「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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第五十六話~第六十七話
本作品は、
「るろうに剣心小説(連載2)設定」
をご覧になってからお読みいただくことをおすすめいたします。面倒とは思いますが、オリジナル要素が強いので、キャラ人間関係・年齢等目を通していただきますと話が分かりやすくなります。
『剣と心』目次
『剣と心』
第五十六話「実戦」
次の日心弥が目を覚ましたときには、一緒にねむったはずの剣路はもう姿を消していた。目をこすりながら崖に沿って川下へ降りていくと、いつもの河原で剣路は魚を焼いていた。
「剣路兄ちゃーん!」
心弥は崖上から声を張り上げた。剣路はけれど振り向く様子もない。
「焼き魚、おれも食べたいよ!」
再び心弥が声を上げると、剣路は背を向けたまま答える。
「調子にのるな! 食いたければ自分で釣れ!」
心弥はとまどう。
「だって、剣路兄ちゃんとおれは友達なんでしょ!」
剣路は初めて振り向き、心弥をにらむ。
「だから言ってんだ! お前は俺の好敵手だ!」
剣路は崖をのぼってくる。いとも簡単に、手をかけて足で蹴り上げて、すとんと心弥の前に立った。心弥はただただ驚く。
「いいか。確かにお前はまだ七つの子供だ。けど俺にとってお前は友達であり好敵手だ。だから俺はお前を子供扱いしない。お前もそのつもりでいろ。俺には甘えるな。分かったな」
心弥はよく分からないようで、きょとんとしている。剣路はため息をついた。
「やっぱりまだガキか。まあいい。そのうち俺の言ってることが分かるようになる。とにかく、食料は自分で調達しろ」
それだけ言うと、剣路は一気に崖を飛び降りた。心弥はまたも感心する。改めて、剣路のすごさを思い知る。自分も十三になったらあんな風になれるのだろうか。そう思い、けれどすぐにその考えを改めた。年の差を乗り越えて剣路に勝つ。幼い頃から、そう決めていたからだ。
心弥はくるりと向きを変え、木々の密集したいつも寝床にしている場所へ戻ろうとした。木の実は食べ飽きたが、心弥に出来る食料調達は唯一それだけだ。けれど心弥は思い直す。その前に、水を飲もう。そう思い、比古の家の方角へと足を運ぶ。
だが、数歩もいかないうちに、心弥は息を呑んだ。数十人の野盗が、自分のほうへ向かってくる。凶悪な顔つきの男たちはそれぞれボロ切れをまとい、腰に真剣を差している。
「よぉ坊ちゃん。何だってこんなところにいるのか知らんが、俺たちの試し切り相手になってくんねーかなぁ?」
男の一人が心弥に近づく。心弥は足がすくんだ。当たり前だが、実戦なんて経験したことがないのである。
その時だった。
「おい、俺も試し切りしてーんだが、いいか?」
悠々と歩いてきたのは、他ならぬ比古清十郎だった。
「おじさん!」
「おじさんは止せ、小僧。わざわざお前を助けに来てやったんだぜ」
比古は剣を抜いた。
「なんだてめぇは! ぶっ殺されてーのか。ぁあ?」
野盗の一人が比古に剣をふるってきた。比古は剣を振りかざした――
「やめてぇ!!」
「やあっ!!」
心弥が比古の腕にしがみつくのと、剣路が野盗を木刀で倒したのは、同時だった。
「人を殺しちゃだめだよっ!」
「ここは俺たちで片づける。アンタにそろそろ認めてもらうためにな」
剣路は構え、心弥は比古を睨み付けそして剣路の横に立つ。
「ふうん。ではお手並み拝見といこうか」
比古は一歩下がり、にやにやと二人を眺めた。
「いいか心弥。敵は十五人だ。俺が十二人、お前が三人。いいな」
「う、うんっ!」
心弥はがちがちの手で背中の竹刀を抜いた。
第五十七話「殺人剣」
「落ち着け。相手は神谷道場の連中よりずっと下だ。いつも通りにやれば必ず勝てる」
「うんっ!」
心弥は剣路の一言で、すっかり落ち着きを取り戻した。
「なんだとぉクソガキャ……ぐあっ!」
言い寄ってきた男はあっという間に剣路の木刀を肩に受け、倒れて気を失う。剣路はそれを皮切りに次々と野盗を倒していった。
「なんだこいつは……! つ、強ぇ!!」
「おいっ! お前の相手はおれだっ!!」
感心していた野盗の一人に、心弥は怒鳴った。
「調子んのってんじゃねーぜガキがよぉ!!」
野盗が振りかざしてきた真剣を、心弥はさっとよける。
「胴っー!!」
心弥は野盗に思い切り胴を食らわせた。野盗はぐえっと吐き倒れる。心弥は次の敵にかかる。無我夢中で三人倒したときには、既に剣路は残り全てを片づけていた。しかも、息一つ乱していない。心弥は汗だくではぁはぁしながら、剣路を見つめていた。そして自分の未熟さを痛感する。悔しい思いでいっぱいになる。
「何て顔してんだ、心弥。初めての実戦にしては上出来だ」
「剣路兄ちゃんにそんなこと言われたくないよ!」
心弥は思わずどなった。心弥はただ悔しかったのだ。それがまだ幼い故に、好敵手に見下されたことからきた感情だとも分からずに。
「なるほど。さっき俺が言ったこと、頭では理解できなくても感情で分かってるようだな」
剣路の言葉に、心弥はまた首を傾げた。剣路はふっと笑うと、今度は真顔で比古に向き直る。
「おい、これで分かっただろ。俺たちは数日間自給自足生活をこなした。剣の実力も一流だ。俺はもともと天才だし、こいつはまだ七つだが初めての実戦で真剣相手の大人三人に圧勝した。俺たちに飛天御剣流を教えろ」
剣路は比古に言い放った。
「なるほど。確かにとんでもねぇ実力だ。二人ともな」
比古の言葉に心弥はぱっと顔を輝かせる。剣路だけでなく、自分も認めてもらえたことに。
「だが、こいつら誰も死んじゃいねーようだが」
