「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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第六十八話~第七十六話
本作品は、
「るろうに剣心小説(連載2)設定」
をご覧になってからお読みいただくことをおすすめいたします。面倒とは思いますが、オリジナル要素が強いので、キャラ人間関係・年齢等目を通していただきますと話が分かりやすくなります。
『剣と心』目次
『剣と心』
第六十八話「剣心と剣路」
数日後、剣路は神谷家へ帰るなり剣心に信じられないことを言いだした。
「稽古相手になってくれ」
剣路がこんなことを口にしたのは生まれて初めてだが――剣心は、にっこり笑いうなずいた。
門下生も帰り、夕方の道場は剣心と剣路の二人だけだった。夕日が差し込むしんとした道場で、二人は竹刀を構える。
「いつでもかかってくるでござるよ」
「ふざけんな。そっちからかかってこい」
こうなっても、相変わらずな剣路。だが剣心も相変わらず笑ったまま。
「そうか。では、いくでござるよ」
剣心は、剣路にうちこんでいった。剣路は剣を受ける。もうほとんど剣を振るうことが出来ない体の剣心。剣路にはその剣を受けることはたやすい。けれど剣路は、剣心の剣を受け続ける。そして思う。やはり、似ていると。父の剣は、弥彦に似ている。型とか、剣の振るいかたではなく、魂が。弥彦が、逆刃刀だけでなく、一緒に父の信念を受け継いだことが良く分かる。この目に映る弱い人たちや泣いている人たちを守りたい。その信念を持つ弥彦は、それを剣心からそのまま受け継いだのだ。
それを確信して、剣路は剣をおろした。
「どうしたでござるか?」
剣心も、打ち込みをやめ、息子を見つめる。
「父さんは、なんで弥彦兄に逆刃刀を?」
剣心は、一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに穏やかな表情に戻った。
「弥彦は、幼い頃から心根が立派だったでござるよ。ひたすら真っ直ぐ、人を守る剣を振るい続けた。そんな弥彦が逆刃刀を欲してくれたから、そして拙者は自分の信念を継いでくれる弥彦に逆刃刀をふるってほしかったから」
「……」
剣路はその時、ふいに一つの謎がとけてしまった。父に対する拒絶感の訳。それは、例えば父が他の家と違って家事全般をやっていたせいでもなく。和にばかり構っていたからでもなく。理屈で物事を進めていく性格だからでもなく。ただ――あまりに偉大すぎたのだ。それもそのはず。自分が憧れてきた弥彦は、ただ元服の祝いにと逆刃刀を受け継いだ訳ではなかったのだ。幼い頃から立派だったと聞いていた弥彦。それは理由なくそうだったわけでなく。剣心のそばでその信念に影響を受けながら、成長していったのだ。弥彦にとって剣心は心の師匠で。父の偉大さは今でも憧れの弥彦よりはるかに上で。だから剣路はそれを認めたくなくて。父のアラ探しに一生懸命で、出来るだけ父を避け、嫌いだと思いこもうとしてきただけなのだ。
剣路は愕然とした。あまりに子供だった自分に。何より、衝撃的なこの事実に。
「剣路?」
剣心は不思議そうに、再び息子の名を呼ぶ。けれど、事実を知ったからといって、いきなり和解出来るほどまだ剣路は大人ではない。
「もうやめだ。弱すぎて相手にもなんねー」
結局、剣路は相変わらずの言葉を吐き捨て、道場を後にした。
第六十九話「誰がために」
その夜、心弥は元気になった母と二人きりの夕食時、ふとたずねた。
「父上が出稽古に出かけていて、おれが神谷道場へ行っているときがあるでしょう? 母上、そういうとき、さみしいですか?」
「ええ、さみしいわ」
燕は、言葉とはうらはらに、穏やかな笑みをたたえ答えた。
「おれ、三年間は帰ってこられないけれど……」
心弥は、心苦しそうに母に告げる。燕は箸を置き、優しく心弥を抱きしめた。
