逃げ出したいわけでもない。
そしてハルは意味も無く「ジャンレノン」に共感する。
共鳴と言ってもいいだろうか。
デジャヴに似た感覚。
ひどく彼は懐かしい。
まるで彼が私の――――――――――――。
「さあ、座ってくれ」
ハルとジャンレノンは向かい合うように座った。
シルクハットと首まで突き上げたコートによって顔はほとんど見えなかった。
口と額。
口はいつも耳まで裂けるような笑みを浮かべ、額の時計は血で滲んでいた。
「ドアとは不思議なものだ」
と彼は言った。
「世界を繋げるものであるのと同時に、世界を断片化させる存在でもある。あちらの部屋とこちらの部屋とではいわば別世界だ。扉を閉めれば世界から独立した空間。何者も拒まず、何者も追わない。しかし、その空間は全て一つの機能しか持たないドアから生まれる。部屋にいくつドアがあろうとも、ドアはそれぞれの独立した空間と自らを一部分と化している空間をつなげている。いくつあっても足りないものであるし、いくつあっても無駄なものだ。ドアとは、そう言うものではないかね」
彼の言葉は音にならない。
しかし、音ではない何かの物質によってハルには届く。
彼が口をあけると周りの音は全て消える。
ひどく脈打つ心臓の音さえ聞こえない。
ハルは右手を握る。
「以前にもドアを理解した奴が此処に着たんだ。でもダメだった。ヤミモノにやられてしまった。僕がそれを見つけたとき、彼はめちゃくちゃに殺されていた。開くドアを間違えれば当然この結果になる」
彼は闇から人間とおぼしき何かを取り出した。
「これが彼だ」
それを見たとき、ハルは体に貯めた一日分の食糧が喉を駆け上ってくることを感じた。
髪は毟られ、頭蓋骨は割られ、中にあるべきものは全て取り出されていた。
「奴らは脳味噌が好物なんだ。頭に穴を開けてね、チュルチュルと長いストローで吸うんだ。見てて気持ちの良いものじゃない」
体はおぞましいほどにビリビリに引き裂かれていた。
貪ったのだろうか。
牙のような痕が体にいくつも見られた。
「次に好きなのは性器だ。そのまま齧り付いて食べる。あれは食べているのだろうか」
ジャンレノンは悲しそうに上を向いてそう言った。
ハルは目を背けることを許されなかった。
金縛りのように、体は力を失い、分散されていた。
頭の隅から爪の先までハルは嘗め回すようにそれを見た。
「君が彼を見るとき、君は自分の事を見ている。だから君は目を背けられないんだよ。」
とジャンレノンは言った。
「ひどいものを見せてしまったね。」
彼はそれを小さく折りたたんだ後、闇に投げ捨てた。
そしておもむろにナイフとフォークを手に持った。
「繋げる世界があることを君には知って欲しい。君らは繋がる世界にいるけれど、その世界があるのは繋げる世界があるからなんだ。彼は結果がどうであれ扉を開け続けた。それは永遠に近い作業だった。でも彼は開け続けた」
ハルは彼の言葉を体に受け続けた。
ここは現実ではない。
ハルはそう思いたかった。
「一つの考えがあったとする。しかし、その存在が認められた瞬間、それは二つの考えになる。表と裏はいつまでも並行する。だから君には知って欲しい。君のために扉を開け続けて消えたものを。」
ゆっくりと、恐ろしいほど丁寧にナイフは肉を裂いていく。
「どうすればいいの」
とハルはやっとの想いで声を出した。
「どうもしなくていい。君が何をしても何も変わらない。起こることは起こるし、起こらないことは起こらない。」
「君は鳥が鳴くことを止められるかい?」
と彼は言った。
「君はこれからいくつもの要素を見ることになる。それはあくまでも君を形作る要素。他の何ものでもない。集合体を形成する諸要素たち。ドーナッツでも食べる?カリカリして美味しいよ。」
ハルはカリカリとしたドーナッツを三つ食べた。
「ハロー」
彼は音にならない声で、最後にそう言った。
ハルは毎日同じ事を繰り返した。
朝起きる。
マーガリンとジャムをたっぷりのせた香ばしい匂いのするトーストを食べる。
顔を洗い、歯を磨き、髪を梳かす。
渋谷で買ったハルの体には見合わないくらい大きなTシャツを着て、それとは裏腹にちょっと高めのジーパンを穿き、海に出かける。
日本人と外国人が同じくらいの割合でビーチで寝転んでいる。
あちこちでパラソルが開いている。
ビールやらコーラやらジュースやらがはじける。
サーフボードを持った若い男達が波を掴もうと泳ぎ続けている。
親子連れが多い。
カップルも多い。
何をするにしても、一人でいる奴はほとんどいない。
そんな光景をハルは毎日見る。
海で泳ぐ時もあれば、一日中こうして椰子の木の日陰で海を眺めている時もある。
海が凪ぐ時の風が気持ちよかった。
求めれば彼らは応えてくれた。
太陽は相変わらず強い光線を出し続ける。
昼は近くのレストランで軽く済ませた。
なにしろ体力を使っていないのだから腹は空かない。
体にとってはいい迷惑なんだろう。
とハルは思った。
夕方になると海の見えるカフェに入った。
海を眺めたり、本を読んだり、店内の移り変わる「変化」を見たり。
何が楽しいのだろう。
しかしそれは彼らが考えればいい。
どうだっていいことだ。
日が沈むにつれ沿岸に灯が灯っていく。
何かを待ち続けているのか、あるいは何かを守っているのかは知らないが、それは美しかった。
完全なる夜が訪れると、バーに入ってカクテルを飲んだ。
無性に体が乾き飢える。
飲むたびにカクテルの種類を変え、意識がなくなるまで飲み続けた。
しかしどんなに意識がなくなろうと次の日になれば、マーガリンとジャムをたっぷりのせた香ばしい匂いのするトーストを食べていた。
一週間ほどそれは続いた。
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