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ミョンドン明洞がソウルの中心である事は未来永劫変わらないが、カンナム、ホンデ、梨泰院、仁寺洞など街はどんどん変わって行く。東の ソンスドン 聖水洞 は今最もおしゃれな街と言われている。上からtamburins タンバリンズ SNSで日本人では大人気となっている韓国のフレグランスandコスメのブランド。ソンス店では日本語ばっかり聞こえてきたように日本人観光客がわんさかきている。ADERERROR韓国ファッションのハイブランド。服とは何の関係も無さそうな現代美術館の様な内装が凄い。↑カフェおじいちゃん工房というカフェ。 カフェオレ7000ウォン。特に何かで見たわけでわはなくなんとなく入ってみたら驚きの広さだった。pan am韓国のファッションブランド全然知らなかったブランドだが、内装がすごい店だ。satur
2024.02.26
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明洞タッカンマリ。二回目の来訪。龍山のノボテル内にヒルトンから移転開業したセブンラック・カジノに経験のため息子を連れて行って、2人して負けて、明洞に帰ったのか2130時になってしまった。楽しかったので負けたけど全く敗北感なく非常に満足。この時間だと飲食店がどんどん閉まってしまうのだが、明洞タッカンマリは2300時まで開いてる。タッカンマリは2人前25000w。3人だと自動的に36000wとなる。海鮮チヂミはやや良いお値段の20000wだけど海産物一杯入ってて美味い。ビール2本、マッコリ1本で全部で74000w。今日本円で8300円ぐらいか?とてもとても素晴らしい。この日最後の客になってしまった。明洞のISSACホットサンドの隣にある、ヒヨコキンパというお店に朝行ってみた。2023年3月に開業したらしい。地下に下りていくミニキンパの店。内装はなんだコレ?的な女子仕様だったので、オヤジは居る事そのものがやや恥ずかしい。キンパは小型のミニキンパのみで、日本のコンビニのおにぎり1個の2/3ぐらいの量かな。種類は豊富。チェジュ島豚カツのキンパとかチーズキンパとかある。うどんはかき揚げと海老天入り。内装が映え狙いのチャラい店の割には全部美味しい。全部で13000w。お勧め出来る。 初めてソウルに来た人は、世界遺産の宗廟と昌徳宮は必ず行く観光地だろうが、ここ徳寿宮という宮殿は何度も来ていても、そんなに来る人はいないだろう。衛兵の交代式を午前午後2回やっている。世界遺産ではないが一線級の史跡だった。市庁舎駅の2番出口を地上に出たら100メートルで入場門があり入場は1000w。外国の要人を接待する洋館も作られたため洋風建築と唐風建築の建物が混在している。そのため、ギリシア式柱状と唐風の映えスポットがあるので写真の様なテキトーなポージングで映え写真?が撮れます。他の国のお客もテキトーなポーズでバシャバシャ撮ってる。。1時間以内に見て回れるし明洞から徒歩10分ちょい。しかし、歴史を知らずして、世界遺産だからといって宗廟とか昌徳宮を観に行くのはあまりお勧め出来ない。というか歴史を勉強しないで世界中の歴史的遺産を見にいくのはほぼ役に立たないし無意味&滑稽であると思う。そんなの行く人の勝手だけどせめて勉強してから行かないと勿体無い。日本がどれだけ韓国に酷いこと(秀吉の文禄・慶長の役では100万人を殺戮したとの説もある。3.1運動では7000人を弾圧殺戮している。僅か100年前に35年間植民地にしていた)をしたのか、韓国がどれだけ日本より進んだ国であったのか、それを分からずして相互理解は進まない。南大門市場のフェヒョン駅側から入って50メートル左側にある有名店「カメコルイェンナルソンワンマンドゥ&ソンカルグクス(通称・カメコル)」は、1959年創業の手作りマンドゥ(肉まん)の専門店。何度も来ているがスーパーウルトラに美味い。5個5000w、10個10000ウォンと書いてあるが、1000wで1個からでも買える。ただし普通の中華饅頭と、少し赤味の中身が透けてるキムチ饅頭と2種類あるので、そっちを食べると火を吹く。地元の人は10個ずつ箱に入れて買う人もいるからこの辛さで地元民は平気なんだな。明洞聖堂の近く、ロイヤルホテルの前ビル3階にあるカルグクス=うどん としゃぶしゃぶの店。お勧め出来る。豚肉をキノコと野菜の鍋でしゃぶしゃぶして、その後うどん→チャーハン(焼き飯)まだがワンセット?なのだが、肉を頼まないで、野菜キノコ鍋を食べてうどんに進んでも構わない。野菜鍋から焼き飯のセットは2人前22000w。肉は写真で11000w。全部で33000w。スープは辛く無いのとピリ辛と書いてあるのから選ぶが、ピリ辛を選択したら激辛だった。。。辛くても美味しいのだが、苦手な人は、辛くないスープを選ぶ事。注意が必要。黒豚家 はチェジュ島の特産の豚の肉だけを出す焼肉屋さんで、比較的お高目の設定。コエックスにも大きな店舗があったからいくつかあるチェーン店のようだ。肉を合計で4皿、800グラム。ご飯二個ビール3本 ソジュ大瓶一本、で130000ウォン、だから15000円ぐらいか、安いと思う。一体どこまで食い進むのか我々は。
2024.02.22
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「BEAKER」ビーカー は、韓国で最も裕福な地区にある、おしゃれ通りとして注目されている漢南洞(ハンナムドン)にあるセレクトショップ。建物の廃材を再利用して製品を作り出す「アップサイクル」なインテリアで統一されている。この地区はSATUR セター などの韓国発の高級ブランド店も並ぶ。 上の2枚は店名忘れたけど同じ通りにある古着ビンテージショップ。古着なのにこの空間使い。 ワインショップ。 A TWOSOME PLACE はチェーンのカフェで、ここは東大門 DOOTAモールの4階の店。隣にNO BRANDというスーパーがある。店内から東大門デザインプラザが見える。ストロベリーラテ 7000wディープチョコレートラテ 5900w 流行りっぽい。 明洞にあるISAAC イサックというホットサンドイッチの店。ハムチーズスクランブルエッグサンド 3600w韓国の特徴としてはハチミツがかかっていて少し甘みがあること、美味しい。 広蔵市場 カンジャンシジャン の中にはチヂミの屋台が多数あって、真ん中に積み上がってるのがチヂミ。チヂミは日本だとお好み焼きみたいなイメージだけど、ここのチヂミは揚げチヂミで周りがカリカリサクサク。 緑豆チヂミ 5000w 下の2枚。 肉チヂミ 3000 w 上のハンバーグみたいな見た目のやつ。凄いボリュームです。スプライト2000w仁寺洞スチェビ。インサドンの路地の奥にある店。地元客で混んでいる。発音はスヅエビでもスチェビでも通じるんだけど、すいとんのことです。韓国風すいとん専門店。カキが入ってて美味しいんだなこれが。。9000w2人前を3人でシェア。そろそろ食い過ぎの疑惑。
2024.02.20
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坂下から見た現場の路地。坂上から見た事故現場。坂の上に左右に広がる繁華街。坂の上に左右に広がる繁華街。韓国旅行中にわざわざイテウォンの群衆事故現場にくる人はいないだろうな。大きな事故があると事故現場を見て事故原因を推測したくなる。何故かは分からない。。2022年10月29日の夜。 梨泰院でハロウィンに集まっていた若者の大群衆がこの路地に集中し158人以上が圧死するという悲惨な事故が起きた。いまダークツーリズムという言葉が出来た。ダーク・ツーリズムとは、戦争や災害といった歴史的な悲劇が起きた場所をたどり、亡くなった人々を悼み、教訓を学ぶという旅のこと。例えば原爆ドームや記念館、ポーランドのアウシュビッツ、水爆実験が行われた第五福竜丸が被爆したビキニ環礁、 アメリカ同時多発テロのワールドトレードセンター跡地など多数の場所がある。事故に遭った知人がいるわけではないけど、どうしてもその現場を見たくてここに来た。事故の場所には様々な教訓が詰まっていると思うから。事故現場の路地(路地といって差し支えない幅)は幅3.2m、長さ40m、傾斜度10度。何の変哲もない、危険なことなど何一つない坂に見える。地下鉄の駅から階段を上がって大通りに出る。その先僅か10メートルを右に曲がった位置にある狭い路地で、この坂の上には左右に若者向けの今風の飲み屋街が広がっている。駅からこの繁華街へ行くにはこの路地を登っていく、それ以外には道は大きく迂回する行き方しかないから、駅に着いた人は、早く楽しい繁華街に行こう!と、どんどんこの坂を登ろうとする。しかし坂の上の繁華街には既に若者が充満して身動きがとれていない。駅から出てくる若者はそんな事は分からないから、地下鉄が着くごとにどんどん坂の路地を上がろうと路地に突っ込んでいく。そうしたわけでこの狭い路地に上と下から3000人から5000人が密集してしまった。上から2個目の写真の、右の電光看板の居酒屋の前付近で密集した人々の群衆雪崩が発生し、下敷きになった多くの人が窒息死したらしい。坂道に10度の傾斜があるので、1人倒れると躓いて次々に人が倒れてしまうのだろう。追悼のモニュメントみたいなのがよく見ると有った。後からは何とでも言えるけど、人手が多くなると慎重に警備態勢を構築し、一歩通行などの対策を取れば、事故は防げた。つまり原因の一つは警備態勢で、混雑する予測が不足していたのだ。しかし実際は、事故の前にはこの坂道は右側通行で上行き、下行きで、片側一方通行で分けていたらしいが、午後21時には人が多過ぎて片側一方通行の意味がなくなったらしい。事故は偶発的な原因や情緒的な要因が多数重なって起きてしまう。例えばこの大惨事ではどのような背景だったかというと、、、・コロナの蔓延により4年ぶりに外出してもよいハロウィンだった。・イテウォンは六本木の様な外国人も多い若者の街で、そのため付近で多数のハロウィンパーティーが開催されていた。・コロナ収束で海外からソウルへの渡航者も多くなっており外国人もイテウォンに殺到していた。・そのためイテウォン駅ではこの日8万人が下車しており、前年比260%だった。・この付近に有名なインフルエンサーが現れたとSNSで噂が拡散し更に若者が殺到した。(らしい)(俳優のイ・ジハンさんが実際に亡くなっている)さて、私はこの事故の直後、日本ではどういう群衆雪崩事故があったのかなと調べた時に、近年の明石花火大会の死者11名は有名だが、昭和31年に、124人が亡くなった弥彦神社事件が最も大きな群衆雪崩事故だったと知って、2023年5月に新潟県の弥彦神社の現場を見に行った。 なぜ1956年にこんなに田舎の広い神社で124人も亡くなるような事故が起こったのか?全く意味がわからなかったけど、こうして現地に来てみるとその事故の様子がわかるような気がしてくる。 弥彦神社なんて知らなかったけど、新潟(越後)では「一の宮」だそう。。神社の最奥の境内は80メートル四方ぐらいありそうだけど、ここに3万人が押し寄せたら広い境内でも収容できない。 1・この年新潟は米が豊作で多くの農家では収入が増えて懐に余裕があった。 2・この年の年末から大晦日にかけて珍しく新潟に雪が降らず晴天が続いた。 3・この年、バス路線や交通網が発達して新潟中から初詣の臨時バスが運行された。 4・弥彦神社では元旦の零時に社殿の屋根からお餅を撒くイベントがあったため、0時までに境内に到着した人は境内に留まり続け、到着していない人は0時までに行かなければならないと皆必死で境内へ突入していったため、押しくらまんじゅう状態になったと思われる。 5.境内を取り囲む石の玉垣が決壊して群衆が数百人まとめて2.5m下の地面に倒れながら落下したため、圧死者が多数出た。 4は毎年の事だけど、1.2.3はこの年に特別そうなった背景である。これはイテウォンの・コロナ渦が開けてリアルでパーティーが開催。・コロナが終わって外国人観光客が増えていた。・有名人に人々が殺到した。などの状況と似ている。 つまり、人が多く来る条件がそろってしまったのである。 想像以上に人が多く集まると密集した人間の圧力が凶器になってしまう。だからイベントの主催や警備を仕切る人は来場者を予測して人の流れを想像して一方通行にしたり、通行止めにして迂回路を作るなど、安全対策を十分に講じなければならないのだ。 (ここには書かないが、イテウォンの事故現場で写真を撮っている時に実に不思議な事が起きた)
2024.02.19
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2019年以来の6度目のソウルに来た,昼に金浦空港に着いて、明洞の庶民的な「イェジ粉食」に突入。上は餃子と餅のスープ、9000ウォン。美味いんだなこれが。下は味噌豆腐スンドゥブ9000w。 石焼きビビンバ。10000ウォン ソウルロイヤルホテル19階の部屋からはとなりのソウル大聖堂が見える。このホテル2度目。素晴らしい。 東京スカイツリーを上から。 宍道湖(右)と中海(左)。島根県。宍道湖はシジミで有名な日本で7番目に大きい湖だって。
2024.02.18
