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このたびも続けて、家本氏の著書(『しなやか生徒指導』)の引用・紹介をします。(担任している生徒が「体罰」を受けた時)、学級担任として、三つの目標がある。 第一の最優先目標は、体罰を受けた生徒を守ることである。こういう論点を立てて取り組むことは、ほとんどないだろう。だが、体罰を受けた学級の生徒を守らずして、体罰問題の解決はない。 体罰を受けた自分の学級の生徒を前に、手をこまねいているようでは、もはや学級担任とはいえない。いじめを見ていて何もしない生徒と同じである。 体罰を受けた生徒を守るには、過激な方法と穏やかな方法とがある。 あるとき、職員室へ戻ったら、学級の生徒が「体罰教師」に正座させられていた。私もいっしょに、その横に正座した。教頭がとんできて、私と生徒を立たせ、生徒は教室へ戻された。こんな過激な方法もある(・・・)が、穏やかにアプローチするといいだろう。 体罰をしている教師に「やめてください」と言うと、かえって興奮するので、教師に味方をするふりをして、まず引き離す。(・・・)「体罰教師」も引きぎわを得てやめる。だれか止めてくれないかなと思っている場合も少なくないからだ。 こうして生徒をひきとって、しっかりとフォローするのである。体罰を受けた生徒へのフォロー フォローは4つの場面からなる。1、体罰についての謝罪と今後の決意を述べる 「法律で禁止されている体罰はよくなかったと思います。同じ学校の教師として君に謝ります。ごめんなさい。これから体罰のない学校をつくることに努力していきます」。2、怪我はないかどうか確認する。 怪我があった場合は、ただちに治療を受けさせ、校長・保護者に連絡する。3、抗議する権利を教える 「体罰に対して、きみは抗議する権利があります。保護者と相談したうえで、いつでも申し出てください」。4、体罰を受けて叱られたことについて、これからどうするか、本人の意見を聞く これからの行動について聞く。誤解を解きたい・釈明したい・説明を求めたい・謝罪してもらいたい・反省して謝りたいなどを確認し、その意見にそって助力する。(・・・) (以上『家本芳郎のしなやか生徒指導』182頁~184頁)〔コメント〕 上記の2と4に近い指導は実際に行われている場合も多いと思いますが、1や3のような対応は行われない場合がほとんどではないでしょうか。おそらく「自分だけが“正義の味方”になるのはスタンドプレーではないか」といった心理的な抵抗感もあるのでしょう。 確かにそれは、私自身の中にもありますが、やはり家本氏の問題提起は貴重だと考えます。 社会や集団の約束事(ルール)の大切さを普段から説いている教職員が「体罰という明確なルール違反」に対して自分の立場を言葉にすることができないということで果たしていいのか、自らに問いかけることが必要でしょう。 また、「抗議する権利を教える」というところにも、「悪い意味での現場感覚」に埋もれず、人権や原則に沿って現状をチェック・問い直していく家本氏の優れた面を感じるのです。たとえば氏は「問題行動の事情聴取」に関して次のように述べています。 現在の生徒指導で、問題を起こした生徒を指導する場合、「きみには黙秘権がある」ことを告げて指導している例はみたことがない。(・・・)黙秘権を告げたために、かえって指導が困難になることもあろう。だが、困難さよりも、黙秘権を認めることのほうがずっと価値が高いのである。(・・・)黙秘権を認めたために、かえって、正直に話してくれたという例も多い。 (家本氏の経験) 〔( )内は引用者〕 私たち教職員は、人権教育LHRなどの場面で「権利の大切さ」を語りながらも「子どもの人権を認め、それを教えるべき決定的な場面」を逃してしまっているのではないか、上記の文章から考えさせられました。 「黙秘権」自体、「人間が踏みにじられてきた歴史・現実から出発して打ちたてられた権利」でしょう。そのような権利よりも問題行動を「自白」させることを重視するような感覚がないか、問い直しが必要であると考えます。 日本ブログ村と人気ブログランキングに参加しています ↑ ↑よろしければクリックして投票・応援いただけますか(一日でワンクリックが有効です) 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)
2009.05.23