「さみしくてもいいの。お母さんはね、心弥が幸せになってくれれば、それが一番うれしいの」
桜と同じことを言う母。
「きっとお父さんも、そして心弥を大事に思ってくれている人は、みんな同じことを思っているはずよ」
燕は、心弥の頭を優しくなでた。
同じ夜、神谷家の三人は夕飯を食べていた。剣路はふいに言う。
「和を殺したのは俺だ」
一瞬、沈黙が走った。だが、本当にそれは一瞬。剣心と薫が剣路の唐突な発言に驚いた、一瞬だけだった。
「拙者も薫殿も、剣路を信じているでござるよ」
「そうよ剣路。あなたはそんなことしたりしないわ」
あっけなく、それは本当にあっけなく。
親は子供を無条件に愛してくれるのだと、剣路はまた一つ発見してしまった。
食後のかすていらが、いつも以上に甘く感じた。
二日後、心弥は高熱を出して寝込んでしまった。元気になった燕に安堵して、今まで心身共に張りつめてきたものが一気に体調に出てきてしまったのだ。
燕が氷を買いに行く間、剣路が心弥についていた。
自室のふとんで、顔を赤くして、苦しそうにはぁはぁと息をしながら眠る心弥。時々寝言で、和の名を口にする。剣路はそのたび胸が痛んだが、ふと心弥の懐から記帳のようなものが見えた。どこかで見たことがあると、剣路は記憶の糸をたぐり、そうして思い出した。和の日記だ。三年前、病床の和の部屋へ看病に行かされたとき、和があわててこれをしまっていた。和は気付かれてないと思っていたようだが、剣路はすぐにそれが日記であることが分かった。だが、和の日記など興味もなかったし、こっそり見ようだなどと考えたこともなかった。けれど、今は違う。
なぜこれが心弥のもとにあるのだろうと思いながら、剣路は心弥を起こさないように、そっと懐から日記を抜き出す。そうして、少しの間表紙を眺め、静かに開く。
「剣路兄ちゃん……。どうしたの?」
うつろな目で、かすれた声で、心弥は心配そうに剣路にたずねる。
「どうって……」
「だって、泣きそうだよ」
「俺は泣いたりしない。お前みたいにな」
そうして剣路はまた、悲しみを胸に押し込める。心弥の懐に戻した日記に目をやりながら……。そして同時にわき起こる感情。
「うれしかったんだ……」
剣路は、思わず言葉をもらす。
「何が?」
不思議そうな心弥に、剣路はもう何も答えず……。ただ思いをはせる。和が、自分を慕ってくれていた。誰よりも、一番に、慕ってくれていた。その想いはあふれんばかりで、受け止めきれないくらい大きく……。それが悲しく、そしてうれしかったのだ。
「泣かないで剣路兄ちゃん……」
心弥は、熱で潤んだ目で、心配そうに、けれどにっこり笑う。
「剣路兄ちゃんが幸せになるためなら、おれは……」
そうして心弥は再び、まるで意識が途切れたようにまぶたを閉じる。言葉の続きは、剣路には分かる。だが、それを口に出すことさえ許されなくなった心弥は、こうして精神をまいらせて、死んだように眠る。
「弥彦兄は、俺を助けてくれたから……。和は、俺を救ってくれたから……。剣で誰かの心が救えるのならば、今は心弥のために……」
剣路は、心弥の頭に手を置く。
「お前は俺が、必ず救ってやる」
剣路は眠る心弥に、そっとささやくのだった。
第七十話「赤い空」
明神家からの帰り道だった。日も暮れかかり、薄暗く静かな小路。正面にある沈む夕日をやけにまぶしく感じながら、剣路は歩いていたが、はっとする。
千鶴だった。三年ぶりに見た少女は、大人びて、けれど華奢で小さくて。剣路の腕の中に、すっぽり入ってしまいそうで。
けれど、剣路は――
『目的を果たすまで、お前とはもう会わない』
千鶴の横を、黙って通り過ぎる。
「私の……」
剣路は足を止める。振り向かぬまま。千鶴も、剣路に背中を向けたまま。
「私の……独り言……」
「……」
「和くんを殺したって……聞いたわ」
剣路の胸は、ギリギリと締め付けられる。
「でも私は、あんたのことよく知ってる。だから、分かってる」
