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2005.11.02
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カテゴリ: 五木寛之
夜、ふたりは、音楽祭が開催されるサン・ミシェル教会
の広場をめざして、暗闇のなか、コツコツと足音を響か
せながら、曲がりくねった石畳の坂道をのぼっていきま
す。道端に立って、ナイフで木を削っている男に、教会
への道を確かめると、「切符はあるのか」と聞かれ、森
井が「ない」と答えると、森井がカネを持っているのを
確かめた後、横道へ案内します。しばらくの間、階段を
のぼり、アパルトマンに入ると、女がドアを開けます。
男は「ひとり200フラン」を要求し、森井が払うと、


パッと視界がひらけると、正面にサン・ミシェル教会が
見え、眼下には、開演を待つ聴衆の姿があり、彼らの話
声が広場から立ちのぼってきます。ふたりがライトアッ
プされた教会の鐘楼、教会の壁面を飾る彫像、左手にひ
ろがる夜の海、イタリアの街々のあかりに見とれている
と、男は音楽祭について語りはじめます。
「毎年、いろんな連中がくる。ケンプ、リヒテル、ギレ
リス、前にはルビンシュタインも来た。どうだ、いい席
だろう。金持ちどもを見下して音楽を聴くのは、いい気
持ちだぜ。マセラッティやフェラーリで来るやつがいる
。ニューヨークから自家用のジェット機で来る金持ちも

ぼってくる。豚ども。豚どもの音楽祭さ」

広場の照明が暗転すると、拍手がわきあがり、教会の扉
が開いて、チェロを左手にかかえタキシードを着た演奏
家が広場のステージに歩み出て、ゆっくりと椅子に腰掛
けます。森井は身を乗り出して演奏家の名前を呼びます

関心な男にフランス語で語ります。「ソ連の宝といわれ
ている人だ。有名な人民芸術家だよ」。男は「いいカネ
とっているんだ」と応えます。森井は、杏子に日本語で
語りはじめます。「ぼくは昔、貧乏学生のころ、あの人
のレコードをすりきれるまで聴いて暮らしていた時期が
あった。ドイツとの戦争中、ナチに捕らえられていたん
だ。ナチの高官や親衛隊の連中が彼の演奏を聴きたくて
、礼をつくして頼んだんだが、彼は絶対に楽器を持とう
としなかった。最後には腹を立てて、彼を森林伐採の労
働に追いやったけれども、最後までノウと言い続けたと
いう。有名なエピソードだよ」男は「じゃ、ゆっくりな
。楽しみなよ」と言って鎧戸を締めます。

演奏家は、おもむろに弦を構え、重厚な調べを奏で始め
ると、控えめなピアノの演奏が加わり、やがてピアノが
美しい調べでチェロをリードしていきます。最初の曲は
、プロコフィエフのチェロ・ソナタでした。心地よい海
風が渡ってきて、ふたりの髪を揺らします。杏子は、演
奏を聴きながら、夜の海をながめ、演奏家たちをながめ
、教会の鐘楼を見上げ、演奏に耳を傾ける聴衆をながめ
ます。後ろの部屋の中から、うめき声が聞こえて、杏子
はハッとしますが、演奏は終わり、聴衆が力強い拍手を
おくります。

次の曲を待つ聴衆に向って、演奏家は「バッハの無伴奏
チェロ組曲 第5番」と言います。後ろの部屋から再び
、うめき声が聞こえ、杏子は「ねぇ、あの声は何?」と
森井に問いかけますが、演奏に集中したい森井は「しず
かに!」と、杏子の問いを制します。チェロの演奏が始
まり、杏子は、ふたりを案内したフランス人の男が後ろ
の部屋で女とセックスをくりひろげる様子を隙間からの
ぞき、自身も自慰行為を始めます。杏子の息づかいが激
しくなり、絶頂に達し、もらした声が部屋の中の男の耳
に入ると、男は杏子に見せつけるように反復運動を一層
激しくさせます。杏子は鎧戸を閉じ、海からの風に吹か
れながら呆然と虚空を見つめ、音楽にひたります。涙が
頬をつたいます。チェロは、物悲しくも激しく歌い続け
、杏子には、それが自分の心を代弁しているかのように
感じられました。

