「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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第三十五話~第四十五話
本作品は、
「るろうに剣心小説(連載2)設定」
をご覧になってからお読みいただくことをおすすめいたします。面倒とは思いますが、オリジナル要素が強いので、キャラ人間関係・年齢等目を通していただきますと話が分かりやすくなります。
『剣と心』目次
『剣と心』
第三十五話「小さな命の灯火」
「なご…み……」
剣路はぼうぜんと立ちつくした。間もなく道場へ現れたのは、学校帰りの心弥だった。剣心と薫が遅くまで帰らないことを偶然父から聞いて知っていたので、和の様子を見に寄ったのだ。
「……和?」
心弥は、なんだか夢を見ているようにふらふらと、和の方へゆっくり歩いていく。だが、和のそばまで行き、和がかすかに息をしているのに気付くと、とたんにはっとなった。
「和、和っ! だいじょうぶ!? どうしたの!? 剣路兄ちゃん、和は……!!」
心弥は剣路の手に握られた竹刀を見ると、息が詰まるほどの衝撃を覚えた。だが心弥にとって今は、和が第一だった。
「病院行こう和。おれがおぶってあげるから!」
心弥は意識のない和を背負うと、全速力で病院へかけていった。
剣路は独り、その場に立ちつくしていた。
小国診療所のベッドに、和は横になっていた。意識不明。顔は蒼白である。
「恵さんっ! 和は、和はだいじょうぶなのっ!?」
小国先生が必死に治療を施す横で、心弥は恵にあわてて聞いた。
「……病気がね、とってもひどくなってるの。これだけひどかったらいつも苦しかったはずよ。なぜもっと早く連れてこなかったのっ!?」
恵の叱咤に心弥はびくっとする。
「でも……和はずっと元気そうだったんです!」
「元気!? こんな体で、そんなはずないでしょ!!」
恵は思わず大声で怒鳴ったが……それで我を取り戻したようだ。
「……ごめんなさい心弥くん。あなたにこんなこと言っても仕方なかったわね。それより早く剣さんたちに知らせないと!」
「剣心さんたちは今日遠くへ出稽古に行ってるんです!」
「そんな……! ねえっ、いつ戻ってくるのっ!? 何時に戻ってくるのっ!?」
その時診療所へ駆けつけてきたのは、央太だった。
「そんなに……そんなに悪いんですか!? 和くん……!」
央太は息を切らせながら恵に聞いた。
「……非常に危険な状態よ。今夜が峠だわ……」
「央太さんっ」
心弥は、思わず央太にしがみつく。
「和はそんなに病気がひどいのっ!? ねぇ央太さん……和は、和は……死ん…じゃうの……?」
心弥は震えながら、絞り出すように声を出した。央太は心弥を優しく抱きしめ、その背中をそっとさすり続けた。
「心弥くん、落ち着いて。和くんは今、病気と闘っているんだよ。今日の夜、和くんが病気に勝つことが出来たら、そうしたらだいじょうぶだよ」
「じゃあ……病気に…勝てなかったら?」
おそるおそる聞いた心弥だが、央太はそれには答えなかった。
「いいかい心弥くん。今由太郎さんに知らせてきたから、じきに他の門下生が剣心さんたちや弥彦さんを連れてきてくれるよ。それまで僕と待っていられるね。和くんを見守っていてあげられるね」
心弥はうなずくと、央太から離れ、和のそばへ行った。そして、そっと和の手を両手で握る。和は、かすかに息をしていた。顔面蒼白で、目の下が少し黒くなっている。
「がんばれ和……がんばれ和……!」
心弥は一心に願いを込めてささやき続けた。
どのくらい時がたったのだろう。心弥にとって、それは永遠とも思える長い時間だった。
「和っ!!」
診療所へ飛び込んできたのは、弥彦だった。
「恵っ! 和の具合はっ!?」
恵は先程央太にした説明と同じことを話した。弥彦は愕然とした。
「剣さんたちは?」
「今由太郎が迎えに行ってる。けど、恐らく到着は早くて夕方だろう……」
「そんな……!」
その時だった。和は、ふいに意識を取り戻した。
「和くんっ! 具合はどう? 痛いところは? 苦しいところは?」
恵は急いで診察を始めた。和は赤いうつろな目で辺りを見回し、落ち込んだ表情を見せたが、自分の手を握ってくれている心弥を見つめる。
「和……起きてくれたんだね……」
心弥は、涙声で笑う。和は微笑してうなずくと、小国先生に目を向けた。
「先生、お願いします。心弥と……二人きりにしてください。大事な……話が……あるんです……」
「ダメじゃよ和くん。今はワシらがキミから目を離すわけにはいかんのじゃ」
「だいじょぶ……です。お願い……しま…す」
和は息づかいを荒くしながらも、懇願した目で先生を見つめた。
「……分かった。ただし、少しの間だけじゃよ。みんな、外へ出てくれ」
先生の指示に従い、皆は診療所の外へ出た。弥彦は、出る間際に心弥に言った。
「和の言うこと、しっかり聞いてやるんだぞ。いいな」
「はい」
そうして最後に弥彦が出ていくと、診療所の中はとたんにしんとした。
「心弥……。ぼく、心弥に……あやまらないと……いけない…ことが…ある……」
第三十六話「あの日流した涙の意味」
「なあに?」
心弥は和の手を両手で包んだまま、泣きそうな表情でたずねる。
「三年前……兄ちゃんと心弥が…勝負した…とき……ぼくが二人を止めたのは……心弥じゃなくて……兄ちゃんを助けるためだったんだ……」
「どういう……意味?」
心弥は、和を真剣に見つめる。
「あのとき……本当は……勝っていたのは心弥だよ……」
心弥は、目を見開いた。
