ぬまぺ♪の「おもろい」だいありー

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2005.1のネタ


2005.01.26
阪神大震災と、私が遭遇した地震

OCNでやっている応援地図 の新お題「阪神大震災から10年・・・あの日あなたは何をしていましたか?」
というOCNのお題があったので、時期が遅れてしまったけど、書いてみようと思う。
とても長くなるが、当時のことを思い出して詳しく書こうと思う。

大震災の前年12/28、青森地方で 「三陸はるか沖地震」 というのがあったというのは、地元の人以外はすっかり忘れているだろう。
震度6の地震があったのだ。
直後の発表では震度6だったが、阪神で震度に強とか弱とかつく震度が導入され、
震度5強だったかに訂正されたように記憶している。
そんなに強い地震なのに、死者3名、負傷者800名弱と、比較的被害が小さかった。
阪神と違って死者が極端に少なかったのは、まず、直下型ではなかったこと。
強い地震の前に、震度3くらいの地震が数秒あったので、気持ちに余裕があったのだ。
そして、これを言うと非難を受けるのだが、住民が地震に対する日頃の心構えがあったこと。
地震の多い地域で、街づくりも災害に強いように作っているし、地震経験者がほとんどだ。
街の一部でガスのにおいがしたとき、誰ともなく「火を消せ!」と叫んだという話からも、
経験が活かされていることが伺える。
しかし、何の前触れもなく、いきなり直下型の強い地震があったら、どんな心構えがあろうが、
設備があろうが、それらが役に立つことはないかもしれない。
それだけ阪神大震災と、はるか沖地震では、「震災」と「地震」という名前からして、まったく異なものだと言える。

私は東京寄りの千葉県に住んでいるが、当時、出産のため実家の八戸に戻っていた。
初めての子供だし、寒い時期なので早めに行って、産後1ヶ月以上、計3ヶ月も居た。
「はるか沖地震」の当日の夜、仕事納めの会社も出始めるころなので、
街にはほろ酔い気分の人達があふれていた。
そして、9時過ぎ、夕食後、お風呂に入ってる時間だった。
「あ、地震だ。」
始めは3くらいだったので、すぐにおさまると思っていたが、ちょっと長い気がする。
いつもお尻に敷いていた大きいクッションを、その時に限って、なぜか抱っこしていたので、
半分冗談で頭に乗せたその直後・・・、
ガチャガチャガチャーン!!!!
家中のあらゆる物がぶつかる音で、家全体が鳴り響いた。
新築祝いの(といっても20年以上経っている)シャンデリアが1個、目の前に落ちてきた。
コタツの上に落ちたそのガラスの物体は、辺り一面破片をばら撒いた。
やっと揺れがおさまって、辺りを見渡すと、すごいことになっていた。
まず、スチール机の引き出しが全部開いていて、目の前には大きいガラスが。
隣近所は停電している。
そして、今でこそ笑い話だが、パンツを持ったフリチン姿の父親が廊下に立っていた。
お風呂に入っていたので、何とかパンツだけははく気持ちがあったらしいが、行動まではできなかったようだ。
そんなちょっとお間抜けな格好をさらしてしまった父親だが、こういう緊急事態の時は頼もしい。
真冬にもかかわらず、シャツとステテコ姿のまま、隣近所に電気を分けるべく、サンダルで外に出た。
幸い、うちは停電にならなかったのと、左官業のために業務用のライトや電ドラがあったのだ。
それから、お風呂屋さんから帰ってきた母親が玄関に入るなり、とても驚く。
玄関にあった水槽の水は半分以上なくなってるし、破片だらけだ。
お風呂屋さんでは、落ちるものがあまりないので、それほど強い地震だとは感じなかったらしい。
確かに、浴槽のお湯が揺れてあふれたらしいが、気が付かなかったというのだ。
お風呂屋さんの浴槽って、家のそれとは規模が違う。
それがあふれるほどの地震って相当強いって判りそうなものだが、実被害がないと、なかなか判らないものらしい。
その上、帰り道はいつもと変わらなかったので、余計に判らなかったようだ。
もし、日中だったら、倒れたものとか見えて、違ったのかもしれないが。
それからが大変。
たまたま遊びに来ていた従兄弟が父親の手伝いをし、母親は台所の片づけをした。
この台所、てんぷらをした後の冷えた油を入れたままのなべがテーブルの上においてあったのだが、
地震で半分以上あふれ出てしまい、床一面、油だらけになってしまったのだ。
調理中でなくて幸いだったが、掃除が大変だった。油がなかなかとれず、広範囲に広がっていたので、
母親は相当苦労したようだ。
私はというと、一番落ち着いていた。というより、ボーっとしてた。
妊婦特有のポワンとした気分で、ぜんぜん怖くなかったのだ。
今思い出すと、涙が出るほど怖いのだが、お腹の子供がそうさせたのだろうか。
いつも座っていたクッションを、その時だけ抱っこしてたのだって、何か不思議な力が働いたのかもしれない。
おかげで、かすり傷一つ負わなかった。
それになんといっても、家族が私を動かさなかった。下手に動くと怪我しそうだったし、役にもたたんし。
一番心配したのは、陣痛が始まってしまわないかということ。実際、そういう妊婦さんも何人かいたようだ。
その後、水が出にくくなったりしたが、家族内に限っては、それほどの混乱はなかった。
ただ、左官業なために、「壊れたのはちゃんと作ってないからだ!」と、いわれのない苦情を受けることになってしまった。
(価格を下げれば、それなりのものしか作れないということを、お客様は判っていないのだ。)
被害がひどかったのは、地震の道と呼ばれる、地震でできた段差の上にあった建物。
その中に女子高もあり、ここの被害がひどかった。授業中でなくてほんとに良かったと思う。
テレビでは、前述のパチンコ屋がつぶれただの、瀬戸物屋さんが破産しそうなくらいの被害だったの、
いろんな報道があり、都会のマスコミのヘリが飛んできていた。
年が明けてから、震度5くらいの余震があり、煙突が折れて被害にあった建物もあったが、
大きい余震はそれくらいだった。
総合的に考えると、震度こそあるものの、大規模ではなかったのだ。
いろんなことが幸いし、皆が忘れるくらいの地震となった。
それでもその爪痕は10年かけてようやく、癒えたと言える状態になった。

