【生きるイミとユメについて】
ぷ~になってめでたく100日目に生きることにイミはあるか?
「俺は何のために生きているのだろうか」
小学4年生のときに突然湧いてきたこの問いは、以来俺の胸の中で常にクエスチョンマークを点滅させ続けている。
それは同時に「死」というものの存在を初めて意識した瞬間だった。
どうせ死ぬんだから、生きる意味なんてねーじゃん、つか、これからどーやって生きていけばいーんだ俺わと、一時期ずーんと沈んで「この子はとうとうおかしくなってしまったか」と、親を心配させたことがあったが、そこは子供、立ち直りも早く、車田正美の「リングにかけろ!」を読んで、「俺はこれのために生まれてきたんだ」と思えるような何かにいずれ出会えるはずだ、つかまだ10年くらいしか生きてないし、と信じることで、とりあえずその厄介な問題をうっちゃることに成功した。
しかし30も半ばに差し掛かろうとする今もって、その「何か」には出会えていない。いや正確にいうと、一回出会えてつかんだ。でも失ってしまった。それ以来出会えていない。
しかし俺はどうしてその「何か」を求めてしまうのか。
「生きることに意味などない。意味を求めることには意味がない。重要なのは『強度』である」とは、おそらく日本一有名な社会学者・宮台真司センセイの言である。
俺はアタマが悪すぎるので、この『強度』という部分がいまひとつ理解できないが、ニュアンス的にはおおよそ受け入れられる。
確かに生きること自体には意味はないし、意味を求めても無意味なんだろう。だって、もうここにこうして「生きて」しまっているのだから。
生きる意味を執拗に追い求めてしまうのは、たぶん、「自分が在る」ということが100%の確かさをもって分かっていないせいだと思う。
100%自分はここに在る、ということが納得できれば、こんなくだらないことでぐだぐだ悩まないだろう。
よく考えれば、自分が今ここにこうして生きているということは、奇跡的な幸運なんだよなぁ。しみじみ。
幸運に幸運が重なって今自分が存在しているということを考えれば、これ以上を望むのは贅沢というものである。
しかも命の危険 にさらされることなく。
これはほかの生物から見たらえらい贅沢である。
ほかの生物はこうはいかない。
毎日食うか食われるか、そして自分の遺伝子をどうやて残すかで精一杯である。
特に繁殖にかける彼らの執念はすさまじい。
中には自らの命と引き替えにする種もいる。
こんなにも生物の存在意義として第一義的な要素、使命と置き換えてもいいかもしれない、をすっかり忘れて生きていられるのは人類くらいだ。
生態系からはずれたところで生態系の頂点に君臨し続けているという点が一番マズイことなんだろうなぁと思う。
こういったことを、海外の制作会社が作った野生動物ドキュメンタリー番組とか「動物奇想天外」とかを見ながら、ぼんやりと考えますた。
ということは、生きる意味とはずばり、自分の遺伝子を残すということで決まりじゃん。
早くセクースしないと。
(でもオレの劣悪な遺伝子は、残さない方がヒトという種全体のためにはいいのかも、とか思ったりして)
つーことで、「生きる意味がわからない」とか言いながら、首つったり手首切ったりしそうな人は、今すぐセクースしましょう。
基本的に死にたい人は止めないけど。
でも他人に迷惑をかけないように死にましょう。間違っても他人を巻き添えに、とかしないように。どっかの自意識過剰のバカップルみたく。
人間も所詮動物の一種。ただの霊長類ヒト科の動物にすぎない。
そんなたいしたもんじゃないんだよなーと思えば、ちょっとは楽になるかも。
でも、かといって、それで万事OKとはなかなかいかない。
納得して死んでいくために
「人生なんて死ぬまでのヒマつぶしですよ」
漫画家の松本大洋が『ピンポン』の中でスマイルに語らせる台詞だが、この台詞は俺の心の深いところにまで届いた。
本当にその通りだよな~と思った。
ヒマつぶしでもどーせなら楽しくつぶしたい。