「本当だよ……。心弥の刃渡りは……成功してた……。なのにぼくは……兄ちゃんを怪我させたくなくて……。兄ちゃんが負けるのがくやしくて……。兄ちゃん、弥彦さんの跡を……本当に継ぎたがっていたから……」
「和……」
「でも……あの勝負は……、心弥にとってもすごく大事な……戦いだったんだよね……」
和は、苦しげに息を吐いた。
「ぼくが止めなければ……心弥が勝っていれば……、心弥は弥彦さんに……認めてもらえたのに……。たとえあの時……勝負が正式に認められなくても……心弥は自信がついて……もっともっと強くなることが……出来たのに……」
「和……おれはそんなこと、もうどうでも……」
「ぼくね……分かってたんだ……。兄ちゃんは……ぼくのせいで……心がぼろぼろだったから……、あの時心弥が勝ってたら……きっともう……立ち直ることなんて出来なかったよ……。だから心弥が……弥彦さんの跡を継げたはずなんだ……。なのに……ごめんね。ごめんね……」
和の目から、涙があふれた。
「でもぼくは……兄ちゃんが一番大好きなんだ……。父さんよりも……母さんよりも……だれよりも……」
和は目をぎゅっとつむり、肩を震わせる。
「ごめんなさい……父さん、母さん……。ごめんね、心弥……。死んでいくのは……きっとその罰なんだね……」
「そんなこと……。和は死なないよ……」
心弥は泣くのを必死でこらえて、和の手をぎゅっとにぎった。
「ああ……兄ちゃん……きてくれないかなぁ……。一度でいいから……兄ちゃんに抱きしめてもらいたかったなぁ……」
和の声は、さらに弱々しくなっていく。
「ぼくね……幸せだったよ……。だって……一番大好きな……兄ちゃんの弟として……生まれてきたんだもん……」
和の目は、再び閉じかけている。
「大好きだよ……兄ちゃん……」
ほとんど聞き取れないくらい小さい、和の声。けれど心弥は、決して聞き漏らさなかった。
「和。待ってて。おれが剣路兄ちゃんを連れてきてあげる。絶対に連れてきてあげるから。だから待っててね。絶対待っててね」
心弥は必死で和の手を握り伝えると、和から離れ木戸へ手をかけた。
「心弥……」
和の弱々しい声に、心弥はふりむいた。
「心弥……ありがとう」
和は、穏やかに笑っていた。心弥は優しく笑い返すと、木戸を開け、そして閉めた。
心弥が外へ出るのと同時に、先生と恵は診療所の中へ駆け込んでいった。続いて入ろうとする央太を引き止めたのは、心弥だった。
「央太さん! 剣路兄ちゃんと会いませんでしたかっ!?」
「……それが、道場に立ちつくしたままなんだ。和は病院へ行ったって……ぼそりと言って……。だけどどうしても一緒に行こうとしてくれないから、置いてきてしまったんだ……」
「剣路……」
弥彦はうめき声をもらした。が、ふと気付くと、心弥は弥彦を真剣に見上げていた。
「何だ心弥」
「父上。おれに……おれに逆刃刀を貸してくださいっ!!」
「何だって?」
こんなときにあまりに突拍子な事を言われ、弥彦は混乱した。
「おれが剣路兄ちゃんを連れてきます。逆刃刀は、人を助けるための剣なんでしょう?」
心弥はあまりに真剣だった。弥彦はうなずくと、逆刃刀を心弥に渡す。
心弥は受け取るなり、街へかけていった。
「和はずっと……ずっと我慢してたんだ……! 病気も……剣路兄ちゃんに甘えたかったことも……!!」
心弥が走る後ろ姿からは、涙が飛び散っていった。
第三十七話「真夏の空」
心弥が道場に戻ったときには、もう剣路はいなかった。心弥は迷いなく河原へ向かった。それはただの直感だった。けれど、剣路はそこにいた。川面を見つめ、独り立ちつくしていた。
「剣路兄ちゃん!」
心弥はかけよった。剣路は川の流れを見つめたまま、無言だった。
「病院へ行こう! 和が待ってるよっ!」
剣路はうつむいたまま、無反応だった。心弥は思わず剣路の腕をゆさぶる。
「和は死んじゃうかもしれないんだよぉっ!!」
心弥は涙をにじませて、思い切り叫んだ。それでもなお無言の剣路。
心弥は意を決すると、鞘から逆刃刀を抜き、剣を振りかざす。
「剣路兄ちゃん!」
心弥は、剣を振るった。ザク……と衣と皮膚が裂かれる音がする。
剣路は、初めて心弥を見た。血が吹き出ているのは、心弥の左腕だった。血は左手に流れ真っ赤に染まり、爪の先からぼたぼたと流れ落ちる。心弥は剣路をにらみ据え、また剣を振りかざす。今度は、自分の心臓へ向けて。
「剣路兄ちゃん……。おれのこと殺したいんでしょ? だったら和のところへ行ってあげて。じゃないとおれ、おれ自分で死ぬから」
剣路はギリ…と歯を食いしばる。心弥を睨む。だが、動こうとはしない。
「それが……剣路兄ちゃんの答えなんだね……」
心弥は逆刃刀の柄をぎゅっと握り、高々と振り上げた。真夏の空を見上げる。雲一つない、青い空にぎらぎらした太陽。心弥はその光景に、何故か命の尊さを感じた。
「だけどおれ信じてる。おれが死んだら、おれの命とひきかえに、きっと剣路兄ちゃんは和のところへ行ってくれるって。おれは信じてるから……!!」
心弥は大きく息を吸う。
「ごめんね和……! ごめんなさい父上母上っ!!」
心弥は剣を振りかざし真っ直ぐ心臓に――
「……!!」
心弥は、剣を持つ腕をつかまれていた。剣路は心弥の細い腕を締め付ける。心弥の手は力が入らなくなり、剣は落とされた。あっと思ったときには、剣路の強烈な拳を頬にくらい倒れる。さらに襟首をつかまれ、反対の頬を思い切りぶたれる。
「お前は俺が殺すって言っただろっ! 勝手に死のうとしてんじゃねーよ!!」
剣路は、腹の底から怒鳴った。
「だ…ったら……、和の……とこ……、行って……くれる…ね……」
心弥は腕と頬の痛みで気を失いそうになりながら、必死で言った。