「当たり前だ! 剣は人を生かすためにあるんだ! それが活人剣の理なんだっ!」
心弥は堂々と声を張り上げたが、剣路ははっとする。
「フン。バカ弟子のガキのほうはやっと気付いたようだな。そうだ。飛天御剣流は活人剣じゃねぇ。殺人剣なんだよ」
「サツジンケン?」
心弥は意味を求め、剣路を見上げた。
「活人剣の活の字を、殺すって文字に置き換えてみろ」
「殺人剣……」
剣路に説明を受けて、心弥はこわごわとその言葉をつぶやく。
「神谷活心流は人を生かす剣。だけど飛天御剣流は殺人剣。つまり、人殺しの剣だ」
「人殺しの……剣……」
剣路の言葉を、心弥は呆然と反復する。
「やはりお前らはバカ弟子の息子と、その跡を継いだガキの息子だぜ。帰んな。そして今まで通り活人剣を振るえばいい」
比古は背を向けて、立ち去っていく。心弥はその背中を見ながらしばらく何か考えていたが、やがて口を開いた。
「待って!」
比古は、背を向けたまま足を止める。
「剣心さんは飛天御剣流を振るっていたけれど、人は殺さなかったんでしょう? 確か……『不殺』って言って……」
「それがどんなに難しいことなのか、分かっているのか小僧……」
振り返り、比古は言った。その言葉は、重かった。
第五十八話「継承者」
「あいつも、昔はたくさん人を殺めた」
心弥は言葉を失った。いつかの和の言葉を思い出す。父さんは、罪を背負って生きている……。
「殺人剣の使い手が不殺を貫くというのは、気が狂うほどの苦しみだぞ。剣心が跡継ぎであるはずの弥彦に飛天御剣流を絶対に教えなかった訳はそこにある」
今度は剣路が思い出す。三年前、初めて弥彦から飛天御剣流の話を聞いたとき。そんなに憧れていたなら何故ならわなかったのかと聞いたとき、弥彦は答えた。教えてもらえなかったんだ。殺人剣だったから、と。けれど同時に、弥彦が憧れていたと聞いて、自分も強い憧れを抱いたのをよく覚えている。
「俺はそれでもいい。弥彦兄の逆刃刀で、不殺を貫いて見せる。だから飛天御剣流を教えろ」
剣路は真っ直ぐに比古を見上げた。
「小僧はどうなんだ?」
「おれは……」
比古にたずねられ、心弥はとまどう。けれど、考えて、そして答えた。
「おれは、父上の跡を継ぐんだ。飛天御剣流を覚えても、ちゃんと父上の逆刃刀で活人剣をふるう!」
比古は笑う。
「言っていることが無茶苦茶だなお前は。それに……」
今度は剣路に目を向ける。
「お前は人を守ろうとか、そーいう気持ちがまるでみえんな」
くっと剣路は比古をにらむ。
「……まぁいいだろう。飛天御剣流を絶やすわけにはいかねぇし、これから新しい弟子をさがすのは面倒だと思っていたところだ。殺人剣の飛天御剣流をお前らがどう不殺の剣にするのか見物だしな。せいぜい楽しませてもらうぜ」
「じゃあ教えてくれるんだね、おじさん!」
心弥の顔にぱっと笑顔が宿った。剣路もようやくほっとする。
「おじさんは止せと言っているだろう。俺は比古清十郎だ。まぁこれからはお師匠様と呼んでもらうがな」
「おい。師匠と呼んでやる代わりに、バカ弟子の息子と呼ぶのを止めろ。俺は親父の子供と呼ばれるのが大嫌いなんだ」
剣路はけっとツバを吐いた。
「フン。よくある話だな。親が偉大だと、息子は重圧に耐えかねてひねくれるってな」
「おれの父上も日本一強いけど、おれはひねくれてないよ」
心弥は、悪意もなくさらりと言ってのける。
「神谷活心流師範、明神弥彦。十四で白刃取り千本制覇。東日本で五本の指に入り、今では日本一の腕を持つ剣客、か。で、その息子の名は?」
「明神心弥!」
比古の言葉に、心弥は誇らしさで胸がいっぱいだった。
「緋村剣心。またの名を人斬り抜刀斎。かつて最強の剣客とうたわれた男。して、その息子の名は?」
比古はからかうように、最高に不機嫌な剣路にたずねる。
「適当に名前変えてくれ」
「緋村剣路! 緋村剣路だよ! 師匠!」
心弥は上機嫌で連呼した。
「剣路、心弥、お前ら年いくつだ」
「俺は十三。心弥は七つだって言っただろ」
比古は二人をながめた。
「剣路。お前はもう九頭龍閃が出来ると言ったな」
「天翔龍閃も完成間近だ」
「ほう」
比古は楽しげに笑う。
「それで、心弥。お前はまだ何一つ出来ないそうだな」
「これから覚えるもん!」
心弥は悔しげに答える。
「まぁふくれるな。普通、七つのガキが飛天をならいはじめるのは無茶なんだが、お前なら大丈夫だろう。剣路。こいつが天翔龍閃を覚えるまで恐らく三年だ。それまでもう一度基本をならいながら、待っていられるか?」
「何を待つと言うんだ」
比古はにやりと笑う。
「飛天御剣流の継承者は一人と決まっているんだよ。だから、心弥が奥義を覚えたら、二人で奥義の撃ち合いをしてもらう。勝利した方に継承を認める」
「一人しか……継承できないだと?」
剣路は困惑する。
「初めに言っただろう。代々そうだ。そして、お前らは言ったな。不殺の飛天御剣流を振るうと。それなら奥義の撃ち合いで、不殺を見せてみろ。でねぇと、どっちかが死ぬぜ」
その一言で、心弥は不殺の重みを感じる。
「おじけづいたのか? 心弥」
剣路は心弥をにらむ。心弥ははっとして首を振った。その目に、強い意志を宿す。
「異論はねぇようだな。なら明日から修業だ。今日から家に入れてやる。風呂に入れ。ああ、家事全般はお前らで分担してやれよ。食料調達もだ。分かったな」
比古は、くるりと背を向けて去っていった。
「剣路兄ちゃん!」
心弥は剣路を見上げて笑った。
「ようやく第一段階突破か」
剣路は、先が思いやられるといった様子だった。
第五十九話「修業開始」
「さて、始めるとするか」
比古の家の前に広がる地面。ところどころに草が生えている。比古と心弥は木刀を持ち向き合い、剣路は近くの岩に座り見物している。
