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本当に久しぶりに、友達から電話があった。シゴトの固定電話の方に。コロナ禍以前、奈良のハープ奏者さんとそのお連れ合いのギター奏者と、友人と3人で、田舎暮らしの我が家を紹介がてらに来てくれたのが直近という、、ポツポツ連絡のお付き合いだ。同い年、つまり団塊の世代同士。半世紀に及ぶお付き合い。一時間近く、電話で話した。彼と出会ったのは、1973年8月の欧州行きの飛行機の上である。すでに当時、あたしは、亡夫と恋愛中であったので、十数時間近くの席にいたことだけで、同じ大阪からの旅行者として、おしゃべりをしている。自己紹介から、出身から、旅の目的から、。など。彼の目的は、スペインのマドリッドに行き、ギターの事を研究したい、というものだった。すでにかなり演奏技術もありそうな、、(この時は聴いていない、ハナシだけ、後日聴くこととなる)感じの、好青年。シュッとしてね。でも、めちゃ大阪弁が、雰囲気を壊していたっけ。スパニッシュギター、のお勉強とは言え、欧州を回りたいとの話もあったし、あたしはあたしで、一か月の、建築関連の団体旅行に参加後、スピンアウトしてデンマークに行き、アカデミーの試験にチャレンジし、、とかの話もした。(この時点では、アカデミーに合格するかどうかは未定。)でだ。確か10月ごろ、、そのあたしが合格した王立アカデミーのキャンパスに、彼が突然、現れたのだ。驚く。持ち前の笑顔を振りまいて、たちまち、クラスメイトとも仲良しになる。大阪の下町、恵美須町の町工場の2代目さん。ということがその時、分かった。また、欧州の北から南にあてどもない旅を始める前、コペンハーゲンでは、クラスメイトのレオネルと特に親しくなって、ずっと寮に泊めてもらってた。そんな、共通の思い出のある友人である。以来、長いお付き合いとなった。彼のお父上が亡くなったときは、お葬式に夫婦で出向いている。神道のお葬式だった。お父さんの会社を継ぐことになり、社長になりと、、でまた、かなり神経を使い、特殊技術が必要な、そういう仕事を継いだもんだから、懸命に己がなりわいに没頭する日々で、取引先が北摂にあったので、よく我が家にも立ち寄ってくれ、ひたすらおしゃべりをして、子供たちとも親しくなり、、とわさん、という人は、、楽しい人だね、。などと、家では話していたものだ。彼が60歳になる前に大病を経験し、その時は電話で、お見舞い。篠山に来てからも何度か訪ねてきてくれて、こだわりのギター談義、クルマ談義、あたしが、自営業、ということもあり彼の仕事は製造業ではあるが、シゴトのことも沢山話した。で、直近の会合?は、その、ハープ奏者ご夫婦と来てくれた、コロナ以前、まだ、義母の介護中であったか・・。(と遠い目)なので、本当に久しぶりで。お互い、中年も忙しかったけど、老年の入り口も忙しかった、というわけだ。さて、後期高齢者になって、彼の言う事。もう誰もおらへんのんや。(現役として社会に参加する)あー、そうなんや。この辺は、農家のひとら(人たち)はまだまだ、頑張ってるよー。てか、、そういう人だらけやし。あんまり、周り見渡して、しんみりすることないわなー。とか、あたしは答える。そっちは、年寄りだらけやろ、そらそうなるわ。いや、真面目な話、ホンマにだあれもおらへんのんや。。もうぼちぼち、、(家業を)閉めよかと、思てる。(息子さんは家業を継いでないサラリーマン)そうでっか。。ま、お大事にねー。(電話のテーマは、熱中症にかかって、大変だった、という話)再会を約束し、(おいおい、はよせな)。都会のお仕事事情を勉強した日だった。しょうがない、そういう流れだものね。彼も、自宅併設の工場では、従来通りのアクションをすればいい、、のだろうが、それ自体がしんどくなってきているのかもね・・。お彼岸なのに、蒸し暑い。
2024年09月22日
