パクス・ジャポニカ Vol.2

パクス・ジャポニカ Vol.2

PR

プロフィール

たけB777

たけB777

コメント新着

たけB777 @ Re:お初天神(露天神社)(大阪・大阪市)(02/20) 掛川城の記事、興味深く拝見しました。 棋…
ヴェルデ0205 @ Re:お初天神(露天神社)(大阪・大阪市)(02/20) お久しぶりです。 コメントありがとうござ…
たけB777 @ Re[1]:烏山城(下野国)~その1(02/04) araiguma321さんへ 与一温泉ってあるので…
araiguma321 @ Re:烏山城(下野国)~その1(02/04) 参考にさせて頂いてます。 ありがとうござ…
背番号のないエース0829 @ Re:首里城(琉球王国)~その2(12/10) 「沖縄summitから20年」に、上記の内容に…
たけB777 @ Re[1]:巾着田曼殊沙華まつり(埼玉・日高市)(09/27) 灰色ウサギさんへ 満開の時期に行かれたの…

お気に入りブログ

フロリレージュ・メ… New! ヴェルデ0205さん

3月1日 New! よっけ3さん

謎は解けたか New! 月の卵1030さん

網張温泉の夜 温泉… Traveler Kazuさん

ギフト解体セール☆彡… Belgische_Pralinesさん

前回の中断地点から… マキ816さん

Alone, Alone, and A… araiguma321さん

日々の出来事など しなの1707さん
京都観光をご案内し… スマイルフェイス8971さん
swang blog swangさん
2011/07/05
XML
テーマ: 城跡めぐり(1267)
豊臣秀吉の朝鮮出兵で知られる文禄・慶長の役では、文禄の役で約16万人、慶長の役で約14万人が動員されました。
肥前名護屋城 には、全国各地の戦国大名が詰めかけて来たため、城のある波戸岬全体が陣屋で埋め尽くされていたことでしょう。

名護屋城北側の海に近い場所には、小早川隆景・加藤清正・福島正則・上杉景勝・直江兼続・織田信秀・九鬼嘉隆・島津義弘などの、そうそうたる面々が陣屋を置いていました。
名護屋城北方陣屋.JPG


そのすぐ隣には、来島通之・藤堂高虎・伊達政宗・寺沢広高・黒田長政・真田昌幸などの陣屋がありました。
名護屋城西方陣屋.JPG
以上の兵力だけでも陸海軍併せて相当な戦力で、日本国内なら敵なしかと思います。


名護屋城西方陣屋2.JPG
小西行長・大友義統・結城秀康・真田信幸・仙石秀久・前田利家・大谷吉継・石田三成などの陣屋があった方向
この時兵站の奉行を担当した石田三成の陣屋は、意外にも名護屋城から遠く離れた一番西の端にあったようです。
(後に武断派と文治派の対立や関ヶ原の戦いの遠因ともなったのが、この出兵だったのですが)



名護屋城南方陣屋.JPG
宗義智は対馬から来たことになるので、行ったり来たりだったことでしょう。


文禄・慶長の役では、約160名の戦国武将の陣屋が造られ、うち23の陣屋跡が特別史跡に指定されています。

実際に各武将が陣屋を置いていた場所にも行ってみました。
名護屋城陣屋福島正則・小早川隆景・加藤清正.JPG
小早川隆景・加藤清正・福島正則の陣屋跡
朝鮮出兵の加藤清正と言えば虎退治の話が通名ですが、加藤清正が最も奥地まで進軍しており、現在の中国・北朝鮮国境である豆満江を越えていたと言われています。
名護屋城築城だけでも大普請だったと思うのですが、先陣まで努めるとは超人としか言いようがありません。


名護屋城陣屋九鬼嘉隆・細川忠興.JPG
九鬼嘉隆・細川忠興の陣屋付近
音に聞こえた九鬼水軍でしたが、李舜臣の朝鮮水軍の前には苦戦を強いられました。


名護屋城陣屋島津義弘1.JPG
朝鮮軍から「鬼石曼子」(グイシーマンヅ)と呼ばれた島津義弘の陣屋付近

雑木林の中に入って行くと、石垣の跡が残っていました・
名護屋城陣屋島津義弘2.JPG
朝鮮水軍の李舜臣が戦死したのも、小西行長の救援に向かった島津義弘の水軍との戦いの中です。


名護屋城陣屋上杉景勝・直江兼続.JPG

「この人たちまで来ていたのか」と言った感じですが、6,000人を率いて出兵し、実際に朝鮮半島まで渡海しています。


名護屋城陣屋北条氏盛・生駒親正・佐竹義宣.JPG
北条氏盛・佐竹義宣・生駒親正の陣屋付近
北条氏盛は北条氏直の養子とは言え、つい数年前の祖父の北条氏政の時代には、佐竹義宣や佐竹義重と関東で干戈を交えていた間です。
つい最近の敵同士も、ここでは陣屋もほとんど隣同士のような感じでした。

この戦国武将たちが、5年後に関ヶ原で東西に分かれて戦うようになるとは、思ってもみなかったことでしょう。




名護屋城秀吉朱印状2.JPG
豊臣秀吉が朝鮮出兵に際して発行した朱印状(原本)
出陣の順番が示されており、先手は加藤主計頭(清正)、小西摂津守(行長)と書かれています。
さらには先陣は二日交代とあるようにも見え、先陣争いを禁じているようにも思えます。
(実際は加藤清正と小西行長の先陣争いで幕を開けたのですが)
三番手は黒田甲斐守(長政)で、次に毛利壱岐守、嶋津又七郎(義弘?)とあります。
以下仮名混じりで、攻撃目標などが記されていました。

名護屋城秀吉朱印状.JPG
豊臣秀吉が鎌倉公方の後裔である足利国朝に宛てた書状
高麗国を平定して、自らも渡海して知行割を行うとあります。


名護屋城安宅船.JPG
倭国軍(水軍)の安宅船の模型

名護屋城亀甲船.JPG
日本史の教科書ではおなじみ、李舜臣率いる朝鮮水軍の亀甲船
李舜臣はこの戦いで戦死しますが、韓国では英雄として扱われてると、韓国の人に聞いたことがあります。

ちなみに名護屋城資料館では、日本の資料と共に韓国の歴史教科書も置いてあり、それぞれの見地から解説されていました。


豊臣秀吉の朝鮮出兵は、最終的には豊臣秀吉の死をもって撤兵・終結しました。
失敗とも言える戦いでしたが、プラグマティストである豊臣秀吉を思うと、この出兵は自然のことだったのかも知れません。


66国の天下を統一して土地の争いがなくなった後ですが、まだまだコメが貨幣として流通する経済にあります。
コメに代わる貨幣経済も流通せず、茶器などに価値を見出そうにも受け入れられず、とは言え与える貨幣(=コメ=土地)もなくなった中で、偽政者が求めるものは何だったのでしょうか。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2017/07/07 02:37:56 PM
コメント(2) | コメントを書く
[城跡と史跡(佐賀・長崎編)] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: