『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』



この本の著者、フランクル教授は心理学者であるが、ユダヤ人であったためドイツのアウシュビッツの強制収容所へと入れられてしまう。
終戦を迎え奇跡的に生還することのできた著者が心理学者の立場から、強制収容所に収容されていた囚人の心理的変化を冷静に分析したのがこの著書である。
もちろんそれを説明するために、強制収容所での悲惨な日々が克明に描かれており、それらの囚人、いや、人間への心理的影響も考察されている。

この本は、ドイツの強制収容所の実態を説明的に記述した前半部分と、フランクル教授の手記の後半部分の二部構成になっている。
もしかしたら、この本だけが前半部分の解説を載せているのかもしれない。
たしかに前半部分無しでフランクル教授の手記だけだと収容所の実態が全体像としてつかみにくい。

フランクル教授に寄れば、彼がオプティミストであったことも影響しているとは思われるが、収容所につれてこられた囚人はまず、そこに希望を探す。
であった囚人の顔に浮かぶ微笑。
ゲシュタポの思ったよりも優しい口調。
収容所の立派な門構え。
想像していたよりも少しでもいいと思ったことがこの収容所での生活もそれほど厳しいものではないかもしれないという希望へと還元される。

希望を前提とすれば、当然のように次に囚人たちを襲う感情は絶望である。
収容所に入れられ、1週間としないうちに、現実を直視せざるを得なくなった囚人はそこに希望などないことをいやおう無しに思い知らされる。
絶望という感情が引きおこす心理的影響は無関心だ。
なにをやっても無駄であり、中でも一番無駄なのが死に行く人間を哀れむことだ。
哀れみは次は自分だという恐怖を呼び起こすだけなのだ。

そして最後に人によってではあるが、心の自由を獲得するのだという。
身体的にいくら痛めつけられても、いやむしろ痛めつけられれば痛めつけられるほど、生きていこうとする意志を持ち続けるために、心を自由にさせておく必要がある。
フランクル教授の場合、よりどころを彼の妻に求めた。
この場合妻の生死は問題ではない。
実際には亡くなっていたのであるが、彼は心の中で自由に妻と会話をし、そこに生きていく希望を見出してゆく。

即時的な生への希望を持つ人間は、それが叶わぬとき絶望感による無関心な状態となり、いよいよ死へと対峙したときに、心の自由へと生きる希望を見出してゆく。
あるいは神はこのような極限状態へと陥った人にだけ微笑むのかもしれない。

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