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タージマハル廟が建つ100年前に建てられた、フマーユーンというムガル帝国の2代皇帝の陵墓である。ムガール帝国の初代バーブルは、父方がティムール王家、母方がチンギス・ハーンという血統、その長男フマユーンは当然チンギス・ハーンの子孫(凄い!)。父バーブルが47歳で亡くなると、22歳で王位を継ぎ第2代皇帝となった。詩歌を愛する文人で、武人としては凡庸なフマユーンは、領土の大部分を10年で失う。その後は各地を流浪したが、33歳の時にシンドで19歳のペルシア人のハミーダを正妃としペルシアの支援を得て、弱体化したスール王朝を攻め、やっとデリー奪回に成功した。夫人がペルシア人なため、ペルシア人の設計で作られ、ペルシア系インド様式の霊廟として「ムガル美術」という新しい芸術が誕生した。1983年にユネスコ世界遺産に登録された。白大理石造りのドームは高さ38m。 インドの格好いい人達特集 13 ここはニューデリーにある城で、レッド・フォードという世界遺産。 世界遺産57ヶ所目。 インドの格好いい人達特集 14インドの人たち、14億2000万人が、多分、家族のために一生懸命生きている。それに比べて日本の平均的な人達、は、仕方なく仕事して、仕方なくご飯食べて、明確な目的もなく怠惰に生きている(そう見える・・・)日本の人達はつまり、一生懸命生きてない。日本はインドにすぐに抜かれる。いや、マインド的にはとっくに抜かれている。。5泊したからといってインドを理解出来る訳ではないが、おおよその見当はつく。インドはもはや後進国ではない。国民性は穏やかで皆が優しく、信仰心が厚く、したがって精神的に安定していて、中国人のような卑しさが微塵もない。良い車も沢山走っており先進国に近い。社会秩序も素晴らしい。地理上では、この後経済が飛躍的に伸びていくアフリカ大陸に近くて、インド洋に突き出しており海運も伸びるし、世界の中心にあると言えるから商取引の発達する下地は十分ある。貧富の問題と教育を受けられない問題が解決して、主要なIT産業が世界レベルになればGDPで世界一の国になるだろう。
2023.11.04
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ニューデリーの南郊外約15kmに位置するインド最古のイスラーム遺跡群。1192年、後に奴隷王朝を打ち立てるクトゥブ・ウッディーン・アイバクが、北インドを制圧した記念に建立したのがクトゥブ・ミナール。ミナールとは、ミナレットのことで塔を意味する。本来は礼拝の時を知らせるための塔だが、国内のヒンドゥー教徒たちに対するイスラームの勢力誇示という意味合いが強かったようだ。クトゥブ・ミナールの高さは約72.5m。5層からなる塔の壁には、コーランが刻まれている。モスクの中庭にそびえるチャンドラヴァルマンの鉄柱。4世紀に鍛造された高さ約7.2mの鉄柱が、雨ざらしにもかかわらずほとんど錆びていないのは、100%に近い高い純度の鉄だから。柵があるため、直接触ることはできない。また、均整のとれた美しい門アライ・ダルワーザ、壁を覆うレリーフ彫刻が見事なイレトゥミシュ廟、未完成のアラーイ・ミナールなど、見どころが目白押しな遺産。あまりにも、超一級世界遺産ばかり続くと有り難みが薄れてしまうよ。。 インドの格好イイ人達特集 11 インドの格好イイ人達特集 12@デリー郊外
2023.11.02
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ニューデリー 夜 ニューデリー朝ジャイプール 夜 ジャイプール 朝 アグラ 昼 アグラ 夜 この食事は中華料理と言っていた。。 アグラ 昼 ニューデリーの朝ごはん どこでもスイカが沢山あった。 ニューデリーの夜 DHABAというお店。 ほぼカレーばっかり。カレーばっかりで写真撮ってない日も多い。。インド人ほぼカレー食べてます。間違いない。ホント。
2023.11.01
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アグラ城は16世紀からの約300年間、ムガル帝国の歴代皇帝の居城だった。1983年に世界遺産に登録された。40年も前に登録された事が一級世界遺産である事を物語っている。ムガール帝国は6代皇帝まで続いたが、その後イギリスの植民地になってしまった。1565年、第3代皇帝アクバル(フマーユーンの息子)がデリーから遷都し築城を開始して、完成したのは1573年。「アクバル帝」は、イスラム王朝でありながらヒンドゥー教徒の妃を持ち、他宗教との融和をはかったという。その為この城はイスラムとヒンドゥー建築の融合が見られる。城内の多くの建物が純白なのは、孫の第5代皇帝「シャー・ジャハーン」によるもの。タージ・マハルを建てたことでも知られる皇帝は、白大理石に貴石の象嵌を施した優美な建物を次々に建て、アグラ城を優美に変身させた(しかし国の財政を悪化させ、自分の子アウラングゼーブに幽閉された)。城郭の広さ、それぞれの建物の大きさが凄い。大阪城ぐらいの敷地あるのかも。 タージ・マハルが見える。 世界遺産54ヶ所目。ヴェルサイユ宮殿ぐらいの規模と壮麗さが残っており、超一流の世界遺産だと思う。 インドの格好イイ人達特集 ⑨ スクーターに4人乗りで、いいんだ、、、。この女の子の目の大きさ少し人間離れ。。 インドの格好イイ人達特集 ⑩
2023.11.01
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25.10.2023 タージ とは墓のこと。マハルとは妃の名。遂に来ました!世界遺産53ヵ所目にして、悲願のタージ・マハル。高2の時から「死ぬまでに絶対行く」と決めて、来られると信じてきたスーパー超弩級世界遺産である。観光客の数は凄まじく多い。駐車場の広さは尋常ではない。 10月25日なのに気温32度。夏は49度まで高くなるっていう。駐車場から入り口まで僅かのお金でカートに乗れる。タージマハルの北側は東西に太い川が流れており、タージマハルの南側は庭園で、庭園の南の左右に入場ゲートがある。外国人入場料は1300ルピー、約2400円。インド人入場料は多分100ルピーとかだろう。タージ・マハルの外壁は全て白い大理石だが、現在劣化して黄ばみとか緑ばみ?が見られてきて、これは大気汚染のせいなんだけど、とにかく表面に傷とか汚れが付かない様に厳重警戒してる。入場時の荷物検査とかが非常に厳しい。飲み物、水とかお菓子は全部没取される。インド人お菓子取り上げられてる量が半端なかった。門を抜けるとー。→1枚目の写真。 ズッドオオオオオオオ〜〜〜ンンッ!!!本物。。感動とは、感じて動く、と書くんだよ。なまっちょろい感動なんて、それは感動ではないのさ。タージマハルを感じて、よしっ!俺は来た!決めた事はやったんだ!次もそうしよう!と動く。それが感動。。次は空から見えた 昆明↓ (@中国の僻地)に行く!という目標を持った。 向かって左にシャージャハン帝のためのモスクがある、 廟に上がる前に靴にカバーを付けて大理石に傷が付かないようにするよ。 ものすごい大きさ! 彫刻の美しさが超絶技巧過ぎて圧巻。 決めました!来年またココに来ます。。 インドの格好イイ人達特集④ インドの格好イイ人達特集⑤ インドの格好イイ人達特集⑥ インドの格好イイ人達特集⑦ インドの格好いい人達特集⑧ @アグラねこまっく的な「格好いい」とは・自分らしく・颯爽としていて・未来を信じて前向きに生きていて・誰にも媚びない ・・・人。俺もそうなりたい、、
2023.10.27
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25.10.2023アグラの西40キロにあるファテープルシークリー。世界遺産52ヶ所目。日本で言ったらまあだいたい名古屋城、みたいな遺産。そういうクラス。大阪城とか。タージ・マハルは日本で言ったら、うーん、、城ではないからな。うーん、寺でもないけど、清水寺とか、法隆寺??ぐらいの凄い観光地。ファテープル・シークリーはインドのアグラ郊外の古代都市。子宝に恵まれなかったムガル帝国3代皇帝アクバルが、シークリーに住む聖者シェーク・サリーム・チシュティーに「5年以内に3人の男児を授かる」と予言された。その翌年に妃が長男を、翌々年に次男、更に三男を身ごもったことで予言通りとなった事でアグラからシークリーに1571年に遷都したといわれている。しかし1571年から1585年の14年間だけファテープル=シークリーに首都があり、その後は首都をラホール(現パキスタン)に移してしまった。水不足が原因と言われている。今も美しい姿を残す城として1986年に世界遺産に登録された。この時代の建造物群が綺麗な形で残っており、他のアグラ城やアンベール城と比べて大きさは小さいかもしれないが建物群が繊細で気品があると感じられる。 インドの格好イイ人達特集①。 インドの格好イイ人達特集② インドの格好イイ人達特集③ @ファテープルシークリー男性は別に何の工夫もない服装だけど、インドは女性の服が格好イイマジで。
2023.10.26
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上の写真、ここはジャイプールの旧市街にある、風の宮殿という王妃の住居跡。その外観と、上から見る街はこんな感じ。デリーの南西約260kmに位置するジャイプールは、広大なラジャスタン州の州都。アンベール王国という封建領主が治める国だった。アンベール城が水不足になり、11キロ離れた平野に王宮を移したのがサワイ・ジャイ・シン2世、1800年代初頭の事らしい。2019年に世界遺産に登録されたジャイプール旧市街は赤い城壁で囲まれ、街もレンガ色。「ピンクシティー」と言われる。インドの都市計画として、最初の精密な道路、治水計画により造られた街として世界遺産に登録された。サワイ ジャイ シン 2世は、天文学に通じ、世界遺産ジャンタル=マンタルも作らせた。 風の宮殿に隣接するのは今でもラジャスターン州の王が住んでいる王宮。シティーパレスという。この王宮の半分は博物館として開放されている。王宮といってもインドの王ではない。ラジャスターンの地域の王。 この王が街に出るパレードがあるとかで、象が待っていた。 ごはん食べたお店。↑どこ行ってもだいたいカレー。
2023.10.26
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24.10.2023上の大きな建造物は、一年中、2秒単位で計測できる日時計。 インドでは何月何日に生まれたから蟹座とか、ではなく、何年の何月何日の何時何分にどこで生まれたか?が大切でその時の星の位置によって結婚相手から何から何まで運命が決まっている!というような精密な占星術をほぼ9割の人が信じているし、そういう占星術の占いの有名な人が沢山いるという。18世紀のジャイプールの藩王(英国植民地下でも自治権があった)が、占星術が好き過ぎてインド国内に5個所作らせた天体観測施設がジャンタル=マンタルで、1番大きな施設がここジャイプールのもの。2010年に世界文化遺産に登録された。ねこまんま氏(今後ねこまっく)は死ぬまでに世界遺産100ヵ所行くと言ってるが、記念すべき50個目の世界遺産訪問となった。 北極星を観る為の台。 現在太陽がある位置にその先の天体に何座があるのかが分かる天球儀の半面を北半球南半球に分けて地面の下に堀ったもの。簡単に言うと、太陽の影が指す星座が今生まれた子の重要な占星となる訳。かく言ってる俺も意味は約半分しかわかんない。。 ジャンタル=マンタルの入退場口。外国人は入場料1200円。インドの人は安い。天文が割と好きなねこまっくでもフーンなるほどね、的な感想しか出ないので、天文学に疎い人にはヤバい(昔のやばい)世界遺産だと思う。多分ちんぷんかんぷんだと思う。 昨日の夜食べ過ぎたカレー類。 朝食べたカレーっぽい朝ごはん。そろそろ身体からカレーの匂い出てきそう。そう言えば、デリーの空港に着いて、現地係員のインド人のオジサンが迎えに来ていたんだけど、到着の出口でその人はなかなか俺たちに声を掛けて来なかった。だから俺達は迎えが来てないのかと思って到着の出た辺りでウロウロしていた。そしてようやくそのオジサンがミスターフジ〇〇さんですか?みたいな声掛けて来てあーハイそうですとなって、車まで案内されたんだけど、、声を掛けて来なかった理由は、ねこまっくの妻がインド人の顔してたから、あーこの人達は日本人夫婦じゃなくてインド人の奥さんと日本人の旦那さんが結婚して奥さんの故郷のデリー帰ってきたんだからツアーの人じゃ無いと思い込んでしまった、、とのことだった。。
2023.10.25
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デリーの空港に着いて、夜だったから、すぐに連れてってもらったホテルの夜ブッフェがカレーばっかりだった件。。まずくはない、むしろ美味しい。朝は、やっぱりちょっとカレー調の旋律。 24.10.2024昨日23日の夕方にデリー空港に着いてそのままホテルに連れてって貰って1泊。24日の朝800時に車で出発し、ジャイプールに着いたのは1300時。世界遺産=インド・ラージャスターンの丘陵要塞群、はラージャスターン州の州都ジャイプール周辺に残る、8つの城塞群を指す。標高460メートルにあるアンベール城がその中でも1番有名な観光地となっている。ジャイプール郊外11キロにあるラージプート族が建てた城。世界遺産の中でも例えばギザのピラミッドや兵馬俑やパルテノン宮殿はスーパーウルトラ超弩級世界遺産であって、それより少し劣るウィーンのシェーンブルン宮殿や姫路城などは超一級の世界遺産だと思う。このアンベール城も超一級!だった。1600年ごろの築城で増築が続いて巨大な城郭となった。 この城山を取り囲むように周囲の山の尾根に長城が20キロ築かれている。つまり日本でいう総構えのような街のつくりになっている。 イスラム様式とヒンドゥー様式が織り交ぜた独特の様式であるが、イスラム式のアーチがふんだんにあり庭園もあるため、何となくグラナダのアルファンブラ宮殿を思い出させる城である。と、スペインのアルファンブラ宮殿行ったことあるアピールを密かにしたが、本当に似てるんだよー! ちょっと分かりにくいのは、インドのムガル帝国などのインドの王様が築いた城ではなく、ジャイプール州の封建領主、つまり昔はマハラジャと呼ばれた地方の王様が建てた城である。日本で言えば彦根城とか熊本城みたいな感じな。
2023.10.24
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10/23 @2023。ANA機から見たガンジス河。場所はダージリンとバラナシの間ぐらいだから、ほぼ100%この河はガンジス川と思われる。 同じ場所。手前にガンジス河、遠景にヒマラヤ山脈。白い高い山はカンチェンジュンガ8586m、と思われる。 携帯で限界まで拡大してカンチェンジュンガを撮影。世界で3番目に高い山。手前にガンジス川、遠景に右カンチェンジュンガ、左にエベレスト山とローツェ山、マカルー山の塊と思われる。これはものすごい景色だと思われ、ひとり大興奮!みんな寝てるし気づいてるの俺だけ?、、、。 左がエベレスト8848mの岩肌と雲、右が世界4位のローツェ8516mと、世界5位のマカルー8463m、の塊とほぼ思われる。スゴイ! ものすごい景色を見た。機内アナウンスとかは全く無いから、右の窓際にいないと気付かない。ラッキーだな。。エベレスト見た事ある人、日本人の何%だろ? 0.1%未満だろな。。これだけの風景を見たんだからもう死んでもいいと少し思った。これだけでもう充分インドに来た価値があったよ。
2023.10.24
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大学の卒業旅行に選んだのはスペイン。ルフトハンザ航空でフランクフルト経由、マドリードin、35日後にマドリーoutのフィックス航空券を、確か10万円以下で購入した HISだったと思う。その間、スペインをたっぷり巡り、途中ポルトガル、アルヘシラスから地中海を渡りモロッコにも1週間という計画。上の写真はモロッコという国の、マラケシュという街のジャマエルフナ広場という場所。で、水を売っている男達。まあ本当に水を飲ませて金も取るんだけど、観光客に一緒にカメラに収まってチップを貰うのを収入源にしている。本当にすんごい街だったー。不潔でエネルギッシュで皆んなが叫んでいる様な、素晴らしい世界!この街で腹を壊して3日動けなかった。今では良い思い出。↑ 古都 フェズの街並み。私は3年次終了後、4年次の卒業までに取らなければならないのは36単位を必要としていたので、最大履修可能な56単位を履修したが、卒業が確定するのはこの旅行の出発後だったから気が気では無かった。マドリードに到着したのは1991年2月 日の深夜2時ぐらいだった。これまでに深夜にホテル予約無しである国に到着することは多かったから、深夜でもそんなに不安は無かった。マドリードでは、1991年でも地下鉄は24時間動いていた。しかし空港から地下鉄でマドリードの中心部に来て駅を出るとさすがに人通りは絶えていた。オステルと記された安宿がいくつかあったので、映画に出てくるようなドアをノックする石みたいなノック機?でガン!ガン!とドアを叩く、深夜2時に。出てこない宿もあるが、2軒目ぐらいに、お決まりのフレーズ、ドゥユーハブアルーム? と聞くと、1泊1000円ぐらいで綺麗な部屋に泊まれることになった。
2022.09.14
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エジプトの遺跡を見て感じたのは、圧倒的な石の量、迫力。巨石の質感。何故4000年も5000年も前の人間がこのような巨石で精密な兼特や直線や芸術作品を作れたのか? カルナック神殿では広範囲に遺跡が広がっていた事はかすかに覚えている。しかし王家の谷やハトシェプスト葬祭殿の印象はほとんど残っていない。エジプトどころか、ルーブル美術館やコロッセオや、ヴェルサイユ宮殿の記憶もほぼ無い。 残っている旅の記憶は、旅の中でのトラブル、辛かった事、困難、事件、盗まれた事、そんな負の記憶が何故か鮮明に記憶に残ってる。しかも当時は辛くても今は笑えるような記憶になっている。メキシコでも、アメリカでも、スペインでもモロッコでも全部そうだ。カイロ空港からルクソールまでのエジプシャン航空の飛行機で出た機内食は、食パンみたいな形の茶色いとても固いパン一枚とマーガリンだけ、それとウソみたいな薄い紅茶が出された。凄かった。空港に着いて、どう市街地に行ったか覚えてないが、最初は貧乏旅行者にとっては超高級ホテルチェーンのノボテルで値段を訊いたけど、確か1泊一部屋4000円か5000円ぐらいな事を言われて、スゴスゴと退散し、次に1泊一部屋1500円ぐらいの安いホテルに決めて、ベッドだけども南京虫に刺される可能性があるから、日本から持参している薄い寝袋にくるまって寝た。夜中に、何かおかしいと起きると、顔中を蚊に刺されていて痒くて仕方ない。電気を付けると壁一面に黒い蚊の大群がとまっていた。何処から部屋に侵入してきたのかわからないが、蚊は恐らく3000匹はいた。我々は地球の歩き方というガイドブックを何冊かずつ手分けして持ってきていたので、その本を壁に叩きつけて、一回で蚊を30匹は殺した。これだっ、殲滅するしかない!と、蚊まみれ、血塗れの地球の歩き方を狂ったようにホテルの部屋の壁に100回以上叩きつけて、ほとんどの蚊を殺したが、まだ部屋には蚊が50匹はいると思われた。仕方なく寝袋を頭から被り口と鼻の周りだけを出して寝たが、朝、鼻と口の周りが大変な事になっていた。この記憶も今や笑える。翌日、我々はこの地獄のホテルを逃げ出して、一泊4000円のノボテルに戻って部屋を確保。荷物を預けてカルナック神殿を観光した。ルクソールからナイル川を渡し舟で渡った西側の、ナイル川左岸にはハトシェプスト葬祭殿やツタンカーメンの墓などが密集している王家の谷がある。午後はこの王家の谷周辺を集中して見て周り、ナイル川を再び船で戻ってきて、ルクソールの夜の街歩きをしている頃にはすっかりエジプト人みたいな気持ちになっていた。本当はアスワンまで行きたかったが、アスワンは遠すぎるのでルクソールで我慢した。
2022.04.25
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1990年の2/24 アテネ国際空港からエジプトのカイロ国際空港までギリシャ国営のオリンピック航空で移動した。到着したのは夕刻で、10ドルで観光VISAを取得しているうちに夜になり、空港の出口には個人旅行者目当てのタクシーやら客引きやら、白タクやら、得体のしれない人々がワンサカと居て、何やら大声でわめいており、、少し恐怖を覚えた。しかし、現代とは異なり、携帯もインターネットも無い情報の乏しい時代。地球の歩き方に出ている安宿などは地図が間違っていたり閉店していたりもしばしばであった。我々のような昔の貧乏旅行者は客引きやタクシーを逆手に使って彼らから情報を得るしかないのであった。タクシーの運転手らしき人間を1人掴まえて「カイロ迄幾らか」訊く。彼は10ドルと答える。「それでは12ドル払うから我々を1泊1部屋10ドルで泊まれる宿に連れていけるか?」と訊く。彼は「もちろん行ける」と答える。これで交渉成立。カイロの街中であれば宿の場所なんてどこでも良いのだから。連れて行ける、と力強く答えたものの、運転手は何度か街の人にホテルの場所を訊いて、探し回ってようやく着いた感じだった。彼がホテルからコミッションを貰おうが貰うまいがそんなことは知ったことではない。我々は1泊1部屋10ドルしかかからないのだから、そうすれば1人700円で1泊出来るのだ。ホテルの小さなフロントには周囲に子供が何人か付きまとっていた。何故かと言うと、子供が荷物を持って部屋まで案内しようとしているからだった。一人の子供が我々のザックを抱えて階段を上がっていく。他の子どもが「アメリカドルで貰え!」と言った。我々から「アメリカドルでチップを貰え」と言っているのである。苦笑した。荷物を置いた子供はその場でじっとしていた。1ドル札を渡すと嬉しそうに受け取って駆け去った。半分はホテルに取られるに違いない。しかしこうしてエジプトの人間は若い時から観光客から搾り取ろうと、商魂逞しく育っていくのだ。この小さいホテルはカイロ考古学博物館からも近い場所にあり、5階にちょっとしたカフェがあって、ステラというビールも飲めて便利だった。イスラムの国は程度の差はあるが、アルコールが禁止されており、外国人向けのバーとか飲食店しかアルコールが飲めない国もある。翌2/25。とりあえずツタンカーメンのマスクを見るべくエジプト考古学博物館に行った。広い空間で「ツタンカーメンのマスクを見たな」という事ぐらいしか覚えていない。この博物館には全ての観光客が来るので、博物館前には無数のタクシーや白タクが客引きをしており、声を掛けて来た。つまり、クフ王のピラミッドなどのあるギザと階段ピラミッドのあるサッカラ、屈折ピラミッドのあるダハシュールを1日タクシーに乗せて観光して50ドル!とか言いながら寄ってくるわけだ。タクシーの方が多そうなので、40ドルか35ドルに値切ってみて、断られたらそのタクシーから離れて次の白タク、次の白タクと、値切り倒してやっと合意した白タクの運ちゃんに「翌日3/1の朝9時にホテルに来い」と言ってホテルの場所を教えて別れた。当時、観光都市には格安チケットを販売する小さな旅行代理店が密集しているエリアが必ずあって、それが地球の歩き方には書いてあって、我々はそこで各種チケットなどを探した。カイロからルクソールの往復を列車で行くか、安いチケットがあれば飛行機で行くか?と考えていたし、エジプトから出るために、カイロからローマの飛行機チケットも絶対に必要だった。運よくルクソール往復がエジプシャン航空で8000円ぐらいで買えて、アリタリア航空のカイロ発ローマ行きも13000円ぐらいで手に入った。もちろんルクソールや、ローマのホテルは行き当たりばったりだから宿の予約なんて出来ないけど、全く不安はなかった。。ところがルクソールではホテルで酷い目に遭ったのである。。翌日、白タクの運転手は迎えに来て、まずはギザ大地の3大ピラミッドとスフィンクスに向かった。砂漠の駐車場で、運転手は「待っているので45分で帰って来てくれ」と言った。我々はこの広大な遺跡を何分で回れるのかさっぱり見当がつかなかったし、スフィンクスだけでも大興奮して時間を要した。クフ王のピラミッドも登り始めて警察官?に注意されたりしながら、ようやくクフ王のピラミッド内部に入ると、中から出て来る観光客(ほとんどエジプト人で白人がちらほら={日本でも法隆寺や姫路城の来場者はほとんど日本人である})が頭から水を被ったように汗びっしょりで出て来るので一体どういう事なの?と思ったら、内部の通路を上に向かってかなり登ったところに「玄室」という王の棺のある部屋があるのだが、内部の熱気がこの通路を伝って上昇し、玄室に全ての熱が集まってしまい、「玄室」の温度は推定60度以上ある感じだった。本当に「人いきれ」の熱で暑かったし、エジプト人の修学旅行生みたいなのがわんさかと居て人間の体臭も絡み合ってとても臭かった。エジプトでは一応まだ冬なのに、夏になったらピラミッド内部の観光客はどうなるの?と思ったよ。疲れたので他のピラミッドはとても行けないなと思い駐車場に戻ったら1時間半ぐらい経過していた。運転手は「45分と言ったではないか!」と不機嫌そうだったが、せっかくピラミッド観光に来て時間制限されるなんてこっちこそ不機嫌になったので、日本語で「バカヤロウフザケンナヨテメー!」と言ったら少し静かになった。次にサッカラのジュセル王の階段ピラミッドを見に行った。墓の集中する場所をネクロポリスというのだが、北から南に、ギーザ、アブシール、サッカラ、ダハシュールというのがカイロ近郊のネクロポリスであり、ギザの3大ピラミッドが有名だけれども王のピラミッドはこの地域に25個以上あるのだ。ここでも「30分で帰って来い」みたいなことを言ってたが、ゆっくり見て回って50分後ぐらいに戻ったら運転手はまたしてもぶつぶつと不満を述べていた。次に運転手は頼みもしないのに我々を一軒のレストランに連れて行き、「ランチだ。美味しい。」とか言った。1人10ドルで美味しいとか言っている。昼ごはんに10ドル=1400円を使うのは予算オーバーだしそんなレストランに行きたくなかったが、砂漠で他に店も全く見当たらないので仕方ないなと入ってみた。そこは庭に花が咲いているガーデン付きのレストランでテラスで食事が出来る高級そうなレストランだった。当時のエジプトで10ドルの食事は高級と思われた。運転手は許可もしてないのに我々と一緒なテーブルに座り、一緒に食べようとしている。おそらく観光客を連れて来た白タクの運転手はタダで食べられるシステムなのだろうと思われた。エジプトの料理は全てが美味しくないので味は全く覚えていないが、クスクスの様な料理やチキンなど何皿か満腹するまで出て来たと思う。食事が終わって料金を支払う際に、我々は運転手に「お前も料金を払え」と言った。運転手は不思議そうな顔をしていたが、何度もキツく「払えよっ」と言ったので、運転手は紙幣をいくばくか支払って、「払ったぞっ」みたいに言っていた。本当にむかつく野郎だ。次にダハシュールという地域の屈折ピラミッドと赤いピラミッドというピラミッド群を見に行った。どちらもスネフェルという王様が作ったピラミッドである。スネフェルはピラミッドを5個も作ったと言われており、スネフェルの息子が世界最大のピラミッドを建造したクフである。カイロ近郊のピラミッド群を見終わって、白タクでカイロに帰る途中、市街に入ってからポスト=郵便局に寄ってくれと運転手に頼んだ。郵便局から国際電話でイタリアに電話してローマからパリの飛行機便のリコンファームをどうしても1週前までにする必要があったのだ。運転手は「POSTに寄るのは嫌だ」と言ったので、「それなら今日の35ドルは払わないぞ!」と言った。渋々運転手は1件の郵便局の前で車を停めた。POSTの電話は、家に電話の無いエジプト人もそれを使ってエジプト国内の電話に使うのですごく待たされそうな雰囲気だった。そこで、もう既に自分が考えていたよりも時間が押していた運転手がエジプト言葉で郵便局の係員にギャンギャン我々の順番を早めるように言ったらしく、順番を飛び越えて電話することが出来た。国際電話の料金だけでも結構かかったと思う。ホテルに着いた時に運転手に35ドルを払い、POSTに寄って順番を早めたことのチップとして5ドルを追加で渡したら、これまで不和だったのにこの日本人は何故最後に5ドルもくれたのか?と運転手は不思議そうな顔をしていたが、すぐにありがとう!と嬉しそうにしていた。約束以外の場所に立ち寄ったチップくらいは払うのだよ。次に我々はエジプト航空で、ルクソールの王家の谷・カルナック神殿に向かう。
2022.04.22