「いいか。今から俺が抜刀を見せてやる。俺がやったらお前は真似ろ。剣路、お前は見取り稽古で十分だな。本場の御剣流が拝めるんだ。ありがたく思いな」
剣路は答えず、だがじっと比古を見つめる。心弥も比古を見る。ただその見る目は、剣路のそれとはどこか違っている。
比古は腰に差した木刀を抜刀した。一陣の風が舞う。まさに神速の剣だ。剣路は驚いて目を見開く。
「ほら、やってみろ」
比古は心弥にアゴを向ける。
「でも……速すぎて見えなかった……」
「そうか。分かった」
比古はそう言うと、一度腰に木刀を差し、いきなり心弥に襲いかかった。気付いたときには心弥は比古の抜刀した木刀を腹に食らい、かなり後方へふっとんでいた。
「見えねーなら、体で覚えろ」
比古はまるで敵に向ける表情で笑った。剣路は一瞬体がすくむ。だがすぐに心弥に目を向けた。心弥は倒れたままである。
「心弥!」
剣路は思わず走り寄ろうとしたが、比古に後ろから襟をつかまれた。
「手ぇ出すな。それよりお前は自分の修業をしたらどうなんだ。気ぃ抜いてるとあっという間にアイツに抜かされるぜ」
比古が目を向けた先では、心弥は体を起こしかけていた。苦痛に顔を歪ませ、脂汗をにじませながら。
「さっさと立て小僧。そして抜刀してみろ。出来ねぇってんならもう一度食らわせるぜ」
「小僧じゃない。明神心弥」
心弥は、歯を食いしばり立ち上がる。
「だけど……抜刀のやり方は分からなかった。ごめんなさい」
たんたんと、心弥は比古に告げる。
「別にかまわんさ。分かるまで何度もお前が剣を食らうことになるだけだ」
冷酷な比古の言葉に、心弥はただうなずいた。比古を責めるわけでもなく、剣を食らうことを嫌がる様子もなく。
そうして心弥は何度も剣を食らい倒れ、それでも痛いの一言ももらさずけれど苦しげに立ち上がる。抜刀してみろ、と何度か言われても、分からない、と首を振り謝る。剣路は修業を始めたものの、心弥の様子が気になって修業にならない。
修業第一日目は、こうして幕を閉じた。
終了と同時に、心弥は地べたに倒れ込んだ。剣路が駆け寄る。
「おい心弥!」
心弥を抱き起こそうとする剣路だったが、心弥はあわてて一人で起きあがる。
「ごめん剣路兄ちゃん。おれのせいで、修業に集中できなかったみたいだね……。おれ、今日の家事全部やるよ。だけど、お料理だけはまだ上手くできないから教えてね」
心弥はよろよろと立ち上がり、食料調達へ出かけた。その様子を、比古と剣路はじっと見ていた。
第六十話「心弥の夢 和の夢」
「ほれ、食料調達するなら、籠くらい使え」
よろよろと木々の間を散策する心弥の前に現れた比古は、心弥に籠をむんずと押しつけた。
「ごめんなさい師匠……」
心弥は、元気なくつぶやく。
「ごめんなさい、か。普通こういうときは、礼の言葉を言うものだがな」
「ありがとう」
心弥は素直に訂正する。けれど、やはり元気がないまま。
「小僧。ここ座んな」
比古は腰を下ろし、心弥にとなりをさす。心弥はもはや名前で呼ぶことを求めることもなく、ただだまってしたがう。こうして並ぶと、二人の体格があまりに違うのが分かる。雄大な比古、小さな小さな心弥。
「意味のねぇときにごめんなさいなんて言うやつは、心にやましいことがあるときだ」
心弥は、はっと比古を見上げる。
「お前、飛天御剣流を積極的に覚えようという気がないだろう」
心弥はびくっとした。
「なんで……そんなこと……」
「今日の修業で、お前は一度も抜刀しなかった。やる気があれば、一度くらいは抜刀するもんだ」
心弥はうつむく。
「否定しねぇってことは、認めるってことだな」
「ごめんなさい」
心弥は、蚊の鳴くような声であやまる。
「責めてるわけじゃねぇ。ただ、訳は聞かせろ」
「……剣路兄ちゃんには言わない?」
心弥は比古を見上げ、不安げにたずねる。
「ああ」
比古はうなずくと、心弥は安堵の表情を見せ、けれどまたうつむいた。
「おれは本当は、父上に剣をならいたかったんだ。それに、父上と同じ神谷活心流を覚えたかった。でも和が……あ、和っていうのは――」
「弥彦から聞いて事情は分かっている」
「父上から?」
心弥は思わず目を見開いた。
「ああ。こないだここへ来たとき、夜中にあいさつされて、その時にな」
「夜中に? 父上が師匠を起こしたの?」
「……起きてたんだよ。ガキを夜中に放っておくわけにはいかないからな。それより話を続けろ」
変に気が回る心弥に、比古は隠していたことを白状した。心弥は、自分たちを見守っていてくれた比古に、態度には出さない優しさを感じた。
「おれは、和と剣路兄ちゃんを離したくなくてここへ来たんだけど、飛天御剣流をならわないとここには置いてもらえないでしょ。だからおれ、飛天御剣流を会得しようって思ったんだ」
「そこまでは弥彦に聞いて知ってるぜ。問題は、そうと決めたお前が何故修業に身が入らねぇかだ」
比古の問いに、心弥は体を固くする。
「……飛天御剣流を会得して、父上の跡継ぎをかけた勝負をしようって、剣路兄ちゃんと約束したんだ。おれね、父上の跡を継ぐのが夢なんだ。だから今日の修業は、夢を叶えるための新しい第一歩だったんだよ。だけど……」
心弥は、抱えた膝に顔をうずめる。
「和は夢を叶えることができなかったから……。和は剣路兄ちゃんが大好きで、だから抱っこしてもらいたかったんだ……。たったそれだけのことって師匠は笑うかもしれないけど、だけど和は剣路兄ちゃんに一度も優しくしてもらったことがなかったから……他の子が当たり前のようにお兄ちゃんにそうしてもらっていても、和はそうじゃなかったから……。だから和にとってそれはとっても大きな夢だったんだ。だけど和は一度も目を覚まさないで死んじゃったから……。だからおれだけ夢を叶えたら和がかわいそうだから、それに和が死んだのと剣路兄ちゃんに辛い思いをさせたのはおれのせいだから、だからおれは……」
