さすらいの天才不良文学中年

さすらいの天才不良文学中年

ジーンズ CM 日傘 ウオーキング

ジーンズ大好き(前編 ジーンズ遍歴)

 休日に何を穿くか。


薔薇


 おいらはジーンズ派である。季節が良いときには、機能的な作務衣を着ることもあるが、外出するときに着替えなければならないという煩わしさがある。ジャージも面倒くさくなくて良いが、所詮寝巻きである。さりとて、スラックスとポロシャツでは、もろにおじさんのゴルフスタイルで、見っともない。

 で、おいらが日常穿くジーンズ(これをジーパン(和製英語)と呼ぶか、デニムと呼ぶかで、ひと悶着があるのだが、通ぶってジーンズと呼ぶ)は、「MACHINE」。

 昔はLee一辺倒だったが、10年ほど前、学芸大学東口商店街を歩いていたら、バッタ屋が倒産品もどきを期間限定セールしていた。何気なしに中を覗くと、薄手でデザインの良い米国産ジーンズ「MACHINE」が投売りされている。色合いと生地が悪くないので、サイズの合うインディゴブルーと茶の2本を求めた。2本で3千円前後だったように記憶している。

 これが優れものであった。腿にぴったりフィットし、脚も長く見える。しかも、穿き心地が良い。洗いざらしにすると肌に馴染む。したがって、この10年間は、2本のジーンズを取替え引換え穿いていたような気がする。

 だから、ジーンズのヴィンテージものを求めるなどは阿呆のすることだと思っていた。ところが、この倒産ジーンズを長年穿いているうちに、厚手のデニムでこれが本物だというジーンズを一本持っていても良いと思う様になってきたのである。

 考えてみれば、おいらとジーンズとの歴史は古い。そうは云っても、高校まではお洒落に無縁な学校だったので、ジーンズを買ったのは大学に入って間もなくだったと記憶している。昭和44年である。

 当時は、VANだのJUNだの、軟弱なブランドが世の中を席巻しており、へえ~、こういうのがお洒落かと指を咥えて眺めていたのであるが、ジーンズが人気になった理由は、貧乏学生でも手の届く値段であったことのように思う。

 しかも、「ブルージーンと革ジャンパー」(アダモ、昭和39年発売)という曲がラジオ(!)で流行っており、ジーンズがお洒落だというイメージを植えつけられていた。猫も杓子もジーンズを穿いていたように記憶している。当時は、ベルボトムが流行っていたなぁ。おいらも粋がって白のベルボトムのジーンズを穿いていたなぁ。嗚呼、恥ずかし。


J ディーン


 そのうちジーンズにやたら詳しい奴まで現れ、N(おいらと同じく作家志望であった)の云うことには、Lee以外はカスだとご宣託を述べるのであった。ジェームス・ディーンが穿いていたからだろうか、今ではその理由を覚えていない。

 したがって、おいらが社会人になって買ったジーンズがLeeであったのは云うまでもない(何も自慢することではないが)。穿き続けてぼろぼろになったそのLeeは、今でも我が家の箪笥の中で眠っている。優に30年以上前のLee101である。どうだ参ったか。ヴィンテージは穿き倒して出来上がるものなんじゃ。(続く)。


ジーンズ大好き(中編 ヴィンテージはカルチャショック)

 そうは云っても、所詮ジーンズはジーンズである。作業着だったのである。


Sマックイーン


 スティーブ・マックィンが穿こうが、ジェームス・ディーンが穿こうが、チャールズ・ブロンソンが穿こうが、作業着なのである。カジュアルのレベルにまで引き上げられたのは、比較的最近のことである。

 だから、自分に合ったジーンズがあっても、中年になったら、「ハイそれまでよ」と捨てられていたのである。

 ところが、ジーンズが復権したのである。バカ高い値段のヴィンテージ風が我が物顔で登場したからである。ヴィンテージ風は自分たちが育った時代だと、おじさん達も再びジーンズを穿く様になったのである。