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この頃の俺はポチャポチャしていて恥ずかしい。今でもポチャポチャしているが。。アテネは2月でも非常に暑かった。この写真からもわかるように、パルテノン神殿が建つアクロポリスの丘は、ギリシャの首都アテネの街の「ど真ん中」にあって、街のどこからでも、丘を目指して登って行けば到着する。道を間違えるとかそういう事は絶対にない。この当時はアクロポリスの入場料とかは無くて、無料だったと思うのだが、今は知らない。2009年に博物館が出来て、当然その入場料とかもかかるはず。昔は博物館とか説明書きは一切なく、勝手に観てくれ、2500年前の遺産でっせ~!と、あっけらかんに、世界遺産の神殿がそこにあり、普通に存在し過ぎていたし、勿体つける感が全くなかったのが清々しかった。アテネから65キロ南に、海に突き出した断崖の上にポセイドン神を祭った神殿があるスニオン岬という場所があり、夕日の沈む時刻には素晴らしい景観とのことで、午後2時ぐらいにどうやって行くのかな~とバスの広場でウロウロしていると、日本人の男性(多分30代半ばぐらい)が何か困ってるのかと声を掛けて来て下さって「スニオン行きたいけど、どのバス乗れば良いのかわからないんです」と言った。その男性は少し家族の方と相談したのか、「私たちも今日休みでどこに行く当てもなかったので久しぶりにスニオン行ってみるから君達を車で送ってあげる」と言って下さった。その日は日曜日だった。男性はコニカの社員でギリシャの駐在員だった。当時は、携帯電話が無いから、日本人は、旅行者であっても、現地在住者であっても、お互いに声掛けあって助け合ったり、情報交換したりしたものだ。旅行者でも日本人でザック背負ってれば男女問わず必ず情報交換したし、時間が有れば必ず一緒にご飯を食べたりは当たり前だった。そういうスタイルの旅行は無くなったのだろうか??コニカは、今やコニカミノルタになったけど、当時はどちらもカメラのフィルムのメーカーというイメージだった。男性は同年代の奥様と4才の娘さんと車に我々を乗せてスニオン岬まで行ってくれ、帰りはバスで帰るからと言っても、陽が沈んだら駐車場に来ればまたアテネまで送ってあげる と言ってくれて恐縮しきりだったが、バス停は長蛇の列だったから助かったーという気持ちだった。男性は、ギリシャの人の運転はかなり荒いけど、カイロの運転はもっと酷くてメチャクチャだよと言っていたが、後でカイロに行くとその通りメチャクチャだった。カイロの人々の運転は車線は守らないし、速度も守らないしそこらじゅうで事故が起きていた。アテネに戻って、ギリシャには名物料理、ムサカ、というのが有り、我々はムサカを食べることが目的でもあったのだが、それもそこらじゅうにムサカを食べさせるビストロみたいな店があって、ビールとワインと美味しいムサカが安く食えた。ムサカとは、グラタンの様な、ラザニアの様な、茄子やキノコが沢山入った、とにかく美味い代物だったので、二晩続けて、ムサカをガシガシ食い進み、酒を飲みアテネを堪能したのであった。
2022.04.13
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↑ イスタンブールの世界遺産「アヤ・ソフィア」。1990年2/17午後、 ルーマニアのブカレストから、ブルガリアの首都ソフィアに向けて列車に乗った。指定席を取ったコンパートメントに同乗してきたのは、ブカレストで美術の大学教授をしている年配の男性とその奥様。とても上品な感じで、男性はネクタイを付けていた。ご夫婦は少し英語が話せて、イスタンブールに旅行に行くとのことだった。 教授は国内の内戦状態が終わり、日本人に会ったのが嬉しいらしく、ギターを取り出して歌を歌い、我々に自分で作ったという石膏のレリーフをくれた。レリーフには女神が彫られていた。我々に出会わなかったとしたら、レリーフをどうしようと思っていたのか?また、なぜギターを持って旅行していたのか?全く分からない。 夫婦は食べ物はあるか、と「肉とパンだ」と言って食べ物をくれたけれど、肉というのが、白くてどう考えても冷えた肉の生の脂身の塊で、パンもガチガチに硬く、不味くて臭くて食えた物ではなかったが、ご夫妻がニコニコして見ているので涙を堪えて呑み込んだ。申し訳ないが本当に不味かった。。ある程度お金持ちであろう教授夫妻でもルーマニアの食糧事情なのかと思い知った。 この列車はブカレストからソフィアを経由してイスタンブールまで行く長い時間走行する列車で、食堂車が付いているのを事前に知ってて、我々は楽しみにしていたので、教授夫婦には申し訳ないがトイレに行く様な感じで食堂車に行ってしっかり夕飯を食べた。 我々は深夜にソフィアで降りるが、教授夫妻はそのままイスタンブールまで行くので、3日後にグランドバザールの入り口で待ち合わせて、教授の知ってるお店で一緒にご飯を食べようと教授が言ってきて、地図を描いてくれ、16時に待ち合わせした。(しかし、結論から言うとイスタンブールのその時間、その場所にご夫婦は現れなかった。。)ソフィアに到着したのは夜遅くで、駅近くにホテルなど全く無くて、困ったのだけど、ソフィアの良い思い出は無く、観光も特に無かったので割愛する。ソフィアで一泊して、教授の乗った列車から一日遅れの列車に乗り、ソフィア中央駅から539キロ走ってイスタンブールのシルゲジという駅に2/20の午前到着した。パリからイスタンブールまで走る夜行特急の特別列車オリエント急行というのは、ワゴン・リーという会社が運行を始めたのだが、ようは、我々はオリエント急行の反対行きを途中から走って来たのだ。イスタンブールは坂の多い街だった。ほとんど覚えていないが、シルゲジから坂を少し上った辺りの、日本円で1人一泊600円ぐらいのホテルにすぐに決めた記憶がある。ここで2泊し、次はアテネに行く。腹が減っていたので、トルコ独特のケバブ料理の店で食べて満足した記憶がある。ソフィアに比べて格段に民主的で物が溢れている印象だった。この宿は「グランドバザール」にも「トプかプ宮殿」にも「アヤ・ソフィア」にも近くて便利だった。世界遺産が集中するガラタ橋の南側は旧市街であり、ガラタ橋の北側が新市街で発展しているらしいのだが、新市街には行かず、「ガラタ塔」まで行っただけであった。何日目か忘れたが、ガラタ橋のたもとの船上で売っている、有名な『サバサンド』を100円位で買って食べた。小型のフランスパンの中に焼いたサバと生オニオン、レタスのコンビネーションが絶妙である。4リラ也(240円)。まあまあ美味い。当時、大都市には格安チケットを販売する小さな旅行代理店が密集しているエリアが必ずあって、それが地球の歩き方には書いてあって、我々はそこで各種チケットなどを探していた。トルコからギリシャのアテネに行きたかったので、着いたその日にオリンピック航空のイスタンブール~アテネ、アテネ~カイロを買った。値段は忘れたが、アテネで2泊したあと、カイロに夜到着する便だった。夜到着には不安もあるが仕方なかった。昔はブルー・モスクと言ったが今は「スルタンアフメト・モスク」というらしいオスマン帝国時代に建設されたモスクと、昔はギリシャ正教の教会だったものをモスクに転用した「アヤ・ソフィア」(写真)、トプカプ宮殿、王立博物館は当然に見て回ったがあまり観光は覚えていない。記憶に残るのは現地の人との会話やイレギュラーな出来事ばかりである。グランドバザールの印象は強烈だった。迷路のように入り組んだ巨大なお土産屋街というか日用品も売っている巨大市場である。日本人の男は全員「空手の達人」だと思われていた。どこに行っても空手を教えてくれと言われ続ける。僕は柔道が出来るので、背負い投げを途中まで掛けて、相手の身体を背中で持ち上げてあげると非常に喜ぶ男性が多かった。わけわからん。グランドバザールで100ドルぐらいで革ジャンを買った。店員は必死にライターの火で商品の革ジャンバーをあぶってちゃんと革製だから溶けないアピール…。イスラムの国は羊を大量に食べるのでラムの革が沢山生産されている。日本からここまで着て来た白い綿の分厚いブルゾンは最後イスタンブールの安ホテルに置いてきました。
2022.04.11
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↑ルーマニアの首都ブカレストの中心部。道路の真ん中に革命で犠牲になった人々の献花台がある。中東の街の様な、色が無い都市だった。ブダペストからルーマニア行の夜行列車に乗り込んだのは1990年2月15日だった。これよりほんの2か月前、ルーマニアでは革命が興り、1989年12/25に絶対的独裁者として君臨していたチャウシェスク夫妻が銃殺刑になっている。そんな場所に行って大丈夫なのかという不安もあったが、それより好奇心が10倍勝っていた。我々はブダペスト駅でこの夜行列車の指定席を買っていたが、自由席の車輌は凄まじい混雑で阿鼻叫喚、荷物の置き場も無い戦争状態になっていた。あー指定席買って良かった~!と思い、指定のコンパートメント(当時ヨーロッパの列車は車輌の片側が通路になっており、3人が向かい合わせの6人個室が通路に向けて並んでいる。通路との間にドアがある。)に行くと、そこは大荷物を抱えたルーマニア人の男性グループに占領されていた。チケットを見せてそこは我々の席だと言ってもニヤニヤしてて全くどかないし、荷物は網棚に満載してある。こういう時には日本語でブチ切れて喚くしかないと思い「オメーらふざけんなよっとっととどけバカヤロウッ」などと大声で怒鳴ったら年配の男性が「まあまあ」みたいに言ってきて他の男性に網棚の荷物をどけさせて席も空けさせて我々に座れ座れみたいに言っている。彼らの荷物は食料品や生活雑貨の類い。ワインや酒などだった。ルーマニア国内は革命の影響で物資が無く困窮を極めているようで、どうやら、彼らはルーマニアからハンガリー又はオーストリアに「商品の買い付け」に行って来た国境を跨ぐ商売人集団のようだった。国境で揉め事になって買いつけてきた商品が没収されるのを極端に恐れていた。私が怒りを大爆発させたために我々をなだめすかそうといきなりワインを2本開けて「飲め飲め」と私たちに差し出す。商品の缶詰なども開けて我々の機嫌を取ろうとしてくるので、そうですかそれではいただきまっか、と酒と肴を貰ってすっかり機嫌を治したのであった。通路からコンパートメントの中の荷物をじ~~っと見ながら歩いていくトルコ人が2人居た。ルーマニア商人たちは「あいつらはかっぱらいだから寝てはいけない。寝たら荷物が無くなる。」と言った。寝ては行けないって、あと何時間乗ると思ってんの?確かに彼らはずっと立って何か話したり煙草を吸ったり酒飲んだりしていて、眠りはしなかった。国境で軍人みたいなのが乗り込んできて検問に来た時には、自分たちの荷物を、この日本人の荷物だ!と言っていた。こんなに山の様な荷物を持ってルーマニアに行く日本人がいるかよ、と思ったが、我々は何も言わずに黙っていてやった。検問が終わると「お前たちのおかげで検問がスムーズに終わった」とまた酒をくれた。確かにトルコ人のかっぱらいグループは何度も通路をうろうろし、コンパートメントを除いていたので、我々は寝ない様にしていた。一度うつらうつらしていると、トルコ人が通路とのドアーを開けて個室に入ろうとしたので、ドアーの把手を思い切り蹴っ飛ばしてドアーを閉めてやった。もうすぐブカレストに到着する時に、トイレに行ったら、商売人の中の若い男が、俺に向かって言い難そうに小声で「チェンジ・マネー?」と言って来た。彼らは大量のドルやシリングを持っている、それは見ていた。いつでも、いくらでも外貨が欲しいのである。一応幾らだか訊いた。オフィシャルレートは1ドル=21レイだが、1ドル=80レイで両替する、お前はフレンドだから90レイで両替してやる。と言い難そうに若者は答えた。フレンズだから両替はやめておこう、と言ったら若者もその方がいいと思ったのか握手して別れた。ほかにも色んな国の人が乗った今までで最も不思議な列車だった。朝、ようやく列車はブカレストの駅に到着した。我々がホームに降りるより前に商売人集団はすごい勢いで荷物を担いで消えて行った。何故かはわからない。ホームを進むと人形やお皿みたいなお土産を売る人がわんさか寄って来た。その中に人相の悪いヒゲの男が「チェンジ・マネー?」と言って来た。闇両替である。他に闇両替を言ってくる人間はいなかったから、この男と交渉するしか無かった。商人の若者が1ドル=90レイなら交換すると言ったのを聞いてるから、1ドル=100レイで交換すると言ってやったら、駄目だと言っていたが、結局は追いかけて来てそのレートで両替した。公定レートの5倍のルーマニア・レイが手に入ってしまった。ブカレストには2泊した。安ホテルには一階に薄汚いカフェーがあり、朝食が付いていたが、その朝食のパンは固くてとても噛めなかった。パンは何日経ったらこんな鋼鉄の様に硬くなるのだろうと思われた。とてもじゃないが食える物ではなかった。今と違い、携帯電話なんて無いから情報が無い。食べ物がどこにも売ってないので、地球の歩き方に出ていた高級ホテル、インターコンチネンタルまでタクシーで行き、ホテルのレストランなら何か食えるだろうと、行ってみた。流石に超高級ホテルには身なりの良い外国人が沢山居て、Gパンの我々は奇異に見えるけど、そんなの関係なくレストランに入って行って、豪華な昼を食べたが、それでも両替した100レイ(140円)で足りた。タクシーはどこまで乗っても1ドル出せば運転手は喜んで乗せてくれた。中心街で、変なデブオヤジが声掛けてきた。俺はサッカーのナショナルチームに居た時日本に行ったから、日本が大好きだから、ブカレストの観光案内してあげるとか何とか。明らかに嘘だけど歩くのも面倒だからデブオヤジの車に乗り込んでみた。英語が話せてよく喋るオヤジだが、口が異常に臭かった。処刑されたチャウシェスクが建てていた巨大な宮殿?とか、色んな場所を案内してくれた。最後中心街で下される時、いよいよ、チップを少しくれないか?と言って来た。どうせそんなこったと思ったけど、確かに案内されたしガソリンも使っただろうと、俺たちは2ドル出した。そしたらオヤジは10ドルくれみたいな事を言った。俺たちは2ドルを引っ込めて5ドル札をシートに置いて急いで車を降りた。オヤジは運転席で何か言ってたが、もう振り返りもしなかった。700円であれだけ走らせれば安い観光タクシーがわりだった。夜もタクシーでインターコンチネンタルホテルに行って特大の分厚いステーキを食べて、ビールとワインを飲んでもやっぱり100レイしかしなかった。物価はどうなってんの?と思ったし、あんな硬いパンを一生懸命に食べてる市民は悲惨だった。今はルーマニアも裕福になったのだろうか。