心弥は、しだいに追いつめられたような口調になっていく。
「それで夢を叶えるのをあきらめたのか? それもいいだろう。飛天をならわずともここへ置いてやってもいいんだぜ」
「それは……」
心弥は何故かとまどう。
「どうした? それじゃあ困るか?」
比古は、まるですべて見透かしたようにたずねる。
「おれね……奥義会得の勝負のとき、剣路兄ちゃんの剣を受けて死のうと思うんだ」
心弥はさらりと言ってのけた。心弥の口から出る死という言葉は、まるでなんでもないことのように聞こえる。
「ねぇ、不殺でなくても、飛天御剣流は会得出来るんでしょう? だったらおれ、剣路兄ちゃんの夢を叶えてあげたい。和の夢を叶えてあげることが出来なかったから、せめて……」
小さな胸をいっぱいに痛める心弥に、比古はため息をつく。
「別にお前が死ぬことはないだろう。俺が相手をして、俺が死ねばすむことだ。奥義の伝授は代々そうして行われてきた」
心弥は首を振った。
「おれじゃなくちゃダメなんだ。だってそうじゃないと、罪をつぐなうことにはならないでしょ。悪いことをしたら罪をつぐなわないといけないんだ。そうやって剣心さんは生きているって、和は言ってた。だから……。そーいう……ことだから……」
心弥はふらふら立ち上がると、ごめんなさい、とつぶやき、木々の向こうへ消えていった。その小さな背中を比古はながめ、そして木々の影でそれを聞いていた剣路を、気付かれないようにほんのちらりと見た。うつむいた剣路の表情はうかがえなかったが、肩が少しだけ震えているのが分かった。
第六十一話「空想ごっこ」
真夜中、剣路は独り木々の中剣を振るう。苦しげに、どうしようもない辛さを抱え、木々に剣をぶつける。勢いのままに剣を振り続けていたが、剣路は突然剣を止めようとする。だが間に合わなかった。突然目の前に現れた心弥の肩に剣は振り下ろされ、心弥は肩を押さえる。痛いはずなのに、そんな感覚など忘れたように、ただじっと剣路を見上げて。
「稽古してるのはいいけど、剣筋乱れすぎだよ、剣路兄ちゃん」
心弥が発したその言葉はあまりにも弥彦の言葉そっくりで……剣路の気持ちは心なしかやわらぐ。けれどそれも一瞬の効果に過ぎず、剣路は苦しげに座り込んだ。
「苦しそうだね、剣路兄ちゃん……。いつも、こんなふうに剣を振るうの?」
心弥は、泣きそうにつぶやく。自分のせいだと信じて疑わないその表情で。そんな心弥を何とか救ってやりたい剣路ではあるが、今は自分の抱えた苦しみでいっぱいで、そんな余裕もなく……思わずこんな言葉が口をついて出る。
「和は……たった一人の弟だったのに……。あんなに俺を慕っていたのに……。なぁ心弥、お前の胸の中にいる和は、辛そうか? 俺に抱っこしてもらいたかったって、泣いてるか?」
うつむいて顔をおおう剣路を、心弥は見つめていた。かなり長い間そうしていたが、やがて心弥は、剣路の両肩にそっと手を置いた。
「空想ごっこ、しよ。おれが和の役をやるね」
剣路は顔を上げて、心弥を見つめる。
「ここは河原だよ。おれは……じゃなくって、ぼくは、河原でおそくまで遊んでるの。夕方になるまでずっと……」
目をぱちくりさせる剣路。
「剣路兄ちゃん! もう空想ごっこ始まってるんだよ。早く和を迎えにいってあげてよ」
そう言って心弥は、そうだ、と懐から剣玉を取り出し、カン、コン、カンと玉を突く。剣路は立ち上がると、おずおずと心弥――和に近づく。
「あっ! 兄ちゃん!」
和は笑顔で兄を見上げる。
「帰るぞ、和」
剣路はそっけなく、けれど懐かしさを胸に込め言う。すると急に、心弥は頬をふくらませた。
「ダメだよ剣路兄ちゃん! もっと本気でやってよ。本当のことだと思ってやって! おれの心の中には本当に和がいるんだから。じゃあやり直しだよ!」
心弥は再び剣玉を突く。
剣路は目をつむった。幼い病気の弟が、こんなに遅くなってもまだ帰らない。全く、なにをしているのだろうか。何かあったらどうするんだ。病気がひどくなったらどうするんだ。
剣路が目を開けると、夕暮れの河原に独り剣玉を突くのは和。剣路は、ずっと探していた和をやっと見つけ、駆け寄る。
「あっ、兄ちゃん!」
「ばかっ!」
剣路はいきなり和をひっぱたいた。
「こんな遅くまでこんなところで……。どれだけ心配したと思ってるんだっ!」
もう一度、剣路は和をひっぱたく。
「ごめんなさい兄ちゃん……」
素直にあやまる和。剣路は和に手を伸ばし、いいのだろうか、とためらったが……。怒られて悲しい思いをしているであろう和を、たった一人の可愛い弟の和を、そっと抱きしめた。
「勝手に遠くへ行くな。もうどこへも行くな。ずっとずっと俺のそばにいろ……」
和を抱きしめる剣路の力は、いつの間にか強くなっていた。和は、剣路の背中に手をまわす。
和がよろこんでいるような、そんな気がした。
やがて剣路が手を離すと、心弥はにっこり笑った。
「和が死ぬ前の日、同じ空想ごっこをやったんだ。和が望んだのと同じように、剣路兄ちゃんはしてくれた。だから和、今とってもよろこんでるよ」
心弥は胸に手を当てて、穏やかに笑った。剣路は腰を下ろしたまま、うつむく。立ち上がった心弥は、その両肩に手を置き、そしてそのまま剣路に抱きつく。先程のように背中に手をまわすのではなく、対等のように首に手をまわしたのは、心弥が無意識のうちに、けれどその気持ちが確かにありそうしたのだ。そのまま心弥は、漏れる声を抑え、けれど震える体は剣路に伝わる。心弥が声を押し殺して泣いているのに、剣路は気付く。
「心弥?」
「おれも……おれもね……、優しい剣路兄ちゃんに会いたかったんだ……」
