こころのしずく

こころのしずく

第四十六話~第五十五話




本作品は、 「るろうに剣心小説(連載2)設定」 をご覧になってからお読みいただくことをおすすめいたします。面倒とは思いますが、オリジナル要素が強いので、キャラ人間関係・年齢等目を通していただきますと話が分かりやすくなります。

『剣と心』目次


『剣と心』


第四十六話「剣路対弥彦」

 弥彦は、逆刃刀を抜く。刀身が、月の光にすらりと輝く。
「天翔龍閃……。出来るんだろ? お前の実力なら、もう会得しかけているはずだ。それでかかってこい。俺は天翔龍閃を受けたことがねぇ。決まるかもしれねーぞ」
「余裕だな。カッコつけて勝つのがそんなに嬉しいか?」
「勝負中に隙を作るんじゃねぇ! 昔教えただろ。負けることなんか考えねーで、全力で戦え!!」
 腹の底から怒鳴った弥彦に、剣路はびくっとした。そのやりとりは、幼い頃剣路が稽古で叱られたときと、ほとんど一緒だった。
 剣路はいつの間にか、かつて道場で弥彦と練習試合をしたあの時のように、真剣に構えていた。勝てぬと分かっていても、初めからあきらめたらいけないと教えられた。だから、勝てると自分に一生懸命に言い聞かせ、立ち向かった。
 今、その時のように、自分の勝利を信じて立ち向かう。九頭龍閃。血のにじむ思いをして会得した。弥彦に勝つため、いや、本当は、弥彦に認めてもらいたかった。三年前のあの時、病院で睨まれて自分はもう弥彦から見放されたのだと思い込み、これ以上嫌われるのが怖くて、もう二度とあんな目で見られたくなくて、だから自分から嫌った。それが子供故の幼く未熟な甘えだと気付いたときは、既に取り返しのつかないところまできていた。他流道場を荒らし、神谷道場を破門になり、やがて誰からもふれられることがなくなった。いや、そう思いこんでしまった。実際には誰もが、自分を見守ってくれていたのに。傷つきたくなかったから、気付かないふりをした。
 一番に自分を好きでいてくれた和。その和が望んだことだから、強くなると決めた。天翔龍閃を、ここへ来て必死で修業して覚えた。会得出来たかどうかは、この戦いで分かるのだろう。
 和を殺してしまった罪で、気が狂いそうになる。和を胸に抱き苦しんでいる心弥を見ると、自分の罪を見せつけられているようだ。いっそのこと死にたかった。だが和は、自分に生きることを望んだ。それに逆らうことは出来ない。
 今、なんのために弥彦と戦うのか、分からなかった。けれど、何故か全力で戦おうと決めた。
 二人は構える。天翔龍閃は抜刀術だから、剣路は木刀を腰に差し、手を沿える。弥彦は、逆刃刀の先を剣路に突きつける。
 しばらく、静寂が続いた。お互い、隙をうかがう。二人の額から、汗が流れた。
「飛天御剣流・九頭龍閃!!」
 弥彦が剣路に突っ込んでいく。
「飛天御剣流・天翔龍閃!!!」
 剣路は神速の抜刀、天翔龍閃を繰り出した。
 二人は、互いに後方へふっとんだ。


第四十七話「冬桜の記憶」

 剣路は、倒れた体を起こした。体の九つの箇所に突きをくらい、血を流していた。剣路は、暗がりの中で弥彦の姿を探した。弥彦は、木に寄りかかって座り込んでいた。動かない。
 ふいに剣路は思い出した。和と勝負をしたあの日。和は言った。天翔龍閃が完成していたら、兄ちゃんは死んでいたのにね、と。はっと、剣路は理解した。飛天御剣流奥義・天翔龍閃の会得は、九頭龍閃で向かってくる相手の死とひきかえに得るものなのだと。
「弥彦兄!!」
 剣路は思わず懐かしいその名を呼び、かけよった。かがんで、肩をゆする。すると弥彦は、ふっと笑って顔を上げた。剣路は安心して、同時に思い出したように痛みに襲われうずくまる。
「だいじょうぶか? まだまだだな。けどまぁ、よくやった」
 弥彦は、剣路の頭にぽんと手を置いた。
「……お前、お前死ぬかもって分かってて、こんな勝負挑んできたのかよっ」
 剣路はうずくまったまま、必死に顔を上げて弥彦を見上げる。
「そーだな。お前の天翔龍閃が完璧だったら、俺は確かに死んでたな。だけど、言っただろ? 俺は、お前にだって命かけられるって」
「そこまでして……なんで……」
 苦痛に歪む顔でたずねる剣路に、弥彦は優しく笑う。
「お前は、やっぱり、俺の弟だからな」
 弥彦は、もう一度剣路の頭に手を置く。
「お前はもう十三にもなったけど、俺にはいつも三つの頃のお前がかぶって見える。お前は覚えてねーだろーなぁ。けど、俺にとっては実家みたいな神谷家を出るとき、お前は追いかけてきて……一緒に冬桜見て……」
「冬桜……」
 そういえば、三年前の冬、独り冬に咲いていた桜を見た。どこかで誰かと見たことがある気がしていた。
「三つのお前は、俺のことが好きなんだって、無邪気にそう言った」
 相変わらず、優しく笑う弥彦。
「……なんで、こんな戦いを……」
 剣路は、胸にせまる気持ちを必死で抑え、再びたずねる。
「飛天御剣流を会得すること。それがお前の夢なんだろ?」
「それならこれからここで教わるんだ! なにも今わざわざ……」
「今じゃなくちゃダメそうだったからなお前は。苦しくって辛くって、気ぃ狂いそうだったんだろ? どうやって生きていけばいいのか、分からなかったんだろ? けど人は、どんなに辛くても、夢があれば生きていける」
 弥彦は、逆刃刀を抜いた。
「なぁ、今どんな気持ちだ? 天翔龍閃撃って、どきどきしてるだろ。会得出来たらうれしいって思えただろ。この逆刃刀だって、お前が手に入れることになるかもしれねーんだぜ」
「俺に、生きる希望を与えるために……」
「俺、お前を救ってやれたか?」
 弥彦は、剣路の両肩をつかんでその顔をのぞきこむ。
「急には、無理だ……」
 剣路は、うつむく。
「そうか……。やっぱダメだったか……」
「そうじゃない」
 剣路は、顔を上げる。
「……俺は、多分もう完全に元の性格には戻れない。だけど、もう甘えは捨てる。逃げたりしない。ちゃんと生きる」
 弥彦は思わず、剣路を抱きしめた。
「おいやめろ! 俺はもうそんな年じゃない」
「そうだな……」
 そう言いながらも、弥彦は離さなかった。
「ごめんな剣路……。独りじゃないって言ったのに……兄弟同然だって言ったのに……。ごめんな……」
「弥彦兄……」
 剣路の口から、自然と出てきたその呼び名。懐かしい。大好きな兄を、親しみを込めてそう呼んだ剣路の心は、いつも飛び込んでいた安心出来るあたたかい胸に再び抱かれた剣路の心は、三年間の時を経てやっと安らぎを得た。