剣路は、息を呑む。
「……待ってるから」
そうして、剣路の後ろで、下駄の音が遠のいていった。
『けど、待ってろよな』
思い出す。抱きしめた、千鶴のぬくもり。
『お前は俺がもらってやるから』
千鶴の、涙。
剣路は、千鶴の足音が消えたのを確かめて、振り返った。目に映るのは、赤い空。
剣路は、しばらくの間、黙ってそれを眺めるのだった。
心弥の熱も下がった数日後。剣路と心弥は、夕暮れの河原を歩いた。かつて心弥が和と遊んだこの河原。
「ここへ来ると思い出すんだ。和の……」
心弥はそこで、口をつぐむ。
剣路はそんな心弥を、ただ黙って見つめ、そうして河原に目をやった。
次の日――
「行ってきます。母上」
「行ってらっしゃい」
明神家の玄関で交わされた、短い出発のあいさつ。お互い、涙はなかった。前夜、同じ布団で寄り添い、泣き合い、笑いあったのだから。
「行ってきます」
「ああ、行ってらっしゃい」
「体に気をつけるのよ」
神谷家の玄関で交わされたあいさつも、また短い。にっこり笑う両親に、心なしか穏やかな表情の剣路。今日までの十数日間、遠い昔のように、家族としてすごした。剣路には、確かにその実感があった。それは、剣心にも薫にも、十分に伝わったのだ。
こうして、何を思ったのか剣路は、比古に言われた目的を完全には果たさぬまま、心弥をつれて東京を後にした。
第七十一話「蒼紫の信念」
京都へ着いた二人は、葵屋を訪れた。剣路の提案でそうなったわけだが、心弥はただ遊びにでもきたのだろうと、特に気にも止めなかった。
「やーん二人とも、ひっさしぶりー!」
「こんにちは。蒼紫さん、操さん」
「どうも。こないだ会ったばかりだけど……」
丁寧にあいさつして嬉しそうに笑う心弥。対照的に、呆れた顔をする剣路。
「蒼紫さん、少し付き合ってほしいんだ」
心弥が、蒼紫と操の子供たちと遊びはじめると、剣路は蒼紫を誘った。蒼紫はうなずくと、二人は茶屋へとむかった。
「蒼紫さんは、なんで剣を振るうの?」
剣路は、店の前の長椅子に座り、悠然と茶をすする蒼紫にたずねた。往来は、たくさんの人で賑わう。
「何故そんな質問をする」
蒼紫は表情をくずさぬまま、隣りに座る剣路に聞き返す。
「……弥彦兄が、昔俺と心弥に聞いたんだ。明治の世の中で、剣を振るい続けるのは、至極難しいことだって。それでもお前たちは剣の道で生きるのかって」
剣路は、遠い空を見上げる。
「俺も心弥もまだ幼すぎて、弥彦兄の言ってる意味が分からなかった。弥彦兄は、まぁ大きくなったら自分で考えるようになるだろうって」
剣路は大福を一口食べると、蒼紫を見上げる。
「今回、比古に剣を振るう意味を問われて、考えてみた。そしたら弥彦兄のその言葉を思い出して……。この明治の、平和な世の中で、剣を持つ意味があるのかと一瞬思った」
剣路は茶を一口飲み、その揺れる水面を見ながら続ける。
「だけど俺はやっぱり、弥彦兄の跡を継ぎたい。弥彦兄が俺を救ってくれたように、俺もまた、そんな風に剣を振るっていきたい。けど……それだけじゃだめみたいなんだ。弥彦兄は、父さんを越えることは出来ないと言った。その意味も俺、分かった……」
「抜刀斎……いや、お前の父は、剣を振るう意味を自分で見いだした。おそらくは、気も狂うような葛藤の末に。だがアイツ……明神弥彦は、それをお前の父からそのまま受け継いだ。そうしてアイツは、それ故お前の父を生涯越えることはかなわぬと知りつつ、それでいいと思っている。何故ならアイツは、お前の父が歩む剣の道が最高なのだと、ひたすら信じ続けている。だが同時に、お前たちには新たな剣の道を進んでほしいと願っているのもまた事実だろう」
剣路は、神妙な面もちでうなずく。弥彦に剣の意味を問われ、剣と心は一つだと言われたことを思い出す。
「何故俺が剣を振るうかと聞いたな。俺には俺の信念がある。それだけだ」
