◆【戦後60年 歴史の自縛】(1)内閣改造直後に突然「村山談話」
少数で決めた「侵略」の謝罪
戦後、六十回目の八月十五日がやってくる。「一億総懺悔(ざんげ)」から出発した日本人の戦争への反省は、いつしか謝罪へと変わった。
( 懺悔:基督教で、罪悪を自覚し、これを告白し悔い改めること<広辞苑>。過去の罪過<罪と過失>を神仏の前で悔い改めること<新明解国語辞典>。
謝罪:罪や過ちをわびること「被害者に--する」<広辞苑>。犯した罪や過ちをあやまること<新明解国語辞典> )
だが、中国と韓国は、歴史認識問題を対日カードとして使い続けている。 終わりなき「謝罪」 はどのようにして始まったのか。戦後六十年、日本を自縛してきた「亡霊」の正体を検証する。
◆◇◆
( 今年2005年平成17年の )四月十七日。元首相、村山富市は京都御所内に完成した京都迎賓館の完成披露式典で、首相の小泉純一郎と顔を合わせた。
「インドネシアでAA会議(アジア・アフリカ首脳会議)があるので、今、『村山談話』を読んでいるところです」
にこやかに声をかけてきた小泉に、村山は「ああ、そうですか」とだけ答えた。村山には、小泉の靖国神社参拝で日中関係が悪化しているとの思いはあったが、あえて口にはしなかった。
五日後、小泉はAA会議で「村山談話」を引用して頭を下げ、多くの首脳を驚かせた。
四月、中国全土で反日デモの嵐が吹き荒れた。国家主席、胡錦濤との日中首脳会談を前に、先の大戦について「痛切な反省と心からのお詫(わ)びの気持ち」を盛り込んだ村山談話を踏襲する姿勢を明確にすることで、日中関係改善のきっかけをつかみたいとの思惑が、小泉にはあった。
だが、AA会議翌日の首脳会談で、 胡は、反日デモによる被害への謝罪はせず 、逆に「歴史を正しく認識し対処するために、反省を実際の行動に移してほしい」と靖国神社参拝中止を求めた。先の大戦への謝罪を明確にした村山談話は何の効き目もなかった 。
( 最早支那人の性格、民族のデフォの性質かなぁ? 文革で皆表面で言ってることとその本来狙ってること<孔子批判のターゲットは周恩来だとか>の違いに気付いていながら上っ面の言葉で上っ面の目的を延々議論して、結局有耶無耶にする。負けを認めることすなわち死<水に落ちた犬は叩けっ!>だから、論点逸らしに過去現在の混同などなどポイントは保身の思考態度が、中共中枢から末端乞食まで身に染み付いちゃったとか。
大連での日本人経営者の皆が口を揃えるのが『連中は言い訳ばっか。スミマセンの一言がないっ!』なんだよネw 国のトップが現に起こってる外国公館に被害出したなんてな世が世ならば開戦理由になる事件の論点逸らしに、半世紀以上前の勝手な言い分で論点逸らしてとにかくソレは御免なさいの一言もないてな按配じゃぁ、下もそれに習うでしょうサw )
平成七年八月十五日 、村山はアジア諸国に向け日本の「侵略」と植民地支配に関する痛切な反省と謝罪を柱とした首相談話を発表した。
( 最悪の年1995年。1月17日阪神淡路大震災では村山の不作為で死なずに済んだ5000人、3月22日オウム地下鉄サリン事件では破壊活動防止法の適用しなかった。挙句にこんな愚にも付かない「首相談話」で後世にアダを為していたトw さっさとクタバッテ地獄に落ちろっ!…だよナw )
この二年前の( 1993年 )八月十日、 朝日新聞記者出身の細川護煕 は首相就任後、初の記者会見で、日本の戦いを「私自身は侵略戦争であった、間違った戦争であったと認識している」と発言、遺族会などから激しい反発を受けた。
細川以前の自民党政権は、戦時中の日本の行為について「深い反省と遺憾の意」を表明しても「お詫び」という表現は注意深く避け、 欧米によるアジアの植民地支配に終わりを告げさせた側面 をも否定する「侵略戦争」という用語 は決して使わなかったからだ。
熊本の旧陸軍 教育隊で終戦を迎えた村山 は、平成六年六月、自民、社会、さきがけ三党連立政権の首相に就任した直後から、「アジア各国に対する過去の清算」を「内閣に課せられた歴史的役割」と考えていた。