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ゆうびんの父 [ 門井 慶喜 ]明治維新前後の日本史、最も苦手で最も茫洋としている期間。そこに一人の若者が居て、日本中を動き回る。出会う人の名前は時々、チョー有名。だから、へえ!となって、読み進める。新選組の近藤勇、などは、アニメにもなっている。この、新選組の面々に昨夜は、暴徒に襲われたところを助けられる主人公。(英語で会話するのが非常に危険!って??)あ、昨夜は、、ってのはあたしの昨夜。ここまで読んだ。この本を読んだ(近未来)からと言って、すべてのパズルが完成するわけじゃないけど、少しはこの混乱時期の全容がわかるかな?位だな。。フィクションかノンフィクションかは、後書きを楽しみにしておこう。さて、「片づけられない」女たち。という記事を昨日、朝日で読んだ。さる小説家の自分事に沿って、論は進む。わたくしの小さいとき、、は、、と言う具合。驚いたのは、まるであたしと同じ、、ということだった。彼女は、自分はADHDと言ってる。同じ、ということはあたしもそうだった?んだろう。。半世紀以上前だから、その単語すら存在していないが。小学校の先生は、ひたすら、、通信簿に注意力散漫、忘れ物多い、宿題市内じゃなくてしない、、と書き続ける。6年生の担任の朝山先生になるまで続く。まわりの皆様の努力により、この年齢になると、、少しは宿題をするようになったか?忘れた。自宅の、母が改造した出窓部分の弟とあたしの勉強コーナーはいつも、弟がピ!と片付き、あたしの方は、、ケイオス。が日常であった。かたやピ!かたやケイオス。。。それを眺めさせられて、、父はいつもお前は、、と、お説教だったなあ。。お話を作るのが好き(その自覚はない。今、そう思うだけ)で、一人語りをよくした。全くの即興だ。一人で下校した時は、よくやったもんだ。どんなお話か?すっかり忘れているが、語りに夢中で、喋りまくりである。その展開に自分で高揚して、つい、声が大きくなったりして、。。ウチの家に着くまでに、浅野さんのお屋敷が見えて、左側にカラタチの生け垣のある細い道で、それをやっていたとき、、ふと、振り返ると、、オトコの人がついてきていた。あたしの声が聞こえていたかどうか、、微妙な距離。誰かに聞かれている!と思った瞬間、あたしは駆け出した。恥ずかしかった。で、今朝、その男の人になってみよう。何やら盛りあがって、ぺちゃらくちゃら、、話している女の子。何を言ってるんだろう?なんだか、会話のようだな、。。ヘンだよな、。。話しが止まらないし、ひたすら言葉が続くなあ、、。もし、彼が、もし彼が、、。何らかの意図があって、あたしをつけてきていた!とすると。関わらない方がいいかも。と、思ったかもしれない。などと、妄想が広がった。夜明けが、一段と遅くなり始める晩夏。今は老婆。
2024年08月20日
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J大学にS先生がおられ、彼が1991年に書いた文章を探し出した。そのうちの2、に、アートさんのひいひいじいちゃんの話が出てくる。彼は、J.R.Black という。犬好きのアートさんは、エマさんと一緒に昨日、ダイキチに会いに来てくださった。アートさんの愛犬は、ブルテリアで、こげ茶。リリーとタイガー、という名前。写真を見せてもらう。メルボルン郊外のおうちの近くでは、カンガルーに遭遇し、ファイト?になることもあるとか・・。ボスカンガルー(オス)は大きくて、危ないのだそう。S教授の文章を、娘が訳してくれて(って、アプリを教えてもらった)お渡しした。アートさんのお婆様は明治の初めに神戸に住んだことがあるそうで、その住まいのあたりを探検してみたい、とのことだった。おそらく、中央区北野、のあたりか。エマと二人で、これから、8月後半は琵琶湖のフリーマーケットのお祭りに出店。(エマさんは、陶芸家)続いて山梨県に移動し、個展開催と、忙しい。フットワークの軽さに恐れ入る。地震注意報のことなど少し話して、バイバイした。
2024年08月12日