心弥は言い終わると、剣路にぎゅっとしがみつき、堰を切ったように思い切り泣き始めた。
その様子を、比古は影から満足そうに見つめるのであった。
第六十二話「帰郷」
翌朝は快晴だった。剣路と心弥は朝食をすませると、外で比古を待った。だが、やがて現れた比古の第一声は意外な言葉だった。
「お前ら、東京へ帰れ」
一瞬、沈黙が流れた。
「どういうことだ。俺たちは破門されるようなことをした覚えはない」
剣路は比古をにらみ据える。
「早まるな剣路。別に破門させようとしてる訳じゃねぇさ。ただ……」
比古は心弥を、そして剣路を見つめる。
「心弥。昨日の修業に対する姿勢。あんな調子では御剣流は会得できねーぜ? そんなやつに教えても時間の無駄だ」
「ごめんなさいっ! 今日はちゃんとするから!」
心弥はあわてて比古にすがったが、比古はつかまれた腕を思い切りはねのけた。
「甘えるなよ小僧。いいか。死ぬなんて考えてるやつに、飛天御剣流を教える気はねぇんだよ」
「……剣路兄ちゃんには、言わないって……」
比古の威圧を感じながらも、心弥はおどおどと抗議する。
「俺はそんな約束を守るほど優しくねぇんだよ」
意地悪そうに笑う比古。心弥は呆然とする。
「おい。破門はさせないが東京に戻れとはいったいどういうことだ」
腕組みをした剣路は、比古を睨みあげる。
「足りねぇんだよ」
比古は剣路を睨み返す。
「何がだ」
「御剣流を会得しようという気持ちの強さ……。お前もだ剣路。昨日の修業態度によくあらわれていたぜ。お前らはもともと剣を振るう動機が甘すぎる」
「……人を守るために剣を振るえ。結局アンタはそーいうご立派な答えが欲しいだけだろ」
皮肉たっぷりの剣路に、比古は鼻で笑う。
「今時のガキにそんな立派な答えは求めてねぇよ。ただ……」
比古は二人を順番に見つめ、そして言った。
「まともに修業が受けられるくらいの答えは見つけてこい」
東京。船から降りた二人は、下町の自宅へと向かう。
「ねぇ……。道場はこっちじゃないよ……」
心弥はつぶやく。比古の家からここまでずっと、心弥は元気がない。
「まずはお前の家だ。お前を見張ってねーと、ちゃんと帰るか分かったもんじゃねーからな」
「帰るよ……。おれ、大丈夫だから……」
心弥を考え深げに見ていた剣路だったが、やがてうなずいた。
「分かった。またな」
剣路は、去っていく心弥の小さな背中を見送ったあと、神谷道場へと足を運んだ。
第六十三話「家族」
心弥は家の前に立っていた。連絡もなしに帰ってきたので、両親は驚くだろうと思いながら、戸を開ける。
「父上、母上。ただいま帰りました」
そう言って玄関に入り戸を閉めると、パタパタと足音が近づいてくる。だが、その足音は聞き慣れなく、心弥は首を傾げたが――謎はすぐに解けた。赤べこの、妙だった。
「……心弥くんっ!」
「妙さん。なんでここに……」
驚く表情の妙に、心弥はぼんやりたずねる。
「燕ちゃん、何も食べなくて体弱っとるんよ。心弥くんが突然いなくなったもんやから。はよ行ってあげなさいな」
心弥は急いで草履をぬぎ廊下をかけ、燕の寝室へ飛び込んだ。
「母上っ!」
燕は、布団に寝ていたが、はっと目をさます。顔色が悪く、頬がげっそりとやせているのが心弥から見ても分かった。
「しん……や……」
燕は上半身を起こすが、ふらりと体勢が崩れそうになる。心弥はかけより母の体を支えた。つかんだ腕がまた細くなっているのを感じる。
「母上……」
いたたまれない気持ちで、心弥は母を呼ぶ。
「心弥……なのね……」
燕は心弥を見つめた。しだいにその目から涙があふれる。きっと心弥の顔もまわりのものも涙で歪んで見えないだろうというほどに、燕はたくさんの涙をこぼす。その表情があまりにも苦しそうだったので、心弥は声をかけようとしたが――
パアン――。部屋に響き渡ったそれは、心弥の頬が打たれた音だった。
「ばかっ!」
そう母に怒鳴られたのは生まれて初めてで……。ぶたれた頬はなぜか父のときよりも痛くて……。
「黙って……家を出るなんて……。どれだけ心配したと……思ってるの……。お母さん……心弥にもしもなにかあったら……さみしくて生きていけない……」
悲痛な面もちで顔をおおう母に、心弥は胸が苦しくなる。ごめんなさい、と、小さくつぶやくと、心弥は母を抱きしめる。
いつしか部屋は、夕焼け色に満たされていた。
その頃神谷家の門前に、剣路は立ちつくしていた。うつむいたまま、もうずっと長いことそうしている。
やがて剣路は、はっと顔をあげた。縁側から、父が降りてきたからだ。まっすぐ、向かってくる。
「お帰りでござるよ、剣路」
穏やかに笑う父。
「なんでそんなに普通なんだよ」
剣路は不機嫌にたずねる。
「そう言われても困るでござるよ。息子が帰ってきたら、お帰りと言うものでござろう?」
「黙って出てった息子が、急に帰ってきたんだ。驚いたりとか、怒ったりとかぶったりとかするだろ普通!」
苛立ちのまま、剣路は父にくってかかる。
「剣路はぶってほしいのでござるか?」
「……もういい。まともに会話しようとした俺がバカだった。俺はお前なんかに用はねぇんだよ。ただ……母さんの様子を見に来ただけだ」
剣路はすたすたと中へ入っていった。剣心は息子の背中を、優しくあたたかく見つめ、微笑んだ。
第六十四話「母の存在」
病気の母は、すっかりやせ細り、床に伏していた。剣路が近づきそばに座ると、そっと薫は目を開けた。力のない腕を差し出し、剣路の頬にふれる。
「剣路……。帰ってきて……くれたのね……」
薫はほほえんだ。剣路は、黙って母を見つめる。
「母さん、いつも、夢を見てたのよ……。和と……そして、あなたの夢……」
剣路の体は、一瞬反応する。