( 村山富市。大正13<1924>年3月3日生まれ。
終戦時21歳で「教育隊」で終戦を迎えた、ということは戦地に出る前の訓練期間に戦争が終わった、すなわち戦地は未経験だということだな。
平成6<1994>年6月30日~平成8<1996>年1月11日の561日間が悪夢の総理在任期間。総理就任時70歳。といっても1945年終戦時は21歳であって戦争体験なしの世代であることをしっかり把握しておこう )
「『戦後』は終わるもんか。一応のけじめをつけようという程度の話じゃ。戦後がこれで終わるなんておこがましいことは言わんよ」
( 「…じゃ」とか言ったり貧乏臭い長眉毛で仙人気取っても、終戦時何歳だったか?戦地経験あったのか?の2点をしっかり把握すると、すぐに化けの皮は剥がれるような気がする )
今年、八十一歳の村山は、大分市内の自宅で当時の心境をこう語る。
( だから現時点での80歳代の戦地未経験の連中なんか、現在の若者とその点では同類項に過ぎず、よって不勉強なヤツかどうかで判断できるわけで、その実体験から何かを伺おうなんて殊勝な心がけは不要で、また年齢だけでアンマリ信用する必要もないとも思ってるカナァw )
談話発表まで村山と官房長官、故・野坂浩賢は周到に作戦を練った。日米安保条約堅持と自衛隊容認に踏み切り、支持層が離れた社会党にとって戦時中の日本の行為を非難する「五十年談話」は“社会党政権らしさ”を示す譲れぬ一線だった。
七年六月、連立政権発足時の約束だった「謝罪・不戦」を柱とした戦後五十年国会決議が衆院本会議で採択されたが、自民党から大量の欠席者が出た。この轍(てつ)を踏まず、「植民地支配と侵略」の文言を盛り込むにはどうすればいいか。野坂は決意を秘めていた。
「異議を申し立てる閣僚がいれば、内閣の方針に合わないということで即刻、罷免するつもりでいた」(野坂著「政権と変革」)
八月十五日午前。閣議室の楕円(だえん)形のテーブルに着席した閣僚を前に、野坂は「副長官が談話を読み上げますので謹んで聞いてください」と宣言した。古川貞二郎は下腹に力を入れて読み上げ、閣議室は水を打ったように静まり返った。野坂が、「意見のある方は言ってください」と二度、発言を促したが、誰も発言しなかった。
総務庁長官、江藤隆美は「閣議で突然、首相談話が出てきて仰天した。(反対と)言っても始まらないと思って黙っとった」と振り返る。
内閣改造から一週間しかたっていなかったことも村山に幸いした。
運輸相として初入閣した平沼赳夫は、「事前の相談はまったくなく、唐突に出た。社会党出身とはいえ、何でこんなの出すのかな、と思った」と話す。「ちょっと問題のある文章だなと思ったが、あえて発言しなかった。今思えば率直に思ったことを言っておけばよかった」と悔やむ。
こうして談話は異議なく閣議決定され、村山自身が記者会見して発表した。だが、記者の「『国策を誤った』政権とは具体的にどの政権を指すのか」という問いに村山は答えられなかった。談話は有識者による議論も経ず、ごく少数の政治家と官僚がかかわっただけで、歴史認識を内閣あげて討議して練り上げたものではなかったからだ。
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≪中韓へ正当性与える結果に≫
◆「東京裁判史観を基に個人的な思い」
村山談話について村山は、「みなさんと相談してつくった」と強調する。だが、実情は違う。
当時、内閣副参事官として談話の原案を起草した民主党参院議員の松井孝治は、「政策的に思い切ったアイデアを企画する場合、官邸スタッフが『少数ならでは』の思わぬ効果を上げる場合がある」とした上で、「首相側近の大物官僚が村山の意向をくみとり、週末に親しい学者と相談して書き上げた」とごく少数の官邸スタッフが携わり、極秘裏に案文づくりが進んだことを認めている。
大物官僚とは、内閣外政審議室長(現・内閣官房副長官補)で、後に駐中国大使となった谷野作太郎だ。