2022.04.06
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↑漁夫の砦 @ブダペスト @ハンガリー。ウィーン中央駅からハンガリーの首都ブダペストまでは夜行列車で移動した。夜行列車の利点は、「ホテルを1泊使わないで済む」・「朝そのまま観光に出れて時間が有効」という点。35日間の旅行というと普通は34泊35日と考えるが、夜行を4回使えば30泊35日とか、宿代が浮くのである。今の自分では考えられない、若いって凄い!昔は、、東ヨーロッパ諸国や発展途上国では、駅や空港に着くと色んな人間が寄ってきたものだ。エジプトの空港なんてわんさか寄って来たもんだ。ブダペストの駅に2/13の朝到着し、荷物を担いで、さあホテルでも探して荷物預けっかな?と思って、駅の外に出ると早速「闇両替」をする男が声を掛けてきた。「闇両替」とは通常の為替レートより割高で両替し、外貨を手に入れようとする個人のこと。ハンガリーの通貨、フォリントを通常レートだと1ドル=80フォリントのところを、90フォリント出すから銀行や正規のカンビオではなく自分と両替してくれと言ってくるような人の事である。偽札を渡されるわけではないから、我々としては、別に利用しても問題はない。正確に言うとその国の法律には触れるかもしれないが、10ドルで800フォリントのところが、900フォリント手に入るならば、それだけ滞在費が多く手に入るから、旅行者にはお得だ。彼らはそれでどういう儲けがあるかと言うと、ハンガリーから外国に出ていく商人や旅人に1ドルを100フォリントなどで売れば差額が差益になるわけだ。それだけ東ヨーロッパの通貨は弱いので、現地の人が外貨を欲しい時、通常レートでは交換できないから、闇両替の商人から買う人も出てくるのである。今はこういう闇両替の商売はもう無いのだろうなー。あるのかな?ハンガリーは通貨が弱く、まだユーロに入れないから、まだあるのかもしれないけど。食い下がって交渉し、1ドル95フォリントで2人で40ドルぐらい交換した。駅を出て数歩行くと今度は、何人か地元の人が寄って来て英語で、ホステルどうか?みたいな事を言って来た。ホステルとは今でいえば「ゲストハウス」を指す。ドミトリーか個室タイプで、シャワーやトイレや給湯器は共同の、簡易宿泊所を自分で所有している人が駅で客引きしているわけ。それで、Gジャンを来た40歳ぐらいの男性と交渉、地下鉄の駅も近いし便利と力説していた。お湯のシャワーが有るか確認したら「イクザクトリー!」とか言ってる。1泊1人10ドルと言っていたが、ドルで払うから、2泊するから1人1泊7ドル、つまり14ドル/2泊にまで交渉して、彼の車でそのホステル迄連れて行って貰う。車はボロいソ連製のトラバントだった。扉を閉めたら把手が取れたから、シートに投げておいた。2泊で約2.000円か。宿の目標額は1日1.000円だったからまあ合格ライン。安く泊まるには多少のリスクを取ってかないと貧乏旅行は出来ない。嫌なら部屋を見てから辞ーめた!と言えば良いだけだから。先払いで建物のカギを渡されて、最後の日にカギは部屋に置いて行ってくれ、みたいなアバウトな感じだった。。観光の記憶はほぼ無いのだが、漁夫の砦やブダ城にある国立美術館は地下鉄で行った。私の後ろのドナウ川を挟んだ向こう岸にあるのが世界一美しいと言われるハンガリーの国会議事堂である。また有名なくさり橋や夜景の名所「ゲレルト(ゲッレールト)の丘」へ白タクで行ったような記憶が。。ここはブダペストの夜景を一望できるスポット。丘の頂上からは、ドナウ川を挟んで右岸のブダ地区、左岸のペスト地区の街並みを一望でき、ヨーロッパでも指折りの夜景の名所といわれる。シェーンブルン宮殿に続き。ここでも「遂にここまで来たか」という感慨(まだ全然始まったばかりなのに)に浸った記憶がある。夜、歩いていると、ドナウ川のほとりの公園に面した非常に重厚なレストランがあった。闇両替で40ドル=約6000円ぐらいを大量のフォリントに交換して気が大きくなっていたので、余らせても困るし、そのレストランに入ってみた。ピアノとバイオリンと何かの楽器の生バンドがいる広いホールフロアーがあり、小汚いGパン姿のアジアの若者にはとても似つかわしくない店だったが、堂々と入って行き、メニューから良く分からないけど「コルドンブルー」とビールを注文して、どっちも「うまいうまい」と何杯もビールをおかわりした。楽団にわざわざ50フォリントのチップを渡しに行ってから、会計したら凄く安くて驚いた。多分1人1.000円ぐらいだったと思う。それほど当時のハンガリーの物価は安かった。地下鉄は思ったより発達していた。この頃、1989年から1991年にかけて、世界は大きく動いていた。ベルリンの壁が崩壊して、東ドイツは西ドイツに統合され、ソヴィエト連邦は崩壊してロシアが大きく後退した。そういう激動の中、それを体感できる旅であった。ハンガリーはこの4か月前に第三共和国という共和制を樹立したばっかりの国だったが、国全体がエネルギーに満ちている感はなかった。ハンガリー人はマジャール系でつまりアジア系の民族と言われ、髪や瞳は黒い人が多い。それで静かな人が多い印象だった。我々は1990年2月15日、ブダペストからルーマニアの首都ブカレストに向けて夜行列車に乗り込んだのである。つづく
2022.03.29
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↑シェーンブルン宮殿と32年前のわたくし。ほぼ今と同じエクステリア。チューリッヒは一泊もしなかったので、記憶もほぼ無く、ウィーンの記録から記す。2/10。ウィーン中央駅に着いて、すぐ近くの三つ星ホテルを一部屋一泊20ドルぐらいで2泊取った。1人一泊10ドルね。何しろ1日の予算は5000円だから、スーパーでパン買ったりマクドナルド行ったり、、夜だけは豪華?にウィンナーシュニッツェルとビールを大量に飲んだ記憶がある。ウィーンは、13世紀にハプスブルク家が都と定めた。19世紀に環状道路「リンク・シュトラーセ」を設けたという。このリンクの内側、ウィーン歴史地区に、この街の主な見どころが集まっている。ウィーンのシンボル、シュテファン大聖堂はとても大きく、黒く、威容を誇っていた。最も高い塔は、登るのが一苦労だったが、塔からはウィーン市内を一望することができる。この教会の地下には、ペストで死亡した4,000人の市民の遺骨が積みあがるカタコンベがある。日本人にとって、遺骨は目に触れてはいけない、忌み嫌う物体だと思うが、誰のもかれのもぐちゃぐちゃに全ての「人骨」が物凄い質量で「展示」ではないけど、通路沿いに普通に積み上がって外から見えている。衝撃だった。ベルヴェデーレ宮殿では、クリムトの名画などあるそう。行ったけど全く覚えていない。路面電車で20分ぐらい乗って、シェーンブルン宮殿に行ったのはよく覚えている。どこの博物館も、宮殿も、スチューデント証明書で大体無料だった。ハプスブルク家が、ヴェルサイユ宮殿を模して建てた離宮。女帝マリア・テレジアによって、内装は優美なロココ様式で統一され、両翼の端から端まで約180mもの威容になったという。広かった。鏡の間、というのが有名。部屋は全部で1441室もあり、そのうち45室のみ一般公開されているという。あまり覚えていないが、広大な庭園を進んで、丘を上ると、(上写真)イエローに彩られた宮殿の全景とウィーンの街並みが眼下に広がった。ここで一瞬「もうやり尽くした」感があったなあー。
2022.03.27
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アテネ。1990年2月23日。私は現在までに下記の49の世界遺産を訪問している。(と、数えている)下記は、世界遺産の呼称であり、複数の地域・遺跡を1つの世界遺産として、まとめて呼称している場合もある。例えば沖縄のグスク、は首里城だけでなく全9城からなる。他にも例えば、富士山 は、富士山だけではなく、富士山本宮浅間神社や、山中湖、河口湖、三保の松原、など25エリアがまとめて登録されている。名前は富士山〜信仰の対象と芸術の源泉、という文化遺産なのである。そんな訳なので、一つでも行けばその世界遺産は行ったことにしている。その代わり同じ世界遺産で二箇所行っても世界遺産訪問箇所は1箇所としている。琉球王国のグスクは首里城と中グスクのみしか行っていない。中国の京杭大運河は、北京から杭州まで2500キロの運河が登録されたが蘇州の1キロぐらい遊覧船で乗っただけであるが、大運河に行ったのは間違い無いので、行ったことにしている。シルクロード〜長安ー天山回廊の交易路網、は中国、キルギス、カザフスタンの3カ国、全33遺跡が登録されているが、大雁塔、小雁塔しか行っていないけど、シルクロードという世界遺産にわたくしは行った、としている。とにかく、、1箇所でも行っていれば、その世界遺産に行った。と、して数えている。下記には日本国内の11か所も含んでいるので海外は38か所である。死ぬまでに何としても100世界遺産に行きたい!と思うのだ。日本 1 法隆寺 2 姫路城 3 古都京都の文化財 4 古都奈良の文化財 5 原爆ドーム 6 厳島神社 7 琉球王国のグスク 8 日光の社寺 9 富士山 10 ル・コルビュジエの建築作品 11 長崎と天草地方の潜伏キリシタン遺跡韓国 12 宗廟 13 昌徳宮 14 水原華城 15 南漢山城 16 朝鮮王陵中国 17 北京と瀋陽の明・清朝の皇宮群 18 頤和園、北京の皇帝の庭園 19 天壇:北京の皇帝の廟壇 20 蘇州古典園林 21 明・清朝の皇帝陵墓群 22 中国大運河 23 秦始皇帝陵及び兵馬俑坑 24 シルクロード:長安-天山回廊の交易路網 25 龍門石窟 26 万里の長城マカオ 27 マカオ歴史地区エジプト 28 メンフィスとその墓地遺跡-ギーザからダハシュールまでのピラミッド地帯 29古代都市テーベとその墓地遺跡 30カイロ歴史地区モロッコ 31テトゥアン旧市街(旧名ティタウィン) 32フェス旧市街 33マラケシ旧市街アメリカ 34グランド・キャニオン国立公園メキシコ 35古代都市テオティワカン 36メキシコ・シティ歴史地区とソチミルコイタリア 37バチカン市国 38ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂オーストリア39 ウィーン歴史地区 40シェーンブルン宮殿と庭園群ギリシア 41 アテネのアクロポリストルコ 42イスタンブール歴史地域 ハンガリー 43ドナウ河岸、ブダ城地区 及びアンドラーシ通りを含むブダペストスペイン 44 古都トレド 45グラナダのアルハンブラ、ヘネラリーフェ、アルバイシン地区 46セビージャの大聖堂、アルカサルとインディアス古文書館ポルトガル 47リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔フランス 48ヴェルサイユの宮殿と庭園 49パリのセーヌ河岸過去にこれらを訪問した記憶を辿りぼちぼちとアップしてみたい。1990年2月、私は21歳で初めて海外に出た。行き先はスイスのチューリッヒであった。チューリッヒに行きたかったのではなく、ただチューリッヒにIN、パリOUTの35日間オープンの、キャセイパシフィック航空、香港経由便のチケットがABロードで8万円ぐらいで売っていたからである。南回りでヨーロッパなんて今なら絶対無理だけど当時は価格が全てだった。初めての海外なので不安もあり文学部の友人Mとこのチケットを確かHISかどっかで買って、35日間で30万円という旅の予算を立てたのが12月ごろだった。30万円は飛行機込みだから、22万円で35日間の移動費、滞在費、食費、お土産など込みという予算だ。我々は欲張りなので、チューリッヒに入った後、陸路でオーストリアのウィーン、ハンガリーのブダペスト、ルーマニアのブカレスト、ブルガリアのソフィア、トルコのイスタンブール、空路でギリシアのアテネ、空路でエジプトのカイロとルクソール、空路でイタリアのローマ、空路でフランスのパリ、OUT、という10カ国の大旅行を企てた。今と違って、その中でVISAが必要な国は、ハンガリー・ルーマニア・ブルガリア・エジプトの4カ国だった気がする。このうちエジプトは、到着時に空港でアメリカドル10ドルでVISAが貰えると判明し、それ以外の3国の大使館に行ってVISAを貰うことにした。確かハンガリーとルーマニアは3000円ぐらいだったと思うが、ブルガリアだけは8,000円ぐらい取られて、更に3日後に取りに来いと言われるほど面倒だったと記憶する。上野かどっかで安い3500円の45Lザックを買い、にわかバックパッカーとなった我々は1990年の2月10日、成田空港からキャセイパシフィック、ボーイング747型機に乗り込んだのであった。。
2022.03.20