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ジョルジュ・ブラッサンス シャンソンは友への手紙 [ フロランス・トレデズ ]読了。先に記した、シャネルと同時代、、は間違いでした。ブラッサンス(1921-1981)ココ・シャネル(1883-1971)ざっと、40年の差。シャネル 人生を語る (単行本) [ ポール・モラン ]ワクワクの読み進み。以下引用 p98 3行目から→ 年をとった女は、日ごとに以前より自分にかまうようになる。ところが、罰当たりというあの悪魔の仕業のとおり、自分にかまうのはいちばん老けこむことなのだ。専門医のところに通って治療をうけている婦人なんて嘆かわしいかぎり。暗いところでふかふかの安楽椅子に身をもたせ、何時間もじっとしていたりして。一番汚い皺、つまりエゴイズムという皺が皮膚に刻みこまれて、もう手のつけようがない。お愛想を言って、「彼女は天使だ」なんて言ってもしょうがないわ。そんなお世辞も天使を老けさせるだけなのだから。(「天使」についてはまた後で話すつもりだけど)。たるんだ皮膚を叩いたりしても無駄、内面を磨いた方がよほどましよ。 (・・・中略・・・)同p99からまた引用→ せめても絶望していれば、まだしも救いがあるけれど、彼女たちときたら自信たっぷりなんだから! 絶望した女なんて存在しない。 ―わたし、ちょっとだけ太り気味なの・・・ ―わたし、そんなに太ってないわ・・・ すると若い人たちが彼女たちの自分だましの安心感を助長する。そうなるとおしまいよ。若い人たちのお世辞は気持ちが良いもの。ただし、それを真にうけないことね。真にうけてしまったら命取りよ。←引用ここまで。清々しい事、この上なしである。シャネル、アラフォーの時代で、No.5を売り始めていた頃の回想、部分。さてと、。今年はオリンピックで盛り上がるパリ。ネトフリで、この映画を観た。1964年のお話という事で。モンマルトルの階段の途中のアパートを、友人が帰国する1か月間、借りて、ルーブル通いをした。1974年の7月のあたし。胸キュンだ。ミセス・ハリス、パリへ行く【Blu-ray】 [ アンソニー・ファビアン ]
2024年08月01日
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冷たい視線、が生じた瞬間だった。人種差別、というのが本当に有るのだと実感した。半世紀以上前、あたしは、コペンハーゲンで学生をしており、ミラノからミニクーパーで1人旅してきたマスミさんと、出会ったのだ。マスミさんは、名古屋の出身。いずれは、お父上の設計事務所を継がなくてはならぬ。「遊学」とでもいえるのか?とにかく、その設計事務所から「派遣」されてミラノ工科大に来ていた。「PLAZA」をテーマに論文書いてるの、とか言ってたと思う。そのマスミさんがひょんなことから王立アカデミーで、あたしに出会った。女性同士、同じ世代、同じ分野、だったので、話が早く、宿は、、一人で何とかしていたっけ・・。(もう忘れてる)そのマスミさんと、サウナに行った。あたしも初めてだった。(サウナは、公立のもので、夜遅くまで営業している)2人で施設内に居る時、受付のオジサンが、ちょっとちょっと、、と手招き。タオル巻いたままでナニナニ?と。「すんませんけど、、サウナ室に入らないでくれる?」二人で顔を見合わせた。それって、、どう言う事?とか聞いたと思う。コペンハーゲンでは、当時から英語でほぼ普通に意思疎通ができる。聞けば、あたし達は黄色人種で、(やりとりの途中で分かった)もともと、デンマークは、エスキモーの住むグリーンランドもその領土であった関係から、根強い、人種問題が生じていた。コペンハーゲンの市民の会話でも、それは容易に知ることが出来たのだ。受付のオジサンと言い争いになったかどうか、もう忘れているが、私たちは学生で、グリーンランドから来たのではないです。などと、話したのかどうか、。ま、サウナからは追い出されず、時間を過ごしたと、、記憶はそう語る。誰がそんな事(一緒のサウナには入りたくない)言ったんですか?あそこの、、あの人たち、、と教えてくれて、そこには、高齢のご婦人2名がぼうっと見えたが。そのマスミさんとベネズエラから来たカルメン(はアカデミーで同じクラス)とで東ドイツ縦断車旅をやって、ベルリンに入るときも、、すったもんだがあった。