谷野は、「(アジア諸国の人々に対し多大の損害と苦痛を与えたという)歴史の基本的ラインを曲げてはいけない、開き直ってはいけないと思った」と証言する。ただし、中国や韓国が「謝罪が十分ではない」と批判していることについては「謝罪は十分したし、卑屈になる必要はない」と語った。
松井はこう振り返る。
「自分が起草した文章が谷野さんに直されてガラリと変わった。賛否両論はあるが、『国策を誤り』などという表現は胆力がなければ書けないし、味も素っ気もない“官庁文学”では作成し得ない出来栄えだ」
自民党で事前に案文を見せられたのは、通産相の橋本龍太郎、野中広務らごく一部。橋本は「『終戦』を『敗戦』にすべきだ」とアドバイスしただけだった。
自社さ政権下で生まれた村山談話を、明星大学教授の高橋史朗(占領史研究)は、「明らかに『東京裁判史観』に基づくものだ」と批判する。「植民地支配と侵略によって、アジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」とする部分は、東京裁判の論理に合致すると分析。高橋は「東京裁判史観は、戦前の日本の歴史を抹殺しようとした連合国軍総司令部(GHQ)とマルクス主義歴史学者たちの合作。その延長線上に村山談話がある」と指摘する。
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村山談話の反響は大きかった。英BBCは「日本の首相が侵略におわび」とトップニュースで伝え、ニューヨーク・タイムズも一面トップで報じた。だが、村山が期待した中国、韓国の反応は「今後の日本の態度に注目する」といった冷淡なものだった。
逆に、村山談話はその後の日本外交に大きな足かせとなった。当時の官房副長官、古川貞二郎は「過去だけでなく未来志向にも重点を置いたもので、その後の政権の基調となっている」と評価するが、「未来志向」は日本の片思いに終わった。
村山談話によって日本が「侵略」を認めたとされ、中国、韓国の歴史認識カードに都合の良い「正当性」を与える結果を招いた。
今年三月一日、韓国・ソウル市内で開かれた「三・一抗日運動」の記念式典。大統領の盧武鉉は、村山談話の「痛切な反省と謝罪」を引用、韓国政府が対日賠償請求権を放棄した昭和四十年の日韓基本条約を覆すかのように、「(日本は)賠償すべきは賠償しなければならない」と発言した。
当時の外務官僚の一部が懸念していた「戦後補償問題はすでに解決済みなのに、個人的な思いだけで首相が謝罪すれば、補償問題が再燃しかねない」との指摘が現実のものとなった。
それでも村山は言う。
「『あんな談話を出したからいつまでも謝らなければいけない』という者があるかもしれんけどな、それは言う人の勝手じゃ。談話は読めば分かる。それ以外の何ものでもない。僕自身は誤ったことをしたとは思っていない。あれで良かったと思っている」(肩書は当時。敬称略)
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■天皇陛下は「謝罪」に踏み込まず
天皇陛下は平成四年、中国をご訪問された際、「わが国が中国国民に多大の苦難を与えた一時期」という踏み込んだ表現をされた。
昭和五十三年、中国のトウ小平副首相が来日した際、昭和天皇は「一時、不幸な出来事もありました」と述べられたが、中国側は反発を示さなかった。中ソ対立が続いていた当時の世界情勢も大きく影響しており、冷戦崩壊後の平成四年の天皇陛下のお言葉とはニュアンスが大きく異なる。
ただ、強い遺憾の意を表明しつつも直接的な謝罪の表現を避けたのは、天皇陛下のご訪中が国内の慎重論を押し切った上で実現した経緯から、「陛下にご負担をおかけしてはいけない」(宮沢喜一首相)という日本政府の方針があったからだ。
◆【戦後60年 歴史の自縛】(2)総辞職前日の慰安婦談話
裏付けなく認めた強制連行
日本の「謝罪外交」を決定的なものにした「村山首相談話」に至る道筋を開いたのが宮沢喜一政権だ。
宮沢内閣が政治改革関連法案の処理に失敗し、最終的に総辞職する前日の平成五年八月四日。