 だが、おじさん達にジーンズが本当に似合うのか。

 30代になったばかりのおいらが覚えている一こまである。既に当時サラリーマンにどっぷり浸かっていたおいらは、ジーンズを穿くのは20代までと決めていた。しかし、社員旅行(この古い響き!)で40代に手の届く先輩が無造作にジーンズを穿きこなしているのを見て驚いたのだ。

「おっ、いけるじゃん」という気持ちと、「いい年こいて」という気持ちが拮抗したことを覚えている。今から約25年前のことである。

 しかし、時代は変わった。機能的にすぐれ、デザインの良いジーンズであれば、カジュアルとして穿いてもおかしくないと皆が認めるようになったのだ。


 さて、ここで、ヴィンテージについて、述べなければならない。

 本来、ヴィンテージのジーンズとは、ジーンズが発売された当時(1890年代から1950年代)のものしか珍重されない。実際に着古されたもので当時の原型を留めているものであれば、好事家の間で中古品1本が数百万円の値段で取引されているのである。数十年前の着古したジーンズでも、ブランドによっては1本数十万円するのだから、驚きを通り越して、骨董品ではないのかと間違ってしまう程だ。

 テレビの「何でも鑑定団」で、戦前のデッドストック(新品の売残商品)のジーンズが取り上げられ、目の飛び出るような高価な鑑定結果に驚いた人も多いのではないかと思う。

 そこで、新品のジーンズをわざと、この中古着古し風にさせたものが、最近流行っているヴィンテージ風のジーンズである。新品を穿いているのが恥ずかしいから、古く見せているというのではどうもないようである。

 ヴィンテージでおいらが思い出すのは、随分前(10年位前)のことではあるが、ダイエーのジーンズ売り場が様変わりとなり、2万円以上のヴィンテージ風のジーンズが飛ぶように売れているのを見てカルチャショックを受けたことである。

 解説を加えると、おいらは学芸大学に住んでいたので、碑文谷のダイエーに行くのが楽しみであったのだ。拓郎も彼の歌の中で同じことを云っている。この当時、スーツの青山が1着1万円のスーツを販売し始めたころだったような気がするから、攻守が完全に逆転したのであろう。

 ま、早い話しが、このジーンズの販売戦略が当ったのである。ジーンズにプレミアが認められ、復権したのである。おいらがこの10年間、ジーンズを穿き続けているのもそうした理由からだ。

 これによって、今のジーンズはヴィンテージ風の高級品と安価な(=ユニクロのような。ユニクロさん、ごめんなさい)実用品との二極化現象になってきたのである(続く)。


ジーンズ大好き(後編 「KUNNA」って知らねえだろう)

 さて、ここから今穿いている「KUNNA」について述べなければならない。


KUNNA


 前述のとおり、高級感のある厚手のデニム・ジーンズが欲しいと思うようになっていた。色は、勿論、インディゴである。

 どこの製品にするかで、まず、最初の選択肢は、いわゆるジーンズ御三家にするかどうかである。ジーンズ御三家とは、ジーンズの歴史を築いた米国の「リーヴァイス」、「リー」、「ラングラー」の三大ブランドである。これは、通俗であると勝手に決め付け、個性的なジーンズを選ぶことにする。

 そこで、次の選択肢は、国内ブランドにするか海外ブランドにするかである。「ボブソン」や「ビッグジョン」、「エドウィン」などが国内メーカーだと知って驚かれる方がいるかも知れない。ここでも、通ぶって海外にしてみよう。

 ただし、デニムの品質や縫製の技術で世界一の国は、恐れ多くも日本である。だから、国内ブランドの「エヴィス」は捨て難い。パリでジーンズと云えば、「エヴィス」しかないのである。しかし、ここはやはり、どうしてもジーンズを知り尽くした米国西海岸のブランドに拘りたい。スーツは英国の如しである。

 その道に詳しいW氏に話しを聞いてみると、西海岸ブランドで原材料が日本、縫製も国内で行うブランドがあるという。これは、云ってみれば、アメリカ版「エヴィス」ではないか。デザイナーも日本人モリセ・ヒロ氏だという。

 それが、「KUNNA」ブランドである。「KUNNA」とはスエーデン語でcould(=be able to)の意味だという。何故、スエーデン語なのかは分からないが、オバマ大統領のいうCHANGE = YES, WE CANに通じるものがあるではないか。おっと、これはおいらのこじ付けではあるが…。

 しかし、まぁ、この「KUNNA」のPAIKO DRIVE(商品名)などは、新品なのに、しっかりとダメージ加工が施してある。恐らく、人形に新品のジーンズを実際に穿かせて皺を作り、色落ちなどの加工を施しているのだろう。

 あ、それから、おとうさんに一言。ジーンズは、腰で穿くのである。お腹で穿くと上野の森の西郷さんのようになってしまうので、ご用心。腰で穿くのは、直ぐに慣れるので、安心されたい。

 それと、ヴィンテージ風はリジッド(非防縮加工)なので、洗うと必ず縮む。サイズは一回り大きめにしておいて、洗いながら自分のサイズに合わせた方が賢明であろう。なお、ヴィンテージ風は洗わない方が粋として洗濯しない人がいるが、不潔なので、適度に洗った方が良い。

 さて、「KUNNA」のジーンズは、一本が数万円と少々値が張るが、実際に穿いてみると、それだけの価値があることが直ぐに分かる。カジュアルが許される場所であれば、どこの場所であっても自信を持って自分のお洒落をアピールすることが出来るだろう。何故なら、おいらのおじさん体型であってもぴったりとフィットするし、ジーンズでありながらも高級感に溢れているからだ。

 ハイ、それでは、ジーンズのお話しはこれでお仕舞い。


(注)おいらは、これまでウエブのリンケージをしていなかったのだが、このKUNNAだけは優れものと認めるので、初めてブログに貼り付けてみた(このブログ右上の「Bookmarks」の「よく行くページ」)。興味のある人はホームページを訪問されたし。

 なお、おいらとは何の関係もないので、ネットショップしてもおいらには1円も入らないので、念のため(この項終り)。


よこばいのこじっくい

 少し前に、「ジーンズ大好き、KUNNA大好き」という書き込みをしたら、人生の恩師のような方から、早速メールを頂いた。


西郷南州


 内容をひと言で云えば、氏もジーンズ好きであるのだが、胴長短足の日本人には格好良い服装には見えないのではないかとのご指摘を頂いたのである。

 分からぬでもない。

 しかし、この問題の解決方法は、日本人に似合うジーンズが開発されれば良いのである。

 今回、敢えて氏の懸念を掲載させて頂いたかと云うと、氏が「よこばいのこじっくい」と云う言葉をおいらに紹介されたからである。

 氏によれば、この「よこばいのこじっくい」とは、色が黒くて、肩幅が広く、胴長短足で背が低いことをいうらしい。

 よこばい(横這い)…肩が横に広い

 こじっくい(小ジックイ)…胴長短足で背が低い


 よこばいのこじっくいの実例として、次の薩摩の歌の紹介を受けた。

 鹿児島兵児の歌

「わたしゃ 薩州の薩摩の醜二才(ぶにせ) 
色が黒くて横這(よこば)いの
小ジックイ体ゆすぐって肩怒らせて 
大道せましと闊歩(かっぽ)する 
今じゃ こげんしてから芋食っておって 
大言壮語 ぬかしおれど 
やがっちゃ 天下をまたばいに引っかけ 
足で政治を取ってやる」

