『探求Ⅰ・Ⅱ』



この本の内容は、『探求Ⅱ』のあとがきに完結にまとめられているので、それをまるまる引用させてもらうとしよう。

「『探求Ⅰ』で、私(柄谷)は、独我論とは、私しかないということではなく、その私が万人に妥当するものであるかのように想定されているような思考であるといった。それは内省から始める思考、認識論や現象学にだけあるのではなく、それを拒否する言語学やその他の諸科学にも存する構えである。これを批判するために、私は、この私と他の私とが同一ではなく、また同一の規則体系にも属さないような条件を考察し、それを「売る-買う」や「教える-学ぶ」といった非対称的なコミュニケーションの関係に求めた。他者はこのような関係においてのみあらわれる。
『探求Ⅱ』では、私は、この問題を別の観点から捉えようとした。それは、万人の「私」ではないような「この私」を、単独性としてみることである。それは一般性の中で見られた個ではない。しかし、単独性としての個体という問題は、もはや認識論的な構えの中では考察し得ない。かくて、私はそれを論理学的なレベルに移した。つまり、『探求Ⅰ』で独我論と呼ばれたものは、ここでは、個を類の中において見るような思考、すなわち個(特殊性)-類(一般性)という回路の思考に相応する。単独性は、そういう回路の外にある。それは、独立した私とか唯一のものというようなものとは関係が無い。単独性は、けっして一般性に入らないような「この私」あるいは「このもの」の「この」を指す。だが、それは指示としての「これ」とは違っている。そして、ここから固有名の問題が考察される。
単独性の問題を追及したものはこれまでいないわけではない。しかし、概ねそれは「この私」にこだわるものであり、実存主義的なものである。しかし、単独性にこだわることは、べつに「私」にこだわることではない。「私」であろうと、「物」であろうと、かけがえのない単独性が問題なのだから。それは、主観にも客観にもありえない。固有名を通して見出される単独性は、孤立したものや単一のものとは逆に、『探求Ⅰ』で示したような、社会的なつまり非対称的な関係と結びついているのである。…
私が『探求』の連載で問い続けてきたのは、「間」あるいは「外部」において生きることの条件と根拠だといってよい。それはいわば超越論敵であると同時に、「超越論的動機」そのものを問うことである。むろん、これはたんに理論の問題ではなく生きることの問題だ。「探求」とは反復である。」

柄谷の探求は、これ自体が面白い哲学書であると同時に、生きるうえでさまざまなヒントをぼくらに与えてくれる参考書のようなものである。
ぼくはこの本は哲学の入門書のようだと感じた。
哲学の入門書としては10年位前にはやった『ソフィーの世界』がある。
あの本も面白かったのではあるが、基本的にはいろいろな哲学の紹介で終わっているため、哲学を知識として取り入れるには便利かもしれないが、自分が生きていくうえでどのように哲学を役に立てて行くかということに関しては薄い気がする。
その点この『探求』シリーズは大本に柄谷の哲学が貫かれ、その『地平』からいろんな哲学を切っているので、その解釈が正しいかどうかは別として、実践型哲学の入門書としては高く評価できると思う。
難しい文の引用も多いが、わかりやすい柄谷独自の例も多く、ぼくは他の哲学書よりもずっととっつきやすいし、わかりやすいと思う。
そういう意味で、哲学する前にまず一読してみてはいかがであろうか


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