官房長官、河野洋平は慰安婦問題に関する談話を発表した。「慰安婦の募集は、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、官憲などが直接これに加担したこともあった」とし、「総じて本人たちの意思に反して行われた」との内容で、募集段階で慰安婦の強制連行があったことを政府として認めたのだ。
慰安婦問題に火がついたのは、宮沢政権発足間もない平成三年十二月、「従軍慰安婦」だったという韓国人女性が日本政府を相手取り、謝罪と損害賠償を求める訴えを起こしたのが発端だ。
これを機に朝日新聞など一部メディアが「従軍慰安婦問題」キャンペーンを展開。吉田清治という人物が「済州島で軍の協力で慰安婦狩りを行った」と告白した。だが、この告白は後に、現代史家の秦郁彦らが現地調査し、「極めて疑わしい」ことが明らかになった。だが、当時は、真偽不明の慰安婦情報がマスコミをにぎわし、韓国政府も世論に押されて日本政府に元慰安婦からの聞き取りなど真相究明を求めてきた。
元官房副長官の石原信雄は、「弁護士のTらが韓国で火をつけて歩いた。どうしてそういうことをやるのか、今でも腹が立って仕方がない」と振り返る。
河野談話発表に至る調査はずさんだった。
七月二十六日、元慰安婦十六人のヒアリングをソウルで開始した。
「聞き取りの結果、自分の意に反して慰安婦にされたのは否定できない。その点は認めざるを得ないという結論に至った」(当時の関係者)
だが、得られたのは証言だけ。物証はなく、裏付け作業もされず、聞き取り終了から五日後に河野談話が発表された。国会開会中を理由に取材に応じなかった現衆院議長の河野に代わって、石原はいう。
「官邸内でも国の名誉がかかるだけに意見はいろいろ出たが、内閣としてまとめた以上、弁解しない。私にも責任がある」
韓国側は談話に慰安婦募集の強制性を盛り込むよう執拗(しつよう)に働きかける一方、「慰安婦の名誉の問題であり、個人補償は要求しない」と非公式に打診してきた。日本側は「強制性を認めれば、韓国側も矛を収めるのではないか」との期待感を抱き、強制性を認めることを発表前に韓国側に伝えた。ジャーナリスト、櫻井よしこは、日本政府の対応を「韓国側とのあうんの呼吸以上の確信を日本側が抱いたのではないか」と推測する。
「誠意を尽くす」という内閣の意思で発表された談話だったが、日本政府が募集に直接関与し、韓国人女性を強制的に慰安婦にしていたかのように国内外で都合よく利用され続けている。
石原は「談話は日本政府の指揮命令の下に強制したことを認めたわけではない」と明言した上で、韓国政府の対応を批判する。
「韓国政府の言い方は今ではまったく違った形になっている。心外だ」
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河野談話にも前段があった。
平成四年一月十三日。慰安婦問題をめぐり、政府は初めて、慰安所設置に関して旧日本軍の関与を認める官房長官談話を発表した。主役は加藤紘一だった。
「現に(当時の)軍が関与したんだから。それを否定しなければならないの? 事実をちゃんと認めるのは、やむを得ないのではないか」
加藤は、慰安所で軍が関与した料金表などが資料として見つかったことを根拠にしたという。
「私が長官の時はどうやって慰安婦を集めたか、危ない集め方はあったらしいというところまで。ただ、軍がある種の経営をしていたことは事実だ。石原副長官も私に『謝りましょう』と言ってきた」
三日後に宮沢の韓国訪問が控えていた。関係者によると、外交問題となりつつあった慰安婦問題を首脳会談で主要議題としないため、先方への「手土産」として談話作成が決まったという。懸案を取り繕ったつもりが、問題はさらに増幅したのだ。
≪発端は教科書検定での譲歩≫
宮沢と河野は、日中関係の節目で、中国に有利な決定を下してきた。
歴史認識問題の発端になったのが、昭和五十七年の教科書問題だが、ここでも宮沢が大きな役割を果たした。
同年十一月、文相の諮問機関が「教科書検定基準に近隣諸国との友好・親善に配慮した項目を新設する」との答申をまとめた。いわゆる「近隣諸国条項」だ。