剣路は、その信念を聞こうとして、けれど思いとどまった。蒼紫の目の奥に、強い魂が宿っているのをみたからだ。それで、十分だと思った。
「きっと、この時代に剣を振るうってことは、剣術の強さと同じくらい……いや、それ以上に強い何かを持ってないとならないんだろうな」
剣路は再び空を見上げた。明治の空を映すその目には、新たな光が宿っていた。
第七十二話「涙雨の中で」
葵屋を発ち、二人は比古の家にむかい山道を歩く。まだ昼過ぎだというのに空は暗く、今にも雨が降りそうだ。
「どうしたの? 剣路兄ちゃん……」
心弥は、なにやら神妙な表情の剣路に不安を覚える。
「お前、比古が言ってた『剣を振るう動機』見つけたか」
静かに、けれどするどく剣路はたずねる。
「剣路兄ちゃんは?」
「お前はどうなんだと聞いてるんだ」
にらむ剣路に、心弥は困ったような顔をする。
「あのね、おれね……」
そうして心弥は困惑したまま少し笑い、泣きそうに、続ける。
「剣路兄ちゃんのために、剣を振るうよ」
不安定に笑う心弥に、剣路は無言で木刀を抜く。
「いいか。気ぃ失うんじゃないぞ」
剣路は、いきなり心弥に打ち込んだ。心弥は反射的に木刀を抜いて防いだが、次の瞬間木刀ははじき飛ばされていた。あっと思ったときには、心弥は剣路の剣をもろにくらい、肩をしたたかに打ち付けられる。続けて腹に突きをくらい、心弥は後ろに倒れる。
激しい雨が降り始めた。それは地面を激しく打ち、二人はまたたくまに雨に濡れる。
「どうした。立てよ」
剣路の言葉に、心弥は応じられないまま。
「なんだそのざまは……。それで俺の好敵手気取りかよ! 弥彦兄の跡を継ぐんじゃなかったのか? ああっ!?」
心弥の肩がぴくりと動く。剣路を睨み、痛みをこらえて立ち上がる。木刀を拾う。心弥の顔を、雨が滝のように流れ落ちる。
「そうだ。それでいい……」
だが心弥の覇気は長くは続かず、剣路を睨みながらもどこか躊躇している。
「どうした心弥っ!!」
剣路はまたも打ち付ける。心弥は三回ほど受けたが、四度目でまたも木刀をはじき飛ばされる。剣路は容赦なく、心弥の全身を打ち据える。心弥は倒れ、そのまま打たれ続ける。
「木刀持てよ。お前はこの程度じゃ倒れないはずだろ」
そう言われ、けれど心弥はじっと、ただじっと打ち付けられたまま。
「そうか……。仕方ないな……」
剣路は木刀を握る手に力を込め、心弥の肩や背中を加減無しに打ち付ける。体に激痛が走る心弥だが、うめき声をもらさないように歯を食いしばり、ただ耐える。まるで、それが自分に与えられた罰で、反抗もせず受け止めるように。心弥はただ、懸命にこらえた。
やがて心弥の体は腫れ上がり、げほげほむせるような咳をはじめると、剣路は心弥の襟をつかんでつるし上げた。
「痛いか、心弥」
「ん……」
涙目でうなずく心弥。
「なんで俺がお前をこんなに打ったか、分かるか」
ううん、と、心弥が首をふると、剣路は心弥の頬を思い切り殴る。
「痛いか心弥っ! 俺はお前に痛みを教えるために、お前を叩いてんだ」
心弥は、目を見開いた。
「お前は間違ってる。お前は自分が死ねばそれで俺や和が幸せになると思ってんだろうが、そうじゃない」
「……」
「お前が死んだら俺も和も痛いんだよっ!!」
心弥は反対の頬をぶたれる。唇の端から流れる血。熱を持つ頬。耐え難いほどの、痛み。けれど、その痛みより、剣路から伝わる心の痛みのほうがはるかに大きく……。
「俺や和だけじゃない。父さんも母さんも、弥彦兄や燕姉や、桜だって……!」
心弥の頭は、真っ白になる。
『生きていてほしいでござるよ』
和の分まで、と、優しく言ってくれた剣心。
『心弥。負けないで、ここで頑張れるか?』
弱い自分を信じてくれた父。
『お母さんはね、心弥が幸せになってくれれば、それが一番うれしいの』
ひたすら自分を愛してくれる母。
『そうして心弥くんが幸せになってくれたら、それが私の一番の幸せなの』
待ってると言ってくれた桜。
『死ぬな。死ぬな。死ぬな……』