こちらは、女3人。検問所で、通してくれなかった。相手は、ライフルを背負った係官である。ま、これとて、話せばわかる。と思い、話して、、それでよかったのだが、、(何度も書いているゴメン)カルメンは、ほどなく、、ポーランド人のボーイフレンド、という男性に会えて、そこで、バイバイした。(未知なる世界、未知なる経緯、、彼女は一体何者だった??)いやあ、先週の役員会でのある男性からの罵詈雑言。それであたしは、気がついたのである。ああ、あれって、、(東ドイツの検問所のこと)女性差別だったのかしらん、、と、。。同時に思い出す。黄色の線が両側に引いてある道しか、通行できません。インテルタンク、インテルショップ、の表示があるところでしか買い物できません。と、ドライブした東ドイツ国内。尿意を催し、途中でクルマを止めて、そこから見える農家らしきところにトイレを借りに行く。オバサンが、あらま、とあたしをその家の2階に案内してくれた。オバサンだったからよかった。女同士だ。2階の、そのトイレは清潔で、タンクの上に一輪挿しがあり、お花が美しかった。その窓から見える風景は平和そのもの。若いときに、こういう経験をしていて、本当に有難いと思っている。
2024年07月30日
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もう、お店を閉めて15年!にもなるんだねー。。ブティック、と表示する感じの洋服屋さん。1989年から10年間と、1999年から10年間で、計20年間だったなあ。後半の10年は、一人でやった。その後半は、、ひとことで言えば、悪あがきの10年だった。しかし、なんとか凌いで、時が過ぎた。その後遺症としては、いまだに、(住む場所違えど)ポストに行きにくい。自分ちの郵便受けのこと。(なぜなら、、束になった支払い請求書が届いていた一時期があったから、、)そんな屈託が消え去っても、いまだに、、よし!と決心して、ポストに行くのである。書かいでも(書かなくても)いい事を、思い出したキッカケは、一枚の閉店お知らせだった。本当に、お世話になったお店なので、この際、実名で。アトリエ401さん。この6月末で、閉店との、お知らせが来た。48年営業しました。と。ほぼ半世紀。そのハガキを手に取った時、映像で言えば、めくるめく過去の商いの思い出が一気に押し寄せ、あたしの脳は、いっとき、正気を失う。大げさ。少しの遅れ、、(ポストをマメにチェックしない)があったが、とにかく、認識には、間に合った。末、、6月末、といえばもう日にちがない。さりとて、、出かけてご挨拶、、とまでは今は、お関りがほとんどないのにする事はない。電話?メール?考えたけど、きっと何かとお忙しい時期に差し掛かっているだろう。お得意様には程遠い、あたしの立ち位置。それでもこちらにとっては、印象深い関わり先だった。ブティック後半の10年では、成り行きで、自分の趣味の石を素材にしてジュエリーを結構取り扱った。キャスト、と言って出来合いの台を使うのが大部分だったけど、たまに、オーダーの案件が入ると、決まって彼の所に、持ち込んだ。単価が基本高いので、効率よい商いだった。それで、助かった、、とも言えなくもない。せっせか、ルースのマーケットに出かけては、得意の眼力で掘り出し物を探して、、ジュエリーに仕上げる、、のに、いっときは本気で、金工芸の機械など見たこともあったがやはりここは、職人さん、それも、あたしの眼に叶う職人さん、、と、探して、このアトリエにたどり着いたのだった。彼の作品は、硬質で、石に寄り添い、ナラティブで、やってる感がない。これ見よがし感、、とでも言うか・・。シンプルなんである。ここんところ、、ジュエリーに関しては最難関、と言える。こんな作品をつくれる方はあまりないように思う。そうか、。。閉店かー。。。昨日の午後は、お手紙を書いた。そして、投函。本当にお世話になりました。お元気で!と、〆た。写真は、気が動いて、数年前に彼に作ってもらったもの。まず、ルビーを送ったが、これは良くない、とすぐ返されて、じゃあ、これは?と送ったタンザナイト2.5カラットのリング。出世しました。と、作って下さった。あたしのスケッチ通り。満足である。最後の作品になってしまった・・。お金に苦労していた時代、つかの間のお楽しみだったなー。と、遠い目。その遠い目も、白内障の心配をしないといけないトシだぜ。