 こうして、弥彦の剣路を救う長い長い戦いは、ようやく幕を閉じた。


第四十八話「心にもないこと」

 翌朝、目を覚ました心弥の目に初めて飛び込んできたのは、父の姿だった。そばにかがんで、自分の顔を覗き込んでいる。
「……ち…うえ……。父上ぇ……」
 心弥はうごかない体で、必死で弥彦に手を伸ばした。初めて本当の孤独を味わい、生死の間をさまよい、気を張り続けていた三日間。その重圧から一気に解放され、大好きな父がそばにいるのだと実感した心弥の目からは、とめどなく涙があふれた。
「ほら、とにかく水を飲め」
 心弥は弥彦の膝の上で抱かれ、竹筒の水を飲ませてもらう。しゃくりあげて、まともに飲むことができない。水を飲んでは、げほげほとむせる。
「父上……」
 心弥は弥彦にぎゅっと抱きついた。ふらふらの体で、それでもせいいっぱいしがみつき、ひっくひっくと泣き続ける。
「おれ……」
 怖かった、さみしかった、辛かった……。たくさんのことを分かってもらいたくて……。けれど心弥は、必死でその言葉を呑み込むと、涙をこらえて父から離れた。
「ごめんなさい……」
 うつむいて、ぼそりとつぶやく。
「ごめん和……」
 次のその言葉は、聞き取るのがやっとなくらい小さな声で。けれど弥彦は、その意味をすぐに理解した。もう両親に甘えることが出来ない和に対して、申し訳なく思ったのだろうと。
 弥彦は心弥を再び寝かせると、水に濡らしてしぼった布を心弥の額に置いた。
「お前は暑気に当たりすぎたんだ。だからこうして、冷やすのが一番いい」
 冷たい布は心弥の熱を吸い取ってくれる。心弥は心地よさそうに目をつむり、そしてまた開けた。
「母上は、お元気ですか?」
 穏やかに笑いたずねる心弥に、弥彦は目をそらす。
「……病気はしてねぇ。何も心配するな」
 弥彦はぼそりと、それだけ答えた。心弥はほっと一息つくが、やがてはっと何かを思い出す。
「あの……」
 心弥は、申し訳なさそうに布を取り、父に返した。
「ありがとうございます父上。でも、これは試験だから、父上に助けてもらったらいけないんです」
「……そーいや、剣路がそんなこと言ってたっけ」
 心弥は、驚いた顔をした。
「父上、剣路兄ちゃんとお話したんですか?」
「ああ。昨日の夜にな」
 心弥には信じられなかった。この三年間、父と剣路が話したことはなかったはずである。
「剣路兄ちゃん、父上に何かひどいこと言ったんじゃ……」
「そーだな。けど、いいことも言ってたぞ」
 心弥は混乱した。いったいこれはどういうことなのだろう。
「父上は……剣路兄ちゃんが好きなんですか?」
 心弥は恐る恐る聞く。
「ああ。剣路は弟みたいなもんだからな」
 迷いなく答える弥彦。
「悪いこと、たくさんしたのに?」
「ああ」
 即答する弥彦に、心弥は思わず口をついて出る。
「和を……」
 そこまで出かかり、けれどはっとして口をつぐむ。それでも弥彦には、何を言いかけたのかすぐに分かる。
「心弥。お前もしかして、剣路が和を殺したと思ってるんじゃないだろうな」
 少し躊躇したが、弥彦は思いきってたずねた。心弥はびくっとする。答えることが出来ない。胸の中の和が、必死で止めている気がした。けれど、自分はどうなのだろう。分からない。分からない。
 様子がおかしい心弥を、弥彦はどうしたのかと見つめた。暑気に当たって錯乱状態に陥っているのだろうか。それとも……。
「心弥はこっち来てからもう、ずっとそんな調子だ」
 焼き魚を手にあらわれた剣路は、弥彦の耳元でささやいた。
「お前……」
 心弥ははぁはぁしながら、辛そうに剣路を睨み付ける。
「お前が……お前が死ねばよかったんだ。和の代わりに、お前が死ねばよかったんだ!」
 弱った体で、けれどせいいっぱい声を張り上げて言う心弥。弥彦は息子の言葉にどきりとした。
「心弥っ!!」
 弥彦は息子を怒鳴りつけた。心弥は反射的に身をすくめた。ぶたれるっ――けれど降ってきたのは平手ではなく、言葉だった。
「心にもないこと、言うんじゃねぇ」
 静かに言われた一言。心弥は思わず父の顔を見つめた。落ち着いたその顔に、悲しさと優しさをたたえている。心弥は考える。心にもないこと。そうなのだろうか。自分は剣路を憎んでいないのだろうか。そうだったらどうしよう。一番の友達を殺した相手なのに、憎むことが出来なかったらどうしよう。けれど和は、それを望んでいる。
 分からなくて、苦しくてどうしようもなくて、体に微かな震えがはしる。とまらない。
「心弥は俺が救う。俺のせいだから……」
 とまどう弥彦に、剣路は静かに告げた。心弥の頭はぐるぐるする。なぜ剣路は自分に優しいのだろう。なにから自分は救われなければならないのだろう。なにが剣路のせいなのだろう。考えているうちに、意識はとぎれた。


第四十九話「別れの時」

「こいつをこんなに追いつめちまったのは、俺なんだ」
 剣路は、気を失うようにして眠りに落ちた心弥の額に手を沿える。
「こいつは、和を抱えて生きている。俺を慕っていた和の気持ちと、和を殺した俺を憎む気持ちと、いつも相反する二つの気持ちを抱えている。気が狂いそうなほど辛いはずなのに、それでもこいつは和と生きていてくれる。和が大好きだったからな、心弥は」
 弥彦は、剣路の言葉をしばらく考えていた。
「心弥が、お前を憎むなんて、そんなことあるわけないと思うんだがな……」
「俺が心弥に直接言ったんだ。俺が和を殺したと……」
 感情を押し殺した声で、剣路は語る。
「お前、何をそんなに罪を背負おうとしてるんだ」
「本当のことだ。俺はあの日、和と剣を交えた。だから和は死んだ。それが全ての事実だ」
 淡々と語る剣路。
「……それでも、お前に殺意はなかったんだろ?」
 弥彦の質問に、剣路はうろたえる。事実は変わらない。問題は、どう答えるか。どうしたら、殺意があったと上手く騙すことが出来るのだろう。罪を償って生きていくと決めた。だから和のことで、だれにも許されてはならない。
「……分かった。今はその話はやめる。また今度聞かせてくれ」
 剣路はうなずいた。
「心弥を頼む。心弥自身は俺が救ってやれるが、和はお前じゃねぇと救われねぇ。和は、お前をどうしようもないほど好きだったから、お前じゃないと救ってやれねぇ。和が救われないと、心弥も救われねぇ」
「ああ」
 剣路は、再びうなずいた。
 その時、心弥は目を覚ました。
「心弥。負けないで、ここで頑張れるか?」
 弥彦はかがんで、息子の顔をのぞきこむ。
「はい。もちろんです。父上」
 心弥は落ち着いたのか、笑って穏やかに答えた。弥彦は笑ってうなずき、心弥の頭をなでてやる。
「なら、今度こそしばらく会えないな。飛天御剣流の修業は数年はかかる」
「はい」
 心弥は、笑って父を見上げた。弥彦は心弥を見つめ返すと、立ち上がり剣路の前に立つ。
「剣路も頑張れよ」
「ああ」
 剣路も、ふっと笑った。
「父上……」
 心弥が、ふらふらと立ち上がり、弥彦に近づいていく。その体で立つことは、まだ無理なはずなのに……。
「心弥! 無理するな――」
「あの……」
 頬を赤く染めながら、心弥はなにかをためらっている。
「ん? どうした?」
 弥彦の口調があまりに優しかったので、心弥は思わず目に涙を浮かべる。一歩、二歩とよろよろ歩き、弥彦の前に立つ。和、ごめんと、心の中でつぶやく。涙が頬に一筋伝う。
「ぎゅって……してください……」
 弥彦はすぐに息子を抱きしめた。強く強く抱きしめた。心弥も父にぎゅっとしがみつく。
「大好きです父上。会えなくなってもおれ、いつも父上と母上を思ってる」
 弥彦はいたたまれない気持ちになる。まさか息子を七つで手放すことになるとは思わなかった。別れ際になって、初めて辛い気持ちが押し寄せる。可愛い我が子を、もう少し、せめて元服するくらいの年になるまではそばに置いておきたかった。この目で成長を見届けたかった。きっと心弥のいない家は、火が消えたようだろう。それでも、心弥を連れ帰ることは出来ない。どんなに幼くとも、心弥が自分で決めた道なのだ。例え親でも、それをさまたげることはできない。

 弥彦は息子を抱きしめ続け……。そして最愛の息子、心弥がいつまでも自分を見つめ、大事な弟、剣路もまた自分に目をそそぎ……。二人に見送られながら、弥彦は朝の光の中を去っていった。


第五十話「和の日記その一 剣玉」

 焼き魚を食べる剣路の横で、心弥はまだ体を横たえていた。
「恵んでやってもいいんだぜ」
「誰がお前なんかに。おれ、自分で食べ物取ってくる」
 剣路を睨み付け、心弥はふらふらと立ち上がり、歩いていった。数歩先で、木の実が落ちているのを見つける。心弥はおそるおそる一つ口に含む。おいしくはないが、食べてもだいじょうぶなようだ。心弥は初めて手に入れた食料に感激しながら、座って食べ始めた。その木の実を、剣路がそこへ置いたのだとも知らずに。

 それから、剣路はまたどこかへ去っていった。ひなたに出るな。適度に休め。水は比古の家の裏にわき水が出ている。その三つを言い残して。心弥は不本意だったが、生きるためにそれに従った。和といっしょに生きなければならない。だから言われたとおり昼間は日陰で食べ物を探し、時折休み、教えられた場所で水を飲んだ。今日は近くの木に実がたくさんついていて、それをとって食べた。ここへ来て、初めて満足に腹がふくれた。
 夜になり、心弥はあおむけで星空を見上げながら、和に話しかけた。
「和、おれ今日、いっぱい頑張ったんだよ。初めて食べ物も見つけたんだ。でもね、父上とお別れしたから、今度はもう何年も会えないから、すごくさみしいんだ……。ねぇ、和は? おれと一緒に剣路兄ちゃんのそばにいられても、おれが剣路兄ちゃんと仲良くしなかったら、やっぱりさみしい?」
 答えは返ってこない。多分、さみしいのだろうな、と心弥は思う。けれど、和がここにいてくれたら、和の気持ちが分かれば……そう思う。そしてふと思い出した。持ってきた和の日記。初め和の文字だと分かり、やがてそれが日記だと分かったとき、あわてて閉じた。人の日記を見るなんていけないことだと思ったからだ。けれど、と心弥は思う。あそこに埋めてあったということは、いつか一緒に宝物を取り出す約束をした自分が見てもいいのではないだろうか。それは強引な考え方だと分かっていたが、心弥は無理矢理そう思いこむことにした。
「和、おれ、どうしても和の気持ち知りたいんだ。だって和は、おれの胸の中にいてくれても、なんにも言ってくれないんだもん。だから、日記読むけど……ごめんね」
 心弥は枕元に置いたふろしきから、和の古い日記帳を取り出した。ためらいつつも、ゆっくりと初めからめくった。
「明治二十二年……。おれと和が四つのときだ。四つなのに、こんなに漢字がかけるなんて、やっぱり和は天才だぁ……」
 月明かりの中で、心弥は和の日記を読み始めた。

『明治二十二年。四月○日

今日から日記をつけることにしました。ぼくが一番に好きなのは、兄ちゃんです。兄ちゃんは強くてかっこよいけれど、でももしもそうでなくても、ぼくは兄ちゃんがすごく大好きです。ほかに好きなことは、剣術です。ぼくはお家の神谷道場で、毎日剣術をならっています。みんなは強くなりたいと言うけれど、ぼくはそんなこと思いません。剣術自体が好きだから、剣術を覚えるのが楽しいです。だけど今日は、つい調子にのって弥彦さんにたくさん稽古をつけてもらっていたら、熱を出してしまいました。そのせいで、弥彦さんは母さんに怒られてしまいました。父さんは、弥彦さんに無理を言ってはいけないと言いました。友達の心弥は心配してくれました。父さんと母さんも、ぼくが病気になるといろいろ大変です。ぼくは悪い子です。                        』


『明治二十二年。四月×日

今日、兄ちゃんが剣玉をくれました。すごくすごくうれしかったです。いつも兄ちゃんは玩具のお下がりを心弥にあげます。だから心弥は残念そうで、ぼくは悪いことをしたような気持ちになりました。でもどうしても心弥にあげるって言えませんでした。ぼくは悪い子です。だけど剣玉は一番の宝物にしようと思いました。              』


 心弥は黙って剣玉をとりだした。カン、コン、カン……と玉を打つ。その響きが、あまりに悲しい。心弥はいても立ってもいられない気持ちになり、剣玉を持ったまま走り出した。
「おい、どこへ行くんだ」
 暗闇の中から、剣路の声が聞こえた。河原にいるだろうと思って走った方向とは反対の方角だ。心弥は急いで向きを変え、あらわれた剣路に突っ込んでいく。
「和はお前が大好きだったんだ!」
 心弥は剣路の胸を拳で叩く。
「この剣玉だって、ずっと大切にしてたんだっ! 死ぬ前には、一度でいいから兄ちゃんに抱っこしてもらいたかったって言ってた……!」
 剣路は、うつむいたまま、打たれるままに立ちつくす。
「なんで和を殺したんだっ!!」
「うっとおしかったんだよ」
 剣路はぼそりと答える。
「……ふざけんなっ! お前なんか死んじゃえ!!」
 心弥は背中から竹刀を抜き取ろうとしたが、その前に腹に重い膝蹴りをくらった。心弥は激痛にうずくまる。
「うぬぼれるな。今のお前に俺が倒せるわけがないだろう。感情のままに行動するな。和のことより、自分のことを考えろ。お前はアイツの跡を継ぎたいんじゃなかったのか? それを忘れるな。目的を見失わず、修業して強くなれ」
 剣路は去っていく。剣路の言うことは正論過ぎて、例え体が動かせたとしても心弥は追わなかっただろう。ただ、剣路を憎む気持ちとのはざまに苦しみながら、心弥は腹を押さえてうずくまっていた。
「なんで……こんなことになっちゃったのかなぁ……」
 心弥のかすかなつぶやきは、夜空へ吸い込まれていく。

「和……。何故お前は、父さんや母さんじゃなく……俺を……。こんな俺を……」
 心弥から離れた、月明かりも遮られた木々の密集する中で、剣路もまた独り頭を抱えていた。 

 次の晩、心弥は日記の続きを読む。それが心弥に、どれほど大きな衝撃を与えるとも知らずに……。


第五十一話「和の日記その二 偽り」

『明治二十二年。四月△日

すぐ病気になってしまうので、毎日日記が書けません。今日心弥は、弥彦さんの跡を継いでいいと言われたと、兄ちゃんにうそをついてしまいました。だけど心弥はすごく後悔していました。だからぼくは、父さんの昔の話をしました。うそをついたら、あやまればいいのだと、父さんに教わったとおりのことを言いました。心弥はすぐに兄ちゃんにあやまりにいきました。帰ってきた兄ちゃんは、一週間後に弥彦さんの跡継ぎをかけて心弥と勝負をするから、審判をしてほしいとぼくに言いました。そして、このことは誰にもないしょだぞって言いました。ぼくはなぜか、いやな予感がしました。          』

「なつかしいなぁ……」
 初めにこの日の日記を読んだ心弥の感想は、ただそれだけだったけれど……。

『明治二十二年。四月※日

今日は兄ちゃんと心弥の、弥彦さんの跡継ぎをかけての勝負の日でした。ぼくは審判をしました。ぼくは兄ちゃんが心配でした。心弥が、奥義の稽古をしたのに、兄ちゃんは何もしなかったからです。心弥より兄ちゃんのほうが強いけれど、一生懸命な気持ちがとっても強いと勝てることがあることをぼくは知っています。思った通り、兄ちゃんの飛天御剣流・龍槌閃と、心弥の神谷活心流奥義・刃渡りの対戦で、心弥が勝ちそうになりました。ぼくは弥彦さんが刃渡りをしているのを何度も見たことがあるし、心弥の奥義は間違いなく完璧でした。だけど、兄ちゃんの龍槌閃は重心がずれていて、一見形にはなっていても威力がともなってなかったのです。ぼくは、本当に悪い子です。心弥を助けるふりをして、本当は兄ちゃんを助けるために二人の間に入って戦いを止めました。兄ちゃんに怪我をしてもらいたくなくて、なにより兄ちゃんに負けてほしくなかったからです。だって兄ちゃんは、ぼくのせいで父さんや母さんとあんまり一緒にいることができなくて、さみしい思いをしているんです。だから、兄ちゃんは大好きな弥彦さんの跡を継ぐことが夢なのですが、それがなくなってしまうと兄ちゃんは兄ちゃんでなくなってしまうのです。きっと、心がぼろぼろになってしまうから。そうしたら、弥彦さんの跡を継ぐのは心弥になってしまいます。そんなことを思いながら、ぼくは二人の間に入って剣を受け、気を失いました。気がついたら、布団に寝かされていて、部屋には誰もいませんでした。ぼくは体を起こして、戦いのことをまた思い出しました。ぼくは兄ちゃんが大好きだからあんなことをしてしまったけれど、あのときぼくは兄ちゃんのことで頭がいっぱいで、心弥のことを考えていませんでした。心弥はとっても仲良しの友達で、大好きなのに。心弥は、この一週間、一生懸命に奥義の稽古をしたんです。心弥の体が、悲鳴をあげているほどに。そうして心弥は勝つはずだったんです。勝負は弥彦さんに認めてもらえなくても、兄ちゃんに勝てば心弥は自信がついたはずです。自信がつくと、人は強くなれます。きっと弥彦さんも、心弥を認めたでしょう。そして兄ちゃんの心がぼろぼろになる代わりに、心弥は将来、きっと弥彦さんの跡を継げたはずなのです。なのにぼくは、心弥の大事な将来をだめにしてしまいました。ぼくは本当に悪い子です。今日は涙が止まりませんでした。      』

「死ぬ前にも言ってたね。和、おれはもう、そんなこといいんだよ。和は、剣路兄ちゃんが大好きだもんね。おれ、怒ってないよ。……あれ? 続き?」
 和の日記は、めずらしく次の頁にも書かれていた。

『それから、ぼくたちは小国診療所へ連れて行ってもらいました。心弥の怪我がひどく、もう少しで剣術が出来ない体になっていたと恵さんは言いました。弥彦さんはとても怒って由太郎さんを責めました。そして、兄ちゃんをにらみました。弥彦さんは多分、勝負をすると決めたのが兄ちゃんだったから、だから兄ちゃんを怒ったのだと思います。だけど兄ちゃんは、そのとき心がこわれてしまいました。心は目には見えないけれど、兄ちゃんの心なら分かります。ぼくは今入院しているのですが、兄ちゃんは夕ご飯も食べないで、お部屋に閉じこもっているような気がします。                                     』

「心が……こわれたって……?」


第五十二話「和の日記その三 病気」

『明治二十二年。四月$日

今日の稽古から、兄ちゃんが出ました。ぼくは、父さんと見学でした。門下生同士の練習試合のとき、父さんがぼくに、どっちが勝つかたずねてきました。ぼくにはどっちが勝つか、見れば分かります。二試合とも当たりました。けれど次に、兄ちゃんと心弥の試合になって、ぼくはひやりとしました。父さんは頭がいいから、ぼくに戦いの勝敗が分かることを知ったら、あの時心弥を勝たせないためにぼくが二人を止めたことがばれてしまうと思ったからです。だけど、由太郎さんが、二人が病み上がりだからと試合を止めたので、ぼくはほっとしました。けれど今日は、すごく悲しい日でした。稽古が終わって家に戻ってきた兄ちゃんは、とても悲しく辛い気持ちを押し込めて、冷たい目の色をしていました。こわれた兄ちゃんの心は、とうとう暴走をはじめてしまったのだと思いました。ぼくには分かります。きっと兄ちゃんは、初めにそれを弥彦さんへぶつけてしまったのでしょう。そうでなかったら、あんな悲しい心を抱えることなんてありません。              』

「剣路兄ちゃんが父上をきらいだって言った、あの日のことだ……」

『明治二十二年。四月&日

兄ちゃんは、稽古に出なくなり、道場荒らしをするようになりました。ぼくは、兄ちゃんが稽古に出なくなったその日から、今までより一生懸命に稽古しています。二つの理由があります。一つは、強くなって兄ちゃんを助けるためです。このままだと兄ちゃんは、そのうち生きている意味が分からなくなって、死んでしまおうとします。ぼくには、分かります。そのとき、ぼくと勝負して、ぼくのほうが強ければ、兄ちゃんは生きていけます。悔しくて、ぼくを憎んで、けれどその気持ちが生きていく力になります。もう一つの理由は、その戦いのとき、ぼくが強ければ兄ちゃんはぼくをしっかり見てくれると思うからです。兄ちゃんは、ぼくを全然見てくれません。ぼくが病気で父さんと母さんをとってしまって、悪い子だから仕方ないんです。だけど、ぼくは一度でいいから兄ちゃんに真剣に見てもらいたいんです。稽古をしっかり受けるためには、病気を治さなければならないのだけれど、ぼくは自分の病気が治らないことを知っています。誰かにそう言われたわけではないけれど、自分の体だから分かります。だからこれからは、病気を隠して、元気になったふりをして稽古を続けます。                         』