演奏会の帰り道、「NON」という文字が上に書いてあ
る小さなトンネルをくぐりながら、森井は、うれしそう
に感想を語りはじめます。
「ぼくが、オイストロポーヴィッチを聴いたのは、なん
と20年ぶりだよ。そして、こんな感動は、ずいぶん長
いこと忘れていた。……本当にひさしぶりなんだ。こん
なに楽しい気分なのは」
「あなたは、いつまでたっても、おとなになりきれない
人間なのね」
「きみだって、あの演奏には感動したろ」
「感動なんか、しなかったわ」
「何を怒っているんだ」
「あなたは感動して、あたしはしなかった。ただ、それ
だけのことだわ。何が人民芸術家よ。ファシストのため
に弾かない巨匠が、ブルジョアのためにわざわざモスク
ワからやってきて嬉々として演奏するなんて。そして、
その演奏にあなたが酔うなんて、あたしにはわからない
わ」
「それは言いがかりってもんだ。なんと言われようと素
晴らしかった。すくなくとも、あの演奏を聴いているあ
いだは、ぼくは本当に解放され、自由だった。あのバッ
ハを聴いた者は誰だって、そう感じると思う」
「あたしは、なにも聴かなかったわ」
「え?」
「あたしはずっと見ていたの」
「何を?」
「あのセクシーな男を。あの男と女がコンサートの間、
部屋のなかで何をしていたか、あなたは知ってるの?」
「そんなに自分をいじめるのはやめたまえ! 自分がみじ
めになるだけだ」

そのあと、ふたりは最後の晩餐を終えます。森井は、夜
の海岸を歩き、潮騒の音を聞きながら、杏子に死につい
て語ります。
「恋愛だって、快楽だって、そしてきみの言うような死
んだような生活だって、みんなあやふやなものなんだ。
もっとも確かで、もっとも間違えのないことは、やがて
死ぬということなんだ。いずれ、ぼくが死に、きみが死
ぬ。どうちがうふうに生きようと、その死がぼくときみ
とをつないでくれる。死に直面したとき、確かにぼくが
いて、きみがいたことを思い出すために、ぼくたちはこ
こへやって来たのさ。いつかも言ったろ。ぼくは君のた
めに死ねるって」
その言葉を聞いて、杏子は、森井を抱きしめます。森井
の頭に「組織」のことがかすめますが、それを乗り越え
て、そのまま海辺で愛しあい、そのまま夜明けを迎えま
す。

夜のパリには、冷たい雨が降っていました。杏子は寒気
を感じ、彼女が熱を出しているのを知った森井は、再び
彼女を組織のアジトに迎え入れます。アスピリンを飲ん
でベッドにもぐりこんだ杏子は森井に語りかけます。
「オイストロポーヴィッチね」
「オイストロポーヴィッチがどうかしたのかい?」
「素晴らしかったわ。ごめんなさい。せっかくの雰囲気
をこわすようなことばかり言って」
「いいんだよ。ぼくもただ、感傷にひたってみたかった
のさ。この長い年月のあいだ、ぼくはほとんど音楽を聴
くなんてゆとりをもっていなかった。ぼくは本当にあわ
ただしく、せっぱつまった世界に生きてきたんだ。人を
尋問したり。銃を抱いて眠ったり。隠れて国境を越えた
り。そしてこれから先、ぼくはまたその世界に帰ってい
く。そして何十年も、あんな音楽を聴く心のゆとりをも
たずに過ごすだろう。2度とああいった音楽を聴くこと
がないかもしれない」
雷鳴がとどろきます。
「でも、あのとき、あんまりあなたが感動して、そして
あなたのその顔があまり美しかったから」
「しばらく眠ったほうがいい」

森井が杏子のために薬と食べ物を買いに出ているあいだ
に、拳銃をもった組織のメンバーの女性が訪ねてきます
。部屋に戻った森井は、彼女を見て、恐れていた事態が
発生したことを知ります。
「彼女の仲間が外で待ってるんだ。彼らは今朝からぼく
をさがしていたらしい」
「あたしたち、もう会えないのね」
「そうなると思う」
ふたりはキスを交わします。
「ありがとう。ぼくはこれから、いろいろな仲間に質問
されたり、問い詰められたりするのさ。1年間、何もな
くて、きのう、それがおこるとは皮肉なもんだ。でも、
きみに誘われて旅に出るとき、ふと、そういうことにな
りそうな予感があった。いずれにしろ、後悔はしていな
い」
組織の女性が、フランス語で口をはさみます。
「みんな下にいるわ。なぜだかわかるでしょう? フラン
ツもリカルドもみじめな捕まり方だったわ。シオニスト
の豚どもを撃って、ふたりは手はずどおり、ここへ逃げ
こんだ。でも、助けてくれるはずのあなたは、いなかっ
た。この大切なときに、どこへ行ってたの? とにかく来
てちょうだい」
「レオも来ているのか?」
「もちろん、あなたのことをスパイだといってるわ」
「ぼくはスパイじゃない」
「レオにそう言うのね」

森井は、最後に、もう一度、杏子を見つめて「いい旅だ
ったよ」と言い、部屋を出ます。杏子は、カーテンを開
けて、走り去るクルマを見つめます。彼女の耳には、マ
ントンで聴いたバッハの無伴奏チェロ組曲が響いていま
す。

Bach - Cello Suite No.5 i-Prelude
Bach - Cello Suite No.5 ii-Allemande
Bach - Cello Suite No.5 iii-Courante
Bach - Cello Suite No.5 iv-Sarabande
Bach - Cello Suite No.5 v-Gavotte
Bach - Cello Suite No.5 vi-Gigue





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Last updated  2019.05.16 02:44:38
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