上生的幻想

上生的幻想

ワインの絵空ゴト  前書き





ワインの余韻。
ワインのコメントなどでよく目にするのは、というか一般的にワインの余韻といった時、そこにあるのは、フィニッシュ後20秒だとか、30秒だとか、ストップ・ウォッチでテイスターが測ったもので、その余韻の長短によってこのワインの品質は驚くべきものだとか、さほどでもないとか・・・。
 もちろん、今、僕の念頭にあるのはそういう風味上の余韻のことではない。
 ドニ・バシュレのこのワインの栓を抜いたのは12月16日。今日は、22日。今日で7日目。この一週間ずっと、バシュレの印象は僕を立ち去らない。これは余韻というより残像とでも言う方がいいのかもしれないが、とにかくワインのボトルはもう空になっているから、余韻といってもいいだろう。
 しかも、バシュレのこの余韻は、ただ消えないだけではない。今まで僕が巡り会った素晴らしいワインの記憶を次々に蘇らせ、綴りあわせて、僕を長い時間幸せな気分にさせるのだった。
 ほんとに、こんなワインは久しぶりだ。
 それで、ふと感じたことは、シャトー・ミュザール’91にはじまった僕のワインの冒険、というのが大げさなら、ワインの旅、が、このバシュレで一巡した、ということだ。もちろん、ミュザールのその地点そのものに帰還したというのではなく、それは螺旋状の軌跡の同一点なのだが。
 ミュザールに魅了された後、しばらくの間、ミュザールのようなワインばかりを探して、そうでないワインにはことごとく失望していたものだった(ミュザールのような素晴らしいタイミングのワインなど滅多に出会えないから、ずっと失望し続けるのも当たり前のことだ)。
 しかし今回、今後このバシュレのようなワインばかりを探し求めるかというと、多分そうではないだろう。確かに、このバシュレを飲んで、「今までのブル・ピノは何だったんだろう」と衝撃を受けたことは事実だが、しかし、それらのワインにはそれらのワインにしかない魅力があることも、たとえそれが平凡な赤色果実の風味のする地上のワインにしか過ぎなくても、それでもそれなりの魅力があることを、そしてそういう魅力もなかなか捨てがたいものであることを今の僕は知っているから。
 もちろん、このバシュレのようなワインに出会えるならば、それはそれでとても楽しみだが。

 とにかく、これほど長い「余韻」を持っているワインもなかなかないだろう。むろんこの「余韻」は、ものすごく主観的なものであり、僕の個人的なものだ。しかし、それならば、テイスターがストップ・ウォッチで測る風味の余韻、というものも実は主観的なものだ。テイスター個人の味覚の感度によって様々だという意味で。こういう「余韻」がまったく無意味だと僕は思わない。それは確かにワインの品質を測るのに大切な要素だから。だが、と僕は一方で強く思う、そういう品質的な驚きというのは、たとえばパーカーのようなテイスターや評論家などのプロに任せておけばいいのではないか? そんなことよりも、ワインを楽しむ、ということを単なる消費者である僕(たち)は、もっと満喫すべきではないのか? その方法や楽しみそのものについて、もっと、思いを巡らせてもいいのではないか?
 ワインの風味や品質についての記述は、ネットショップの宣伝文句に始まって、ワイン雑誌や個人的なブログや・・・巷にあふれかえっている。ある意味、そういうものには、もう、ちょっと食傷気味。僕以外の他者にとって、むろん、そんなに意味があるものだとも思ってもいないが、でも、それはそれでいいんじゃないだろうか、徹底的に風味や品質以外のところで、きわめて個人的で主観的なワインについての偏った思い入れを綴り続けても。
 どっちにしろ、ここに書かれているのは、そのワインを僕がどういう風に、どのくらい楽しんだのか、という軌跡に過ぎない。
 大切なのは、どう楽しんだか。ただし、常に問題になるのが、楽しむに値するだけのワインなのかどうか。しかし、それは単に品質が高いからだとか、有名な評論家が美味しいといっているから、ということではない。
 単に、僕はガメツイだけなのかもしれない。ただ「美味しい」と感じてすませてしまうことが、とても十分にワインを楽しんだとはどうしても思えないからだ。素晴らしいワインであればあるほど・・・。(2006/12/22)

(「ワインの余韻」より・・・)

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