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7/6 朝飯は団子汁で軽く済ます。豆腐が入っていて美味。10元。地下鉄で行政中心駅に出来たという巨大モール、CITY ON に行ってみた。ひょっとして日本の商業施設より綺麗なんじゃないかこりゃ。西安市のお金も投入してアメリカ企業も入って完成したらしい。感覚的にダイバーシティ4個分ぐらい、越ヶ谷レイクタウンと同じぐらいの店舗数と面積があり、7階まである。スゲー!南の商業地帯の小塞にしてもものすごい勢いで発展してるし、もはや西安の城壁の中は時代遅れの街なんじゃないかな。ビジネスの中心地は城壁の南西部に広がっているらしいし。城壁の中は東京で言うと浅草とか上野とか門前仲町辺りの下町。新宿とか六本木みたいな街は城壁の外にあるんだろう。実質最終日だし、地下鉄1号線の終点、後衛塞まで行き、バスで咸陽博物館を目指す。咸陽は秦の都だったから行きたい人は多いかもしれないのでやや詳細に書く。興味無い人は読まないように。後衛塞駅の出口Aを出て咸陽方面のバス 56 路線で15番目のバス停、博物館 まで、バスは2元。56路線はかつて副21路線と呼ばれていたそう。昔の情報だと副21のバスに乗れと買いてあるが今は56路線に乗る。ここ注意! 駅の出口A手前の地下に小さなフードコートがあり、麺類などの店が並んでいる。そこに、刀削麺 という看板を見つけて思わず注文。ややだらしなく見える親父がテキトーに刀削麺を削って大鍋に飛ばしている。不安。。。11元=176円。真の刀削麺は平打ち麺の両側が薄くなり、茹でて少しブヨブヨになっている処に汁の旨味が染み込んで完成するが、出てきた麺は正にその定石通りの完璧な麺なのであった。旨いっ!! 西安の場末、地下鉄の終点駅のこんな地下フードコートで人知れず刀削麺を作り続けるオヤジよ! あんたにネコラン1つ星を進呈するっ!!こんなローカルの旨味溢れる料理に触れた時、会社辞めたら 3ヶ月ぐらい西安で暮らしてみたいっ! と強く思うのである。早く辞めたいな。。さて、56路線のバスに乗って、バス停を数えたり、止まったバス停と路線図を付き合わせてあと何個目だと数えていたんだけど、バス停の名前が良く見えずに結局一個手前で降りてしまった。とにかく中国語が聞き分けられないのは痛い!時間が惜しいのでそっからすかさずタクシーで7元で博物館まん前まで行く。博物館は、小さめ。少し拍子抜けするかも。これが秦の都の博物館か?と思わせる。しかし兵馬俑があったり、石碑の展示場所が確保されていたり見所はある。来るべきかどうかは、普通の人にはわざわざ半日使って来るまでの場所かなあ?? キングダム好きとか歴史が好きなら来ても良い。秦の始皇帝が、統一するよりも以前に使われていた文字が刻まれた石鼓文。始皇帝以前に作られたと考えられている。10個でワンセットと考えられている。これは故宮博物院の複製。咸陽って西安から比べたら田舎なんじゃないか?人も少ないんじゃないか?と勝手にイメージしてたけど、人が多いし、間違いなく仙台より大都会! さいたま市よりも街の広がりは大きいかも??さいたま市なんて実は1回しか行ったことないから知らないんだけどね。でもさいたま市より咸陽の方が都会。クドイっ!咸陽市も西安から街がほぼ繋がっているけど、渭水を渡ったら咸陽だから、東京から見たさいたま市とか川口市みたいな感じかな。1時間で見終わって、バスで後衛塞駅まで帰って、1号線で五路口駅のホテルに戻った。すぐに拓本を買いに行って、あまり沢山買ったからか、オヤジが再び夕食をご馳走してくれた。バイクタクシーでホテルに帰る。ガタガタ揺れる。7/7 帰国日 西安咸陽空港から北京経由で羽田行きの場合は、T2 ターミナル2 のインターナショナル トランスファー というカウンターに行こう。荷物は2つまで。空港で最後の牛肉麺を注文。街なら10元か15元なのに空港だと38元。といっても600円しないのか。新幹線から見えた 華山。 今回はかなり充実した時間だった。。
2019.07.11
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7/5 今回の宿は地下鉄1号線の五路口駅から南に400mぐらいの東二路にある美原酒店。この辺りは城壁の中でも繁華街であり食べ物屋も無数にあり便利な場所だった。今朝は西安によくある小麦粉をクレープみたいに焼いたものに野菜やソーセージや卵や干しエビとかを入れて巻いた食べ物 4元を買い、タクシーで書院門街まで10元で行き、書院門の辺りで食べた。これ凄い美味しい!一昨日 お土産用と自分のを西成篆刻のオヤジに頼んでおいた印鑑3本を受け取ってから拓本屋に買いたいと思う拓本をもう一度見に行った。オヤジは清の時代拓の九成宮の剪装本が1万元と言っていて、16万円なら安いから買おうと思っていた。しかし、或る「日本人の拓本の大家」が 文字の欠落が無いか全文をくまなく確認することが必須であるっ! と念を押していてくれたので全文を確かめた。すると3箇所の何行かの欠落を発見した。そのため買わずに済んだのであった。この確認作業はオヤジの奥さんと一緒に行った。オヤジ、多分欠落を知ってて売ろうとしたんだろうと、あとから考えるとそう思える。気をつけないと。。オヤジにしてみれば九成宮の旧拓なら文字の欠落が多少あったとしても1万元なら相応だと考えたのかもしれない。秦の時代に宰相 李斯が書いたという伝承もある「 エキ山刻石 」。昔昔、近所の村人が度々拓本を取らされていたため、怒りにまかせて碑を焼き払ってしまったという。宋時代の900年代に県令が拓本から模刻を彫らせたという。1000年以上前の、その碑が西安碑林にある。その拓本が写真のもの。非常に綺麗な文字なので、逆に紙がキレイ過ぎて、原拓本(本物)かどうかわからなかった。だけど珍しいと思ってこれを買い、高力士墓誌、唐の高氏墓誌も合わせて購入。昼は拓本屋のオヤジがご馳走してくれた。碑林のすぐ前に、西安城壁の入口があり、オヤジが「城壁見るか?」みたいな事言ったのでウンウンと曖昧に頷くと、オヤジは何処かへ電話を掛けて、オヤジが付いてきて城壁に入場出来ちゃった。本当は50元かかるんだけど。。昨年もオヤジがついてきて碑林に入れちゃった。。どうなってんの?ホントは異常に暑いから城壁の上なんて来なくて良かったんだけどね。2年前に上がって観たしね。照り返し含め50度ぐらいの体感温度ある。日傘持ってなかったら倒れたかも。あまりやる気の無い観光用の唐時代の衛兵。。大雁塔北広場の噴水が夜はライトアップされて美しいと聞いていたので行ってみたのだが、壊れてて中止になった模様。ついてない。蘭州ラーメンたのんだつもりだったけど、出てきたのは牛肉の泡摸。量が多いんだよな~。28元。
2019.07.10
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「龍門石窟」の事を書いてあるブログは時々あるけど、個人旅行者にとっては、行き方とかイマイチ親切に書かれていない。そこで誰もが一発で理解出来るように書く。7/4 世界遺産の「龍門石窟」に行こうと、予定では6時には出発と思ってたが寝坊して9時に出た。ま、洛陽老街は多分大したことないし、ま、海外では慌ててはダメ。慌てると何かミスが出るからだ。電車も一本後、二本後でいい、という気持ちが大切だ。 朝は街にいろんな食い物が売っている。わんさか売ってる。歩きながら1.5元の包子2個で朝ごはんを済ませ、昼用の煎餅も買い、五路口駅から地下鉄で北大街乗換で西安北へ。4元。新幹線の乗車券売り場に長蛇の列が出来てたので自動券売機に行ったが、身分証明書が中国人のでないと自動発券機で買えなかったから渋々窓口で30分待って洛陽まで174.5元で2等を購入。言葉通じないから行き先と2等と書いて見せた方が確実よ。巨大な空港みたいな駅で新幹線だけなのに27番線まである。西安は内陸の大都市だからハブとして機能してんのかな?! それにしても新幹線だけで27番線って、、、東京駅だって東北も合わせて8ホームぐらいなもんだけど。1103時ようやく出発。やれやれ。新幹線の速度304キロ! 全然揺れないし。日本は確実に抜かれてるよ。洛陽龍門駅。何故??なんでまた、こんなに幅広くホームを作るのだ??無駄ではないか?? この国、何でも大きくすればいいと思ってる節がある。洛陽龍門の駅からタクシー12.5元で龍門石窟の北側のビジターセンターみたいな所に到着。バスも見たけどよくわからないし本数も少なそうだから、安いし高速鉄道駅からはタクシー乗るべきだ。気温36度の中とにかく歩いた。気温が体温を上回ると僕の場合すぐ頭痛が始まるんだよな。日傘、ていっても普通の折りたたみ傘だけど、持ってって正解だった。無かったらヤバかった。古陽堂は龍門二十品のうち19が彫られている。なんてね。。龍門二十品 とか言ったってほとんど何にも分かんないんだけどさ。でも1500年前の493年に彫られた文字がそこにあるっちゅう、歴史の重みがものスゲーど迫力である事は、ここまで読んでる物好きには分かる筈!!流石の世界遺産だわ。。でもね、行けども行けども洞窟に仏像の連続。違いもわからないし。飽きてくるぞよ。遂に世界遺産龍門石窟に来たぞおりゃーっ!と 気合い入れてみるも、、でも暑い。。。36度、、日本は涼しいっていうじゃねえかよ。タクシーで洛陽老街って言ったらオフィシャル値段で60元とか言われた。何がオフィシャルじゃ!おめーらが示し合わせたカルテル値段じゃねーかよ。舐めんなっ!と頭にきて他のタクシー探そうと少し道を歩き出すが、あまりタクシー通ってなくて、体感42度の中、丁度来た空車も洛陽老街と書いたノートを見せると、50元と言ってきた。誰も彼も観光地のタクシー運ちゃんにありがちなメーター通さずに稼ぐ作戦と思われた。まあ普通に乗ってもここから30元以上かかるし、暑いしタクシー通らないしこれ以上歩くと死ぬから50元で乗った。冷静に考えると大した損じゃないのよ。結構ぶっ飛ばしても老街まで30分はかかったかも。洛陽は、その街の拡がり、車の量、ウヨウヨいる人間の量、ビルなどの立派さ、されらから考えて多分人口300万はいる。仙台や広島なんて全く及ばず、名古屋より大きそうな街だった。洛陽老街の入口の麗景門、上は最近造り直された観光用の新しいもの。ただし、洛陽が首都だった頃の城郭がここにあった事は間違いない。老街は日本で言えば京都の新京極みたいな観光地だからお土産屋が並ぶだけであまり見所はない。食欲もないけど朝から肉まんと油で揚げた肉入りクレープみたいなのしか食べてないから、体力のためとりあえず店に入ってワンタンを食べた。優しい味で本当に美味しく活力がでまひた。10元門の内側は城壁に沿って文物四宝の通りになっていた。筆を売っている店で店頭にイタチとテン?の剥製が掛けられているのを見つけた。毛筆の原材料を飾っているとは珍しい。そこに筆屋としての ヤル気 を感じたねこまんま氏は吸い込まれるように入ってみて、ごちゃごちゃ話している内に太めの筆を二本買ってしまった。280元と380元と言っていたのを合わせて600元に値切ったけど、使う当ても無いのに無駄遣い甚だしき。書の大家と思われたもよう。。黒い方は熊の毛だという。どこまで行っても同じ風景と思われ、、暑いから500mで挫けた。んで左折。太い幹線道路に出て、止まってたタクシーで洛陽龍門駅まで戻る。 この運転手はメーター倒さなかった。紙に高鉄駅と書くとよい。とにかく何でも紙に書けば間違いなし! 結構遠くて30分かかる。29元。新幹線から見た夕日が地平線に沈むの図。こんなの日本に有る?? これが旅っつうもんだっ!西安に戻り、ホテルから70mにある店ですぐに夜ご飯食べる。ビールとオム焼きそばみたいなのと、 イワシの団子汁みたいなのにパクチー沢山入ってるやつ。食い過ぎって噂。全部で25元 安!老潼関肉来膜
2019.07.08
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7/3 10時にのんびり美原酒店を出て50m程離れた永豊岐山麺という店の、その永豊麺 を朝飯に注文。12元。辛くしないで とノートに記したのを見せたのに。。辛い!!ま 西安あるある。西安碑林までタクシー8.5元。事前に手紙で行くと伝えていた西安碑林門前の拓本屋のオヤジに、あれやこれや見せてもらい2時間。他にも拓本を探したり毛筆の筆や筆置き、筆掛けを買ったり。絵を見たり、看板の文字を見て感心したり、ブラブラ。大袈裟に言うとこの自分だけの何事にも邪魔されない解放された時間が生きているという実感なのだよ。最高だわー。拓本は写真を撮らせて貰ってじっくり真贋や価値を考えて2日後に来ると言って今日は買わない。荷物が増えたので一旦ホテルに戻遅い昼飯。ホテルから20m西にある読めない店名のこの店。ビーフンみたいな12元の麺と、卵を殻のまま煮込んだ2元のもの。14元。少し酸っぱくて辛い。酸辣麺だな。民東園から路線5のバスで小塞まで18時に着いた。巨大な百貨店を見学してバスでイスラム街まで。3年連続きてしまった。ゴンチャのミルクティーは美味しいけど、なんかタピオカがゴムの様な臭みあり。気のせいか??。イスラム街で家族にお土産買ってたらまた荷物が増えて、歩くの面倒くさいからバイクタクシーと、東ニ路 まで交渉。1キロしかないのに20元とか言うので、じゃあ乗らない、と言ったらすかさず普通のバイクの兄ちゃんがどこまで?と言ってきたから 東ニ路と書いて見せると10元で行くというから二人乗りでバイクに乗った。西安には様々な移動手段がある。地下鉄、バス、タクシー、バイクの後ろにカゴが付いたバイクタクシー、後はバイクの2人乗りタクシー。地下鉄やバスは停留場の間隔が長いし、同じ停留場でも大きな交差点だと凄く遠くに止まったりするから結構歩く事がある。バイクの二人乗りは、バイク持ってる人が交差点に待ってて勝手に言葉だけの交渉でUberやってる感じ。乗るには後ろのバーを掴むので少しコツが必要だが、歩道を走ったり交通ルールを全く守らないから速いし目的地にジャスト到着するから快適&疲れない。この時も東ニ路とは言ったけど、行き先変更して行きたいスーパーまで日本語とかストレート!とか叫びながらとにかく10元で行かせた。スーパーで巨峰を50円で買って肉まん3つと夜食にした。西安の果物の安さは尋常じゃない。ドリアン3個156円だよ。日本だったら安くて1200円はするんじゃない?? スイカ一個200円しない。
2019.07.08
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写真は 黄河 、、、だと思う。2019年 7/2 3度目の西安ひとり旅。これから行く人の為に詳しく書く。興味の無い人は読まないように。 1元=16円弱ぐらい。中国国際航空で北京経由西安行き。海南航空の西安直行便が無くなったのは痛い。去年までは北京で荷物を一旦ピックアップして入国審査を受けて、再度国内便に荷物をチェックインしなければならなかったが、羽田から西安まで荷物は直行になった。入国審査は手荷物だけで済むからこれは楽チン。北京空港の入国の混み過ぎが改善の理由みたいだ。北京で乗り換え時間が3時間もあったので、出発ロビー2階の 麦麦麺 という店でワンタン麺と揚げ餃子を食す。まあ普通だけど36と18元は中国にしては高いよ。空港価格。北京から西安の国内便は雷のため3時間遅れた。帰りも機材遅れで北京発が2時間遅れた。中国国際航空はあまり時間通りにはいかない。西安空港から市内行きのバスは一律25元で12路線ぐらいあるけど、城壁の中はローンハイホテル行きのみ。紙に書いてバスのチケット売り場で見せるのが間違いない。10番乗り場から。ローンハイホテルに着いたら、止めたタクシーの運転手に美原酒店と書いて見せたけど運転手がわからなかった。東ニ路と書いたらとりあえずその路まで行ってくれて、ホテルがすぐ見つかった。8.5元。近くで牛肉拉麺10元を食べる。パクチーが沢山入っていて優しい味で美味しい。これで160円は素晴らしい!!ただ、蘭州ラーメンと牛肉拉麺の違いがああま一つわからないのであった。スーパーで巨峰と桃を合わせて7元、だいたい100円ぐらいで買ってホテルに戻ってすぐ寝た。美原国際ホテル。 メイユエン ホテル、まあまあ清潔。
2019.07.07
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最終日は晴れた上にやや暖かかった。 長男と南大門市場のマンドゥーを食い、時間を絶対30分と決めてこの旅4回目のカジノへ突撃ー! 学生風情の息子をなぜこの親は何度もカジノなんかへ連れて行くのか?と訝る向きもあろうが、カジノがわかると人生が解るからである。自分の決断で金を賭ける。倍率、つまり当たる確率はルーレットなら、0を考慮しなければ、数字に賭けると36倍だが、当たる確率は1/36。赤黒の当たる確率は50パーセント、倍率も2倍。1から24ゾーン賭ければ、倍率は1.5倍、当たる確率は66パーセントと高くなる。賭け方は無限で、それを自分で選択していく。確率の高い安全策を取ったり、時には期待値高くワンチャンを狙ったり、これは人生そのものである。 私が強調したいのは自分がルーレットで当てた時に、予想した通りになった、と人は考えがちであるが、それは全く違う。チップを置いた数字や川に、たまたま偶然にも 玉が落ちた のである。自分の力ではないのだ。息子もこれに気付いて欲しかった。そして気付いた。 人生は、誰の人生であっても、良い事半分、悪い事半分で構成されている。誰かが勝って誰かが負けるゼロサムゲームではない。これはみんな死ぬ時に分かる真実である。例えは違うかもしれないが、病気に罹る、病気が治る。やりたくない受験勉強をする、大学に合格する。結婚する、結婚しない。子供を作る作らない。これらは良いも悪いも半分半分なのである。だからどちらでも良いと言えるのだが、たまたま自分がそうなるといいな と考えた方に、玉が落ちるかどうか、それだけで決まって行く。それが人生だ。 私は倍々ゲームがハマったりして35万ウォンプラスしたが、息子は10万ウォンマイナスで終了。 3度目の東大門デザインプラザへ。ザハ・ハディッドの設計による美しい建築。 タッカンマリ横丁 にある有名店 陳玉華ハルメ元祖タッカンマリ ではなく、その隣にある、孔陵 コンヌン・タッカンマリ に入る。 タッカンマリは2人で1羽食べるのが定量だけど、最後にウドン2人前とか入れるから4人で1.5羽で十分。空いている店だがとてもうみゃ〜い! そして、マッコリの酸味とタッカンマリのマッチングが素晴らしい!! 東大門で記念写真。 東大門は写真のように半円形の高い石垣が片側を覆っている。これは何かというと、この石垣の上に矢を射る穴が無数にあり、敵が門を破って侵入してきたら、兵士がそこから弓矢で敵を殲滅出来るようになっているのだ。こんな事日本人旅行者はほぼ知らないよ多分。 明洞でIZ*ONE アイズワンに遭遇して3日目終了。おつかれさまでした。
2019.04.04
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コエックスのカジノはセブンラックカジノだから、ミレニアムヒルトンのカジノと同じ店だが、コエックスの方が交通の便が悪いので空いている。その代わり中国人ツアー客のバスが観光コースに入っているらしくバスが到着するたびに中国人がドヤドヤ入って来て無料ジュースに群がったりして集中出来る環境にはない。ここで息子が意地を発揮してプラス20万ウォンとし、これまで貸し与えた分を返すという美徳を見せた。 コエックスの北側には奉恩寺という韓国仏教の、何だか知らないけど、禅宗系のお寺さんっぽいのがある。 この国はキリスト教徒が多いから仏教寺院は日本ほどの頻度では出てこない。入場無料。 国が違うと仏教寺院でもかなり印象が異なる。何百年も異なる民族が教義を適当に解釈し続ければそれも当たり前か。 どっちかというと中国風。ちょうちんが絵馬がわりとになって飾られていた。 巨大な観音像?がある。 変わった物が見られて、寄ってみて良かったと息子と意見が一致した。 夕飯はフェヒョン駅 1番出口すぐのポッポ チキン BBO BBO CHICKEN で。 ビール350円は素晴らしい! チキンフライも味が何種類もあって、ハーフ&ハーフにも出来る。写真は醤油味とガーリックのハーフ1900円。結構混雑していた。 夜の明洞を22時過ぎまでブラブラしてゴンチャへ。 ホテルに戻ったのだが、小腹が減ったので24時間営業のカルグッス =うどん? の店に深夜12時にもかかわらず4人で突撃ー!。ハンスンジャハルモニソン カルグッスチッ という超有名店。 ウドンだけでなく、冷麺とビビンバも付いて来ちゃう。全部で5000ウォン! 500円だよ。 清潔感のある店ではないが、中国に7回行ってる俺としては全然大丈夫。冷麺とビビンバはよく分からないけど、ウドンは刀削麺風で非常にコシがありスープも美味しいー! 食い過ぎたって事で、、、この日は終了。。
2019.04.03
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朝 南大門市場5番入り口すぐのところにあるマンドゥー つまり肉まん屋の一個80円の肉まんを食べる。超ド級に美味しい! しかしここのオババは細かい小銭の釣り銭を払うのが面倒らしく、日本人と見るや5個から〜と言う。つまり1個800ウォンだから5個なら4000ウォンで小銭の釣銭を扱わなくて済むから5個じゃないと売らないのだ。しかし白人の外人には2つで売っていたのを見逃さなかった俺は4個と連呼して3200ウォン払って4個を買ったのである。長男と再びセブンラックカジノへ突撃! 今回は30分の短時間に時間を区切ってその時点で止める事に決める。私が勝ち長男は負けてトントンで終わる。 長男が、ミレニアムヒルトンのセブンラックカジノだけでなく別のカジノも行ってみたいと馬鹿な事を言い出したので、昔行った事のあるコエックスにあるセブンラックへ行く事にした。しかしカジノばっかりやると脳が溶けてしまうので、世界遺産の朝鮮王陵に寄ることにして、少しは文化的な旅行に寄せようと試みた。 ここは地下鉄9号線の駅名にもなっており、その駅で下車してすぐにあるので分かり易いが、敷地が広過ぎて入り口まで15分ぐらい歩く事になる。朝鮮王陵 という世界遺産は韓国国内に散らばって存在していて、全部で40基の王墓が登録されている。ここはその中のほんの3基でごく一部だけど世界遺産は世界遺産なのだ。 日本でいう 円墳 が広い敷地に3基あって、なんと言うか〜、面白くはないです。面白く無い事を認めたかのように入場料は100円。物価の安い中国でさえ兵馬俑は2500円もするのに! タクシーでコエックスモールへ。380円、タクシー安い。 カンナムスタイルの像?? でかい。そのうち意味がわかる年代が少なくなるのではないか? コエックスモールは8年前よりキレイになった。 昼ご飯でもと思ってフードコートに行ったが、外れるのが怖いのでフードコート横にあったブッフェ・レストランに入ってみる。 1人14900ウォン。 海苔の天ぷらの上に雑炊?のようなご飯を乗せて飛び子やタコのマリネみたいなのをかけた料理。うみゃい!
2019.04.03
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5回目のソウル旅行。今回は家族全員で。3/31アシアナ航空9時00分羽田発。富士山は雲の下に隠れていたけども左上に伊豆大島が見えた。 フェヒョン駅1分のティーマークグランドホテル 。部屋立地内装サービス、総合的にソウルロイヤルと同じぐらいに相当良い。窓の下は南大門市場、明洞まで歩いて行けて、ミレニアムヒルトンのカジノへもホテルから徒歩4分。 チェーン店のギムガネで昼ご飯。 長男とミレニアムヒルトンのセブンラック カジノへ突撃ーっ。粘りに粘ったが、結局はやや負けて夜ご飯の待ち合わせ場所、南大門近くの有名店、「火砲食堂 市庁店 / ファポシッタン シチョンジョム」へ。ここはサムギョプサル(豚バラ肉)、モッサル(豚首肉)の熟成肉で有名らしいが、俺が下調べするわけもなくかみさん情報である。4人でお酒飲んでも1万円ちょっと。まあまあです。
2019.04.03
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西安の小塞駅直結デパート「賽格国際購物広場」は中国西部最大の百貨店で、2013年に開業してで5年目になるそう。ここのワイン売り場での値段が凄かった。。。例えばシャトー・ラフィット2008年が18888元となっているが、これは1元=16.2円として、306000円になる。日本では10万円前後だから、約3倍もしている。レ・フォール・ド・ラトゥールは約86000円、パヴィヨンルージュも86000円。ポンテ・カネ2012年でも32000円換算。クレールミロンは2万円超え、シャトー・グロリアやタルボー辺りでも16000円以上となっている。つまりボルドー全てが日本の3~4倍程度の価格となっているのである。値段は需給の関係で付くのだからこの値段でも売れるということだ。何故物価が安い中国でこうなるのか??実は中国の物価が安いというのはあくまでも庶民の生活レベルでの衣食に関する価格であって、海外から輸入された嗜好品や贅沢品の価格は非常に高価格だ。人口が14億人として富裕層が2%としても2800万人いるわけだ。中国の富裕層というのは日本の富裕層と違って度派手に金を使うのだ。。そもそもこの百貨店には庶民は来ないし、上流~富裕層ぐらいのお金持ちが来る場所なので彼らのワイン感はこういうものなのだろう。
2018.08.18
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台風のせいで、3泊4日から4泊5日へと旅行が1日伸びたので、家族と別れて3度目の故宮博物院に行くことにし、士林の駅まで地下鉄で移動。 暑いので駅改札すぐ右手のティートップとかいうドリンク屋でタピオカ黒糖ミルクティーを購入。55ドル。 故宮博物院は士林駅北側の改札から50m先の大通りに出て右すぐのバス停から故宮博物院と書いてあるバスが来たらそれに乗れば10分で着く。故宮に行くバスはすぐ来る。 入場料350ドルは約1300円ぐらいか。前回来た時より100元値上げしていた。 中に入るのが16時になってしまい閉館まで2.5時間しかなく、結果としては全く時間が足りなかった。この博物館は書、絵画、清代の文士の室内装飾品、漆器、鉄器、玉、仏像、などの展示品毎の部屋があり、常に展示品が入れ替わっており常設展示品は白菜と肉型石ぐらいなもんだから、いつも新しい発見があるし、飽きないのだ。 と、言うのも、台湾の故宮には60000点以上の収蔵品があり、どういう計算か知らぬが全部観るには8年以上かかるという。ということは、展示替えしてもしても何年に一度しか出て来ないお宝もあるっちゅうこった。。 外気温36度に対して冷房室内は20度なので羽織るもの必要でっせ! 最も古い漢字の黎明期と思われる文字が彫られた西周時代の皇帝の物と言われる鼎 かなえ。 西周時代の儀式で使われた鐘 しょう。 最も古い漢字、篆書の原形がま123文字 彫られている。 3000年以上前の鉄器に彫られた漢字の原形、、、、 想像を絶する国宝級のお宝である。 こちらは別の展示室、鉄器の部屋のコーナーのもの↓ この程度の物は50点以上ある。とにかくスザマジキ! 正直、これらを見ても読者の95パーセントは、ナンジャコリャ?!だと思う。 しかし見る人が見たら超弩級戦艦級御宝なのだ!! 当然 白菜 も 肉形石も見たのだが、最早そんなものは大したことない! 477年の魏時代の仏像で、青銅に金塗。裏面にも美しい彫刻が施されている。裏面下部には漢字の文が刻まれている。 上の写真の左下部分、漢字が彫られている。すんごい! 上の絵は医者がお灸を処方している時に患者が逃げ出す図で台湾の国宝とのこと。 これ全部 薫其昌。全館で、董其昌だけで30作品はあった。 時間が無くて花器 漆器にまで回れなくて残念。
2018.08.09
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台湾もう最終日4日目となり、今日の1600時便で帰国、、、、の筈が何と台風13号の影響で飛行機が明日の0810時に遅延決定! だとよ。飛ばせよっ。。。 国内線は欠航になると返金されてその飛行機はキャンセルになるが、国際線は台風による遅延の場合24時間以内に遅延で飛ばせば航空会社は何の落ち度も無く返金しなくて良いから大体24時間以内の出発延期にするそうな。 しかも優美ホテルに延泊お願いしたら宿は満室とのことで、急いでagodaで近所のホテルで3人泊まれる所を探したり、混乱して慌ててたら1100時になっちゃった。荷物を新しいホテルに移動させて、今日どこ行くか考えるために、芙蓉-刀削麺の家 という隻連駅近くの店で取り敢えずゆっくり昼飯。 猫空行こうかと思ったが二男が無気力だったので、松山タバコ工場をリノベーションした 松山文創園区 という文化芸術的施設みたいな場所に行ってみた。 倉庫をいくつも展覧会会場にしていたり、デザイングッズのセレクトショップがたくさん入っていたり、本屋があったり、かなり進んだ感度の良いエリアだと思うが、全ての観光客に向いているわけではない。感度の良い人向け。 また、この工場跡地の北側にまたしても誠品文化館があり、相乗効果を醸し出している。 誠品の中にもたくさんセレクトショップが入っていて素晴らしい!