抱きしめて、この世界につなぎ止めてくれた剣路。生きていてほしいと、強く願ってくれた。
第七十三話「答え」
剣路は心弥を強くにらみながら、雨に濡れていた。頬に伝う雨は、まるで涙のようだと心弥は思った。三年前のあの日以来、一度も泣いたことのない剣路が、心にためた、涙のようだと……。そう思ったら、心弥はたまらなくなり、声を上げて泣き始めた。激しい雨の音に負けないくらい声を張り上げ。流れる雨に負けないくらいの涙を流し。そうして、剣路に強くしがみついた。
「ごめんなさ……みんな……。剣路兄ちゃ……ごめんね……ごめんね……」
剣路は、一度だけ心弥をぎゅっと抱きしめると、心弥を下ろして立たせた。
「心弥。俺が剣を振るう意味。それは、弥彦兄の跡を継いで、大切な人を守りたいから。それが、俺と和の夢だから。みんなと、そして自分自身が、幸せでいられるように」
迷いなく言い切った剣路に、心弥は涙を拭いて笑った。
「お前は?」
問われた心弥は、一瞬とまどい、そして迷いながらも言葉を紡ぎはじめる。
「おれ……おれもね、幸せになりたいんだ……。だって、みんなは、おれが幸せなら自分も幸せなんだって、思ってくれるから。けど、おれ、幸せになってもいいのかなぁ……」
剣路は、心弥に手を差し出す。
「日記、見せてみろ」
「な……んで……日記のこと……」
「和が日記をつけてたことは知ってる」
心弥は、懐から日記を取り出し、剣路に渡した。剣路はゆっくりめくっていく。
「何度も書いてあったんだ。ぼくは悪い子です、って……。そして、言ったんだ。死んでいくのは、その罰なんだねって。だけど、そんな風に思わせてしまったのは……おれだよ。和が死んだのも、やっぱりおれが……」
剣路は、最後まで日記をめくり、言う。
「この日記には、和の本当の心が記されているんだ。和は、ちゃんと自分の罪を認めてる。死を選んでしまったことへの罪を……。和は、お前に殺されるほどバカじゃない」
剣路は、懐からそっと和紙をとりだし、心弥に渡した。和の、遺言状だった。目を見開き、恐る恐る開いて読んだ心弥は、形としてはっきり見せつけられた心弥は、ぺたんと座り込む。
「アイツは、自分で死ぬ道を選んだんだ。俺のために。お前なんか関係ない。いつまでもうぬぼれんな」
言葉とは裏腹に、剣路の声は優しかった。
「許して……くれるの?」
「だから、うぬぼれんなって言ってんだろ」
「……ありがとう」
心弥は、再びあふれた涙を、またぬぐった。そうして、立ち上がる。
「おれ、父上の跡を継ぐ。それがおれの、一番の夢だから。おれにとっての、一番の幸せだから。そうしておれが幸せになったら、みんなもきっと幸せになってくれると思うから」
そのとき、雲間からぱあぁと光が差し込んだ。雨は止み、世界はまぶしいくらいにきらきら光り……。剣路と心弥は息をのむ。
見渡す限り、色とりどりの花が咲き乱れ。きゅんきゅんと鳥の声がさえずり。雨の残り香が心地よく。さわやかな風が通りすぎ。吸い込む空気はこんなにも澄んでいて。
二人は和と永遠の別れをした、あの夏を思い出す。
あの夏の日、太陽だけはぎらぎらしていたのに。暑さも何も感じなかった……。本当は暑いはずだった、あの夏は。今頃、そのクラクラするような、感覚に気付き……。
そう、あの夏、空は青く、蝉は鳴き、走って汗だくになったことを、思い出して。
世界はこんなにも、色鮮やかで。
剣路と心弥は、失っていたものを再び取り戻し。光の中で笑った。
「幸せになるために、か……」
二人の答えを聞いた比古は、二人をじろりと眺める。
「アンタが満足するような、ご立派な答えでなくて悪かったな」
剣路は、比古の横を通り抜け、家に入っていく。
「そーいうことだからっ!」
心弥は無邪気に笑い、剣路を追いかける。
「驚いた……」
不思議そうに振り向く二人。
「最高の答えだ」
比古は二人に、ニヤリと笑った。
第七十四話「幸せになれるようにと」