「和をね……お父さんと母さんで追いかけてるの……。だけど……どこまで追いかけても……つかまらないの……。そうしてハッと気付いて後ろを振り向くとね……まだ小さなあなたが泣いてるの……」
「俺は、ガキの頃から泣いたりなんかしなかった。心弥と違ってな」
たんたんと言葉を返す剣路に、薫は可笑しそうに笑う。
「そうね。剣路も和も、そういうところ、誰に似たのかしら。母さんじゃないことは確かね。きっとお父さんね」
「俺は父さんには似てねーよ!」
病気の母の前なのに、つい苛立って怒鳴る剣路。けれど薫はおだやかにほほえんだまま。
「そうね。あなたはお父さんよりも、お兄ちゃんに……弥彦に似ているかもしれないわ。口が悪くて、意地っ張りで、素直じゃなくって。でもね、母さん最近思うの。まだ小さかったあの子は、本当はいっつも涙こらえてたんじゃないかって。だって、あの子にはもうお父さんもお母さんもいなかったのだもの。それでも決して剣心や私に甘えたりしなかった。あの子が全然平気そうだったから、それでいいと思ってた。ねぇ剣路。母さん、間違っていたと思う? 本当はあの子、すごくさみしかったんじゃないかしら……。あの子に、泣いてもいいのよって、言ってあげればよかったのかしら……。心の中で独りで泣くんじゃなくて、ちゃんと私たちの前で泣いてもいいよって、抱きしめてあげればよかったのかしら……。ねぇ剣路。あなたも、そうだったの? さみしかったの? そうよね……さみしかったわよね……」
いつの間にか、薫は泣いていた。
「母さんは今、病気だからそんなことを考えてしまうだけだ」
剣路は母の目を見つめ、務めて穏やかに言った。
「弥彦兄は、そんなに弱くない。……そういえば、弥彦兄は冗談交じりにこう言ってた。いつも泣き虫なのがそばにいて、自分の代わりに泣いてくれるから、自分は泣かなくてもだいじょうぶだったんだって。それはきっと燕姉のことなんだけど……。だったら俺が泣かなくてもだいじょうぶなのは、心弥が代わりに泣いてくれるからかもな。まぁ俺は頼んだ覚えはないけど……」
「ふふ。心弥くんは燕ちゃん似で泣き虫くんだものね」
弱々しい口調で、けれど楽しげに話す母を見ながら、剣路は妙な気分だった。この三年間、ほとんどまともに話さなかった母と、今こうして普通に会話をしている。
剣路は思った。母はきっと、自分が和を殺したことを知らないのだろう、と。もし知ったら……。
剣路は、そっと母の肩に布団をかけた。
「心弥くん。お粥さん作っておいたから、お母さんに食べさせてあげるんよ」
心弥がお礼を言うと、妙は明神家を後にした。しんとした家。父は会津へ一ヶ月の出稽古中だそうだ。家にいるのは自分と母だけ。自分が母を守らなければならないと、心弥は思う。
粥をあたためて、母のところへ持っていく。母のそばに座り、心弥はさじで粥をすくい、ふぅふぅと冷まし、母の口へ運んだ。その様子を愛しげに見つめ、そして粥を食べる燕。その姿は、帰ってきたときとはまるで変わっていて、ほとんど元気なように心弥には見えた。燕は、三口ほど食べたところで、そっと心弥からお椀とさじを取る。
「ありがとう心弥。疲れたでしょ。お母さん、もう自分で食べられるからだいじょうぶよ」
優しいほほえみを浮かべ粥を食べる母を、心弥はじっと見つめていた。疲れてなんかないよ、と言ってお椀を取り返してもよかったし、実際にそこまで疲れていたわけではなかった。ただ、なぜかそうは言い出せず……。普通にお椀を持ちさじを持ち食べる母を見ていると、心弥はずっと頑張っていた気持ちがほどけていくのを感じる。そう……母は守るべき存在ではなく……。ここを出ていく前までずっとそうだったように、悲しいときに、さみしいときに、辛いときに……いつも甘えさせてくれる存在で……。
「ごちそうさまでした。ありがとう心弥」
そう言って、空になったお椀とさじを置いた母に……心弥は抱きついた。和に後ろめたく思うことも、父から母を守るように言われたことも、泣かないと頑張っていることも、すべて忘れて。ただ夢中で、母にしがみついた。そうして心弥は、何かをこらえながら泣くのでもなく、泣かないと頑張っていたはずの自分を責めながら泣くのでもなく……七つの子供らしく素直に泣いた。それは、ただ母に甘えたくて。ただ、母が大好きで。
たくさんの涙を流した心弥だが、こんな風に泣いたのは、三年前のあの日――剣路が神谷道場を出ていった日以来初めてなのであった。
第六十五話「哀しい幸せ」
次の日の早朝、明神家に剣路が訪れた。旅支度の格好で。
「もう帰るの剣路兄ちゃん」
玄関先で、心弥は驚いてたずねた。
「いや、弥彦兄のところへ行こうと思って。会津へ出稽古中なんだろ? お前も行くか?」
心弥は少し考えたが、首を振った。今は母と一緒にいるべきだし、いたいと思った。
「数日中には帰る。なにか伝えてほしいことはあるか?」
「母上は元気になってきましたって。それから、おれも元気ですって、そう言って」
剣路は心弥をにらむ。
「燕姉はいいが、お前は全然元気じゃないくせに……。まあいい。言っておくから、その代わり俺が帰るまでに少しは元気になってろ」
心弥がうなずくと、剣路は去っていった。
朝食をすませると、心弥は神谷道場へ足を運んだ。ちょうど洗濯を干し終えた剣心を見つけ声をかける。話をしたいとお願いすると、剣心は優しい笑顔でうなずき、誰もいない日曜日の道場へと心弥を誘った。
「ここにいると、なんだかすごくあったかい気持ちになります」
心弥は道場の壁にもたれながら、うれしそうに、けれどどこかさみしそうに言った。隣りに寄りかかる剣心は、心弥をあたたかく見守る。
「おれはね、剣心さん、飛天御剣流よりも、神谷活心流が良かったんです」
心弥は、道場内をぼんやり見ながら続ける。
