2012年06月28日
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次に、「愛」は「恋」とどう違うのでしょうか? 愛は、相手のすべてを知った上で、なお愛することです。最初、「あばたもえくぼ」に見えていた相手が、やがて「あばたはあばた」であったと気付きます。下手すると、「えくぼまでがあばた」に見えて来ることもあります。そこで恋は終わります。愛とは、恋が終わったところからはじまるものです。

人は他人の欠点はよくわかりますが、自分の欠点はなかなか見えません。自分にある明らかな欠点は、「愛がない」ということではないでしょうか。もちろん、恋する相手はいることでしょう。相性のいい人、好きなタイプがあると思います。しかし、愛せないタイプ、「こいつは許せない!」と思う人に遭遇するのは時間の問題です。

聖書は、『神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。』と語ります。

まず、人を愛するとは、目の前にいる人を受け入れ、幸せを願っているかどうかでわかります。遠くにいる人は愛せても、身近な人を愛することは難しいです。

また、インターネット上で出会う人々を心から愛し、祝福を祈れでしょうか? 好きなタイプの人はいても、好きなタイプでない人にどう接するかで、自分に愛があるかどうかがわかります。

天皇陛下、総理大臣、大スターにねたみを感じることはまずないと思いますが、自分と立場があまり変わらず、年齢が近く、能力的に近い人が自分よりも脚光を浴び、賞賛され、成功し、豊かな暮らしをしていること知った時に、何とも言えないねたみを感じる人がいることでしょう。ねたみとは、自分の興味のあるジャンルで、しかも、自分が「こうしたい!」「こうなれたらいい!」と思っていることをしている人を見た時に、複雑な感情になります。しかしそんな時、心から祝福して、「よかったねー」と言って、一緒に喜んであげられるかどうかで愛せるかどうかが現れます。案外それは難しいものです。しかし、愛とは、身近な人の幸福や成功を心から喜べる心を持つところからはじまります。

次に、愛とはあるがままの相手を受け入れる心を持つことです。消極的には、気に入らない人が居ても、誹謗中傷をしたり、うわさ話をしたり、拒絶したり、無視したり、嫌がったり、否定しないことです。そんなところから愛は始まるのです。積極的には、喜ぶ人と共に喜び、悲しむ人と共に悲しむことです。そのような愛に生きる人は、幸せを感じるものです。
聖書は、『目に見える兄弟(人々)を愛することが、神を愛することになる』と語ります。



しかし、愛に生きることは困難です。だから、敵を愛し、十字架の上で赦しを祈ったイエスさまが必要です。しかし、「愛を下さい」と祈り求めるなら、少しづつかも知れませんが、愛に生きれるようなりますので、愛せるようになった分だけ幸せになり、周りの人を幸せします。そして、その愛は、世界中広がって行くものです。海に水を注ぐ川は、最初一滴の水からはじまり、それが大きな川になるように、あなたの小さな愛が、やがて大きな愛となって、地域を満たし、地方を満たし、国を満たし、世界を満たします。共に、幸せな国、幸せな世界を作って行きたいですね。





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最終更新日  2012年06月29日 07時58分00秒 コメントを書く


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