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このたびのテーマは体罰です。 なお、私自身はここ20年近く目の前で体罰を見たことは記憶にありません。確かに、職場内で「体罰がある」「実際にしている」という話を聞いて、教員本人と話をしたことはありますが、「体罰をなくす」という実践課題を切迫したものとして意識することはそれほどありませんでした。 しかしながら、全国各地で報道されている実態をふまえると、「体罰についてどう考えどう乗り越えていくか」ということは、やはり重要であると考え、不充分ながら問題提起することにしました。 まず、これまで紹介してきた家本氏の著書より関連する部分を引用します。 先日の新聞に、ある中学校で、男性体育教師が一年生に暴力をふるい、全治3週間の傷を負わせたと報じられた。 法律で禁止されているにもかかわらず、あいかわらず体罰は減らないようである。その背景には「体罰」容認派が多数をしめていることがある。そんな状況のなかで、体罰のない学校をつくるのは容易なことではないだろう。(『家本芳郎のしなやか生徒指導』181頁) 家本氏はこのように前置きして早速、「体罰」をなくす(克服する)具体的な取り組みについて述べていきます。 しかしながら、そもそもなぜ「体罰」容認派が少なくないのか(教職員のみならず保護者の中にも)」ということは、まず考えておくべき点ではないでしょうか。〔なお、下記コメント欄でMr. Hot Cakeさんが指摘してくださったように「“体罰”は是か非か」、という論議は「法」を前提にすれば成り立たないわけですから、以下「体罰」は「懲戒的行為」という言葉に置き換えてお読みください。〕 実際、PTAの会の席上で、ある教職員が「約束を破ったことは許さない、と言って子どもを殴ったことがある」と発言したのを受けて、私が「それは殴らなくても指導できたはずだし、そうすべきではなかったのか」と話をしたところ、そばにいた保護者が「許されないことをした時はきちんとたたいてほしい」といった趣旨の発言をしました。 これも含め、容認する考えの代表的なものは「教職員が生徒を感情的に殴るようなことは論外であるにしても、いい悪いを明確にしていく上で「体罰」は“指導”として成り立つし、必要な場合もある」とか「教職員と子どもとの信頼関係を基盤に、「叩くこと」も含めた毅然たる姿勢(指導)は必要ではないか」といったものでしょう。 確かに、私が教員になりたてのころは今よりも「体罰」が多かったと思いますが、「そのような懲戒的な行為をする先輩教員」の多くは、私などよりはるかに子どもたちとの信頼関係を築きながら「指導」をしていました。 そしてまた、同年代の教職員でも体罰も含めた部活指導が必ずしも恐怖による支配ではなく、「チームの前進的な雰囲気と、生徒-指導者間の強い信頼関係」につながっているかに見える場合もあります。ある種の信頼関係を前提に「保護者が指導者の「懲戒的な行為」を容認(黙認)している場合」も少なくないように思われます。 しかしながら、例えば「先生は自分たちのことを思って殴ってくれたんだ」という感性に危険な面はないでしょうか。指導者による「抱え込み」を無批判に受け入れていないか、「悪いのは自分と思い、“叩かれたこと”を素直に受け入れてしまう」よりもむしろ「それに疑問や憤りを感じる感性」こそが大切なのではないか、検討すべきでしょう。 かなり昔になりますが、高生研の分析の中でも「叩くことは仕方がないと思っているあなたより、叩かれて屈辱を感じる子どものほうがどれほど健全なことか」、「結局あなたがやっていることは“抱え込み”と“精神主義”ではないか」といった発言を耳にしたこともあります。 一見「叩くことが指導として成り立っている」かに見える場合においても、上記のような危険性はないのか、「自分自身で判断して行動する力」を育てることにつながっているのか、という問いかけが必要でしょう。 ましてや、全く「指導」として成り立たず、叩かれた側に「耐えがたい屈辱と心の傷」を残している場合も少なくないとすれば、「それは犯罪的だ」と考えなければなりません。 教職員はともすれば「指導には素直に従うのが当然」という意識で居丈高な姿勢のまま児童・生徒に対応しがちである、と前回関連記事で述べましたが、「懲戒的行為」の大部分はこの意識を根底に持っているのではないか、そこを全く問わないとすれば、教育の現場において教職員が支配者となり、「教育と無縁の行為が横行する」ことにならないでしょうか。 日本ブログ村と人気ブログランキングに参加しています ↑ ↑よろしければクリックして投票・応援いただけますか(一日でワンクリックが有効です) 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)
2009.05.16