これは、八月二十六日、鈴木善幸内閣の官房長官だった宮沢が発表した四項目の「宮沢談話」がもとになっている。鈴木が訪中するちょうど一カ月前のことだった。
「アジアの近隣諸国との友好、親善を進める上で、日本の学校教育、教科書検定に対する中国、韓国の批判に十分耳を傾け、政府の責任において是正する」
「今後の教科書検定に際しては、検定基準を改め、前記の趣旨が十分実現するよう配慮する」
六月、教科書検定によって「侵略」が「進出」に書き改められたとマスコミが一斉に報じる誤報事件が発生。これに中国、韓国が反応、問題が一気に拡大した。
宮沢談話が発表される三時間前の八月二十六日午後一時。自民党文教部会長だった石橋一弥は、自民党文教族の有力者、三塚博とともに、自民党本部に呼ばれた。
幹事長室には幹事長の二階堂進ら党三役と官房副長官、池田行彦が待ち構え、池田が一枚のコピーを配った。
「部会長、どう思われますか」という池田に、石橋は「『これではダメだ』と言ってもよろしいでしょうか」と応じた。
だが宮沢談話はすでに外交ルートを通じて中国、韓国に通告したと、池田が明かした。納得のいかない石橋は、「是正とは何だ。今までの検定が悪かったと認めるようなものではないか」と食い下がったが、すべては後の祭りだった。
文部省に向かった石橋は、事務次官、三角哲生の前で、「残念だが、時すでに遅しだ」と悔し涙を流した。
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河野は、旧日本軍が中国に残したとされる遺棄化学兵器の処理問題にも深くかかわった。遺棄化学兵器の処理は平成九年四月に発効した化学兵器禁止条約(CWC)に基づく処置だ。日本は五年一月に署名し、七年九月に批准した。CWCは化学兵器の使用や開発、製造や貯蔵を禁止する条約だが、中国の強い希望で遺棄化学兵器の「廃棄条項」(第一条三項)が盛り込まれた。中国での旧日本軍の残留兵器以外は世界で「遺棄」を認めている国はなく、事実上の「日本専用条項」といえる。河野が官房長官の時に署名し、外相時代に批准した。
旧日本軍の化学兵器は、ソ連軍や中国軍に武装解除されて引き渡した武器の一部。所有権は中ソ両国にあり、中国のいう「遺棄兵器」には当たらないとの見方が政府内にもあった。
だが、河野は武装解除で引き渡されたことを証明する書類がないことを理由に、日本による化学兵器の処理を推進した。
十一年七月三十日に締結した日中の「中国における日本の遺棄化学兵器の廃棄に関する覚書」では、日本が処理費用をすべて負担し、将来の事故も日本が補償する内容となった。日本側代表は駐中国大使の谷野作太郎。そして、中国の言い分をほとんど受け入れた外交のつけが今また、国民に大きな財政負担を強いようとしている。償還が前提の円借款と異なり、無償援助であり、総額も確定していないのだ。
日本国際フォーラム理事長の伊藤憲一は、遺棄化学兵器処理問題について、「日本の対中外交の典型だ。遺棄兵器の管理責任は本来、旧日本軍から武装解除で引き渡しを受けた中国、ソ連が負うべきであり、そういう議論をきちんとやるべきだった」と指摘する。さらに、「当たり前のことを協議で詰めもせずに『賠償金を払っていないから』ということで中国に巨額資金を垂れ流すのであれば、あまりに安易な外交だといわざるを得ない」と批判している。(敬称略)
◆「河野談話」作成の経緯 石原信雄元官房副長官に聞く どう利用されるか議論せず
産経新聞は、「河野談話」作成の経緯などについて、石原信雄元官房副長官に聞いた。
◇
--河野官房長官談話発表の経緯は
慰安婦問題が出てきたのは、韓国で訴訟が起こり、続いて挺身(ていしん)隊という人たちが日本政府に謝罪と賠償を要求し、エスカレートした。意に反して慰安婦にされた人が存在したかどうかが一番の問題になった。当時は補償問題は一切、議論していない。日韓基本条約で済んでいることだから。個人の名誉の問題として強制にあたる募集があったかだけを確認した。