 長淵 剛の歌も、同様である。

「おどま 薩洲 さつまのぶにせ
いろは黒くて よこばいのこじっくい
今じゃこげんして からもどんくっちょっどん
やがちゃ 天下のご意見番じゃ
そんときゃ わいどんも おいげーこんか
おいげーこんか」


 う~む、こりゃ、凄いわ。

「よこばいのこじっくい」というのが、最初は何が何だか分からなかったが、意味が分かると、「よこばいのこじっくい」がジーンズを穿いた姿を想像すると思わず吹き出してしまうのである。

 ところで、この「よこばいのこじっくい」。良い言葉である。鹿児島弁は良いねぇ。イメージが湧いてくる。

 普通なら「こじっくい」=胴長短足と縦軸だけの表現で充分だが、そこに「よこばい」=横軸を付け加えるところが良い。横幅があって初めて体躯のイメージが湧くということを薩摩人は知っているのだ。しかも、天下国家を語る人間は、よこばいのこじっくいでなくっちゃと止めをさすところがまた良い。

 結論。

 日本でジーンズを爆発的に売れさせたいのなら、薩摩のジーンズ(鹿児島人が好んで穿くジーンズ)を開発すれば良いのである。

 アパレル業界の人、早いもん勝ちでっせ~。





CM考

 ビデオをDVDに移し替えて、一番嬉しいことは、あの煩わしいCMが無くなることである(写真は近所で出会った犬)。


わんこ


 無くなると言っても、CMをカットするという手作業は自分でしなければならない。併し、その手間を考えても、CMが無い方がずっと良い。ビデオに取った映画を観る場合などは、特にそうだ。何故、映画の途中で見たくもないコマーシャルを見なくてはならないのか。もし、CMをそのままにして映画を観ていたとしたら、恐らく気が狂うだろう。映画は感情移入が命だ。それが、CMで切り刻まれたら、名作が台無しどころではない、二度と観る気がしなくなる。

 アメリカであれば、まず、不買運動である。テレビ局への非難電話も殺到するだろう。おいらがニューヨークに住んでいたときの記憶では、映画のCMは、最初と最後に延々とやっていたように記憶している。

 話しは少し変わるが、最近、特に酷いと思うのは、民放がCMの「寸止め」という手法を多用していることである。「寸止め」とは、一番重要なシーンの直前にCMを入れる暴挙のことである。ほとんどの番組で行われ、恐ろしいことに常態化している。

 消費者がこの寸止めに対抗する手段としては、やはり、そういうCMが行われた商品の不買しかないと考えるが、如何であろう。



日傘同盟(前篇)

 男が使う日傘と聞いて、ピンと来る人はツウである。


日傘6本.jpg


 そう、今や晴れた暑い日のウオーキングには日傘が必需品である。おいらは日傘を使っているのである。

 しかし、これには解説が必要である。

 おいらの写真の師匠である「ダンディM氏」から過日、日傘が届いたのである。

 真夏のウオーキング用のカサを見つけたので送るとのことづけであった。「帽子とステッキは初日から10年来使っているという風情が必要」とも添えられていた。

 このメッセ―ジには唸った。さすがにおいらの師匠である。

 早速、部屋の中で傘を広げ、重さを計ってみると160グラムと軽く、また、デザイン、持ち心地などどれをとっても素晴らしく(色はブラック)、趣味の良さに脱帽である。

 それにしても、初日から10年使っているという風情が必要には感服した。そうでなくっちゃ。

 当日からおいらが日傘を使い始めたのは云うまでもない。ここにめでたく日傘同盟の発足である。

 ただし、男が日傘をさすのは思った以上に難しい。自意識が邪魔をするからだ。だって、日傘だよ。あれは女子供の使うものだよ。だから、日傘をさすには「それがどうした」という気概が必要となる。

 エイヤッ!!