剣路は心弥を睨み付け、ぎゅっと拳を握ると、かけだした。病院の方角だ。
「剣路兄ちゃん!」
心弥は、ふらふらと立ち上がると、急いで後を追いかけた。
第三十八話「少年の生きる場所」
二人が診療所へ着いたとき、和は昏睡状態だった。神谷道場の門下生たちが、次々と集まっていた。剣心と薫、由太郎はまだ到着していない。
「父上っ! 和はっ!?」
「……眠ってる。お前が和と話し終わってからずっと……。心弥、その腕……」
弥彦は、心弥の腕の傷に気付く。
「心弥!」
「母上……」
いつの間に来ていたのだろう。母の燕が駆け寄ってきた。燕はあわてて、心弥の腕を手当し始める。
「父上……。逆刃刀、ありがとうございました……」
心弥は弥彦に返そうとして、はっとする。刃についた血を落とすのを忘れてしまった。けれどそれを説明することや血を拭く気力も心弥には残っておらず、そのまま弥彦に渡した。弥彦は、鞘から刀を抜き血を見ても、何も言わず、黙って血を拭いた。
剣路は、門下生に囲まれた和を、離れたところから壁に寄りかかって見ていた。怒りと憎しみを押し殺したような表情で。心弥は手当をしてもらうと、和のそばへ行き、また和の手をにぎった。
「和……。剣路兄ちゃん、来てくれたよ……。近くに、いるよ……。目が覚めたら……抱っこしてもらおうね……」
心弥は、小さな小さな声で、ささやいた。
けれど和は、それから一度も目を覚まさなかった。両親が間に合うことはかなわず……。
午後七時三十一分。和は息を引き取った。
数日後。和の葬儀も終えた神谷家は、静かだった。ただ、音が響いている。
カン、コン、カン……。それは剣玉の音。
和の自室だった部屋で、心弥は独りそこにいた。和が寝ていた白いふとんの上に座り、和の緑色の着物に身を包み、微笑して剣玉をする。それはかつて、幼い和が病床でしていた行いそのものだった。
すっ……と障子を開ける音がする。
「……心弥」
弥彦は、息子の様子が明らかにおかしいのに気がついた。
「何……やってるんだ……」
かすれ声を漏らす弥彦。
「あ……弥彦さん」
「心弥……どうしたんだ心弥」
弥彦は、心弥の肩をゆさぶった。
「……ぼくは和です。心弥は……三日前に死にました」
カン、コン、カン……と、心弥は微笑しながら剣玉を続ける。弥彦は、息子の両手首をつかんだ。
「しっかりしろっ! お前は心弥だっ! 和は……死ん――」
「じゃましないでよっ! おれは和になるんだ! 和の代わりに和になって生きるんだっ!!」
「ばかっ!」
弥彦は心弥の頬をおもいきりひっぱたいた。パアンという音が驚くほど大きく響き、心弥の頬は真っ赤に腫れ上がる。
「お前は和じゃない。心弥だ」
弥彦は心弥の両肩に手を置き、その目をまっすぐに見つめた。心弥は目をそらす。
「それなら……和は? 和はどうすればいいの? どこで生きていけばいいの? 和は……剣路兄ちゃんが大好きで……いっぱい甘えたくて……。どうすればいいの? どうすれば、いいのかなぁ……」
伏し目がちに、心弥はつぶやく。弥彦は、そっと心弥の胸に手を当てた。
「和はここで……お前の胸の中で……一緒に生きていける……」
「一緒に? 和はここで、おれと一緒に生きていけるの?」
心弥は、胸にそっと手を当てた。
「ああ、そうだ。言っている意味、分かるな」
心弥はこくんとうなずくと、ぶたれた頬にそっと手を当てた。
「心弥。俺をちゃんと見ろ。俺はだれだ? 弥彦さん、か?」
心弥は、弥彦にまっすぐ目を向けた。
「……父上。父上……父上……!!」
心弥は、目に涙をためて肩を震わせた。
「ごめんなさい……。それから……ありがとうございますっ……」
「心弥?」
「和が……教えて……くれたんです……。ちっ、父上がっ……、おれをぶつのは……、おっ……おれを大切に思ってくれて……いるからだって……。うっ……だか…ら……うっく……うっ…ひっ…く……、和……」
心弥は、涙で声がつまって、それ以上何も言うことが出来なかった。肩を激しくふるわせ、嗚咽した。涙があとからあとから、頬を伝った。涙と鼻水で顔中ぐしゃぐしゃになり、目は真っ赤に腫れ、ひどい顔だった。弥彦は何も言わずに、息子を抱きしめた。
第三十九話「剣路への疑惑」
神谷家の倉の横に建てられた小さな石の墓。その前にそっとしゃがんでいたのは、剣心だった。薫はというと、葬儀が終わってから床に伏している。日頃の心労に今回のことで、限界に達したのだろう。
「剣心さん……泣いてるの?」
そっと隣りに立ち声をかけたのは、心弥だった。
「いや……。ああ……そのようでござるな……」
剣心は、言われて初めて自分が泣いていることに気がついたようだった。
「いかに人を守る剣をふるおうとも……病気の息子を救うことは……できなかったでござるよ……」
剣心は、静かに微笑んだ。
心弥は、そっと剣心の手を取り、自分の胸に当てた。
「剣心さん。和はね、ここにいるよ」
「心弥……」
「おれ、和と一緒に生きていきます。だから泣かないで」
剣心はしゃがんだまま、心弥を抱きしめた。
「ありがとうでござるよ。心弥……」
心弥は、剣心を抱きしめるように、そっと剣心の肩に手をまわした。
「前にね、和が言ってました。父さんがどんなに重い罪を背負っていても、父さんのこと怒ってないって。なのに父さんが辛そうだから、自分も辛いって。だから剣心さん。もう自分のこと許してあげてね。和がね、そう言ってるよ」
「……ありがとうでござるよ、心弥。和……」
心弥の手に、剣心の肩が微かに震えているのが伝わってきた。心弥は、和の代わりに、剣心を優しく抱きしめた。
しばらくして、剣心は言った。
「心弥。これから道場の、和の札をはずす故、その時一緒にいてくれぬか?」
「はい」
心弥は、微笑してうなずいた。
その頃、稽古を休みにした神谷道場では、弥彦、由太郎、央太の三人がひっそりと話していた。
「俺だってこんなこと考えたくないよ。けど……恵さんは和に首を絞められた跡があったって言っていたし……それに見たんだろ、央太」
由太郎が、苦渋に満ちた表情で央太にたずねる。
「……確かに、剣路くんは……道場で竹刀を握っていました……。和くんと剣を合わせたのかもしれません……。けどだからって剣路くんに殺意があったなんていくらなんでも……!!」
「だけど現に首を絞められた跡があるんだ。恵さんも、和があの状態に至ったのは、ほぼ間違いなく激しく体を動かしたせいだと言っている。それに……今の剣路は相当性格が歪んでしまっている。やっぱりあいつが――」
「もうやめろ由太郎っ! こんな話、万が一剣心や薫の耳に入ったらどうするんだ」
弥彦は由太郎を睨み付けた。
「それに、俺は信じてる。剣路はそんなことするやつじゃねぇ。親の愛情取られた気がして和をうとましく思っていたのは事実だが、けど剣路は絶対そんなことするやつじゃねぇんだ!」
弥彦は必死で由太郎に語る。
「何を根拠に言っているんだ。理屈は合ってるはずだ」
「うるせぇっ!!」
弥彦は、由太郎の襟首をつかむ。その目は、怒りと悲しみに満ちている。
「理屈とか根拠とか、そんなことは関係ねぇ! 剣路は俺の弟だ! だから信じるんだっ!」
「ありがとうでござるよ。弥彦」
その時道場に入ってきたのは、心弥の手を握った剣心だった。
「済まぬ由太郎殿。拙者も、剣路を信じるでござる。剣路の父故に」
剣心は心弥をひきつれたまま、うつむいている由太郎の横を通り過ぎ、門下生の札の前へ立った。
剣心は、和の札をしばらく見つめていたが、やがてそっとはずした。心弥は、剣心の手をぎゅっと握った。そして皆で黙祷をささげると、剣心は心弥に礼を言い去っていった。
心弥はあわてて剣心の後を追おうとしたが、由太郎にひきとめられた。
「心弥。和が道場で倒れているのを見つけたのはお前だろ。剣路はいたのか? どんな様子だったんだ」
由太郎の厳しい問いに、心弥の胸はバクバクしていた。額から異常なまでに汗が流れ落ちる。正直、心弥は剣路を疑っていた。あの時、剣路は竹刀をあまりにも強く握りしめていた。心弥は幼くとも剣士。あの異常なまでに力をこめた握り方を見て、剣路が尋常ではない感情で剣を振るったことを、心弥はあの時肌で感じ衝撃を覚えたのだ。けれど、その事実を明かすことを懸命に止めていたのは、胸の中に生きている兄が大好きな和だった。しかも、父も剣心も、剣路を信じていると言っている。
「剣路兄ちゃんは、いませんでした……」
心弥は、渇いた声で答えた。その時、由太郎から目線をそらしていた心弥を見て、弥彦はすぐにそれが嘘だと見抜いた。だが、何も言わなかった。
「本当にいなかったのか? だっておかしいじゃないか! もう三年も道場に足を踏み入れなかった剣路が、和が倒れた後にここで自主稽古してたっていうのかっ? しかもあいつは和が病院へ行ったことを知ってたんだ。あの時それを知っていたのは、心弥、お前だけだろ。しかも央太がいくら催促しても病院へ行かなかったっていうのは、どう考えても……!」
「おれ、そんな難しいこと分かりませんっ! だけど剣路兄ちゃんは和を殺してないです絶対!」
心弥はそう言い捨てて、かけていった。
第四十話「一生許さない」
気がついたら、心弥は和の墓の前にいた。しかし、先客があった。剣路だった。日が沈みかけていて、剣路の表情をうかがうことは出来ない。心弥は、剣路の前に立った。
「剣路兄ちゃん……」
心弥は、そのまま押し黙った。だが、続きがどうしても聞けなかった。
「和は、俺が殺した」
剣路の声は、心弥にはあまりにも遠く感じられた。
「それが聞きたかったんだろ。俺は和を殺す気で剣を叩き込んだ。病気がひどくなって死ぬことも計算済みだ。なのにあいつは、眠るように楽に死んでいきやがって。あんなヤツ、もっともっと苦しんで死ねばよかったんだっ!」
剣路は和の墓を蹴った。何度も、何度も……。
「やめろっ!!」
心弥は墓の前に立った。
「邪魔だ」
剣路は間に入った心弥を蹴り飛ばし、また墓を蹴り続けた。
心弥は腹を押さえて立ち上がると、剣路をにらみ据えた。
「おれはお前を一生許さない」
低く押し殺した声で、心弥は言った。剣路は足を止めて、心弥を睨む。
「だけど、みんなには内緒にしてやる。和が、そーしろって言ってるから」
「……和、和ってうるせーんだよ!!」
剣路は心弥を殴り飛ばした。倒れる心弥にさらにおおいかぶさり、心弥の体を一方的に殴りつけ、今度は立ち上がり蹴りつける。
「もう……東京には用がない……」
心弥は剣路の声を聞きながら、意識を失った。
目の前にあるのは、長い長い階段。見上げた先には、今より小さな剣路と自分。仲良く腰掛け、おやつを食べている。
注意されてばかりの稽古に泣く自分を、ぶっきらぼうながら慰めていたのは、剣路――
遠い昔の夢を見た。
翌朝心弥が目を覚ましたときには、剣路は既に神谷家から姿を消していた。
「……い、痛っ……」
意識を戻した心弥をまず襲ったのは、剣路に殴られた体の痛みだった。白い布団に寝かされていた。開いた障子の向こうに、縁側と庭が見える。すぐにこの場所が神谷家だと分かった。
心弥は起きあがり身支度を整えると、外へ出た。和の墓へ行くと、そこにいたのは父だった。
「父上……。あ……おはようございます……」
心弥は、思い出したように挨拶をした。
「ああ……。体は大丈夫か?」