--政治判断として強制性を認めれば事が収まると思ったのか
われわれは、いかなる意味でも、日本政府の指揮命令の下に強制したということを認めたわけではない。
--談話に反対しなかったのか
議論の過程ではいろいろあった。国の名誉の問題があるから。政府として内閣としてまとめた以上は、私は全責任を負う。まとめた以上は逃げられない。
--国連は河野談話をもとに日本を「性奴隷の国」と呼んだ
もちろん、そういうことに利用される可能性はある。訴訟している人たちは、すべてが強制だと主張しているわけだから、それを認めたことになるかもしれない。そういうリスクは当然、あの談話にはある。それは覚悟した。
--現在の評価は
日韓の未来志向のためには、本人の意に反して慰安婦になったことを認めることが、その後の日韓関係を深める上で、必要だったという判断だったと思う。だが、韓国側が慰安婦はすべて強制だとか、日本政府が政府として強制したことを認めたとか、誇大に宣伝して使われるのは、あまりにひどい。韓国政府関係者の言い分は、(当時と)ぜんぜん違った形になっている。
--具体的には
いろいろな国際会議で、日本政府が政府の意図で韓国女性を強制的に慰安婦にしたと言っているが、全く心外そのものだ。談話には書いてないが、納得ずくで慰安婦になっていた人だっている。
--宮沢首相は政権末期で決着を急いだのか
次の内閣に送ってしまうということは、すべきでないと。宮沢内閣の責任で締めくくろうという首相の決断だった。
--韓国にいい顔をしすぎたのではないか
批判はいろいろあるだろう。ただ、それが、どう利用されるかは、当時、議論していない。談話とか、公文書は、いろんな立場でそれが使われる可能性が常にある。
--鈴木内閣の近隣諸国条項も問題だが
内閣の方針として、周辺国に対する配慮はずっとしていた。内閣のとった行動は間違っていなかったと思う。一番いけないのは、いっぺん出た結果について、よそから言われて変えることだ。これは内政干渉そのものを受け入れることだ。これは国家としての体面を汚されることだ。日本政府が考えてとった行動について、よそから言われて変えるのは、日本の名誉、尊厳のためによくない。
◇
■河野談話(慰安婦関係調査結果発表に関する内閣官房長官談話)要旨
調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接、あるいは間接にこれに関与した。当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。
(平成5年8月4日)
◇
■加藤談話(慰安婦問題に関する内閣官房長官談話)要旨
今回発見された資料や関係者の方々の証言やすでに報道されている米軍等の資料を見ると、従軍慰安婦の募集や慰安所の経営等に旧日本軍が何らかの形で関与していたことは否定できないと思う。この機会に改めて、従軍慰安婦として筆舌に尽くし難い辛苦をなめられた方々に対し、衷心よりおわびと反省の気持ちを申し上げたい。
(平成4年1月13日)
◆【戦後60年 歴史の自縛】(3)GHQ「ウォー・ギルト・プログラム」
刷り込まれた「罪の意識」
さきの大戦を日本の「侵略戦争」ととらえ、指導者が諸外国に謝罪を繰り返すのもやむを得ないと考える日本人が少なくないのはなぜか。その出発点に、占領期の連合国軍総司令部(GHQ)による検閲と「戦争への罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」(文芸評論家の江藤淳)であるGHQ指令「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の存在がある。検閲は、極東国際軍事裁判(東京裁判)に関して徹底的に行われ、「リベラル派」の雑誌『世界』(岩波書店)も論文の全文掲載禁止処分を受けていたことが、三日、わかった。GHQにより、同盟通信や朝日新聞なども発行停止や掲載禁止などの処分を受けているが、『世界』への検閲処分が判明したのは初めてだ。
