あけやん2515さんから、「いわゆる『お経』というと、本文で言うところの『経』=教義ということになるんでしょうか?」というご質問をいただきました。
結論から先に言うと、私の理解では、そのように解釈していいように思いました。ただ、もう少し言葉を添えるならば、狭い意味での「教義」(真理)ではなく、悟りを開くための「お釈迦さまの教え」なのだと思います。
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前日のブログに書いたように、経典(釈迦の教えを記録した仏教の聖典)には、教義が書かれた「経」、修業や戒律に関する「律」、経の解釈を記した「論」があります。つまり「経」とは教義が書かれたものです。
いきなり話がそれますが、世界各地の「民謡」の多くは、口づてに残ってきた歌です。それを譜にすることで後世まで残るようになりました。
仏教の場合、お釈迦さま(ブッダ)の言葉は周囲の弟子が聞き取り、それが口づてで継承されました。つまり暗唱に頼っていたのです。一説にはお釈迦さまが文書化を許さなかったとも言われています。
お釈迦さまの死後、そうやって継承されてきた言葉を編集し、記録として残そうとする動きが出てきます。ある僧が暗唱し、みんなでチェックするわけです。暗唱する人は「私は、このように聞いております」という言葉から初めたようです。これを漢訳すると「如是我聞」となります。このように、「如是我聞(にょぜがもん)」で始まっている経は多いそうです。
お釈迦さまの言葉を聞き取ったものですから、話は一つではありません。しかも、聞き取った弟子の解釈が入り、時間が流れ、別の国に伝わり、別の言語に翻訳されるごとに、いろんなバージョンが生まれます。中には矛盾した内容のものもあるそうです。
最初に、経典は「釈迦の教えを記録した仏教の聖典」と申しましたが、これは絶対的な定義ではありません。たとえば「般若心経(はんにゃしんぎょう)」は、お釈迦さまではなく「観自在菩薩」(=観音菩薩)だけが登場します。(菩薩とは仏になることを目指す「修行者」です)
結局、どこまでを「お経」というか、私にはよく判りませんでした。ただ、「お経」は、仏さまと向かい合うときの言葉だと思いました。そこには、信心に対する心構え、決意表明なども含まれています。調べていて、なかなかに奥深い言葉であるように思いました。