「病気のこと、おれは気付いてあげられなかった……」

『明治二十二年。十月△○日

ずいぶん日記を休んでしまいました。病気がすすんでいるせいで、夜になると体がだるく、なかなか日記を書くことが出来ません。今日は昼間いつもよりも体の具合が悪く、のどがかわいて仕方がありませんでした。稽古中、どうしても我慢出来なくて、弥彦さんにお水を飲ませてくださいとお願いしました。弥彦さんは、みんな我慢してるのだからお前も我慢しろと言いました。その通りです。ぼくは弥彦さんにわがままなことを言ってしまいました。もう一つ、ぼくは悪いことをしています。稽古で、わざとみんなに負けます。そういうことは武士道に反することで、相手に対して失礼だってぼくは知っています。きっと弥彦さんが知ったら、すごく怒ると思います。だけどぼくは、兄ちゃんと勝負する日まで、兄ちゃんにぼくの実力を知られてはいけないんです。兄ちゃんが本当に死にそうになったその時に、初めて兄ちゃんがそれを知ることにならなければぼくの目的は果たせないんです。それでも、ぼくのやっていることは、やっぱり悪いことで、ぼくは悪い子です。 』

「和、父上は怒ってないよ。お水飲ませてあげれば良かったって、そう言ってたよ」

 それからしばらくは、日記の日付はかなり間を空けて書かれていた。稽古のことや、病気のこと。そして兄のこと。両親や神谷道場の人、心弥のことも。そして日付は今年に入った。和の文字は、病気のせいでかなり乱れ弱々しい。


第五十三話「和の日記その四 兄弟」

『明治二十五年。八月○日

ぼくには分かります。兄ちゃんはもうすぐ死のうとしています。目をみれば分かります。だからぼくも、一生懸命稽古しなければなりません。今日は夕方、森で独り稽古をしました。熱があってとても辛かったけれど、そんなこと言っていられません。飛天御剣流奥義・天翔龍閃をどれだけ本物に近づけられるか。そして加減出来るか。九頭龍閃に対して天翔龍閃を完璧に打ってしまうと、九頭龍閃を撃った者は死に至ると父さんからさりげなく聞き出しました。兄ちゃんを殺すわけにはいきません。死ぬのは、ぼくです。今のぼくの体では、兄ちゃんと本気で戦ったらきっと死んでしまいます。でも、それでもいいんです。兄ちゃんのために死んでいけるのなら、ぼくは幸せなんです。そう思いながら飛天御剣流の技をいくつかこなしていたのですが、体が苦しくなってぼくは倒れてしまいました。たまたまそばで修業をしていた弥彦さんは、ぼくを抱っこしてくれました。そして、熱があるって分かってて稽古してたのかと聞かれたので、はいと答えました。そうしたら弥彦さんは、ぼくを思い切りぶちました。そしてすごく叱られました。ぼくがあやまると、弥彦さんはぼくのくちびるの血をぬぐっておんぶしてくれました。そのまま帰る途中、弥彦さんに、生まれて初めてぶたれたことを話しました。びっくりしたんです。弥彦さんは、痛かったかって聞きました。ぼくがはいと言うと、弥彦さんは、もうこんな無茶するんじゃないぞって言いました。その言い方がすごく優しくて、ぼくは胸が苦しくなりました。弥彦さんは、心弥をぶつのと同じように、ぼくのこともぶって心配してくれたんです。そういえば、昔は兄ちゃんのこともぶっていたことがありました。ぼくは兄ちゃんの弟だから、もしかしたら弥彦さんはぼくのことも少しは弟みたいに思ってくれているのかなって思いました。それはとてもうれしくて、ぼくは弥彦さんに抱きついてみました。でもぼくは、やっぱり悪い子です。こうしてぶって怒ってくれるのが兄ちゃんだったら、抱きつけるのが兄ちゃんだったら、と、そればかり思ってしまいました。だからぼくは、弥彦さんにあやまりました。ぼくは悪い子だから、とそれしか理由は言えませんでした。いつものお前はいい子だよって弥彦さんに言われて、ぼくは辛くなって首を振りました。それからぼくは、央太さんのお兄さんの話をしました。聞いてみたかったんです。十年以上離れていた央太さんとそのお兄さんが会ったとき、なぜあんなに仲が良かったのか。それから血のつながらない弥彦さんと央太さんのお兄さんは、なぜ仲がいいのか。そして弥彦さんと兄ちゃんも。それは本当は、どうして毎日一緒にいるぼくと兄ちゃんが仲良くなれないのか、それを聞いてみたかったんです。ぼくが悪い子だからだって、答えは分かっているのだけれど。でもほんの少しでも、兄弟の意味を知りたかったんです。弥彦さんは、ぼくのそんな気持ちに気付いてくれました。それでぼくはつい、ぼくはなんのために生まれてきたのかなぁって、言葉をもらしてしまいました。そのいきおいで、病気でみんなに迷惑をかけていて、いつも苦しく思っていることも言ってしまいました。だから数日後、ぼくは兄ちゃんに憎まれて死んでいくのだと、ぼくはその計画を言いかけて、さすがにそこでまずいと口をつぐもうとしたら、弥彦さんはぼくの年を聞いてきました。七つですと答えると、弥彦さんは言いました。まだたった七年しか生きていない、子供はそんな難しいこと考えるな、まだまだ先は長い、そんなことを考えるひまがあったら、もっと未来を見据えろ、と。ぼくは、ごめんなさいとあやまりました。弥彦さん、本当にごめんなさい。ぼくは悪い子です。なんのために生まれてきたのかなぁなんて言ってごめんなさい。ぼくはもうすぐ死ぬんです。ごめんなさい。未来を見据えることは出来ないんです。ごめんなさい。ぼくは、悪い子です。                                  』