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学校は保守的である。政治的な意味ではない。なにによらず、新しいやり方に対して守旧的である。「昨年どおり」が大好きで、(・・・)新しい企画や活動を試みようとすると、強い反発があって、なかなか賛成してもらえない。 わたしは、こういう学校社会が大嫌いであった。世のなかを拓く力を子どもたちに育てようとする教師がこれでいいのかと、ひそかに怒りさえ覚えていた。(『家本芳郎のしなやか生活指導』41頁) このように新しいことを提案すれば抵抗される、という体験には「学校づくりの実践」の途上で必ずといっていいほど出会うでしょう。家本氏も繰り返しそのような体験をするわけですが、あるとき「(教職員は)慎重で当たり前だった」ということを感じます。引用を続けましょう。 修学旅行の計画変更が業者から提案された。これまでの日程や見学場所を少し変更するというのである。客観的に見て正しい変更だったと思ったが、学年会で猛烈な反対が出た。「トイレはあるの」「集合場所はあるの」などいくつもの反対意見が出て結果的に否決されてしまった。 このやりとりをみていて感じたことは、「見たことも聞いたこともない新しい企画や提案にたいして、教師はひどく慎重で臆病だ」という習性だった。しかし、この習性は貴重だと感じた。なぜなら、教師は子どもたちの生命と健康の安全を守る義務があるからだ。 したがって、新しい状況の設定にたいしては、慎重でなければならなかったのである。そういう習性が教育実践の保守化に力を貸してきたようである。(42頁) さて、そうはいっても「子どもたちの安全を守る義務がある」ことだけが「保守的である理由」ではないでしょう。しかしながら、それが「学校の保守的性格の重要な一因だ」と仮定することによって、家本氏は以下のような実践の道筋と「新しい実践に取り組むセオリー」を発見します。 この業者の一人が教え子だったので、「変更が受け入れられないと困るのなら、係りの教師を実地見学に連れて行くことだ」と助言した。業者は承諾し、夏休みに下見を実施した。実地に調べてきた教師は、「新しいコースのほうがよい」と証言し、業者の提案を了承することになった。 教師は自分の眼で見て、安全が確かめられ、実践の見通しが立てば、正しいことに従う広い度量のあることが理解できた。(43頁) さて、こうした経験から家本氏が見出した「新しい実践に取り組むセオリー」とはどのようなものだったのでしょうか。『しなやか生徒指導』の記述は以下の通りです。 それは「いくら理論的に正しい実践であっても、理屈だけでは教師を動かすことはできないということだった。とすれば、新しい実践に取り組む場合、その予告編を見せ、体験させることだと考えた。 見て、体験してもらうのは、まず生徒たちである。教育実践は生徒が主体だからだ。生徒が受け入れてくれるかどうか、ここが教育実践の勝負どころである。次いで教師である。」(43頁) つまり、集団内部に新しい教育実践に呼応する生徒と教師たちを増やしていくということである。こうした準備を積み重ねていって、機が熟したところで教職員会議に提案すると、通りやすくなるだろうという読みである。(44頁) さて、前回紹介した家本実践(=遊び大会での実績を積み上げながら縦割り活動を導入していく)もこのような「仮定とセオリー」にもとづいて進められたものだったのです。おそらくこの実践を進めながら家本氏は楽しかったのではないでしょうか。 「学校は保守的だからどうしようもない」と嘆くのではなく、楽しみながら希望を膨らませ「学校づくり」を進めていく、これが家本流実践でした。教職員としての数十年間、同じ働くならこのような実践を目指していきたいものですね。家本氏やU高校のKさんでなくてもそのような実践は可能だと思います。 しかしながら、こと「現場での体罰」に関しては、「同僚を制止していく強さ」や「体罰をなくしていく合意づくりや実践」を学校に期待することなどとうていできない、と見る向きもあるかもしれません。確かに難しく深刻な現状はあります。しかし、上記著書の末尾近くで家本氏は「難しい体罰問題への取り組み」を具体的に提起します。 日本ブログ村と人気ブログランキングに参加しています ↑ ↑よろしければクリックして投票・応援いただけますか(一日でワンクリックが有効です) 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)
2009.05.02