2024年06月25日
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早めの夕食、ということにしましょう。と、約束したのは数週間前。お互い、問題なく当日になった。前々日、彼女から電話。いよいよだけど大丈夫?午後4時にお迎え(クルマですぞ)だったわよね。だいじょうぶ。でわ、。とかの会話があった。お魚がいい?お肉がいい?久しぶりだからお肉がいい。と、彼女は言う。わかった。じゃあ、ぎゅうやたなか(牛や田中)にするわ。行ったことありますか?ないです。かつての住まいしていた宝塚市の元市長、中川智子さんだ。こちらの市の、男女共同参画センターのアドバイザー就任2年目となる。かくして、分野は違えど、規模も違えど、、戦後世代の女性2名、半世紀、シゴトを続けてきた女性2名、が、焼肉屋で食事をした!会食は本当に楽しく、実は、、お食事は初めてだったけど、同い年だから、会議は踊りまくり。共通の記憶が下地となり、、(とはいえ、彼女はメディアに出現することも多かった、ので、あたしは、それを観ていた立場、という割合も多い)あの時はこうだった、この時はこうだった、、などなどなど、、すぐにピタッと話が合うので快適である。子供の年齢、孫の数、なども大差ない。要するに、余計な気を使って、自分を飾ることも要らない。大満足と共に、団塊世代の老婆2名は、握手をして、バイバイした。聞きたかったこと、その一、いかにして、結局は衆議院議員になりはったの?その2、市長のシゴトって、どんなだったの?その3、、と続くが、婦人雑誌の回顧録インタビューのようだ。一方彼女も、、返す刀で、デンマークではどうだったの?どうして篠山に?などなどなど、。。自宅に案内し、お茶も出来て、彼女の、人生のセンスが、、捉え方が、、いけてる!と、感じることが出来て本当に、満足した。なまなかな苦労じゃなかったろう。本当に大変なお仕事だったろう。。今回は、さっさか、自分が連れまわそうと企画したのだが、少しは、、厚かましいかしらとは思ったけれど、。。結果はあたり、だった。今年度の、アドバイザーとしてのお役目が、益々広がりますように。陰ながら、応援致します。感謝。
2024年06月20日
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9階建てマンション建設反対運動、ってのを、40年以上前にやったんだった。。と、思い出していた・・。数日前のニュースで知ったのだが、国立市の積水ハウスのマンション、ほぼ完成の後、取り壊すことになり、大方の第三者のコメントは、他に大きな問題があるから、(言い訳に景観、を使ってる)との論調である。あたしは、いいや、そうじゃない。これは本当に大きな問題なのだ。と思う。そうそう、という記事が出たので、ご紹介しておきます。業平橋渉(フリーライター)さんの記事より以下→ 国立市の経験は、開発と保全のバランスを取ることの難しさを如実に示している。また、ビジネスと地域社会の新たな関係についても疑問を投げかけている。社会の多様な価値観をどのように調和させるのか。国立市の苦闘は、日本の「成熟」の物語とも重なる。 アイデンティティーを失った存在は機能的で合理的であっても、からっぽである。ノーベル文学賞候補となり、今でも海外で広く読まれる作家の三島由紀夫(1970年没)は、今から54年前に「果たし得ていない約束―私の中の二十五年」という随筆で次のように書いている。「このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或(あ)る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」もはや「富裕」「経済的大国」であることすら怪しくなってきた日本で、さらに「からっぽ」が進んだらどうなるのか。国立市の件に限らず、景観とアイデンティティーは深く結びついているのだ。 引用以上。