「だって、神谷活心流は活人剣だから。殺人剣の飛天御剣流より、おれは神谷活心流がいい」
たんたんと、けれど確信を持って言う心弥。
「剣路兄ちゃんは、父上が飛天御剣流に憧れていたからその剣をならいたいって言うけれど、おれはそれでも神谷活心流がいいんです」
心弥はそこで、剣心を見上げた。
「だけど、父上が飛天御剣流に憧れた気持ち、おれには分かります。だって父上の憧れは、剣心さんだったから。ねぇ剣心さん。なんで父上に飛天御剣流を教えてあげなかったの? やっぱり、殺人剣だったから?」
「そうでござるな……」
剣心はその後少し考え、そして続けた。
「けれど、教えてやってもよかったかもしれない。今になって、ふとそう思うときがあるでござるよ」
剣心の意外な言葉に、心弥は驚いた。何故? と、目でたずねる。
「飛天御剣流を会得した拙者が苦しんだのは、拙者が罪を犯したから。拙者が間違った道を歩んだからでござる。けれど、弥彦は決して間違えたりしなかったでござるから。そうしてそれは、剣路にも、お主にも言えることでござるよ」
きょとんとしている心弥の頭を、剣心はなでる。
「心弥には、まだ難しい話でござったな」
心弥は、少し考えて、うつむく。
「おれ、間違ったことしたよ。罪をおかしたよ」
ぼそりとつぶやく心弥に、剣心は驚き、心弥の前にしゃがむ。心弥は剣心から顔を背け、泣きそうになる。
「だいじょうぶでござるよ心弥。拙者は、何も聞かないでござるから」
剣心があまりに優しいので、悲しくて胸がいっぱいになる。けれど、涙は心の奥に押し込められて、出てこない。
「剣心さんはどうやって罪をつぐなったの?」
せっぱ詰まったように、心弥はたずねる。剣心は、少し困ったように笑う。
「そうでござるな……。拙者は、この目に映る弱い人たちや泣いている人たちを、剣で助けているでござるよ」
「剣で人を……助ける……」
心弥はつぶやく。
「おれは、そんなこと考えたことなかった。活人剣は人を活かす剣だから殺人剣よりいいって思ったけど……おれ人を助けたこと一度もないよ」
「そんなことないでござるよ」
剣心の言葉に、心弥は驚く。
「病院にいる和のところへ剣路を連れてきてくれたのは、お主なのでござろう? 逆刃刀で、剣路を連れてきてくれたのでござろう?」
心弥ははっとした。それが、剣で人を助けるということなのだと、今になって気付いた。けれど、結局和は助からなかった。心弥の頭は混乱する。
「剣心さん。おれ、どうしていいかもう分からないんだ。死のうとすれば怒られるし、でもおれ、生きていてもいいの?」
剣心は、心弥を抱きしめた。
「生きていてほしいでござるよ。和の分まで……。和と一緒に生きてくれるのでござろう? 和もきっと、それを望んでいるでござるよ」
心弥はびくっとする。
「そうだね……。和は優しいから……。でもおれだけ生きていたら和に悪くて……。和がかわいそうで……」
「心弥は、優しい子でござるな」
心弥は思い切り首をふった。それしか出来なかった。和が死んだのは自分のせいだと言って、剣心に殺されたらいっそ楽になれるとも思った。けれどそれはきっと間違っているのだと、幼心にも分かった。
「罪をつぐなうために、剣路兄ちゃんに夢をゆずろうと思ったの。そうすれば、剣路兄ちゃんも、和も、幸せになれるでしょ」
剣心の腕の中で、元気なくつぶやく心弥。
「けれどそれは、哀しい幸せでござるな。剣路も、和も。そして心弥も……」
剣心の言葉は、静かに道場に響いた。
第六十六話「剣と心」
数日後。会津に着いた剣路は弥彦と会っていた。神社の長い階段を登り、一番上の段に並んで座る。人気はない。会津の街が見渡せる。
剣路は、弥彦に和の遺書を渡した。弥彦は黙って紙を広げ、ゆっくりと読んだ。病気の和が書いた弱々しい字で、兄と勝負したのは自分の意志であること、それだけが書かれていた。
「それでも、和を殺したのは俺だ。俺が和と勝負したから、和は死んだ。それが事実だ」
弥彦は丁寧に紙をたたみ、剣路に返す。やるせなさを胸に秘め、会津の空を見上げる。
「それを伝えに、わざわざ来たのか?」
剣路はうなずく。
「弥彦兄は、俺を信じると言った。だけど俺は、誰からも許されたくないんだ。それが、俺が自分で与えた罰だから」
剣路はぼそりとつぶやくと、立ち上がり一段下りる。弥彦に背を向けたまま、剣路は続けて話す。
「許してくれなくていい。けど……勝手な話だって分かってるけど……」
剣路は拳をぎゅっと握る。
「弥彦兄の跡を継ぐことだけは、あきらめてない。それが、俺と和の夢だから」
弥彦は、何も言えない。お前の罪ではない。そう言ったとしても、それは簡単に消えるものでないことを知っている。
剣路は一度弥彦を振り向き、また前を向いた。
「そんな顔しないでくれ。俺は弥彦兄には感謝してる。罪の重みで気が狂いそうだった俺を救ってくれたのは、弥彦兄だ」
剣路は、また一歩階段を下りる。
「待て剣路」
弥彦の低い声に、剣路は足を止める。
「罰は、俺が与えてやる。元師範として、そしてお前の兄として」
剣路は振り向かず、次の言葉を待つ。
「和のこと、毎日一度は思い出してやれ。お前に構ってもらえてうれしそうな和をだ。そうしてお前は罪に苦しむんじゃなくて、それをいい思い出にしろ」
「そんな難しいこと出来るわけないだろ」
剣路は思わず振り向く。
「難しいから罰なんだろ。いーか? 俺が罰を与えたんだから、ちゃんと守れ。そして、誰からも許されない罰なんかやめろ。どうせお前を許さないなんて思うやつは誰もいないんだ」
「嘘だ」
「嘘じゃねぇ。こっち来い」
言われるままに、剣路は弥彦の前に立つ。弥彦は無理矢理剣路を座らせると、剣路の頭に手をやり、自分の方へ顔を向けさせる。