剣路と心弥は、和の日記と遺書を風呂敷に包む。近いうちに、葵屋へ預け、今度蒼紫たちが神谷道場へ出向くついでに持っていってもらうのだ。それを目にするのは、恐らく剣心、薫、弥彦だろう。
そして、再び飛天御剣流の修業は始まった。剣路も心弥も、迷いなく剣を振るう。罪の意識を消えることなく抱えながらも、自分とみんなが幸せになれるようにと。
「剣路兄ちゃん! すごいよ! 赤い夕日がぽっかり見えるよ!」
木に登りながら、心弥は下にいる剣路にうれしそうに叫んだ。
「ああ。東京じゃ、こんな景色はみられないな」
崖下に広がる京の町を、剣路も見下ろす。夕日に包まれた町は絶景だ。
「じゃあ実を落とすよ……あ……」
「どうした心弥」
「これ、和の好きな実だ。前に、一緒にとったことがある……」
剣路はどきりとした。けれど心弥はにっこり笑う。
「籠持っててね剣路兄ちゃん!」
「ああ……」
また、泣くのかと思った。笑顔の心弥に、剣路は安堵する。
「それと心弥」
大きな籠を木の下で抱えながら、剣路は心弥を見上げる。
「なあに?」
「剣路兄ちゃんと呼ぶのはもうやめろ。剣路でいい」
「え? どうして?」
実を籠へ次々と落としながら、心弥は不思議そうに剣路を見下ろす。
「お前と俺は、対等だからだ」
その言葉に、心弥は少しの間手を止めて考えたが、やがて再び実を落としはじめ。
「おれが、そう思えるようになったらそう呼ぶよ。剣も心も、剣路兄ちゃんと同じくらい強くなったら!」
「そうか」
そうして二人は、三年後の勝負に思いをはせ、それでも向き合い笑った。
過酷な修業の日々が続く。想像を超えた厳しい修業に、けれど二人は確固たる想いを持ってむかう。
時は流れ、いつしか三年の月日が経っていた。
第七十五話『師匠と心弥』(番外編~京都の秋 前編~)
明治二十五年秋。剣路と心弥が比古の元で本格的に修業を始め約二ヶ月。初めて過ごす京都の秋である。
「どうした心弥。もう終いか?」
倒れた心弥に、非情な比古の声が降ってくる。心弥はぼろぼろに傷ついた体で、歯を食いしばり立ち上がる。けれどまた、ふらりと倒れる。
そんな心弥を見守る者は誰もいない。剣路は剣路でまた、課せられた過酷な修業にせいいっぱいなのである。
こうして今日も、二人の厳しい修業は、日が暮れるまでめいいっぱい続いた。
修業が終わると、剣路と心弥は暗い山道を歩く。辛い修業の後でも、食事の支度や家事はすべてこなさなければならない。一切の甘えは許されない、そんな日々である。
「おい心弥。歩くのが遅いぞ」
かなり先を歩いていた剣路は、振り返る。
「うん……。いたた……」
ズキズキ痛む全身を引きずるように歩く心弥。剣路は引き返して、心弥のそばまで戻る。
「剣路兄ちゃん……」
気を抜いて剣路の胸に倒れ込んだ心弥を、剣路は突き飛ばす。倒れた心弥の胸ぐらをつかみ、ぱあんと頬に平手打ちを食らわせる。
「言ったはずだ。俺には甘えるなと。何度言えば分かるんだ」
「ごめん……」
心弥はうつむく。剣路は立ち上がり、心弥を見下ろす。
「強くなれ心弥。少なくとも、俺と同じくらい。三年後にちゃんとした勝負がしたいだろ?」
「……うん!」
心弥は、一生懸命に立ち上がる。
するとそこに、山賊たちが現れた。
「へっ、こんなところにカモがいやがったぜ」
「おっ、おいやめろ!」
一人の山賊があわてて止める。始めに言葉を発した山賊は、不思議そうに止めた男を見る。
「よく見てみろ! こいつら飛天なんとかっちゅう例のガキども……!」
「……!!」
気付いた男は滝汗を流す。
「しかしあのチビのほうならいくらなんでも……」
「バカ! アイツもとんでもないんだって!!」
山賊たちは大慌てで逃げていった。
ここへきてまだ二ヶ月あまりの剣路と心弥だったが、この近辺ではすでに二人の強さは恐れられていた。剣路はもちろん、心弥はここで急速な成長を遂げていたのである。
「あーいう下等なやつらが騒いでも、調子に乗るんじゃないぞ」
「分かってるよ」