「はい……。あの、昨日はおれがたおれちゃったから、ここに泊まらせてもらったんでしょ? 父上も一緒にいてくれたんですね」
「ああ」
だが弥彦は、それ以上何も聞かなかった。誰にやられたのか、とか、どこで怪我したんだ、等。
弥彦は、和の墓に水をかけていた。
「父上。何してるんですか?」
心弥は、不思議そうに父の行動をながめた。
「和に水をあげてるんだ。病気すると、のど渇くだろ。けどアイツは三年間も病気隠してたから、オレは稽古中水を飲むことを許してやらなかった。あの我慢強い和が、稽古中に水が飲みたいと、俺に頼んできたことが何度かあった。よっぽど苦しかったんだろうな。だが和だけ特別扱いするわけにはいかなかったから、俺は我慢しろって言ったんだ。知ってりゃあ、いくらでも飲ませてやったのによ。……和、上手いか? 気づいてやれなくて悪かったな……」
弥彦は、何度も何度も、和の墓に水をかける。
「父上。和は、なんで病気のこと隠していたのかなぁ……」
「……分かんねぇ。俺は、アイツのこと何も分かってやれねぇまま……」
弥彦は、ひどく辛そうだった。目が充血している。心弥は父の肩に手をのばそうとしたが、一瞬頭をよぎる。子供が父親の心配するなんて生意気だぞ、と言った父の言葉。
心弥の手は、中途半端に空で止まる。けれどその手を弥彦は半ば強引にひきよせ、そしてそのまま心弥は父に抱きしめられた。
「剣路が俺の弟なら、剣路の弟の和もまた、俺の弟だったんだ……」
「父上……」
弥彦は、心弥を強く抱きしめた。心弥は痛くて、それが父の心の痛みなのだと理解した。心弥はそっと、父の背中に腕をまわした。
第四十一話「京都へ……」
和の墓参りが済むと、弥彦はこのまま帰ると言い出した。帰りがてら、心弥は父から事情を聞いた。剣路が今日の朝姿を消していたこと。薫は傷心のあまり病状が悪化し、今はとても人と会える状態ではないということ。剣心は必死に薫の看病にあたっているということ。
「お前、剣路がどこへ行ったか分かるか?」
「……剣心さんの、お師匠様のところだと思います」
結局消息をつかんだのは十日後。葵屋の、操からの手紙だった。剣路は歩いて京都へおもむき葵屋をたずね、比古清十郎の元へ修業へ行くからとすみかを尋ねている、という連絡だった。
「剣路がそうしたいというのなら、拙者はそれでいいでござるよ」
剣心は、そう言った。
「そうだな……」
弥彦も、同意見だった。
二人が神谷家でそんな話をしているとき、心弥は自宅で身支度を整えていた。
支度を終えると、心弥は炊事場で家事をしている燕の後ろ姿をながめた。大好きな優しい母は、いつもこうして、おいしいご飯を作ってくれる。
「母上……。今までありがとうございました」
心弥は小さな声でつぶやくと、家をあとにした。
神谷道場へ行く道のりで、心弥は河原の土手を歩いた。和と遊んだ思い出が、心弥にはまだ痛い。ふと、心弥は思い出し、いつも和と遊んだ近くの、河原に立つ大きな木の下へ足を向ける。この木の元に、いつか二人は宝物を埋めた。大きくなったら一緒に掘り出そうねと約束した。けれどもう、和が大きくなることはない。心弥の胸に生きる和は、いつまでも七つのまま。
心弥は土を掘りはじめた。少しずつ丁寧に。和の最期の忘れ物を探すように。やがて手応えを感じる。宝物が包まれた赤いふろしき。それは土まみれで、色あせていた。そっと取り出し、結び目をほどく。中身は分かっている。心弥のはビー玉。和のは剣路が使い古して捨てた筆。けれど風呂敷を開けたとき、初めに出てきたのは古い記録帳だった。心弥は初めの数枚をぱらぱらめくり、そしてあわててばっと閉じた。それは和の日記帳だった。
心弥はそのまま長いこと考えたあげく、日記帳を含め宝物全部を取り出すと、再び土を埋め川で手を洗った。
弥彦が神谷家を出ると、門で待っていたのは心弥だった。風呂敷包みといつもの竹刀を背負い、父をじっと待っていたようだ。
「心弥……」
「父上。おれ、剣路兄ちゃんのところへ行きます。剣路兄ちゃんと一緒に、剣心さんのお師匠様の元で修業します」
心弥は、目にたまった涙を落とさないようにするのに必死だった。
「和が、剣路兄ちゃんのそばにいたいっていうから、そうします」
弥彦は、だまって息子の言葉を聞いていた。
「母上には、黙って出てきました。何か言ったらおれ、きっと母上に甘えてしまうと思ったから……。けど和はもう薫さんに甘えることが出来ないから……」
心弥は涙をこぼすまいと、懸命にくちびるをかむ。
「けどおれ……本当は……、父上に剣をならいたかったです……!」
とうとう心弥はこらえきれなくなり、涙をこぼした。
「……お前の足じゃ京都までは無理だ」
「父上……」
「船で行け。船着き場まで送っていってやる」
弥彦と心弥はその足で港へ行き、言葉少なく、別れた。
第四十二話「比古清十郎」
「京都の山は涼しいんだね。ねぇ剣路兄ちゃん」
昼過ぎ、比古清十郎の住居に向かいながら、心弥は剣路に笑った。
「……お前のせいで行くのが遅れたんだぞ。葵屋のじじぃのヤツ、東京へ連絡がとれるまでは比古の居場所を教えてくれねーし、連絡がとれたらとれたで今度はお前が来るからそれまで教えねーって言うし……」
「あっほら! 谷に流れる水もきれいだね」
心弥は不機嫌な剣路にはおかまいなく、初めての土地に興味津々ではしゃいでいる。
「お前、なんでそんなに笑ってるんだ……」
「えっ?」
「お前は俺を許さないんじゃなかったのか?」
心弥は、急に笑顔をといて剣路をにらんだ。
「……そうだよ。おれはお前を許さない。けど和が、お前と仲良くしろって、そう言ってる」
