フライブルク日記

2017/01/02
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カテゴリ: プライベート
またも年が変わった。
大晦日の晩を打ち上げ花火(個人が路上のあちこちで打ち上げる)で祝ったあとの正月は、祝うこともほとんどなく、人々は国内大移動をして、日常生活に戻っていく。
だから、正月気分のようなものはまったくない。
子ども時代の元旦も地味だった。
父親が勤め先(皇居の中)に新年早々に元旦のあいさつに行かなければならなかったので、家族で雑煮と煮物(煮しめとは呼ばなかった)、ナマスなどの朝食を囲んで、おめでとうを言い合って終わり。

父親が不機嫌な顔で家を出たあと、母と弟と共に根津の家から都バス、地下鉄、私バスを乗り継いで、東長崎にある母の実家に出かけるのが毎年の正月行事だった。同じ敷地内の隣の家に住む父方の祖父母は正月を特に祝うでもなかった。祖父がいつも古びた旗を門の外に出すだけだった。

ベルリンでも感じるが、大都市というのは市内の移動に時間がかかる。私にとっては、東長崎の祖母の家が唯一の「いなか」だった。
小学校時代、お盆や正月に級友たちの多くが「いなかに帰る」とか「いなかに行ってきた」と話しているのを聞いて、「いなか」って何の事だかわからなかった。「いなか」のイメージは田んぼや畑、山や海、そこに古い家があって、おじいちゃんやおばあちゃん、親戚がいて、やさしく迎えてくれるところらしかったが、実感がともなわなかった。
わたしの祖父母たちも東京以外の出身ではあるけれど、若い時代に兄弟姉妹共々東京に出て来ていて、出身地には遠い親戚がわずかに残るばかりだった。

遠くに「いなか」があって「いなか」に「帰って」行ける級友がうらやましかった。

でも、東長崎の祖母の家(祖父はわたしが9才のときに他界した)もちょっと「いなか」らしかった。そもそも子どものわたしから見れば、東長崎はかなり「田舎」だった。家の裏の方にはお寺があり、一部はまだ畑が残っていた。
池袋だって当時は「場末」などと呼ばれ、小さな店や飲食店がごちゃごちゃのひしめいていて、どこか猥雑な雰囲気を漂わせていて、子どもの目にもエキゾチックだった(東南アジアに旅行して感じるような雰囲気)。
母方の祖母は、父方の祖父祖母とは違って、フツーに正月を祝った。
おせち料理を作ったり買ったり(そういえば、尾頭付きの鯛を買っていたなー)、母が大好きだった鶏とネギとゴボウの煮物を鍋にたっぷり用意し、ポテトサラダとロースハムを大皿に盛った(こういうものがご馳走だった時代がなつかしい)。
母方の祖母の家の雑煮は、祖父母の出身地特有のものだとかで、焼かない餅を小松菜とダイコンだけで作った汁で煮込んだものだった。煮込まれた餅がとろけて、汁がどろどろになるのがおいしいんだとか。わたしはおいしいとは思わなかった。これじゃあ、山梨のほうとうみたいじゃないか。
母が作る雑煮(つまりは父方の家系の)は、炭火で焼いた餅を汁をはった椀に落とすので、食べ終わるまで汁は澄んでいた(澄んだ汁が鉄則で、決して濁らせてはならなかった)。

東長崎の祖母の家の近所には、祖母の姉や妹、弟が彼らの連れ合いや子ども、孫とともに住んでいた。2日になると、これらの親戚が祖母の家に新年の挨拶にやってきた。
お客さんがくるたびに、祖母は客を床の間を背に座らせ、「おせちいかがですか」と勧め、おとそを差し出した。
こういう習慣は実家にはなかったので、わたしは違和感・緊張感すら覚えたが、一方では知らない世界に来たように新鮮だった。あの時にかわされていた会話を、隠れていた障子の陰からもっと注意深く盗み聞きしておけばよかった。

祖母がわたしたちを連れて、親戚を訪問することもよくあった。

それぞれの家の、家族の暮らし方、雰囲気はまるで違う。
祖母の姉夫婦、その長女(母にとっては、姉のような存在の従姉)、その長女の夫(後に有名なギターの先生)、彼ら夫婦の息子たち(わたしにとってははとこ)は古いけれど、どこかヨーロッパっぽい家に住んでいた。絨毯敷きの居間は当時としてはモダン(わたしの実家は築後100年ものの古い家でほとんど畳敷き)で、そこで母の従姉の夫がギターを奏で、アイロニーが隠された会話がかわされる。わたしは3、4才年上のはとこたちと、お互いが読んだ岩波少年文庫の本の話をするのが楽しかった。
祖母の妹も近くに住んでいたが、彼女の家の雰囲気は祖母の姉の家とはまるきり違っていた。
まず、「ようこそ」の暖かさがなかった。祖母の妹は祖母の顔を見るなり、毎回、愚痴をたらたらとこぼしはじめる。子どものわたしに見せる微笑みはどこか引きつっていた。
祖母の一番下の弟は、物静かで温かみのある男性で、ピアノ教師をしている夫人とともに、洋風の家に住んでいた。子どもがいなかったためか、ここの家のたたずまいは所帯染みたところがなくて、親戚というよりも、遠い知人の家にお邪魔したような雰囲気で、椅子に座るにも緊張した。祖母の弟自身はくったくがなかったのだが、彼の夫人が緊張感を内に秘めて対処していたからかもしれない。

こういう関係だったから、この弟は祖母に対してやけに丁寧で、その妻もどこかで距離感を保とうとしていたのか。
母方の祖母は正月以外でも、よく彼女の姉や妹の家を訪ねていた。
父方の祖母はその逆で、60才を過ぎてからは、門の外を出ることは一度もなく、庭を動物園のオオカミのように行ったり来たり歩くほかは、家の窓辺で新聞や雑誌(といっても文芸春秋だけ)を読み、ラジオを聞き、歌を詠み、祖父を叱責する毎日をおくっていた。
たまに、親友の娘さん(化学者として資生堂に勤めていて、来るときにはいつも化粧水やクリームをお土産にもってきてくれた。だからわたしは資生堂のファンだった)が祖母を訪ねてくるほかは、祖母を訪ねる人もなかった。

親戚関係がにぎやかな母方の祖母の家から実家に戻るたびに、別の世界から帰還したような気分で、なれるまでに時間がかかった。
地理的に離れた「田舎」に行くことはできなかったけれど、母方の祖母の社会にひたったこういう体験も「いなか」に行くことに含まれるのかもしれない。

今の私には「帰っていくいなか」はない。数年前に、東京の実家に住む弟夫婦を訪ねたときは、子ども時代の家のあの雰囲気を共有した唯一の人と話したという意味でとても楽しかったけれど、父亡き、母亡きの家は実家とかふるさととか呼べるようなものではない。
今の私の「いなか」「ふるさと」「実家」はここ、この家、このアパルトマンだ。
もう26年以上も住んでいるのだから、東京の実家(建て替える前のおんぼろ)よりも長く住んでいることになる。

1月2日の午後、窓の外は雪、あらゆるものが白くおおわれ、静まりかえっている。向かいの庭のモミの木が、空にむかってそびえるクリスマスツリーのようだ。





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Last updated  2017/01/03 02:56:32 AM
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