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前回記事では「縦割り群」の編成により、上級生の教育力を高め、学校を「再生」していった家本芳郎氏の実践を紹介しました。このような新しい取り組みを進める場合、しばしば起こりうる「抵抗」は同僚(教職員)の反対です。家本氏はどのようにしてこの「抵抗」を克服したのでしょうか。『家本芳郎のしなやか生徒指導』の紹介を続けます。 「教育すればするほど悪くなる」克服策の一つとして縦割り群の実践を紹介したところ、ある教師から「とても面白い実践だと考えて、職員会議に提案したところ、時期尚早だとあっけなく否決された」というメールをもらった。 いきなり職員会議に「縦割り群を編成します」と提案したって、通るはずがない。準備作業が必要である。この教師は言って悪いが、そうとうの世間知らずである。(44頁) さて、ここで家本氏の言う「準備作業」というのはどのようなものだったのでしょうか。担任をしつつ、生徒会顧問も担当していた家本氏が生徒に持ちかけたのは「遊び大会」でした。そして、実際に放課後、生徒会執行部主催で希望者を募ってレクリエーション大会を開くことになります。 執行部の子どもたちと相談して呼びかけたところ、初めてにも関わらず全校で150人集まったのだそうです。引用を続けましょう。 最初に「班づくり」というゲームをした。遊びリーダーの指定した数でグループをつくる遊びである。(・・・)最初は二つ、ついで三つ。今度はグループの中に異性を含むことを指定する。さらに、異なる学年が混じるようにと指定する。こうして、最後に三つの学年が混じった15人のグループをつくった。 これは縦割りグループである。このあと、縦割りグループが対抗するゲームをして遊んだ。(・・・)上級生はみんなやさしく親切である。すぐに仲良くなった。 生徒会関係の教師も参加したが、三年生の下級生へのていねいな態度に「三年生のまねをするな」と蛇蝎視してきたこれがあの三年生なのかと目を見張って驚いていた。「この活動が学校再生に役立つかもしれない」かすかに希望の光がさしたようだった。(45頁) この遊び大会は、さらに回数を重ねた。慣れたところで、生徒会集会で、縦割り群による遊びを取り上げた。 さらに、生徒会の議会や委員会でも、縦割り群で固まって座席をとるようにした。一組群として、一、二、三年の各一組が机を寄せ合いグループをつくって会議に参加するようにした。「新一年生に教えるため」という理由をつけた。(・・・)一、二年生は上級生の指導に感謝した。(・・・) この活動は、上級生にも強い影響を与えた。下級生の見本になる、下級生を指導するという意識改革をもたらした。三年生の態度が少しずつ変化してきた。(46頁) 生徒会顧問会議では、しばしば上級生の指導性が話題になり、(・・・)こうして、年度末反省会で、来年度から少しずつ生徒会活動において縦割り活動を進めることに決まり、「非行学校」から脱出できる見通しが立った。(47頁) さて、「縦割り群などを取り入れようものならあっという間に学校が荒れるぞ」といった不安・反対の声というのは、現実の生徒の力をなかなか信じられないところから生まれてきます。それはどうすれば変わるのでしょうか。 上記の事例からもわかる大切なことは「新しい試み」を進めていきたいという個人(自分自身)がまず生徒を信じること。子どもたちと向き合いながら実践し、子どもたちの力(成長)が見えるような成果を一緒に創りだすことだと考えます。〔私自身も去年、学年のリーダー(正副室長)と相談しながら、生徒の企画・進行による学年(6クラス)合同レクリエーションを「指導」しましたが、リーダーたちは見事に成功させました。「本当に生徒の力でそんなことができるだろうか」という思いも多少ありましたが、そんなものを吹き飛ばしてくれるような力を子どもたちは持っています〕。 民間教育研究団体では「実践と実績で進める学校づくり」ということがよく言われてきました。「子どもたちの力(成長)が見える取り組み、できたという事実」によって生徒の中に、教職員の中に少しずつ新しい取り組みへの(不安ではなく)希望をふくらませていくことが大切なのではないでしょうか。 もっとも、家本氏自身も新しい実践や試みにブレーキをかける「保守的な学校現場」に憤りを感じていた時期もあったのだそうです。しかし、そこから出発した考察も興味深いものでした。次回記事で紹介します。 日本ブログ村と人気ブログランキングに参加しています ↑ ↑よろしければクリックして投票・応援いただけますか(一日でワンクリックが有効です)(教育問題に関する特集も含めてHP“しょう”のページにまとめています)
2009.04.25
