最も親しい隣人
生きるとゆうことを、死に直面してからでないと真剣に考えない私達は愚かなのか?それとも人だから仕方の無いことなのか?
先日10年来お世話になりっぱなしの方の弟さんが亡くなられました。 白血病 でした。家族でもなかなか合う人がいないとゆうことで難しいとされている骨髄移植。偶々兄弟の中でもその方の骨髄が移植可能だとのことで、昨年暮れに弟さんへの 骨髄移植 手術をされました。手術は成功し、一命を取りとめたばかりでホットしていた時の突然の出来事でした。
妻と中学生の一男一女が、父を無くしました。主のいない家が、鳥取県境港に残りました。その家は家族同様、弟さんの思い入れが随所に現れた素敵な家でした。その家に住む残された家族も素敵で立派な家族でした。
けど、その家族も家も建設途中の未完成品でした。
家の外は、今までと何も変わらぬかのように時間が過ぎ、世の中は動いていました。
生あるものは、死があります。生を受けた私達に最も身近なものは死です。死は、彼方のものでもなく、忌み嫌われるものでもありません。親しい隣人です。僕は、そう思います。
ちょっと昔読んだ本を思い出しました。生きることについて書いている文です。思い出したので、ここに書き留めておきます。
一体日本人は生きるということを知っているだろうか。
小学校の門をく潜(くぐ)ってからというものは、
一しょう懸命にこの学校時代を駆け抜けようとする。
その先きには生活があると思うのである。
学校というものを離れて職業にあり付くと、その職業を為し遂げてしまおうとする。
その先には生活があると思うのである。そしてその先には生活はないのである。
現在は過去と未来の間に劃した一線である。
この一線の上に生活がなくては、生活はどこにもないのである。
そこで己は何をしている。
生涯をかけて学ぶべきことは死ぬことである。
毎日毎日を最後の一日と決める人、
このような人は明日を望むこともないし、恐れることもない。
れわれは短い一生に生まれついているうえに、
この短い期間さえも速やかに走り、人生に見放される。
しかし、われわれは短い時間を持っているのではなく、
実はその多くを浪費しているのである。
われわれがそれを短くしているのである。
人生は使い方を知れば長い。
有り難いとも思われずに高位の者におもねり、
自ら屈従に甘んじながら身を擦り減らしている者もある。
また大多数の者達は確乎とした目的を追求することもなく、
気まぐれで、移り気で、飽きっぽく軽率に次から次へと新しい計画に飛び込んでいく。
諸君は永久に生きられるかの如く生きている。
すでにどれほど時間が過ぎ去っているか、諸君は注意しない。
人生の残り物を自分自身に残しておき、何事にも振り向けられない時間だけを
良き魂のために当てることを恥ずかしいとは思わないのか。
生きることを止める土壇場になって、生きることをはじめるのでは、
時すでに遅しではないか。
君は多忙であり、人生は過ぎ去っていく。
やがて死は近づくであろう。そして好むと好まざるとを問わず、
遂には死の時を迎えねばならない。
生涯の終末に至ったとき、何のなすところもなく長い間多忙に過ごしたことに気づいても、かわいそうに時はすでに遅い。
君は,今までに熱心にしてきたこれまでの仕事よりも、
もっと大きな、やり遂げておきたいことを知っているはずだ。
君はもっと偉大で、もっと崇高なものを自分に約束したはずだ。
“我々は短い時間をもっているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。
人生は十分に長く、その全体が有効に費やされるならば、
最も偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている。”
2001年04月03日