たいていの人はそう思うのではないか。
しかし、どうせヒマつぶしならあくせくしないで、マターリいこうよ、生きてるだけでシアワセなんだからさ、と思える人もいる。
ホントはこっち人の方がシアワセだったりするんだろう。
俺はそこまでは達観できないから、あれこれぐだぐだと思い悩む。
よい人生を送れるか否かは、この生まれてから死ぬまでの膨大な「ヒマ」のつぶし方にかかっている。
自分にとってのよい人生、死ぬときに「我が人生にいっぺんの悔いなし!ドーン」とまではいかないが、「まあまあいい人生だったな」と思えるような人生を送るためにはどうすればいいか。
この問題で、俺はあれこれと思い悩み、がんばってみたりみなかったりする。
ほかの人もそうなんではないか。
やっぱり、一番有意義なヒマのつぶし方は、「自分の好きなことをやる」ということだろう。それでメシが食えたらほんとにシアワセだ。
「夢を追う」「目標を設定し、それに向かって一生懸命突き進む」ということも同義だ。
特に一生の夢、目標が持てたら人生に退屈しないですむだろう。
利点は単なる遊びの楽しみ以上の楽しみ、喜びを得られるということだ。
夢とか目標とかは、もちろん現状の自分以上のレベルの場所にあるので、当然自分で自分を追い込んで、我慢したりして、頑張ることになる。
そんなストレスがあった方が、それを乗り越えて成果を上げたときの喜びは大きい。
じらされてじらされて、耐えて耐えて放出した方がより気持ちいいのと同じである。違うか。
あと、先にちょっと触れたが、ほかの生物とは違い、天敵がいない人間(人間の天敵は人間。よくできてるわ)は命の危険にさらされることは滅多にないから、自分が「あ~俺、今生きてるなあ」と実感できることはあまりない。
逆に戦火のもとに生きる兵士や、住民は毎日が生の実感であふれているだろう。感じなくなったときがすなわち死なのだから。
しかし平和な日本でも、生の実感を得られる瞬間がある。それは、仕事で徹夜したりして、体力的な限界が近づいてきたとき。「今、おれ、生きてるな~」となぜか思える。
(ちなみに徹夜明けってよくティムポが勃つ。これを疲れマラという。疲れる=死に近づくだから、別にムラムラきてないのに、本能的に自分の遺伝子をバラまこうとティムポが勃つんだと。学生のときに聞いた話だから、ホントかどうかはしらんけど。じゃあ女の子の場合は徹夜明けってマムコが×れやすく…下品でスマソ。以下自主規制)
自分の限界のその先にある楽しさ、限界を超える楽しさ、成長の実感の喜びと、生きているという実感。
好きな仕事をする、目標に向かって進む際に得られるこれらは、大いなる快楽だ。
その結果として、他人からの賞賛や承認がもらえれば最高だろう。
認めてもらう、
褒めてもらうということ
宮台センセイも言ってたけど、この他人から認めてもらう、褒めてもらうということは、ホントに重要だ。
これなしに育った子供が犯罪者になりやすいというデータがどっかにあった気がする。ないかもしんないけど。
やはり人間は社会的動物だから、基本的にみんなの一員として認めてもらわないと、そうとうにツラいと感じるようだ。シカトされた経験のある人はよくわかると思う。
世界中の人々からシカトされたら、果たして自分はここに存在すると、生きていると思えるだろうか?
もう一歩突っ込んで考えてみれば、どっかで自分がこの世に存在している、あるいはしたということを示したい、残したいという欲求も意識下にはあるかもしれない。
これは単なる名誉欲とかではなく、もっと根元的ななにかのような気がしないでもない。
なんか考え飛びすぎて収集がつかなくなってきたが、要するに、今度はやっぱ俺はコレが好きだな!と心底思えることを仕事にしたいなと、思うわけですよ。
もう人生の残り時間も少なくなってきてるし。
それだけ。
なんだ、たったこれだけのことにこんだけの文量を必要とするのか俺わ。
やっぱ超頭悪い。
(2003.10)