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家本氏がある中学校に転勤して新一年生を担任したときにびっくりした言葉、それは「3年生を見習ってはいけない」という言葉だったのだそうです。 「たしかに、3年生はほめられた存在ではなかった。校則違反は日常茶飯事、全校朝礼にも半分くらいの生徒が遅刻してくる。私語も多い。(…)授業中も、教室から出たり入ったり、注意した教師に暴力をふるうなど、3年生の状態はひどかった」。(『家本芳郎のしなやか生活指導』83頁) ところが、3年生の悪い影響が2年生に伝染し、1年生に伝染していきます。教職員も手をこまねいていたわけではなく、色々な対策を立てて取り組んだということですがなかなかうまくいきません・・・。 「なぜ、教育すればするほど悪くなるのだろうか。そう嘆いていた矢先に、一年生の中からさまざまな問題行動・非行(集団的な喫煙、性的非行、万引き、暴力、カンニング事件)が次々に発生した。1年生の教師集団は呆然として言葉を失った」。(84頁) このような現状を受けて家本氏は1年生の学年会で次のような問題提起をします。1、問題の発生を押さえるために管理し説教するだけでは防げない。2、上級生の影響力は教師集団の指導力を上回る。その影響力を防ぎきれるものではない。(・・・) この「影響力」は、現在のところ、「悪い影響力、否定的な影響力」として発揮されている。それを「よい影響力、肯定的な影響力=教育力」にかえることはできないだろうか。もし、そのことに成功すれば学校は一変するに違いない(・・・)。 もし、上級生のリーダーシップを引き出すことに成功すれば、「上級生を見習いなさい」と言えるようになる。(・・・)こんな情景の創出は難しいができないことではない。だが、教職員は目の前の事件に忙殺されていた。 (86頁) どうしたらいいのだろうか。(・・・)上級生をして、指導せざるを得ない位置におくことである。その教育的装置として考えたのが縦割り群である。次年度、生徒会が全校の基礎集団として縦割り群を編成することにした。3年1組、2年1組、1年1組を1組姉妹兄弟学級群とし、上級生学級は下級生学級を指導する役として位置づけたのである。(89頁) さて、一般的に縦割り群の活動は1、異年齢と交わりあう能力を磨く、2、年上から学び年下へと伝えていく生活文化を育てていく、といったことを目的に行われるようです。 それに加えて(それ以上に)ここで家本氏の強調した目的は「全校の指導勢力をつくること」でした。上級生を指導する勢力に育てるという方針です。一体どのように具体化したのでしょうか。 「上級生が下級生に自信を持って指導できることは何だろうか。集会・校則・掃除・授業はだめ。しかし、スポーツならできる。そこで、生徒会の全校スポーツ大会を縦割り群の対抗戦として開くことにした。(・・・)試合は1年生の女子からはじめた。試合に先立つ練習には、縦割り学級の2年生の女子がコーチした。例えば、2年生がチームをつくって練習試合をしてくれた。男子もおなじように縦割り2年生の男子がコーチした」。 「次に2年生の試合。その練習は、今度は、縦割りの3年生がコーチした。2年生の試合が終わって4つの順位(男・女×縦割り2学年それぞれの順位)が合計された。点数の少ないところほど上位である」。(89頁) 「最後が3年生。この勝負で優勝が決まる。縦割りの下級生も大勢詰めかけて応援。3年生も必死である。(・・・)こうして3年生男女別の試合が終わり、順位を合計して優勝を決めた。(・・・)勝敗はともかく、やさしくていねいに指導してくれた上級生学級がある。 まとめの全校集会では下級生が次々に立って「上級生、ありがとう」と謝辞を述べた。上級生は、自分たちが下級生から感謝される存在であることをはじめて知った。 この活動によって、上級生のリーダーシップは覚醒し、指導学年として位置づいていった。その後、縦割り活動は、このスポーツ大会から合唱活動、やがて、委員会・学級・学習活動へと発展していった。(90頁) このようにして見事に「荒れた学校」は生まれ変わります。この事例で学校再生を実現した「学校の力」が、教職員集団の力プラス生徒集団の力であったことは明らかでしょう。しかし、このような縦割り群の実践は比較的身近で事例も多いとはいえ、家本氏の報告したようにうまくいくものでしょうか。 実際、家本氏が提案した「縦割り群」に対して、「そんなことをすればあっというまに全校が荒れるぞ」という声も出たのだそうです。また、(別の学校の教員が)まねをして縦割り群を提案したがあっさりと否決された、という声も家本氏に届いたとのことでした。 「かえって現状をより困難にするのではないか」といった不安の声もある中で、合意を積み上げながら改革の歩みを進めていく「学校づくり」、「教職員集団づくり」が成立したポイントはどこにあったのでしょうか。次回はそこのところを紹介します。 日本ブログ村と人気ブログランキングに参加しています ↑ ↑よろしければクリックして投票・応援いただけますか(一日でワンクリックが有効です) 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)
2009.04.18
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