掲載禁止になったのは、東京裁判開廷直前の昭和二十一年四月、『世界』第四号に掲載予定だったS・Kによる「文明の審判-戦争犯罪人裁判」。理由は、「連合国の戦犯裁判政策の批判」にあたるとされた。
論文は、連合国がニュルンベルク裁判や東京裁判を実施するに当たり、それまでの国際法の概念になかった「平和に対する罪」「人道に対する罪」を創出、戦争を計画・遂行した「個人」の責任を問おうとしていることに疑問を示し、次のように記していた。
「日米開戦直後、国防安全の必要からアメリカ政府がとった日本人の奥地強制移住措置の如きも、そのアメリカ国内法上の合法性如何にかかわらず、もしも我々が、これを人道に対する犯罪と看做(みな)した場合には、ルーズヴェルト大統領の責任を訴追することができるといふことになる」
結局、論文は日の目を見なかった。資料を発掘した明星大戦後史教育センターの勝岡寛次は、処分後の『世界』について「これに懲りて占領軍にすり寄り、二度とこのような論調で東京裁判を論じようとはしなくなった」と指摘する。
GHQ総司令官のマッカーサーは昭和二十一年元日、「いまやすべての人が、不当な規制を受けることなく、宗教の自由と表現の権利を享受できる」との声明を出したが、実態は違う。
GHQは二十年九月十日、検閲のスタートとなる「新聞報道取締方針」を発令。同月二十一日には「新聞条例」を発令してGHQ批判を禁止。六日後には、「新聞と言論の自由に関する新措置」によって、日本の新聞をマッカーサーの管理下に置いた。
GHQは検閲で日本側の主張を封じ込める一方、日本人に米国の「歴史認識」を植え付けた。
まず用語狩りを徹底した。特に「大東亜戦争」は、検閲で日本軍部を非難する論文で使われても例外なく削除を命じた。代わって「太平洋戦争」の呼称を定着させた。
二十年十二月八日。GHQは、真珠湾攻撃から四周年にあたるこの日、全国の新聞に連載記事「太平洋戦争史」(GHQ民間情報教育局提供)を掲載させた。
連載は十回にわたり、満州事変から終戦に至るまでの「日本の悪行」を強調する内容で、「真実なき軍国日本の崩壊、奪う『侵略』の基地、国民の対米憎悪をあおる」(八日付朝日新聞)、「隠蔽(いんぺい)されし真実、今こそ明らかに暴露 恥ずべし、南京の大悪虐暴行沙汰(さた)」(読売新聞)といった見出しが躍った。
この間の事情を研究している政党職員の福冨健一が「二十年十二月八日は東京裁判史観が始まった日だ。『太平洋戦争史』は進歩主義や左翼思想と結びついて次第に日本に定着し、堂々と教科書に記述されるまでになった」と指摘するように、「侵略」という用語も周到に盛り込まれた。
放送も大きな役割を担った。GHQの指導下、九日からNHKラジオは「真相はかうだ」を開始。「太平洋戦争史」をドラマ仕立てにしたもので、週一回、日曜午後八時から十回放送された。
少年の素朴な問いに、反軍国主義思想の文筆家が答える形式のドラマだ。「日本を破滅と敗北に導いた軍国主義者のリーダーの犯罪と責任を日本の聴取者の心に刻ませる」(民間情報教育局ラジオ課)目的で、内容は一方的なものだった。
「原子爆弾の投下は、戦いをなお続けようとするなら、日本は迅速かつ徹底的な破壊を被るという連合国側の予告を、日本の指導者が無視し、何ら回答しなかったため」「戦時中の軍指導者たちが戦争犯罪人の指名を受けるのは当然」…。
「真相はかうだ」は問答形式の「真相箱」に改められ、さらに四十一週間続く。一方、「太平洋戦争史」は翌年四月に単行本として出版されベストセラーとなる。出版前に、文部省が「各学校は各々これを購入の上、教材として適宜利用せらるべきものとす」という通達を出していた。
GHQが実施したメディアと、公教育を通じた宣伝工作は、六十年後の今も日本人の歴史認識を縛っている。(敬称略)
◇
≪検閲知らなかった国民≫
「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」は、二十年十月二日付のSCAP(連合国軍総司令官)の一般命令第四号に基づくもので、GHQ民間情報教育局が主体となって実施した。同命令の趣旨は「各層の日本人に、彼らの敗北と戦争に関する罪、現在および将来の日本の苦難と窮乏に対する軍国主義者の責任、連合国の軍事占領の理由と目的を、周知徹底せしめること」。「太平洋戦争史」連載も「真相はかうだ」放送も命令に沿ったものだった。
ノンフィクション作家の保阪正康は、これらのGHQ製記事や番組について、「日本政府が国民に知らせず、隠蔽していた歴史事実を明らかにした『功』の部分もある」としつつ、こう言う。
「そこで示された史観の発想やトーンは東京裁判の起訴状や判決文と見事に符合する。戦後のさまざまな昭和史記述の本もこの史観を下敷きに、なぞっている」
戦時中の言論統制もあって「情報」に飢えていた日本人は、GHQが計画的に与えた米国製の歴史認識を吸収し、これが「歴史の真実」として定着していった。
二十一年にGHQの諮問機関メンバーとして来日し、日本の労働基本法策定に携わったヘレン・ミアーズは著書『アメリカの鏡・日本』(GHQにより日本では発禁)の中で、占領軍による検閲に疑問を呈している。
「私たち自身が日本の歴史を著しく歪曲(わいきょく)してきた。だから、政治意識の高い日本人から見れば、日本の教科書の『民主的改革』は、私たちが意図しているようなものではなく、単に日本人の国家意識とアメリカ人の国家意識を入れ替えるにすぎない」
GHQは「東京裁判批判」「検閲制度への言及」「占領軍が憲法を起草したことに対する批判」など三十項目もの掲載発行禁止対象を定めた検閲指針を定め、厳しくメディアを取り締まった。国民は検閲を受けていることすら知らされなかった。
検閲は発禁・発行停止を恐れる側の自主規制へとつながっていく。原爆投下への批判や占領政策への注文を掲載していた朝日新聞は、二十年九月十八日に二日間の発行停止を命じられた。
民間のシンクタンク、日本政策研究センター所長の伊藤哲夫によると、朝日は二十二日付の社説では、それまでの報道姿勢を一変させ、「今や我軍閥の非違、天日を蔽(おお)ふに足らず。(中略)軍国主義の絶滅は、同時に民主主義化の途である」と書くようになった。
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明星大教授の高橋史朗は、GHQのプログラムの目的について「東京裁判が倫理的に正当であることを示すとともに、侵略戦争を行った日本国民の責任を明確にし、戦争贖罪(しよくざい)意識を植えつけることであり、いわば日本人への『マインドコントロール計画』だった」と指摘する。
むろん、GHQによる「罪の意識」の刷り込みがいかに巧妙であっても、二十七年四月の独立回復以降は日本人自らの責任であり、他国のせいにはできないという意見もある。
「だました米国とだまされた日本のどっちが悪いか、という話。だいたい、歴史観の問題で、だまされたという言い分が通用するのか」
現代史家の秦郁彦は、占領政策を過大視することに疑問を示す。
一方、ジャーナリストの櫻井よしこは、日本人が戦後、自らの責任で東京裁判史観を軌道修正できなかったことを反省しつつ、こう語る。
「二度と他国の謀略に敗北し、二度と自国の歴史、文化、文明、価値観、立場を理由なく否定されたり、曲げられたりすることのないように、しっかりと歴史を見ていくことがこれからの課題だと思う」(敬称略)
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≪GHQの検閲指針(検閲対象となった主な事例)≫
・連合国軍総司令官(司令部)に対する批判
・極東国際軍事裁判(東京裁判)批判
・GHQが憲法を起草したことへの批判
・検閲制度への直接・間接の言及
・米、ソ、英、中国に対する批判
・朝鮮人に対する直接・間接の一切の批判
・他の連合国に対する批判
・連合国の戦前の政策に対する批判
・ソ連対西側諸国の「冷戦」に関する言及
・戦争擁護、軍国主義、ナショナリズムの宣伝
・神国日本、大東亜共栄圏の宣伝
・戦争犯罪人の一切の正当化および擁護
・占領軍兵士と日本女性との交渉
・占領軍軍隊に対する批判