はるか沖地震の大きい余震から10日経った1/17、阪神大震災が起こった。
連続して地震なんて、なんという年だろうと、ふと思った。
しかも、どちらの地震にも関係するなんて。
ダンナを残してきていて心配だったが、すぐに向こうから連絡が入ったので、ひとまず安心。
心配だったのは、被害がひどいという東灘区に住んでいたおばさん家族。母親の姉妹の家族だ。
この家族、地元には居ないで遠くに住んでるのもあり、日頃の付き合いは疎遠だが、
血縁者だし、何度か会ってるし、さすがに心配した。
死亡者の名前がニュースから流れてこないよう、祈りながらテレビにかじりついてた。
こっちからの連絡は取れず、1週間くらい経ってからだったろうか、向こうから連絡が入った。
この間、母親の兄弟で救援物資を送るか送らないかでもめていた。
ほんとに届くのかだの、お金はどれくらいがいいかだの、物は何がいいかだの、ゴチャゴチャやっているうちに時は経ち、
結局、おばからはもういらないと拒否される始末。
なんて情けないことだろう。変な田舎根性なのか、単なる性格か、腰の重い事、この上ない。
時期を逸するというのは、災害でなくてもいい結果を招くものではない。
(この日記も時期を逸してるかも・・・)
それにしても、生きる力というのはたくましい。
おば達も、倒れた家具の間をかいくぐり、夜が明けない暗い中を、倒れて炎上するバイクの火を明かりにして、
外を歩いたという話を聞いた。
昨今の日本人は腑抜けになったと言われるが、いざとなるとちゃんと力を発揮する。
ただ、地震のような究極の状態でないと発揮されないというのは、非常に残念だが・・・。
もちろん、今でもいろんな意味で傷が癒えない人もたくさんいる。
でも、その傷を抱えながら、生きている。
何もなかった私たちの方が、反対に勇気付けられる。
救援活動ももちろん不可欠だが、自ら精一杯生きる気持ちで生活することも、
もしかしたら、まわり回って救援していることになるのかもしれない。

実は我が家は、おばあちゃん(ダンナの母)、ダンナ、息子、と3代そろって地震があった前後に生まれている。
地震一家とでも言おうか。
子供が大きくなって結婚したら、「子供が生まれる時は、地震に気をつけろ」って言おうかなと、今から考えている。
気を付けるに越したことないし。
災害の中で地震が一番怖いと言われている。火事を始め、2次的被害を多く生むからだ。
たとえ、地震経験がなくとも、知識だけも蓄えておく必要があるだろう。
今、テレビの「救命病棟24時」が放映されている。
地震発生のシーンはあまりに怖く、当時の恐ろしさがよみがえり、涙があふれ、直視できなかった。
大好きなドリカムの歌も、どうでもよくなった。
当時は感じなかったが、相当怖い経験だったのだろう。
妊婦でなければその時その場所にはいなかったが、妊婦だからこそ、怖がらずに済んだのではないかと思っている。
命を宿すというのは、何か、目に見えない力が備わるのだろうか。

これから先、数十年の間に、大規模な地震があるという。それも東京近辺で。
日本そのものが地震大国だから、どこで起こっても不思議はないらしいが、地震を止めることはできない。
私達ができるのは、地震の後、どう過ごすかということ。それに備えて何が準備できるかということ。
経験からいうと、スリッパを身近(ある番組で枕元と言っていた)において置くといい。
破片の上を歩かなくてはならなくなるから、怪我をしないためにも用意しておいた方が良い。
それから、テレビなどの情報から、揺れている間は下手に動かないこと。というより、動けない状態になるとは思うが、
火を消そうとしたり、助けに行こうとしたりなど、無理しないこと。
助けたいなら、自分が助かることだ。
そんなに長い間揺れが続くものではないから、止まってから行動すること。
あとは、日頃から避難場所や避難ルート、電車など公共の乗り物の避難方法なども確認しておいた方がいいだろう。
特に、子供がいる親は(自分もそうだが)、避難場所、それも近所と広域の両方をしっかり覚えておく必要がある。
食料は、3日過ごせる程度のものがあるといいようだ。3日過ぎれば、ライフラインが徐々に復帰してくるからだ。
自分で実施してるのは、スリッパと避難所の確認ぐらいだが、食料や水も備えなければと思う。

地震が起こるのは避けられないから、せめて、準備や知識を蓄えて、
たくましく生きたいと思う。



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