「お前は和を殺そうと思ったのか?」
真っ直ぐ見据える弥彦に、剣路はとまどう。
「正直に言わねーと、ぶっとばすぞ。どうなんだ」
「気ぃ済むまで殴れよ」
「どうなんだっ!」
弥彦は怒鳴る。剣路は何故か思い出す。昔、心弥と、弥彦の跡継ぎをかけて勝負した。結果和を負傷させ、弥彦にひどく怒られた。和を連れ込んだのはどっちだ、と問われ、黙っていたら、再びどっちだと、道場いっぱいに響き渡る声で怒鳴られた。そんなことを、ふと思い出す。今なら分かる。叱ることと愛情は同じなのだと。
誰からも許されない罰なんかやめろと、言ってくれた。
「思ってなかった」
言ったとたん、心が軽くなった。決して背負った罪が消えたわけではないが、少なくとも弥彦には本当の気持ちを聞いてもらえた。気がゆるんだせいか、言うつもりのなかったことを、つい口にしてしまう。
「和のことは、いつも思い出してる。十歳のあの時から、和が死ぬまでの三年間、俺はずっと独りだと思ってた。だけど本当は弥彦兄がずっと、それから心弥も、母さんも、父さんも、そしてきっと一番和が……。なのに俺は和のこと一度も可愛がってやらなかった。和はあんなに俺を慕ってくれていたのに……。俺、おかしーんだ。今頃、和が可愛くて仕方ねーんだ。毎日後悔ばかりしてる。和とたくさん話をすればよかった。一緒に遊んでやればよかった。抱っこしてやればよかった――」
剣路は弥彦に抱きしめられ、そこで言葉は途切れた。弥彦の胸の中で、剣路は思う。いつも自分は守ってもらった。救ってもらった。大好きな兄にずっと憧れてきた。その憧れの理由が、今分かった気がした。それは決して剣の強さが最強だからではなく……。
剣路は弥彦から離れると、弥彦を見つめた。
「俺、本当は相談があって来たんだ。けど、答えが分かった」
そうして剣路は、次の言葉をためらったが、けれど弥彦から目をそらさずに。
「ありがとう」
救ってくれて。守ってくれて。兄でいてくれて。様々な思いを込め、剣路は弥彦にそう伝えた。そうして剣路は立ち上がり、階段を二、三歩駆け下り、また弥彦に振り向く。
「俺、強くなる。心弥もだ。だから三年たったら、成長した俺たちの姿見に京都へ来てくれ」
「ああ」
弥彦は優しく笑った。そうして、まるで独り言のように、弥彦はつぶやく。
「俺は、きっと一生かかっても、剣心を越えることはできねぇだろうな……」
剣路は、驚いて目を見開く。
「剣心には、越えろって言われたんだけどな。だけど、剣心の背中は今も遠い……」
「何言ってんだ。父さんには勝ったんだろ」
「そうだな……」
そうして弥彦はまぶしそうに空を見上げ、それから剣路に目線を戻す。
「俺は、剣心と同じ道を選んだから……。けど剣路、お前の剣の意味は?」
突然の質問に、剣路はうろたえる。
「いいか。忘れるな。剣と心は一つだぞ」
真剣に剣路を見つめる弥彦。その言葉は、剣路にはとてつもなく重く感じられた。
「分かった。考えてみる。それから、心弥のことは心配するな。俺が必ずあいつの心を救うから」
そうして、剣路はもう振り向くことなく、階段を下りていった。
「可愛い息子が旅立つのもさみしいけど、可愛い弟が旅立つのもまたさみしいもんだな」
弥彦は、剣路の背中を見ながら、ふっと笑った。
第六十七話「幼き恋の行方」
その頃心弥は桜と会っていた。買い物帰り、偶然道で桜とばったり会ったのだ。心弥は和が死んでから、一度も桜と会っていなかった。東京へ帰ってきてからも、心弥は桜と会おうとしなかった。それは桜と会いたかったからではなく、むしろ逆で。罪の意識を背負う心弥は、自分がうれしいことをしてはならないと思っていたのだ。けれど、ばったり会った桜から逃げ出すわけにもいかず、結局今こうして原っぱの真ん中に二人で座っている。ここは昔桜と接吻をした、今となっては心弥には恥ずかしくてたまらない場所なのであるが、桜はこの場所がお気に入りらしい。
「心弥くん、なんだか元気がないね」
「えっ?」
桜に見抜かれないようにとせいいっぱい明るくふるまっていたつもりだったのに、一発で見抜かれてしまった。
「和くんのこと、まだ辛いのね」
さらりという桜だが、その指摘はすべて当たっていて。
「黙って京都へ行ったこと、怒らないの?」
心弥がおずおず聞くと、桜はうなずいた。
「どうして?」
「だって、約束したもの。いつか迎えに来てくれるって。だから私、ずっと待ってるの」
それは三年前、二人が四つのときにした約束。父上の跡を継ぐから、もうあまり会えないと、けれどいつか迎えに行くからと。桜吹雪の中で、そう誓った。わずか四つで、結婚を誓った。まだ胸の高鳴りも知らないのに。狂おしいほど相手を求める気持ちも知らないのに。それでも二人はお互いを純粋に、好きだった。大人になったら一緒に生きていくのだと、二人は今も信じて疑わない。もっとも心弥の場合、自分が生きていればの話だったが……。
「今度は、三年間も会えないんだよ。それでも待っててくれるの?」
桜は、穏やかに笑んでうなずく。
「さみしくないの?」
「さみしいよ。でも我慢する。だって心弥くんが夢をかなえるためだもの」
桜は、そっと心弥の手を包む。
「そうして心弥くんが幸せになってくれたら、それが私の一番の幸せなの」
桜は、にっこり笑った。
心弥は、桜を抱きしめた。和を殺した罪の意識で、胸が押しつぶされそうになりながら。それでも桜が大切で。大好きで。
自分は死ぬかもしれないのに。幸せになる権利などないのに。そう思いながらも、待たなくていいとは言えなかった。
さよならかもしれない。ごめんね。大好き。様々な想いをこめて。心弥は桜に、そっと接吻をした。
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