2018.08.09
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十分の次に向かったのは5年振りの九ふん。←人偏に分。 まだ16時で暑い。3時間の自由散策。 まずは入り口付近の魚丸汁で落ち着く。 珈琲茶楼 小上海 で点心をつまみながら九分の落ち行く夕陽を眺めた。感無量。
2018.08.08
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朝粥でスタート。全福心清 というドリンク店で、プリンミルクティーを注文。プッチンプリンが丸ごと入っている。今日の気温は35度。水分補給が欠かせない。cama coffee 隻連 で青リンゴ酢ジュースと梅酢ジュースを補給。市政府駅に移動、地下鉄駅と地下で繋がっている台湾の文房具&筆記具の殿堂! 誠品信義店に行き、台湾限定筆記具を探索!超美しい店内、日本には無い贅沢な内装が素晴らしい!台湾限定筆記具はあったがここでは掲載できない。新光三越A4館地下のディンダイフォン。多分一番美味しいのはエビチャーハン。新光三越A9にある春水堂。ここら辺のビルはデザインが美しい。デザイン優先で建築コストを削らない姿勢は素晴らしい!伊藤潤二さんの作品をオマージュしたおばけ屋敷?的な展覧会を開催していた。西門のドリンクスタンド 85℃。
2018.08.07
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そうれんの朝市に寄ってみる。 学問の神様の文昌宮を中心とした朝市らしい。 日本のウィーラー バスが提携している 深坑老街、十分、九ふんを回るツアーに参加したので、1100時迄に台北駅バスターミナルに行く。参加者は我々入れて9名だった。 深坑という街の、こんな感じの古い町並みを観光地としてリニューアルした場所で、あまり日本からの観光客は居ないけど結構面白い。ここで食事時間が取られていたので、、 王水成というレストランで軽く食事して、色んな物を衝動買いしたのであった。 次に十分という駅に近づいていくと、空に沢山の飛行物体が見えてくる。 それは、、何か というと、、 天燈上げ、の天燈=ランタン、なのである。。 線路の両側にて無数の天燈屋?? が有って、どこ店も値段は単色150元、4色200元と決まってるみたい。黄色は学業、ピンクは健康、、とか決まってるので、そこにお願いを墨と筆で書いてゆく。 かなり楽しい!のであった。。 今日の気温は36度。少し歩くと滝のように汗が出ます。
2018.08.07
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soft drink bar TTI @台北地下街 搾りたてジュースのスタンド。 300メートル程の小規模な寧夏路夜市の北端にカキ入りオムレツ 漢字で書くと カキ仔煎、をメインに出す店が3店舗ある。その中でも最も人気の有名店で、あまりの行列に持ち帰りを選択。 テイクアウトでも20分待った。写真のように店先で焼いているが一度に20個ほどしか焼けないので時間がかかる模様。 美味しい、が、別に付いてくるタレが少し甘いので、この甘さは日本人には合うか合わないか微妙である。 醤油持参するとバッチリだと思います。 この夜市は食べ物メインの市だ。初日から凄い食ってる。
2018.08.07
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3回目の台北訪問。 まずは天仁名茶のタピオカミルクティー。 豪品館 @台北地下街出口20付近、はなんでもある食べ物屋さん。
2018.08.05
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2018.07.19
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写真は西安碑林の西門。 西安の観光地でまず真っ先に上がるのは兵馬俑で、イスラム街、大雁塔、小雁塔などに次い西安碑林が上がると思うのだが、書道や歴史に興味が無い人にはつまらない場所かもしれない。 しかし興味がある人にとっては壮大な歴史、宗教、栄光、衰退、先人達の鍛錬、技、風雅、そういったモノの理解に繋がる何かが得られる比類無き聖地となるだろう。 行き方は鐘楼から南へ10分程で書院門街に着く。書院門街を東に通り抜けて5分程で碑林の門に到着する。 書院門街の入り口。この通りは 筆や硯、仙紙、玉、剪紙、書画、絵画、掛け軸などを売る店が多数あるので興味がある人にとってはたまらないショッピングゾーンになる。 拓本を取っているのを見せているが、これはお土産拓本用のレプリカの碑から拓本を取っている。本物の碑からは原則として禁止されていて拓本は取れない。
2018.07.07
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大唐西市博物館に行ってみたいが実態がよくわからない、と思ってる方の為に詳細情報を書く。博物館は西安城壁の外、南西部に位置している。地下鉄なら2号線で古塞まで、3号線に乗り換えて科技二路駅で降りて北に徒歩10分程度だが、鐘楼辺りからならバスやタクシー利用が早い。私が訪れたのは2018 6/23だが、その時点ではパスポートを見せたら入館券をただでくれた。内部の展示室は主に二階と三階で、一階は各種展覧会の貸しスペースになっている様だ。 この博物館の周辺にはショッピングモールとヤマダ電機みたいな大型電気店や古玩城という骨董品専門のモール、地下スーパーマーケットなどが一体となっている。道路に近い所に遣唐使船のレプリカが展示されている。実際の遣唐使船は全長30メートルだったらしいので、1/3ぐらいの模型だと思う。 入館するとすぐにかつての遺構が出土した跡が見られる広場がある。現在の地面より2メートル下に唐代の地面が残っていたそうだ。用水路や橋などの遺構が見える。 二階は墓誌銘の原石などの展示があり、出土品の陶器などもある。楊素の墓誌拓本が展示されている。楊素墓誌原石は1973年出土で潼関県博物館に所蔵されているそう。その他10枚ぐらいの墓誌原石が展示されている。大唐西市博物館には300を超える墓誌銘原石が多数収蔵されているが、別に150元を支払うと博物館とは別棟にある墓誌庫に入れるそうだ。 3階の展示はシルクロードに関するコインや古代の西域のもので、あまり充実していない。 三階の隅の方で墓誌銘原石から拓本を取っているらしき場所を見つけてしまった。作業は終わっていたが、取った拓本をどうするのだろうか?博物館の所蔵墓誌銘なら採択は何枚取ろうとと博物館が決めて良いのだろうか?何のために取るのだろうか?前向きに考えて大学など研究機関に送るのだろうか? 上の写真は骨董品を扱う古玩城の様子。ハンパない広さと店の数。 帰りは歩道橋を渡って、鐘楼方面のバスに乗れば西悄門経由で2元で帰れます。
2018.07.06
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6/26 雨が強いのでタクシーが拾い難いだろうと相当早めに8時に宿を出たが、案の上30分ぐらい空車が来なかった。普段なら空車がたくさん走ってるが雨の日は皆が乗るので掴まえにくい。鼓楼の300メートル南から空港まで150元と高速代10元計160元だったが、運ちゃんは雨の中荷物の積み込みを手伝ってくれたのでチップ10元。 国内線ターミナルは意外に綺麗で空いていた。 ビャンビャン麺を食べてみる。26元。メモに不要辣と書いて見せた。ほうとうのもっと幅広い麺で汁が無く具と油を混ぜて食べる感じ。まあまあかな。 今回は洛陽に行けなくて残念だが代わりに間違いなく友達が複数西安に出来たと思うので、その点では満足できる旅だった。 洛陽付近と思われる。古に関羽や曹操や劉邦達が軍を進めたのだろうか。。来年待ってろよ。 北京トランスファーにて。頤和園を模した造作と思われる。 渤海に沈む夕陽。昔 渤海国という王国があったなぁ、1100年ごろだろか?全く思い出せない。 九十九里浜
2018.06.26
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道法自然 は、老子の言葉とされている。茶禅一味。小筆の楷書が見事。中国では漢字が書けない人が増えているらしい。簡体字のせいとスマホのせいらしい。書の掛け軸 22本。 業者か。掛けるところもないのにどうするつもりなのか?自分でも不思議。剪紙 60枚。 写真は徐々にアップします。拓本 18枚ぐらい。詳しくは絵画、版画、集め、のカテゴリーで徐々にアップします。服 沢山。日本に売ってない唐や漢時代風のデザインの服を扱う店がありお土産や自分用に沢山。グデパンダのぬいぐるみ。 既に家に3匹居るが4匹目の仲間。
2018.06.25
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6/25 昨日はしゃぎ過ぎて飲み過ぎで呼気が酒臭く頭痛もあったので、洛陽龍門行きを諦める事にした。暑いから体調万全で行かないと炎天下の中国内陸部は中年デブには死の危険がある。デブとは何の略なのだろうか?ディベロプメントだろうか? 人生は何かを失い何かを得ているはずで、この選択の連続である。洛陽は消滅しないし逃げていかないから来年たっぷり時間を取って行きたい! 昨日からの雨が残り気温はやや低いものの湿度が最高に気持ち悪い日なのである。 バス2元で大雁塔まで行き、昨年入らなかった滋恩寺に入場。昨年は小雁塔に登り、階段の急な傾斜と狭さと熱さで死の危険を感じたから、大雁塔に登るのはやめた。ここでも大雁塔に登ったという経験を失って健康を得ているはず。 ドラマチックにし過ぎた木彫り、皇帝がありがとう!みたいに。こんな筈なし。 このような第一級世界遺産でありながら、価値の無い数珠を600元とか法外な値で売ってるわけわからんテナント売店みたいのが沢山入ってる。中国はどこ行ってもこれだ。日本の清水寺とかではあり得ない。品位が落ちるとかそういう意識は無いようだ。そういうもんなんだろうな。 無意味に巨大な噴水。全長300メートル、幅60メートルはありそう。全く無駄である。大きさで威厳を出そうとするのが中華思想。侘び寂びは絶対理解出来ないだろうな。馬鹿にしているわけではなく、民族性の違い。 バスで小塞に移動。 食べてみたかった牛肉泡幕の店に入った。 すいとん みたい。美味くも不味くもない。ただカロリーを摂取する為だけの料理。西安は食べ物には期待出来ません。辛い味付け用調味料が別になってるのは良い。 小塞の北西に位置する 大興善寺。 ここは隋の時代に大々的に拡張された仏教寺院で、隋の国教として布教が推進された。今回日本人旅行者をチラホラ見かけたがここまで来る日本人はいない。よっぽど仏教に興味がある人は行って下さい。 小塞地区のデパート。新宿辺りより進んでる感じする。 生搾りジュース20元。物価も高め。
2018.06.25
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6/24 朝早くタクシーで八仙庵の骨董品市に行ってみた。タクシー12元。もともと八仙宮の東側に古玩城があり、日曜日午前中はその周辺に青空骨董市が広がるという。 屋台のクレープみたいな形状のお好み焼きみたいなモノ、を朝ご飯に食す。こんな小汚い屋台ですらウィチャットペイという電子マネーが使える事に驚愕! 1個5元だから約85円。 欲しい物はあまり無かったが、心惹かれた玉を買うものの多分偽物をつかまされたオレ。。 写真の蝶と蝉の玉は、拓本屋のオヤジに見せたら、茶渋で古そうな色を付けただけだ、半額で買えると笑われた。 例えば上の二枚の写真は書院門街の本物の玉専門店の商品、上が35万元、つまり580万円。下が40万、つまり680万円もする。。それが、蝶や蝉の玉が数千円の訳はないのだ。青空骨董市では売ってる人も買いに来てる人もほとんど本物と思ってない。けど、でもね、たまに本物もあるらしいから、もしかして本物かも?という楽しみがあるんじゃないか?? 八仙宮そのものは古い道教寺院で、8時から開いている。美しい庭園を持つ。もし時間あれば来てみても良い場所だと思う。唐の城壁は現在よりも全然大きかったから、唐の時代にはこの寺は当然城壁の中に在った。入場料金3元約50円。 再び碑林前の拓本屋さんに行って、拓本を爆買い。2日で新卒の平均月給ぐらい買ってしまった。1230時になり、買い過ぎた為かオヤジがゴハン食べに行こうと言ったので、午後は内心は大興善寺に行きたかったが付いて行くことにした。 場壁外に出て300メートルぐらいの綺麗なレストラン。その店にはオヤジの知人で西安では有名らしき書家の方が2人待っていて、既に2人で赤ワインを2本飲んでいた。なんか知らんが昼なのにものすごい勢いで飲み会に突入。乾杯すると飲み干さないといけないシステムでヤバしっ!途中で書家の友達とかいう27歳の綺麗な女の人=既婚と言ってたが、、が仲間に入って来てその人もスゲー赤ワイン飲んでる。オヤジもなみなみ注いだワインを一気呑み! 魏喜という書家名を名乗ってる人が我々はポンユウだ!とか大声で言った。朋友か、、酒飲んでポンユウになれるなら簡単だな。 昼だからワインはやめといたが青島ビール500CCを多分6缶か7缶は飲みました。。 かなりグロッキーになりつつも書院門街で剪紙や掛け軸や筆やらを買い漁りホテルに戻って17時から爆睡。W杯のセネガル戦が見たいから2230時にアラームで起床。 徳福巷 は、西安最大の飲み屋街、といってもスタイリッシュなバーが中心の飲み屋街。そこは日本VSセネガル戦を大画面で放映してるバーが沢山! みんな日本を応援してる! マスコミ報道じゃ絶対分からない親日っぷり!この肌感は来ないとわかんないだろな。 1点目は軽く雄叫びを上げただけだったが、妙な日本人のオヤジがいると皆んなわかってきた本田の2点目で絶叫した俺は店内の中国人客とハイタッチ会! なんか今日スゲー酒飲んでる。明日洛陽行けるかな?? 1人旅はサイコーに解放的だ!
2018.06.25
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一旦荷物を置いてから大唐西市へ向かった。タクシーで15元。激度に腹が減ってたので春雨スープと餃子のセットみたいなのをだべる。こっちのタレは辛かったりするから日本から持って来た醤油の袋で食べる。正解。 博物館の入場料は30元と書かれていたが、パスポートを見せたらタダになっちった。何で? 1630時入館締切直前に入る。 地下から唐の時代の街並みが発掘された場所が博物館になってる。空海も絶対来た場所だな。 唐時代の文官の衣服が復元されている。今とあまり変わんねーじゃんか?ホントかね。 綺麗な墓誌がチラホラと展示されている。 博物館に隣接して、大唐西市古玩城がありハンパないスケール。 バスで鐘楼まで戻りイスラム街で家族と親戚への土産爆買いして帰ることにした。 ケンタッキーを真似した様なチェーン店。 何でも辛めで俺にはキツイ。
2018.06.23
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朝8時30分の書院門、日差しが既に日本の8月のように熱く気温も高い。日陰を歩かないと危険。昨年掛け軸を3本買ったが、今年は荷物の心配はあるが、掛け軸22本を購入した。西安の書家の実力と日本の価格が全くかけ離れているため、相対比較で非常に安価である。 去年も来た拓本屋で拓本を見させて貰い、何枚か買って碑林に見学に行った。自分の知識が格段に進化しているから去年とは違って面白く見られた。
2018.06.23
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