さすらいの天才不良文学中年

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続 当世マンハッタン事情 カジノ考

<当世マンハッタン事情(その2)>


<KEY WORDその3> 摩天楼の上では欲望が「とぐろ」を巻いている

 NYのJFK空港からマンハッタンに車で入る途中、高速道路上から摩天楼が浮き上がって見えてくる。

 良~く見ると、摩天楼の上に欲望が「とぐろ」を巻いている。さらに良~く見ると、人間のお金や地位や名誉等への欲望が一つになって摩天楼の上で浮かんでいるのが分かる。

 おいらは、この背景には、米国型資本主義があるとにらんでいる。

 実際、NYに居ると米国型資本主義を肌で感じることができる。例えば、マンハッタンの交差点では、韓国人やヒスパニック系のドライバーが目を吊り上げ、クラクションを巻き散らしながら猛スピードで走り去っていく。NYでは、万人に対して平等に「(欲望を満たすための)自由と権利」が与えられている。したがって、欲しいものを手にいれるために努力を重ね、その代償として成功することも、また、失敗してしまうことも全て自由である。

 当然のことながら、全ての人間が成功するわけではない。勝者もいれば敗者もいるのだ。マンハッタンの神風タクシーの光景は、欲望の代償である成功が手に入らない負け組の苛立ちがそうさせているのである。

 おいらは、この「欲望を満たすための自由(それも極端すぎる自由)と権利」がNYの「売り」であると思う。米国型資本主義とは、詰まるところ、この「自由と権利」に「リスクを取るからリターンがある」というセオリーを裏打ちしたものであると思うのだ。

 そう考えると、摩天楼の上の「とぐろ」も説明がつく。「リスクを取る自由と権利」があり、「強いものが勝つというシンプルな理屈(競争原理とは、こういうことだ)」があり、さらに「成功すればリターンが手に入るという自由」のそれぞれが欲望となってマンハッタンの上空で「とぐろ」を巻いていると思うのだ。

 NYにいてもう一つおいらが思ったことは、フリー(自由)の国では、常に新しい発想、新しい行動が世の中の牽引車であるということだ。その底流には、やはりこの「とぐろ」があると思う。乱暴な言い方をすれば、結局、アメリカの原動力はこの「とぐろ」にあると言っても過言ではないとおいらは思うのである。


<KEY WORDその4> グローバル・スタンダードとはニューヨーク・スタンダードまたはアングロサクソン型スタンダードである(アメリカ人の中華思想について)

 最近、グローバル・スタンダードという言葉をよく耳にする。

 しかし、冷静に考えてみれば、世界基準なんて特定の誰かが勝手に決めているわけではない(また、多分決められないだろう)。その基準が使い勝手の良いもであれば、いつの間にかグローバルなスタンダードになっているということだけだとおいらは思う。ところが、実際は、このグローバル・スタンダードは、米国それも多くは東海岸(主としてニューヨーク)の基準が主張されていることが多い。

 おいらが、昨年ある有名な国際会議に出席したときのことである。会議の最初から最後まで、白人が世界のマーケットを「公平で、自由で、市場にアクセス出来て、国際的で、非差別的で、透明性のある」ものにしようと議論しているのだ。それはそれで良い。おいらもそれが正しいと思う。実際、この考え方は、GATTによるものであり、どこかの国が2001年までにフリー・フェア・グローバルを合言葉に金融ビッグバンを行おうとしているのと考え方は同じだからである。

 しかし、衣の下にどうも鎧が見え隠れするのだ。これは、アメリカだけのための主張ではないかと。言葉を代えれば、アメリカ、それもニューヨークまたはアングロサクソンにとって都合の良いマーケットのことだけを議論しているような気がしてならないと感じたのである(おためごかし? それ程、アメリカ人の中華思想とは強いものだ)。

 確かに、自由化は、それ自体反対すべきものではない。おいらも賛成である。しかし、それだけが全てではないはずなのに、どうも、自由化だけが全てとして物事が前に進んでいるように思えるのだ。

 実は、グローバル・スタンダードというのも、こうまでアメリカから言われると、「ちょっと違うんじゃないの」と、考えたくもなる。すなわち、グローバル・スタンダードというのは、単なるアメリカの中華思想の表れであって、その中身は単なるアメリカン・スタンダードそれもニューヨーク・スタンダード(または、アングロサクソン型スタンダードとも言うべきか?)であるとおいらは思わざるを得ないのである。
(以下次号)



<当世マンハッタン事情(その3)>


<KEY WORDその5> アメリカという国は、何でも数値化しないと気が済まない国である。

 最近出版された本に「リスク(原題:Against the Gods.日本経済新聞社刊)」というのがあり、良く売れているらしい。

 なかなか面白い本であり(ちょっとしちめんどくさい説明が多いのがたまにキズではあるが)、読んでいたら何でも数値化してしまう人物の話しが出てきたので、おいらはハタと膝を打ってしまった。NYにいて、これと同じように目からウロコが落ちる経験をしたことがあるからである。

 ご存じのように金融の世界のめまぐるしい発展に対し、「数値化」は随分と貢献してきた。特にデリバティブと呼ばれる金融商品が生まれてきた背景には、アメリカ宇宙開発事業の縮小等によって仕事のあぶれたロケット工学者等が大挙して金融の世界になだれ込み、彼らが「高度な数学の考え方や数値化という概念」を金融商品に導入したからだと言われている。日本と同様、従来はカンと度胸に頼っていた?金融の世界にいわば「数値化」という革命が導入されたからだと思うのである。

 NYに住んでいて、おいらはこのことを肌身にしみていたつもりであった。しかし、付き合いのある外人(残念ながら男!)がおいらの送別会を開いてくれるまでは、この背景にある本質にまだ気付いていなかったのである。

 実は、その送別会で、おいらはNYにいてどうしてもわからなかった「ダイレクトメール」のことを外人に聞いたのである。「よくもまあ毎日と言っていい程、保険会社や証券会社等からダイレクトメールがが送られてくるものだ。おいらはほとんどそのまま捨てているのだが、アメリカ人はどうしているの?」と、質問したら、彼の答えは明解であった。

 「ダイレクトメールの数字(値段)を見る。そして、それが安ければ、乗り換える。ただ、それだけだ」

 おいらの目からウロコが落ちたのは言うまでもない。

 この答えを聞いたときに、おいらはアメリカ人が小さいときから受けている教育を思い出していた。確かに彼らは数字と共に育っているのだ。例えば、「自宅から学校まで2.3マイルある」というように表現し、決して「約2マイルある」とは言わないのだ(これホント)。

 つまり、何でもかんでも数値化するという考えが彼らの根底にあり(実はこれが真相!)、ロケット・サイエンティストであっても金融の世界は彼らを抵抗なく受け入れた訳だなと思ったのである。

 余談だが、そのときお互い少々酔っぱらっていたものだから、不躾(ぶしつけ)にもおいらはバツイチである相手に「結婚の相手にどういう人を考えているの?」と聞いていた。

 すると先方は間髪を入れず、自分の胸に大袈裟に手をあてながら「TITS!(すいません。お行儀の悪い言葉ですので、辞書をおひき下さい)」と回答するのであります。

 みなさんの誤解のないようにお話しておくと、この友人はごく普通の人物である。その人物がこれだもんなあ。これにはおいらはまいったのである。なるほどアメリカは数値化の国であると同時に物質?の国でもあるとも思ったのである。


<KEY WORDその6> 意外に閉鎖的? 個人と個人との付合いは日本的

 よく言われていることだが、イギリスでは、「応接間に通してもらえるまでが大変。しかし、一旦そうしてもらえれば、その後は親友付き合いが簡単にできる」。他方で、アメリカでは、「応接間に通してもらえるのは簡単。しかし、その後、親友付き合いが出来るまでには相当時間がかかる」らしい。

 これは一面の真理であり、意外にもアメリカ人の本質は閉鎖的なのかもしれない。おいらの経験した例でも、つきあった外人(ビジネス面ですが)は最初からオープンではあったが、やはり本当の意味でうちとけるようになるまでには半年はかかったと思う。で、一旦うちとけると、個人と個人との関係は、日本人同士と同じようにツーカーの関係になれるのである。

 ま、これはある意味で理解できる話しとおいらは思うのである。


<終わりに>
 3回に渡って連載におつき合いいただきありがとうございました。連載の終了にあたり、日本に帰国して違和感のあったことをひとつお話ししてみたいと思います。

 それは、帰国した当時、職場を見渡すと「外国人がいない!」ということと「女性の管理職がいない!」ということに随分違和感を感じたことです。

 あたりまえすぎて気がつかないことですが、日本では、「日本人ばっかし」「男ばっかし」というのが普通です。しかし、アメリカでは、多民族の集まりであり、同時に女性が活躍しているのが普通なのです。したがって、日本でも早晩そうなる日がやってくることになると思うのであります。

 それでは、GOOD LUCK !!




白人の身長

 白人、といってもアメリカ人だが、身長が低くなっているという。


Sマックイーン


 独ミュンヘン大の教授が、アメリカの白人と欧州の諸国とを比較したところ、20世紀前半は最も身長が高かったアメリカの白人が今や、オランダ、北欧、ドイツに抜かれ、平均身長が最も高いオランダには5センチも低くなっているという(NYタイムズが原典。ヘラルド・トリビューンに転載され、産経新聞が記事に)。

 しかして、その原因は。

 このミュンヘン大の教授は、「アメリカの家庭が子供の面倒をあまりみなくなったために、ファーストフードへの依存が栄養の偏りとなり、身長の低下に繋がっている」と分析する。

 おいおい、本当かよう~。

 しかし、眼を朝鮮半島に向けると、脱北者と韓国人との平均身長を比較した場合、北朝鮮の方が6センチも低いという。

 確かに、経済状況の悪化は、食料事情を悪くし、身長を低くする可能性がないとはいえない。身長は、栄養と健康のバランスで決まるらしく、この二つの要素は、早い話しが、経済状態のことである。経済状態が良ければ身長は高くなるし、悪くなれば低くなる。そして、経済状態が良くても、家庭環境に難があれば、ファーストフードに走り、身長が低くなるという説である。

 そう云えば、おいらの家族もあてはまるような気がする。少し年の離れた末弟は、東京オリンピックの数年前に生まれた。世の中が活気を呈した時代である。その弟は毎日牛乳を飲んで育ち、何時の間にか身長は1メートル80センチを超えていたもんなぁ。

 なお、日本も戦後急速に身長が伸びたが、最近は頭打ちという。と、云うことは、……


カジノ法成立で思うこと(前篇)

 あっさりとカジノ法=統合型リゾート(IR)推進法が本日(12月26日)公布され、即日施行された。


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 ギャンブル依存症ばかりがクローズアップされているが、この法律を少し調べてみると、統合リゾートの中でしかカジノをオープンすることはできないことが分かる。

 つまり、あくまでも統合リゾートのエリア内、すなわち限定的なカジノの解禁である。

 しかも、今回のカジノ法は実質的には2020年の東京オリンピック後での実施を考えており、カジノを含めた統合型リゾートを作るための準備法だということも分かる。

 だから、ルーレットやバカラがすぐにできるというわけでもない。また、カジノを行うためはわざわざそのリゾートまで行かなければならない。

 さて、カジノでおいらが思い出すのはNYに住んでいたときのことである。無論、NYでもルーレットをすることはできないので、カジノを愉しむためにアトランティック・シティに行ったのである。今から約20年前の話しである。

 当時のアトランティック・シティは、西部のラスベガスに次いで全米第2位を誇る東海岸のカジノ都市であった。

 NYのマンハッタンから車で2時間半程度の距離である。アトランティック・シティの海岸沿いにはビーチがあり、夏には海水浴客で賑わうのである。おいらはここをアメリカの熱海と呼んでいた。

 だから、会社の同僚と車に乗って金曜日の夕方、会社がひけてからアトランティック・シティを訪ねた。社内旅行のノリである。

 ところでこのときの感覚は、パチンコをしに行くという感覚であった。おいらはNYに転勤になってから今に至るまでパチンコを一度もしていないが、現在のパチンコは娯楽というよりもギャンブルに近くなっているのではないかと思っている。

 昔のパチンコは数千円で遊べて、運よく勝った場合は1万円以上の儲けとなることがあったが、今では数万円の元手で負ければ1円も残らず、勝つときは十万円などというからこれはもう立派な博打である。

 したがって、財布の中に100ドル札(当時の為替で11,000円程度)1枚を入れて、それが無くなったらおしまいにしようとの算段でアトランティック・シティに向かったのである(この項続く)。


カジノ法成立で思うこと(中篇)

 それまでのおいらのカジノ歴はロンドン、マカオ、ソウルでの3回だけである。


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 戦績は1勝(マカオ)2敗(ロンドン、ソウル)である。基本的においらはルーレットしかしない。トランプの類は経験が少ないのでやらない(ポーカーだけは学生時代にやったが、所詮素人の範疇である)。初心者はディーラーにカモにされるのがオチだからである。

 そのルーレットだが、おいらの場合は偶数か奇数に賭けるだけである。戦術は簡単で、偶数が3回続いたら奇数に賭ける。奇数が3回続いたら偶数に賭けるというものである(なお、一度負けたら次回の掛け金を倍にするという必勝法があるが、資金が少ないのでやれない)。


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 これでマカオでは1万円の元手を3万円にした(2万円の勝ち)。ロンドン、ソウルでは結局負けているので(2万円の負け)、収支はチャラ、要するにカジノの雰囲気を愉しんだ(遊んだ)ということだけである。

 アトランティック・シティでも同じやり方でルーレットにチャレンジし、結構粘ったが、元手が増えることもなく減ることもなく、夜中の12時ごろにはとうとう負けてしまった。

 ディーラーが最初は勝たせてくれたのだろうが、少しでも賭けると必ず負けるようになっているようだ。

 ところで、NYで世話になった同僚のK君はブラックジャックが得意で、小遣いをかせいでいたような記憶がある。彼は仕事同様、ギャンブルもしっかりしているのである。

 さて、ここでカジノの「還元率」について触れる。

 還元率とは、ギャンブルに支払ったお金がいくら戻ってくるかという割合のことである。

 実は、カジノの還元率は90%から95%と非常に高いのである。

 これに対し、日本のパチンコは85%。競輪や競馬、競艇など公営ギャンブルは75%の還元率だという。

 最低最悪は、皆さんご存知の通り、宝くじである。還元率は約45%。だが、ほとんどの人はハズレで、末等の10%しか戻ってこないから実質還元率は10%。だから、宝くじは寄付と同じである。

 カジノに話しを戻せば、ディーラーの技量やマシンの設定の仕方によって還元率を左右させることが可能である。だが、目の肥えた観光客は還元率を知っているので、還元率を低くすると客は集まらなくなる。

 事実、アトランティック・シティはアメリカ東部各州でのカジノ合法化によって過当競争となり、客は減少した(近隣のペンシルバニア州は2007年解禁、メリーランド州は2010年解禁)。

 アトランティック・シティでは経営収入が低下したことにより還元率を下げ、そのため客がますます離れるという悪循環によって凋落したのである(この項続く)。


カジノ法成立で思うこと(後篇)

 ギャンブル依存症についても触れなければ、片手落ちである。


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 政府は、「ギャンブル依存症対策を検討する関係閣僚会議」を開催し、その対策に全力を挙げることで、カジノ解禁への理解を促したいという考えのようだ。

 ぜひともしっかりと検討して欲しいものだが、おいらが今回驚いたことは、厚生労働省のデータによると日本のギャンブル依存症の数は成人の5%ということである。

 これは異常に高い。カジノ大国のアメリカですら1.6%であり、先進国でも2%未満がほとんどである。

 では、なぜ、日本はそれだけ高いのか。

 その理由は簡単で、パチンコ店が全国に約1万2千軒あり、パチンコの売り上げが約23兆円もあるからである。

 この23兆円がすごいというのは、世界中のカジノの売り上げを足しても約18兆円にしかならないからである。世界中のカジノが束になって戦ってもパチンコにはかなわないというほどパチンコのマーケットは大きいのである。

 ひえ~。そうだとすると、ギャンブル依存症対策を検討する関係閣僚会議は、何も今回のカジノ法が施行されなくてもパチンコ対策会議を開いていなければならないのではないかと思うのだが如何か。

 さて、おいらと同僚はそのアトランティック・シティでカジノを愉しんだあと、未明にNYへの帰路についたのである。

 宿泊しないでそのまま帰るのは彼の地では普通のことであるが、はっきり云っていい客ではないよなぁ(しかし、一応、スーツを着て身なりはちゃんとしていた)。

 土曜日の朝方、NYのアパートに戻ったおいらがそのままバタンキューと眠りについたのは当然のことである。

 以上、カジノが国内にできたらおいらは物見遊山で必ず遊びに行くが、相当な魅力がない限りリピーターになることはなかろうと思う。

 なお、大切なことを云い忘れていたが、世界中で最も大きなマーケットの博打は株と為替である。

 おいらは為替はしないが、株は投資家としてささやかながら個別銘柄のキッタハッタをしている。

 そして、株をやっているとパチンコや競馬などはちまちましていて、全く物足りないと感じてしまうのである。これって、おいらも立派なギャンブル依存症なのかも知れない(この項終り)。


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