心弥は、今度は先程より懸命に歩き始めた。
「なぁ心弥。お前、本当に東京へ帰らなくていいのか?」
寝床で、剣路はとなりに横たわる心弥に話しかけた。剣路は和の墓参りに、一度だけ東京へ戻る計画なのである。
「和はおれの中に生きているんだもん。だから和の墓参りなんてヤダ」
心弥は、ぷいと剣路に背を向ける。
「……それに、父上や母上に会ったら、ずっと東京にいたくなるから」
小さな声で、心弥はつぶやく。
心弥はそんな理由で、修業が終わるまでは絶対に東京へは戻らないと決めていた。剣路もまた、一度だけ墓参りをすませたあとは、心弥同様奥義の伝授がすむまで戻らないつもりでいた。
翌朝、剣路は京都を後にした。残った心弥は一日中比古にみっちりしごかれ、打ち身だらけの体で家事をこなした。そんな日々が続く。辛かった。だが心弥は、それ以上にさみしかった。剣路がいなくて。剣路と一緒にいるであろう父や母、剣心や薫、神谷道場の人たちや東京で関わったたくさんの人たち……。それに桜……。自分だけ独り取り残されたような気がして。だからひたすら、剣路の帰りを待った。
赤や黄色に色づいた山々。舞い降りる木々の葉はこんなにもきれいなのに、なぜこんなに切なく、独りぼっちになったような気がするのだろう。
やがて葉もだいぶ落葉し、枯れ葉が地面をいっぱいに覆った。ところが剣路は、約束の日を過ぎても帰ってこない。神谷道場に手紙を出したが、もうこちらにむかって旅だったという。
「おいコラ、てめぇやる気あんのか? 俺に無意味な修業をつけさせる気か」
倒れた心弥の背を、比古は足蹴にする。
「だっ……て、剣路……兄ちゃんは……、帰ってこないよ……」
「ほぉ。だからてめぇは気を抜いた修業をしてもいいと言うわけか」
比古は心弥の懐をつかみつるし上げると、頬を思い切り殴りつけた。唇から血を噴きながら、地面に叩きつけられる心弥。
「ガキだと思って甘ったれやがって」
その言葉に、心弥はハッとする。甘えるなと言った剣路の言葉を思い出す。本当に、何度言われれば分かるのだろうと、心弥は自分のふがいなさを悔しく思う。
腫れ上がる頬に当てようとしていた手はこぶしに変わり、そうして心弥は立ち上がる。
「師匠。剣路兄ちゃんのこと、心配じゃないの?」
夕食を食べながら、心弥は比古を見上げる。
「剣路はもうじき十四だ。心配するような年でもねぇだろう」
「だけど……」
「アイツは俺の弟子だ。故に絶対に大丈夫だ」
「……すごい自信だね」
心弥は思わず箸を止めていた。
「お前もだぜ心弥」
「え?」
「もっと自分に自信を持て。お前は剣路に認められた好敵手なのだからな。あんな修業態度で、帰ってきた剣路を堂々と迎えられるのか?」
心弥の頬は真っ赤に染まった。自分の行いがどれだけ恥ずかしいことだったかに、気付かされたのだ。
「はい。師匠……」
心弥は一気に飯をかきこむと、ごちそうさまでしたと手を合わせ、急いで土間に駆け込んだ。
第七十六話『師匠と剣路』(番外編~京都の秋 後編~)
数日後。剣路は帰ってきた。高熱に浮かされながら……。聞けば、うっかり財布をおとしてしまい、野宿続きで体が参ってしまったらしい。
話を聞くなり、比古は剣路を殴り飛ばした。
「師匠! なにするのっ!?」
あわてて止める心弥を無視し、比古はもう一度剣路を容赦なくぶつ。地面に倒れた剣路は、ハァハァと荒い息で体を起こしたが、座り込んだままうつむいている。
「その様子じゃ家事も出来そうもねぇな。そんなヤツは家に入る資格もねぇ。倉で寝ろ」
剣路は無言で立ち上がると、ふらふらと倉へむかう。
「なんで師匠! ひどいよっ!!」
「心弥。修業の続きだ」
「師匠!!」
怒鳴る心弥を、比古は睨んだ。だが心弥も後を引かない。比古をにらみ返す。
「おれ、おれは剣路兄ちゃんの看病をする!」
「修業中だ……」
冷酷な比古。心弥は比古から背を向け倉へ走る。
「言うことを聞かねぇなら、その間ずっと飯抜きだぞ」