心弥はくるりと背を向けると、またいろいろな景色を見てはしゃぎだした。今の言葉は存在しなかったように……。
「ねぇ剣路兄ちゃん! あの赤い実、食べられるのかなぁ」
「バカ弟子の息子に、バカ弟子が逆刃刀を譲ったガキの息子か」
家に入ってきた二人を見るなり、比古は言った。
「何故分かった……」
「ふっ、俺は天才だからな。顔みりゃあそれくらいのことは分かる」
剣路の問いに、比古はしゃくしゃくと答えた。
「バカ弟子って剣心さんのこと? おじさん、やな人だね」
「そうか? 俺は本当のことを言ったまでだが」
心弥にとって、にやにや笑う比古の初印象は最悪だった。
「親父の事はどうでもいい。それより俺に飛天御剣流を継承させろ」
「おっ、おれもっ!」
ぶしつけに言う剣路に続いて、心弥もあわてて頼んだ。
「ふん。まぁあのバカ弟子が継承しなかった以上、他のヤツに継承させることは問題ないがな。だが継承できるのは一人だけだぞ」
「俺に継承させろ。俺はもう九頭龍閃をやってのけるぐらいの腕はある。けどこいつは龍槌閃さえ出来やしねぇ」
比古は、剣路をじろじろながめた。
「ほう。剣才ありというわけだ。だがな、飛天御剣流の継承者ってのは才能で選んでるわけじゃねーんだよ。お前、継承したい理由は何だ」
「……理由などどうでもいいだろ」
剣路は不機嫌そうに比古から目をそらす。
「そっちのチビは?」
「チビじゃない! 心弥だよっ! りっ理由なんてどーでもいいだろっ!」
心弥もついあせって、剣路の返事にならった。
「それじゃあ困るんだよ。飛天御剣流はこれでも時代時代の苦難から人を守る剣。確固たる信念もねーヤツに教える気はない。帰れ」
比古は冷たく言い放った。
「……ざけてんじゃねーぜ! 親父みてーにぐだぐだ理屈こねやがって! さっさと心弥を帰して俺に飛天を教えればいいんだよ!」
「待ってよ! おれは剣路兄ちゃんとはなれるわけにはいかないんだ!」
キレる剣路に、必死の心弥。比古はそんな二人を考え深げにながめていたが……。
「帰る気がねーなら仕方ない。だが俺はお前らの面倒は一切見る気はねぇし、俺が納得しないかぎりお前らに剣を教えるつもりもない。自給自足の生活が出来るのか? 坊ちゃんたち」
比古はおもしろそうに笑う。
「……必ず認めさせてやる」
剣路はつぶやくと、外へ出ていった。
「おれだって!」
心弥も剣路を追いかける。
「おい! 毒きのこには気をつけろよ!!」
比古は二人に怒鳴った。
「ねぇ剣路兄ちゃん、これからどう――」
「気安く話しかけるな。さっさと帰れ」
どこかへ去っていく剣路に、心弥は途方に暮れた。
第四十三話「生き抜くために」
そして、二人の自給自足生活が始まった。
初め、心弥は何をどうしていいか全く分からず、けれど比古の家にも入れてもらえないままこの山で生き抜かなければならない現実だけを、ただ受け入れていた。やがて日も沈み腹が減り、初めて食料を調達しなければならないことに気付いた。夏といっても、夜は少し冷える。町の灯りはないが、月明かりが東京よりも強い気がした。瞬く星の綺麗さは、東京の比ではない。こぼれるようないっぱいのきらめく光に、心弥は息を呑んだまま、目を奪われた。
何か食べ物を探そうと、心弥は辺りを歩いた。途中、崖下の川沿いに剣路を見つけた。たき火のそばで、魚を焼いている。煙とともに、食欲をそそるいい匂いがする。さらには、旅の道中で買ったと思われる饅頭の箱までが横にある。心弥は、ごくんとツバを飲んだ。だが、ここから崖下まで、家の二階から地面くらいの距離はある。心弥にはとても降りられる距離ではない。どこかから下へ降りる道があるのかもしれないが、恐らくずっと遠くなのだろう。剣路は自力で降りたのかもしれない。
心弥は、思わずため息をもらした。例え剣路のところへたどり着いたとしても、自分に食べ物を分けてもらえるとはとても思えない。
やがて心弥は、そこからはなれた。心弥は、火をつける道具さえ持ってはいない。
ここへ来る途中に見かけた赤い実をとってくればよかった。心弥は太陽をたっぷり浴びた、赤い小さな実を思い出した。けれど、あそこまではもう遠い。これから行ける距離ではない。
心弥は木々の中へ入っていったが、木の実や食べられそうなものは見つからなかった。どこかの木の下にきのこが生えていたが、見るからにまがまがしい模様だったので、毒きのこかもしれないと思い手をつけなかった。しんとした暗闇で、たまにざわめきがするたびに、心弥はびくっとする。無理もない。いくら日々の稽古で鍛えてきたといっても、まだ七つの子供なのである。それも、大人がいない独りぼっちの夜は初めてだ。
「和、寝ようか……」
心弥は、胸の中の和につぶやいた。返ってこない返事に胸を痛ませながら、心弥は木の下にうずくまるようにしてねむった。
翌日は猛暑だった。心弥はいつもの習慣で、まだ暗いうちから目を覚ました。いつもと違う冴えた空気。固い地面。何故こんなところにいるのか思い出すまで、少し時間がかかった。心弥は目をこすり起きあがる。
「……のど、かわいた」
少しかすれた声でつぶやくと、水を求め歩き出す。昨日の朝葵屋を出て以来、全く水分を口にしていない。
心弥は辺りを散策したが、わき水もなければ川も見あたらなかった。心弥の足は、昨日剣路を見た崖へと向かう。
昨日と同じ河原で、剣路は顔を洗っていた。そばに木の枝が石に固定され、糸が川面に垂れ下がっている。魚を釣っているのだろう。なるほど、剣路は京都まで歩いてきた。旅の道中に備えて、いろいろ準備をしてきたにちがいない。けれど、心弥にそんな準備があるはずもなかった。