「和……。死ぬって……」


第五十四話「和の日記その五 夕日」

『明治二十五年。八月×日

今日は最後の日記です。明日死ぬから、ぼくは日記を埋めます。この場所は心弥しか知らないから、いつかこの日記が読まれることがあるなら、心弥なのかもしれません。もうすぐ父さんが迎えに来るから、急いで書いています。今日は河原でずっと座っていました。明日はもう見られない夕日を見るためと、それから明日はもう遊ぶことが出来ない稽古帰りの心弥に会うためです。心弥がこの間弥彦さんにぶたれたぼくを心配してくれました。ぼくはこないだ分かったばかりの、弥彦さんが心弥をぶつわけを心弥に教えてあげました。弥彦さんは、心弥が大事だから、心弥をぶつんです。それから、雲の形当てっこをやりました。心弥が指さした雲を、ぼくは優しい兄ちゃんだって答えました。本当は全然違ったのに、心弥は当たりだよって言ってくれました。ぼくは少し泣いてしまいました。理由は良く分かりません。でも多分、心弥が優しくしてくれたことがうれしかったのと、優しい兄ちゃんをぼくは見ることが出来ないのだと思ったからです。そう思ったら、ぼくはすごくすごく自分のことを心配してくれる優しい兄ちゃんの夢を見たくなりました。こないだ、弥彦さんがぼくにしてくれたように。だから無理矢理、ぼくは空想ごっこをはじめて、心弥に優しい兄ちゃんの役をやってもらいました。心弥は、ぼくのために一生懸命優しい兄ちゃんの役をしてくれました。ぼくが説明しなくても、心弥はぼくが望んだとおりに、ぼくを思い切りぶって、抱きしめてくれました。ぼくは、心弥がぼくのことをいっぱい分かってくれていたのがうれしくてたまらなくて、そして、けれど空想ごっこはやっぱり夢でしかなくて、うれしい気持ちと悲しい気持ちでどうしようもなくなって泣きました。心弥はぼくを、一番の友達だって言ってくれました。ぼくにとっても心弥は、一番大事な友達です。だから、一番大切な剣玉をあげました。心弥に持っていてほしかったんです。兄ちゃんではなく、きっと兄ちゃんのそばにいてくれると信じている心弥に、そしてぼくの一番の友達の心弥に、持っていてほしかったんです。そうすればなんとなく、ぼくは死んでも心弥と一緒に兄ちゃんのそばにいられると思ったから。ぼくは明日死にます。父さん、母さん、弥彦さん、ごめんなさい。心弥、ごめんね。ぼくは悪い子です。みんながぼくを大事にしてくれたのに、ぼくは兄ちゃんのために明日死にます。ごめんなさい。ぼくは悪い子です。』

 心弥は泣きながら、ぼろぼろ泣きながら、何度も何度も日記を読み直した。初めは、和が昔から死のうとしてたことがただ悲しくて、それから剣路が冷たくなった原因もだんだんと理解し、そしてその過程で心弥は何十回目かに読み直していたあるところで目をとめた。

『今日心弥は、弥彦さんの跡をついでもいいと、兄ちゃんにうそをついてしまいました。』

 心弥はその少しあとに書かれた文を、青ざめながら読む。

『心弥はすぐに兄ちゃんにあやまりにいきました。帰ってきた兄ちゃんは、一週間後に弥彦さんの跡継ぎをかけて心弥と勝負をするから、審判をしてほしいとぼくに言いました。』

 心弥は震える手で頁をめくる。

『弥彦さんはとても怒って由太郎さんを責めました。そして、兄ちゃんをにらみました。弥彦さんは多分、勝負をすると決めたのが兄ちゃんだったから、だから兄ちゃんを怒ったのだと思います。だけど兄ちゃんは、そのとき心がこわれてしまいました。』

 心弥の胸はドクンと脈を打つ。

『稽古が終わって家に戻ってきた兄ちゃんは、とても悲しく辛い気持ちを押し込めて、冷たい目の色をしていました。こわれた兄ちゃんの心は、とうとう暴走をはじめてしまったのだと思いました。ぼくには分かります。きっと兄ちゃんは、初めにそれを弥彦さんへぶつけてしまったのでしょう。』 