 しかし、そうは云っても、自宅近所でのウオーキングや駅までの徒歩での使用は何とかなるが、さすがに都心では難しい。

 おいらも未だに都心では恥ずかしさに負けて使用できていないという未熟者である。

 最近では日傘を愛用する男性のことを「日傘男子」と呼んでいるようだが、それはまだデパートなどの売り手の世界のことでしかない。

 さて、ここで、日傘をさしても恥ずかしくならないコツが一つある。

 それは、日傘をやや前に傾けることである。顔が隠れるからである。したがって、この方法は前方に人が近づいてきたときのテクニックであるが、欠点は前が見えにくくなることである。だから、人通りの多い都心ではこの方法は使えない。

 まことに男の日傘は修行である。

 なお、10年前から使っているぞとの風情を出したいものだが、おいらの場合、まだまだ修行が足りない(この項続く)。


日傘同盟(後篇)

 それにしても日傘は素晴らしい。


日傘8本.jpg


 日傘を使い始めると帽子などはバカみたいだ。日傘によって体全体が太陽の光から隠れるのでウオーキングが随分楽になる。

 下半身はアスファルトからの照り返しがあるのでやむを得ないだろうが、日傘を使うと上半身の体感温度は確実に2度低いと思う。よくもまぁ今まで日傘を使わなかったものだ。

 しかし、日傘を使うのは未だに女性陣だけで、考えてみるとこれは実に不平等である。だが、実際は、世の男どもが体裁だけを考えて使わないのがバカなのである。老人力がついた世代であれば、浮世を考えず、都心でも堂々と日傘をさせばよいのだが…。

 さて、ウオーキングしているときのおいらは思うのである。日傘のいらない朝と夕方にウオーキングするのも一考ではないかと。

 しかし、某週刊誌(「新潮」のことだが…)によれば朝のジョギングは健康上止めた方がよく、夕方のウオーキングを推奨している(体の機能が万全に働くようになるのは午後からのためだそうである)。

 それでも、これからの時期は夕方であっても日差しはきついぜよ。だから、やっぱり日傘はウエルカムである。

 ところで、M師匠から再びおいらにアドバイスがあった。

 堂々と日傘がさせるようになると骨が6本の傘ではなく、8本の傘を推奨するというものである。これは風の強い日には傘がトックリになる(ひっくり返る)からである。

 これにはおいらも膝を叩いた。実は、雨用の傘であっても、こだわりある傘ブランドの「前原光栄商店」(宮内庁御用達)を思い出したからである。通常の傘は骨が8本だが、前原光栄商店の傘は16本もある。

 それと同じ理屈だ。折り畳み傘は6本が普通だが、分かる人は8本を使っているのである。おいらの愚妻も日傘派なので本数談義をしたら、断然8本と云って実際に現物を見せてくれたのである。

 なるほど、おいらも骨8本にしよう。

 こうして日傘同盟は続くのである(この項終わり)。



ウオーキングの必需品、リュック

 先日、ウオーキングの必需品として日傘を述べたので、これも必需品であるリュックを述べないと片手落ちである。


コールマン.jpg


 おいらはバッグに凝る方である。

 これはひとえに嫁のお蔭で(愚妻にバッグのイロハを教わった)、実は結婚する前はバッグなど信玄袋一つがあれば良いと思う方であった。

 しかし、ヒトは手荷物とともに移動するのである。

 男は背広やジャケットを着るとポケットが潤沢にあるからそこに入れれば良いと思うのは大間違いである。あれは、飾りなのである。ダンディは背広のポケットに物など入れるものではない。

 では、どうするのか。

 間違えても不動産屋の持つような手提げかばんを持ってはいけない。先日述べたようにおいらは今、オロビアンコを使っているが、最近のファッションでは背広にもリュックが許される時代となった。