朝日がのぼる中、心弥は崖沿いに川下へ向かって歩く。河原へ降りるために。だが、それほど歩かないうちに、道は途切れた。木が密集し、崖になっている。今度は川上に向かう。けれど今度は、どんどん河原から高く上がっていくばかりだった。先が見えず、心弥は引き返す。
心弥は、比古の家の前をこっそり木の陰からうかがう。中には、水をためた壺があるはずだ。けれど比古にその水を飲ませてもらえば、その時点で飛天御剣流は教えてもらえないだろう。こっそり飲んでしまおうか。一瞬頭によぎったその考えを、心弥は思い切り首を振ってはねのけた。父上の子供として、誇りを失ってはならない。そう思った。ようやく誇りの意味がはっきり分かってきた年頃でもある。
心弥は思い切って、赤い実のある場所まで歩いた。昨日の朝から何も口にしていない心弥にとって、半日がかりで猛暑の中を歩くのは過酷だった。ふらつく足でようやくたどりついた、赤い実がなる木。実は、太い木の高いところについている。心弥ははぁはぁと息を切らせながら、木を登り始めた。低いところには枝がない。固い木の皮はやわらかい心弥の手を傷つけた。痛む手でようやく上まで登った心弥は、なんとか赤い実をつかみとる。片方の手にいっぱいににぎりしめたそれは、けれどたった五粒だった。体力的にも限界だった心弥は、木を降りていく。片手で降りられないことに気付き、赤い実を口に放り込む。かみ砕いたら渋くて、食えたものではなかった。吐き出すと、心弥は涙をこらえながら木を降りる。途中、手をすべらせ、心弥は木から落ちた。したたかに肩を打ち、心弥はうめく。
心弥はしばらく肩を押さえうずくまっていたが、やがていつまでそうしていても仕方のないことを悟ると、よろよろと立ち上がり、肩を押さえながら元の場所へ歩き出した。
昨日入っていった木々の中へ入ろうとするところで、心弥はとうとう力尽きて倒れた。もう夕方だったが、夏の日は高い。仰向けのまま、真夏の太陽にさらされ、心弥の意識はもうろうとする。何とか立ち上がろうとしたが、そんな体力は残っていなかった。今日はこのままねむろう、と心弥は決めた。とたんに遠くなっていく意識の中で、心弥は思う。何故、こんなことになってしまったのだろう。そうだ……和が望んだから……。けれど自分は……。
心弥はそのまま、深い眠りに落ちた。
第四十四話「追いつめられて」
次に心弥が目を覚ましたときには、真夏の日ががんがんに降り注がれていた。はっと起きようとしたが、肩に激痛が走る。それでも再び試みたが、体に力が入らなかった。
体が異常にだるく、そして熱い。心弥の顔は真っ赤に染まり、前髪は汗で額に張り付いている。のどがからからだ。のどが痛くて、声を出せそうにもない。
死ぬかもしれない。初めて心弥は思った。不思議と、怖くはなかった。ただ、自分が死んだら胸の中に一緒に生きている和はどうなるのだろうと思った。兄と離ればなれになることは、和にとって悲しいに違いない。そう、自分が両親と離れたのがさみしくてたまらないのと同じように。
体の体温はどんどん上昇していく。体が熱い。なぜか額の汗が乾いていく。頭ががんがんする。動けない。心弥はその状態で、何時間もそうしていた。息が浅くなる。気が遠くなる。
うつらうつらと現実と夢をさまよっている間、剣路に抱かれて木陰に寝かされたのに、心弥は気付かなかった。
「……きろ。おい、起きろ」
何度か頬を叩かれ、心弥は半分目を開けた。意識がもうろうとする中で目に映ったのは、自分をのぞきこむ剣路だった。剣路は竹筒の水筒を、無理矢理心弥の口に当て、水を注ぎ込んだ。心弥は抵抗も出来ぬまま水を注がれ、それは気管に入りげほげほとむせた。
「……剣路……兄…ちゃん……」
心弥は、弱々しく剣路の名を呼んだ。
「東京へ帰れ」
開口一番、剣路が口にした言葉はそれだった。
「なんで……助けてくれたの?」
心弥は剣路の言葉には答えず、熱を持ったうるんだ目でたずねた。
「お前は俺が殺すからだ。何度も言わせるな」
剣路はそっけなく答えて立ち上がろうとしたが、心弥は動かない体で必死に剣路の袖をつかむ。
「どうして……和を殺したの?」
うわごとのように、けれど切ない顔で心弥は剣路を見つめる。
「おれの胸の中にいる和は……それでも、剣路兄ちゃんが大好きだって」
心弥は、辛そうに目を閉じ、また半分開ける。
「でもおれは、おれは和の一番の友達だもん。だから許さないって……決めたのに……」
心弥は剣路の袖を、ぎゅっとつかむ。目に涙を浮かべながら。
「ねぇ、どうして和を殺したの? おれ、どうすればいいの? 剣路兄ちゃんを、きらいにならなくちゃいけないの?」
心弥は追いつめられたように、肩を震わせ涙をぼろぼろこぼす。
「おれ、わかっ、わからないんだっ……。だっ、だっ…て、和の気持ちと、おっ、おれの気持ちは……同じ、なのに……、好き、なのにっ……絶対っ許しちゃいけなくって……」
「うるさい黙れ!」
剣路は心弥の頬を手加減無しに殴りつけた。混乱していた心弥は、はっと我に返る。
「俺は和のことなんか聞きたくねーんだ! 和、和とうるさいお前を見るのもいらつくんだよ! いーからお前は東京へ帰れ! そしてもう二度とここには来るな!!」
去っていく剣路。その背を、心弥は呆然とながめる。心弥の頭の中は、剣路に最後に言い捨てられた言葉が、ぐるぐるとまわっていた。
そのまま夜を迎えた心弥。満天の星空を見上げながら、心弥はつぶやいた。
「ねぇ和、おれたち、まだ生きてるね。学校では教えてくれなかったけど、前に和が本で読んだこと、おれに教えてくれたでしょ。人は、お水を飲まないと死んじゃうって。今日、剣路兄ちゃんがお水飲ませてくれたから、だからまだ生きていられるのかな」
心弥の言葉が途切れると、辺りはしんとする。
「和は、剣路兄ちゃんのこと、大好きだよね」
心弥は、胸に手を当てる。
「おれもね、好きだよ」
心弥は、星を見たまま、しばらく黙り込む。
「だけど、和はおれの、一番の友達だもん。和を殺した剣路兄ちゃんを、許すわけにはいかないんだ」
心弥は目を閉じる。
「和……。おれ、どうしたらいいのかなぁ……。ねぇ和……」
答えが返ってこないことを、心弥は十分に理解している。
「さみしいよ和……。おれの胸の中なんかじゃなくって、ちゃんと隣にいてほしいよ……。和を殺した剣路兄ちゃんが憎いよ……。なのに、おれは……」
心弥は、目をつむったまま胸をかきむしるように両手でぎゅっと着物をつかむ。
「苦しいよ……。辛いよ……。助けて父上母上……!」
心身共に追いつめられて限界の心弥。その様子を、そっと影から見ていたのは、剣路だった。
第四十五話「もう遅い」
真夜中。どこまでも木々に囲まれた中で、剣路は独り剣をふるう。木刀を辺りの木々に打ち付ける。それは稽古ではなく、ただただ剣路はがむしゃらに剣を振るうのだった。
なにをどうしていいか分からなくて過ぎてしまった三年間。和の死。もがけばもがくほどたくさんの者が傷つき苦しみ……それは諸刃の剣のように自分をもずたずたに切り裂き……。
「……ちくしょう! ちくしょうっ!!」
いつからそうしていたのだろう。やがて剣路の手から剣が落ちる。両手は、つぶれた豆から血がだらだらと流れている。はぁはぁと荒く息をしながら、今度は何度も拳を木に打ち付け、額を打ち付ける。効かない手で無理矢理木刀をつかみ、再びそれを木に打ち付ける。
ふいに、剣先を誰かにつかまれた。剣路ははっとする。ここでこんな真似が出来るのは、比古清十郎。ヤツしかいない。が、比古がこの程度のことでいちいちしゃしゃり出てくるような男ではないことも知っている。そう思い、ふりむいた。
「おいコラ。稽古してんのはいーけど、剣筋乱れすぎだぞ」
聞き慣れた声。それに、ずっと昔にも言われた言葉。そう、確か十の頃。その日も和は咳をして、両親にかまってもらっていた。それが面白くなくて、せっかく憧れの弥彦に追いつこうと始めた朝稽古は、集中力が乱れる。
『おいコラ。朝稽古してんのはいーけど、剣筋乱れすぎだぞ』
そう言われて、剣先をつかまれた。
弥彦は、あの時と同じように、ぶっきらぼうな言葉に優しさを含ませて、剣路を見つめていた。
「お前……何故ここに……」
「様子を見に来た」
弥彦は、剣先をつかんだまま答えた。
「心弥ならあっちだぜ。暑気にあたって病気になってる。邪魔だからさっさと連れて帰れよ。父上助けてって、そう言ってたぜ」
「そーか。後で甘ったれるなって叱っとかねーとな」
相変わらず、動かない弥彦。
「おい……。心弥は病気――」
「俺が様子を見に来たのは、お前だ」
きっぱりと、弥彦は言った。
「様子? なんでアンタが俺の様子なんか!」
「さっきの言葉は冗談だ。お前、稽古してたわけじゃねぇな?」
弥彦の言葉は的確で、剣路はうろたえた。けれど負けじと言い返す。
「お前に説明する理由なんかない! まさかこの期に及んで心配して来たなんて言うんじゃねーだろうな」
「心配しちゃ悪ぃかよ」
弥彦は、つかんだ剣を投げ捨てる。同時に握っていた剣路も地面に叩きつけられる。そのまま弥彦は剣路の懐をつかんだ。
「甘ったれるのもいい加減にしろ。心弥より先に、まずお前にそれを言ってやる」
「……」
剣路は、言葉を返すことが出来なかった。正直驚いた。三年前自分が道を踏み外して以来、目の前にいるかつて兄同然だったこの男は、引け目を感じていたらしく、ずっと遠慮がちだった。
「ふん。開き直ったのか?」
ホントハ、ワルクナイノニ。剣路の口から漏れる言葉は、もうかつてのように心のままではなく……。
「三年前、言ったはずだ。もう遅いって」
ヤヒコニイハ、ナニモワルクナイノニ。剣路は押し殺した声で弥彦を睨む。
「剣路。みんな心配してる。俺も、剣心も薫も。道場のみんなや、心弥や……死んだ和も……。その事実を受け入れねーから、甘ったれてるって言ってんだ」
「笑わせるぜ。いいこと教えてやろうか。俺が和を殺したんだ」
ソレハ、ジジツ。ケド、オレハ……。
「そーいう噂は確かに立ったがな」
「心弥が言ったのか?」
剣路は、心弥にしかそれを話していない。
「いや、心弥は噂を否定したがな……」
それでもその時の息子の様子がおかしかったのを、弥彦は今でも覚えている。
「俺も、そんなうわさ信じちゃいねーんだよ。もちろん、剣心も薫もだ」
「何を根拠にそんなこと……!」
「根拠も何も、理由なんて特にねぇ。ただお前が和を殺すはずがないと信じているだけだ」
弥彦の目は、まっすぐに剣路をとらえた。
「くだらねー愛情ごっこのつもりかよ! 俺が殺したんだ! 俺が殺したんだ和を! 殺したんだ!! 殺したんだっ!!」
剣路は木刀を拾うと、弥彦に打ち付けた。弥彦は打たれるままになっていた。逆刃刀も木刀も抜かず、ただただそこに立って、剣を受け、血を流した。
「……何のつもりだ。哀れな俺のために痛みを分かってやろうとでも思ってんのか!?」
「やっぱりお前は甘ったれだな……」
弥彦は、片手で剣をつかんだ。
「お前が思いきり打ち込んできたところで、俺を地べたに倒すことすら出来やしねぇ」
「……!!」
剣路は、弥彦に威圧感を感じた。
「もういい。お前をこんな風にしちまったのは俺だ。責任を持って、お前をこの剣で叩き伏せてやる」
「やるのか……!」
剣路は、弥彦が離した木刀を握りしめ、構えた。
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