心弥はぴたりと足を止める。
「それでもいい。修業なんかより剣路兄ちゃんの看病のほうがずっと大事だよ!」
比古に背を向けたまま怒鳴ると、心弥はまた倉へと走った。
暗い倉へ入った心弥は、入り口で剣路が倒れているのに気付く。おそるおそるさわった剣路の額は、驚くほど熱い。心弥は急いで布団を持ってきて剣路を寝かせると、桶に水を汲み冷やした手ぬぐいを剣路の額にのせる。そうこうしているうちに、剣路は目を覚ました。
「お前……。何……やってる……」
「剣路兄ちゃん!」
「修業は……どう……した……」
苦しげに息をしながら問う剣路に、驚く心弥。
「何言ってるの!? 剣路兄ちゃんは病気なんだよ! ……師匠はひどすぎるよ! 病気の剣路兄ちゃんを叩いて、こんな倉に……家にも入れてあげないなんて……」
「心弥……落ち着け……。俺の……話を……聞け……」
肩で息をしながら、剣路は心弥をじっと見る。
「いいか……。悔しいけど……俺は殴られて……当然……だ……」
心弥は目を見開く。
「十三にもなって……まともに……自己管理もできねぇ……俺を……、比古は……いましめたんだ……」
熱のせいか、剣路はめずらしく自嘲する。
「分かったなら……修業に戻れ。早く……しろ……」
「嫌だよ……」
「ばかっ……!」
剣路は弱々しく、けれどせいいっぱいの声で怒鳴る。
「何度も……言ったはずだ……甘えるなって……。俺たちは……特にお前は……甘えてる暇なんかないんだ……。和の……ためにも……俺たちは強くならなくちゃ……だろ?」
「剣路兄ちゃん!!」
心弥は、剣路にぎゅっと抱き付いた。
「剣路兄ちゃんは……」
心弥の声が震える。
「剣路兄ちゃんは、行かないで……」
「心弥……?」
「和みたいに……いなくならないで……」
そうして心弥は剣路にしがみつき、うっうっと嗚咽を漏らす。絶対にはなすまいと、剣路の着物を両手でぎゅっとつかむ。
剣路はこのときようやく気付いた。同じ背中を目指す好敵手であっても。唯一の友達であり対等な存在であっても。目の前にいるのはまだ七つの小さな子供で。それは変えようのない事実で。心弥はたださみしくてたまらなかったのだ。両親とはなれ、こんな山奥に取り残され。あげく唯一すがれる者が帰ってきたかと思えば病気で……和のようにいなくなってしまうのではないかと思っているのだ。幼い胸にさみしさを抱える辛さを嫌というほど知っている剣路だからこそ、心弥の気持ちは痛いほど分かる。
剣路は、着物をつかむ心弥の手を、自分の手で包んだ。
「心弥……。約束する……。俺は……絶対……どこにも行かない……」
「……本当?」
涙声で、心弥はたずねる。
「ああ。だから……修業に戻れ……」
心弥は、涙でぐしょぐしょの顔をあげる。
「夢を叶えて……そして……」
「幸せに、ならないとね」
剣路の言葉を、心弥が引き継ぐ。剣路は笑い、うなずいた。
心弥は涙をぐいとぬぐうと、キッと前をみすえ、外へ駆けだしていった。
「ごめんなさい師匠。すぐ修業の続きをつけてください!」
「ほぉ。やはり飯が食いたくなったか」
心弥は首をふった。
「フン。泣きはらした目で、うれしそうに笑いやがって……」
比古はニッと笑うと、木刀を心弥に放った。
「さぁ来い!」
「はいっ!」
心弥は、思い切り比古に打ち込んでいった。
「さっきはああ言ったけど……やっぱり比古に殴られるなんて腹が立つぜ……」
ゼイゼイしながら、剣路はつぶやいた。
「二度と……こんな失態は演じないようにしねーと……。今度の修業では……比古に一発ぶちかましてやる……」
はぁ……と剣路は深く息を吐く。
「その前に……心弥との約束を……守らないとな……」
そうして、剣路は目を閉じた。今はとにかく休んで、早く回復するように。眠りを誘う、浅い夢の中で、元気になった自分に喜ぶ心弥の顔があった。
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