 心弥は息をするのも忘れる。

『このままだと兄ちゃんは、そのうち生きている意味が分からなくなって、死んでしまおうとします。』

 心弥はもう一度、前の頁をめくる。

『今日心弥は、弥彦さんの跡をついでもいいと、兄ちゃんにうそをついてしまいました。』

 心弥は、パタンと日記を閉じた。

「おれの……せい……なんだ……。おれが……うそを……ついたから……。剣路兄ちゃんが……あんな風に……なっちゃったのも……」

『ぼくは兄ちゃんのために明日死にます。』

「和が……死んだのも……」


第五十五話「唯一の友達」

 心弥は、さだまらない視線を宿し、ふらふらと立ち上がった。自給自足生活の初めの頃、よく剣路がいた河原の上の崖へ行くと、そこからどんどん崖縁に沿って川上へ歩く。やがて途切れた場所は、絶壁だった。心弥は崖っぷちに立つ。ぼんやりしたまま、躊躇もなく一歩踏み出そうとする。
「心弥っ!!」
 間一髪、心弥は剣路に後ろから抱きとめられた。心弥の様子がおかしいのに気付き後をつけてきた剣路だったが、まさかいきなり飛び降りようとするとは夢にも思わなかった。
 小石が、崖からがらがらと落ちていった。剣路は心弥の腕をひっぱり無理矢理崖から引き離すと、心弥の両肩を思い切りつかんだ。心弥は力無くぺたんと座り込む。剣路は心弥の向かいにかがみ、再び両肩をつかみ強くゆする。
「何やってるんだ心弥っ!!」
「何って……死のうと思って……」
 ぼんやりと、心弥は答える。定まらぬ視線で。
「自分が何言ってんのか分かってんのか!? おい、俺を見ろ!」
「……剣路兄ちゃん」
 心弥は消え入るような声でつぶやく。
「ああ、それでいい。しっかり目ぇ覚ませ。お前今、死のうとしてたんだぞ! なにぼんやりしてたんだ」
「ぼんやりなんて……。ぼくはちゃんと死のうとしてたんだ……」
 剣路は一瞬息を呑んだ。が、とたんに体中の血がさわぐ。
「ちゃんとって……ふざけんなっ!!」
 剣路は心弥の懐をつかみ、殴り飛ばした。
「……足りないよそんなんじゃ。おれは、剣路兄ちゃんと和に、ごめんなさいって一万回言っても許されないくらいなんだ。だからもう、せめて死ぬしかないんだ……」
 くちびるから血を流したまま、再び立ち上がろうとする心弥を、剣路は必死で抱きとめる。
「なにが許されないんだ! ちゃんと話せ!」
「おれがうそをついたから、剣路兄ちゃんの心はこわれて、だから和は死んだんだ」
 たんたんと、心弥は語る。
「うそってなんだよ! なんのことだっ!」
「三年前、おれが父上の跡を継いでもいいって言われたって言ったうそ」
 剣路は、心弥が何を言っているのかさっぱり理解出来なかった。けれど務めて冷静になり考えると、和の死からさかのぼりそこまでつながる。なるほど、確かに事の発端はそこにつながる。けれどそれはただのきっかけであって、罪でもなんでもない。なのに幼い心弥は今、そうだと思いこんでしまっている。死のうと思うほどに、追いつめられている。どうすればいい。どうすれば救ってやれる。何より、心弥を救いたい。同時に、心弥の心に生きている和を悲しませたくない。どうすればいい。どうすれば……。
 剣路は、必死に考えながら、夢中で心弥を抱きしめていた。
「死ぬな。お前は悪くないんだ。死ぬな。死ぬな。死ぬな……」
 気付けば、そればかり繰り返していた。
「どうして……?」
 きょとんと、幼い心弥はたずねる。まるで分からない、という風に。
「生きていてほしいんだ」
 剣路は心のままを口にする。そんな風に話せるようになったのは、いつからだろう。
「剣路兄ちゃん……。なんで……?」
 心弥は、剣路を見上げる。今度は、少し定まってきた視線で。
「お前は俺の友達だ。唯一の」
 答えてから、剣路は自分の気持ちに驚いた。けれど剣路は、その気持ちをそのまま受け入れた。
「それに、俺とお前は、好敵手だろ? これから一緒に修業して、一緒に奥義を会得して、一緒に弥彦兄の跡継ぎを競い合う。俺たちが追いかける背中は同じだろ? 俺とお前は、そーいう友達だ」
「どうしておれのこと、きらいにならないの?」
 心弥はうつむいて、小さな声できく。剣路はまた心弥の両肩をつかみ、心弥の顔をしっかり覗き込み、その目を見つめて答える。
「いいかよく聞け心弥。お前がうそをついたのが事の発端なのは事実だ。だけど、それはただの一つのきっかけで偶然だ。お前がうそをついたからそうなったんじゃない。俺がこんな風になったのは、俺自身の問題だ。お前がうそをつかなくても、俺はこうなった。分かるか? 和を殺したのも俺だ」
「分からないよ!」
 心弥はかぶりをふった。
「和は死ぬって分かってて剣路兄ちゃんに勝負をしかけたんでしょ。剣路兄ちゃんは本当に和を殺したの? 本当は違うんじゃないの? やっぱりなにもかも、おれがあの時うそをついたのがいけないんでしょう?」
「だから……」
 剣路は、もうなんと言って説得したらいいか分からなかった。考えて考えて、そうして心はいつのまにか弥彦に語りかける。弥彦兄、どうしたらいい――。
 ふいに、自分が救われたときの記憶がよぎった。
「心弥。覚えてるか? 三年前、神社で俺が極道連中と戦ったあと。弥彦兄の跡を継ぎたいって言った俺を睨んで、お前は言った。父上の跡を継ぐのはおれだよって」
 心弥の記憶も剣路とともによみがえる。あのとき、剣路の言葉で初めて自分の気持ちに気がついた。父の跡を継ぎたい。たとえ大好きな剣路兄ちゃんにも、それだけはゆずれないと思った。
「跡継ぎを賭けて勝負をするって約束したとき、お前、体中ぼろぼろにして奥義の稽古に励んだな。手ぇ豆だらけにしてさ」
 そうだ。由太郎の家で、頑張りすぎて吐いたくらい。
「俺、知ってるんだぜ。こないだ、道ばたで弥彦兄に泣いてこう言っただろ。父上の跡を継げないなら死んだ方がましだぁって。偶然見ちまった」
 心弥は、思わず顔を赤くする。
「どうだ? 思い出したか? お前の夢」
「父上の跡を継ぐこと」
 心弥は、剣路の目を見つめ即答した。
「なら、死ぬわけにはいかないだろ?」
「そうだね。夢をかなえるまでは……」
「それまでに、お前が死ぬ理由なんかないってことを分からせてやる。バカなお前にも、それだけ時間をかけて教えれば、理解できるだろう」
 剣路は、真剣に心弥を見つめた。それは、かつてと同じ、好敵手をみる目。
「いいか。俺はお前に夢をゆずると言った訳じゃないからな。弥彦兄の跡を継ぐのは、俺とお前のどっちかだ。忘れるな」
「父上の跡を継ぐのは、おれだよ」
 心弥が剣路にそう言ったのは、どのくらい久しぶりだろう。なぜか分からないまま、心弥の頬に涙が伝う。
 二人はお互いにらみ合い、それからふっと笑いあった。










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