 つまり、機能的でセンスがあって体にフィットするリュックは今や男の必需品なのである。無論、ウオーキングにもリュックは欠かせない。

 さて、おいらが今使っているのは「コールマン」の「ウオーカー25」である。25リットル入るから、25と名前がついている(写真下は、コールマンのHPから)。


WALKER25_12.jpg


WALKER25_13.jpg


 このコールマンは、もともとは米国のキャンプ用品製造・販売業者だ。1900年頃にウィリアム・コフィン・コールマンによってオクラホマ州で創業されたから、米国の習わしで創った人の名前がメーカー名となっている。当初は、ガソリン式ランプの販売を行っていたという。

 おいらはこれまで沢山のリュックを使ってきたが(おいらが海外バックパッカー時に使った愛用のリュックは、二つ潰している)、これほど体に馴染むものはない。今は、一番のお気に入りで会社に行くときもこれにしている。

 このリュックにしてからは、他人がどんなリュックを使っているかが気になるようになり、電車の中ではリュックを眺めるようになった。リュックは千差万別で面白い。先日は向かいの席に座っているお兄さんが大きなサイズのコールマンを持っていることに気付いた。

 これは複雑な気持ちである。おいらと同じリュックで嬉しいのだが、同時に同じものをおいらも持っているのはイヤなような気にもなる。人間の心理とは複雑なものである。

 なお、最近のウオーキングのコツは、電車に乗った場合、一つ手前の駅で降りるか、一つ先の駅から乗車することである。

 これが効果的である。しかも、日頃歩き慣れていない道だからおいらの好きな路上観察ができるのである。

 日傘にリュック、それに一つ手前の駅。ウオーキングは今日も愉しい。


濡れ落ち葉

 変われば変わるものである。


DSC01382.JPG


 ウオーキングをするようになったせいか、体を動かす癖が少しずつついているようなのだ。

 おいらは年の暮れぐらいしか庭を掃いたことはなかったが、先週の長雨が終わったので庭の落ち葉が気になり、掃いてみることにした。

 今までは愚妻が行っていたが、おいらがやってみて驚いたことがある。

 濡れ落ち葉である。

 あれって、本当に掃くことができないことを知ったのである。濡れ落ち葉は地面にへばりついて取れないのである。

 定年を過ぎて家でゴロゴロしている亭主が妻にまとわりつく様を濡れ落ち葉と表現していたが、まさしくまとわりついて離れないのである。

 いやぁ、濡れ落ち葉が地面にまったりと貼りついて剥がすことができないことにはびっくりした。

 巧いこと云うなぁ。

 本日はこれでおしまい。


同好の士(「日傘同盟」続き)

 先日、ウオーキングをしていたときの話しである。


向日葵.jpg


 太陽が照りつけるのでおいらはご多分にもれず、日傘をさしていたのである。

 横浜は坂の街である。おいらの住む街も例外ではない。なだらかな坂を下っていたら、向こうから日傘が歩いてきた。

 また、女性か。

 日傘を斜めにして前からおいらの顔が見えないようにしようかなと逡巡していたら、男性であった。

 きちっとした身なりで立ち居振る舞いも申し分ない。年配とみた。ゆるゆると上る坂道を颯爽とすれ違って行った。

 いやぁお見事である。おいらの日傘など見向きもしない。あたかも10年来日傘は使っていますよという風情である。

 こういうのをダンディズムというのだろう。

 いやはやおみそれしました。おいらの住む街に同好の士がいるのだ。しかも、ダンディ。嬉しくなるのぅ。

 閑話休題。

 ウオーキングをしていると、犬の散歩をしている人とよくすれ違う。

 若い人や女性もいるが、シニアの男性がことのほか多い。みな、犬の始末用のポーチをかかえて犬にひかれながら散歩している。

 ジョギングしている人ともすれ違うが、犬の散歩の方が余裕が見えるというか、悲壮感はない。

 だけど、本当はどうなのだろうか。

「犬を飼うと散歩が日課になりますよ」と云われて飼いはじめたとしたら、散歩は労働になる。

 おいらは、犬の散歩をしている人とすれ違うと、犬好きの人とそうでない人との区別が最近つくようになった。




© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: