窓辺でお茶を
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背表紙だけはよく見かけていた、いわずとしれたスタインベックの名作です。前に、セゾン劇場(当時)でこの作品をもとにしたお芝居を観たとき、終幕近く、死産したばかりのローザシャーン(日色ともえさん)が、飢え死にしそうな男性に母乳を飲ませるシーンに、若干の嫌悪を感じつつも、その崇高さに打たれ、原作を読んでみようと思ったのですが、最近やっと実現しました。 ずっとこの作品は昔の野蛮な時代の物語だと思っていたのですが、読んでみて、スタインベックの慧眼と深い人間愛に驚きました。ちっとも古くなってはいず、現在の世界に通じる内容は、今のわたしたちこそが読むべき本なのではないでしょうか。取材をもとにして書かれたこの作品はピュリツァー賞を受賞しました。また、貧しい境遇ゆえ大学を中退し職を転々として果樹園でも働いた経験もこめられているかもしれません。もしかしたら、アメリカはこの時代から換わっていなかったのかもしれない、そして、そんなアメリカのシステムをなぜ日本の政府はまねたいのか? 感銘を受けた箇所を抜書きするなら、膨大になってしまいますので、ぜひ、一度、皆さんにじっくり読んでみていただきたいと思います。そうはいっても、それだけだと、どうしてそんなに勧めるのかわからないと思いますので、ざっとご紹介してみますね。 オクラホマの農家の息子、トム・ジョードは喧嘩で人を殺してしまい(相手がナイフで刺したのでシャベルで殴った)、服役したが、仮釈放になって戻ってくると、家族は家を引き払って出発しようとしていた。そのあたりの小規模農家は干ばつで借金が返せなくなり、土地を失ったのだ。後にやってきた大規模な会社や銀行が必要としたのは、数人のトラクターの運転手だけだったので、大部分の人は小作の仕事も得られず、求人ビラを頼りにカリフォルニアへ向かった。 トムが途中偶然会った元説教師ケーシーもジョード一家と一緒に行くと言った。ケーシーはひとりで草原で考えていたとき、丘とひとつになったように感じ、人間ぜんたいが一つの大きな魂を持っていて、一人一人がその魂の一部分なのだろう、と思えたという。もう洗礼も説教もしないと言い、「畑で働くつもりだ、緑の畑でね ― そしてみんなのそばにいるつもりだ。何もみんなに教えようなんてつもりはねんだ。教わるつもりだよ。(中略)悪態をついたり、罰当たりなことを言ったりして、みんなが話す言葉の詩に耳を傾けるだ。みんなそういうことが聖なることなんだ。これこそがわしが理解したかったことなんだ。みんな善きことなんだ。」という。 必要最低限のものをトラックに積み、残りは売り払って、一同は出発したが、道路は同じような人と荷物を満載した車でいっぱいだった。 土地と一体なのだから離れたくないといった祖父は卒中で死に、祖父を自分たちのテントで死なせてくれた夫婦の病身の妻も自分の死期を悟ってジョード一家に先に行くように言い、祖母も過酷な旅に耐えられなかった。 やっと到着したカリフォルニアは一面に果樹園がある、見たこともないような美しい国だった。しかし、そこの住人は、安い労働力に仕事を奪われるのを恐れ、移住者が盗みなど犯罪を犯すのではないかと恐れていた。警察も正義のためではなく、裕福な農園主のために仕事をしていた。途中会った農民のことばを借りると、「あっしらのようなものが3万人もいるってことだ。―豚みたいに暮らしてるとさ。なぜってカリフォルニアにあるものはみんなもう誰かの所有になっちまっているからさ。何一つ残っちゃいねえだ。しかもそれを持っている人間ときたら、世界中の人間を殺したってかまわねえから手放すまいとしている連中だ。それに、やつらは恐がってるだ。それで、ますますきちがいじみてくるだよ…やつらはすっかり怖気づいて、心配しきって、おたがい同士だって親切じゃなくなってるだでね。」(フランスの暴動の発端になった若者たちは移民の子で、貧しい移民の住む地区では、職務質問が頻繁に行われ、ときに警官が暴力をふるうこともあった、というのを連想しました監視カメラが張り巡らされ、警官がやたらと人を逮捕する美しい国なんていやですね。) 農園主は必要な人数よりたくさん人を集め、賃金を下げていた。それを知っていたため請負人に免許証を見せろといっただけで逮捕されそうになって保安官補を殴った男の身代わりになって、ケーシーは逮捕された。保安官補にもノルマがあって、誰かひっぱるか辞職しろと言われているらしい。 大企業や銀行は缶詰工場をつくって果実の値を下げ、缶詰の値を高くして儲けたが、工場を持たない小規模農家は農場を失った。収穫しても採算が取れない果物は捨てられ、貧しい人が拾わないよう石油がかけられた。腐敗臭が漂い、人びとの魂に怒りの葡萄が実りはじめ、次第に大きくなっていった。 移住民たちは人間扱いされなかったが、住人が自主管理している国営キャンプだけは設備も整い、清潔で居心地がよかった。土曜のダンスパーティーの夜、騒動を起こすべく工作員が入り込み、警官が張り込んだが、事前に知ったトムたちは工作員を外に連れ出し、ことなきを得た。しかし、近隣に仕事がないため、一家はキャンプを後にした。 桃摘みの仕事に誘導されたが、後に、スト破りに利用されたとわかった。農園の入り口におおぜいの人がいたのが気になっていたトムは夜、様子を見に行った。その人たちはストをしていたのだった。その中にケーシーがいた。ケーシーは刑務所で、ひとりで声をあげても相手にされないが、皆で言えば聞いてもらえることを学んだといったが、その直後、トムの目の前で殺された。トムはケーシーを襲った男を殴って殺してしまい、一家は桃の農園をひきはらった。 綿花摘みの仕事は条件も悪くなく、トムも近くにひそんでいたが、幼い妹が口をすべらせたため、逃亡しなければならなくなった。トムは洞穴の中でずっとケーシーのことを考えていたせいで、ケーシーの考えに似てきたという。「(おれは)おっ母が見さえすればどこにでもいるだ。パンを食わせろと騒ぎを起こせば、どこであろうとその騒ぎの中にいるだ。警官が俺たちの仲間を殴ってりゃ、そこにもおれはいるだよ。…お腹のすいた子供たちが、食事の用意ができたというんで、声をあげて笑ってれば、そこにもおれはいるだ。…」 大雨が続き、川が氾濫し、母親は死産したばかりのローザシャーンをつれて高いところに避難し、雨宿りさせてもらおうと納屋にはいった。そこには父と子がいたが、子は飢え死にしそうになってパンさえ受け付けなくなっている父を助けて欲しいと泣いて訴えた… 書ききれませんが、母親の言葉にもとてもよいものがあるので、ぜひ、お読みになってみてください。検索してみたところ、ジョン・フォード監督による映画もあるのですね。そういえば、聞いたことがあるような気がします。監督の故郷アイルランドの飢饉の状況に似ていたそうです。(ジョン・フォードの)好きなストーリー上記サイトのホームはdirected by
September 12, 2006
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