2024年06月14日
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月のしずく (文春文庫) [ 浅田 次郎 ]短編集。読了。なんだかなあ、思い出してしまうなあ、、と思ったのが初めから2編目。主人公が、23歳の女性で、パリに留学。父親の仕送り。親に内緒で同棲。その恋愛の顛末。という話の筋なんだけど。あたしも、同じ年齢で、留学したけれど、同棲はしていない。(いいんですよ、同棲してもやることやればね。)なこと、思考の外であった。キャリアのため、オトコに伍して一人前のデザイナーになってやる!と、勇んでいたものだから・・。ガツガツと勉強とアルバイト(デザイン事務所)しておりました。父親の仕送り。。あるはずもなく。生活力も鍛えられました。小説、、とは分かっていても、性や年齢や、境遇が近いと、自分事のように思ってしまう。流人道中記(上) (単行本) [ 浅田 次郎 ]これを読み始めて、無事に?お楽しみなんですけど、。最初の方の一つの文章が、突然、自分の思い出に繋がり、、。主人公は19歳の若武者、優秀で剣術も抜き出ている。しがない足軽の家の次男坊。例により、、養子の口がありぐんと身分の高い与力の家の婿養子になる。がそこは、、針の筵・・。という場面で。その文章と言うのが、、以下引用。p34初めの方。「申し訳ございません」 それだけを言って、深々と頭を垂れた。計らずも父母の本音を知ってしまったからには、たとえ一瞬たりともいたたまれなかった。引用以上。これだけ。…あたしは当時、21か22歳だったと思う。父の再婚相手の継母と話していたときだ。「あなたも玲子ちゃんのようであれば、いくらでも応援してあげるのに・・」と、継母がいい、その刹那に、、あたしは、、裸足で家を飛び出したのだった。(裸足がどこまで続いたかは記憶にないのでまたそっと自分の履物だけは調達したのかもしれない。)計らずも父母の本音、、(もうここを出て行って欲しい。)を知ってしまった。からには、、たとえ一瞬たりとも!(本当に)いたたまれなかった。そうそう、そんな気持ちだった。と、思い出したのだ。わかるわー、主人公の気持ち。と、一日中、思い出しては、反芻。を繰り返した。(あ、玲子ちゃん、というのは、実家にゆかりの知人の娘さんで楽器が得意で、イタリアのセントチェチリア音楽院に留学したあたしより少し若い人の事)ともあれ、今のあたしは子猫の養子先が決まり、ホッとしている。のだけど。。
2024年06月02日
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てんこく、(篆刻)文人の余技、とのこと。いえなに、昨日ケシ版(消しゴムを使った版画、あるいは、ハンコ)を作成して、放浪さんが、篆刻もされるのですか?とコメントくださる。今朝から調べましたら、ハンコを作ること、ともあったので、納得。あたしの、篆刻の受け止め方は、書の作品のサイン、のようなもの、、と思っていた。カッコイイから、商いしている時はどんどん作った。本当に、、、と、思い出している。最初はどこから始まった?と、遡る。商品のラベル、「La Veille」(らべいゆ)。あたりか。。辞書で調べて(日仏)夜更かし、とあり、これだ!と思い、これをば、消しゴムで彫って、虹色のスタンプで押して、和紙の厚いので、長方形のラベルを作り、端に丸穴を空けて、麻紐を通し、、エプロンをデザインして、縫製に回し、このラベルを付け、袋詰めして、大きなバッグに詰め込んで担いで、元町商店街(神戸)の老舗を紹介してもらい、、端から歩いて、飛び込んで営業し、カゴを置かせてもらい、売れた分だけの決済で、マメに回した。就職して、半年後には、その副業?に手を染め、貯金に励んだのだ。新入社員になって一年後、後輩(男性)の給料より低い、と分かった時からは一層、その副業に精を出した。留学資金を貯め始めたのだ。(こんな屈辱に耐えられるか!というわけだ)あら、わたくしとしたことが・・。篆刻でした。その15年後、まさかの、アパレル業に。あ、も、か。あてがいぶちの(つまり仕入れるだけ)商品に加えて、自分でデザインしたニットや、スカーフなどが売れてきて、それと、他のことにもなんだが、、消しゴムで、ハンコを作ることが多くなった。なあ。。。だから、自分の作品には、こういうハンコを作る、、というのが当たり前、、っちゃあ、当たり前だったんだよね。老いて、昨日、どこに見積もりを出されたかは知らないが、単に印刷した文字を2行にして、四角に囲んだだけのものが、6000円も7000円もすると知り、(こんなん、消しゴムで彫ったら簡単やんけ、と思って)自分で、作れますけど、、と、言ってしまった。すんなり、ほなら、お願いしますわ。となって、、作成に及んだ次第。そうですか、、篆刻ですか・・。なにやら、、高尚で、嬉しかったです。
2024年05月27日
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そんなこと、(2億円の差―生涯所得)誰も教えてくれなかった・・。と、つぶやかれたのが印象に残ります。と、朝日新聞の記事へのコメントで、あるジャナリストが書いておられた。均等法以前の世代の方である。あたしは、以前も以前、の方である。誰も教えてくれないのは、基本のき、だった。この朝日新聞の記事は、夫婦がともに、お勤め、の前提だ。働き方は、いろいろある。賃金もしかり。だから、2億円、(の差)はあくまで常勤の、会社員として、働いた場合、という条件が付く。だからパートなんでしょ。とか、空いてる時間だけの内職なんでしょ、とかこれとて、、雇われる、という前提。夫の母は、(すでに揃って鬼籍)玉の輿?と思いきや、お見合いで結婚した相手が、全く働かない夫であったので、(働く、という概念が無い家庭、もあり得ますよね、、昔だと。だけど、社会は戦争とか、災害とかで状況が変化しますよね)自分が働きに出た。当時、3人で始めたばかりの会社の事務として。会社の場所は丸の内だったそうだ。夫が、中学生になるかならないか、という時代であるので、昭和30年代の初めかしらね。津田で、英語を学んだ彼女は、水を得た魚のように仕事に邁進し、、(と書くとなにやら朝ドラみたい)夫の生家には、お手伝いさんがいた?いやいや、何やら育児放棄?っぽいが、。彼女は、正社員として働き続け、結局その会社は、一部上場の大企業に育った。あたしが、初めて東京の夫の実家を訪ねた時には、お手伝いさんは居たのだ。(この夫の実家、は義母が嫁いだその家、とは場所は違うのだが・・ややこしい)〇〇さん、(義母の会社の社長-後から社長と知る)という人の名前が、頻繁に彼女の口から出て、??と感じたのを覚えている。すっかり当時、会社人間であったのだ。義母が!時代が過ぎて、、義妹がまた、ある時言ったこと、忘れられない。彼女、交通事故で、ひどい怪我をして、入院し、ICUに入っていた。当時、結婚して子供がおり、義母にすれば孫であるが、その時丁度、義母は、欧州に出張中だった。わたしが、そんな状態だったのに、ママったら、帰ってきてくれなかった。この、恨み節は、事あるごとに聞かされた。3人から始めた会社を、一部上場まで育て上げた、その核となる人物の一人、であるにせよ、女性であったので、さまざまな出世の機会を逃している。課長になり、部長になり、とは、、そうは問屋が卸さぬ。突発性難聴になったことも、あったなあ・・。それでも、部長待遇にはなったんだっけ・・。結局、定年退職はせず、机は保持して、75歳まで、勤め上げた。義母が70歳を越えたころ、今のお仕事は?と聞いたことがあって、郵便物の整理係よお、、と、笑ってた。そんな女性を母に持った夫である。それでも、、あたしの仕事に関しては、冷淡であった。ただ、少なくとも、あたしが、シゴトをする、という局面に対しては、反対はしなかった。結婚を決めた時の条件、、というとあたしも冷たい?のかもだが、働く母を持つ人、というのが、やはり譲れないなあ、と、考えたことは確かである。働こうにも、(子供がいると)どうにも動けない、というのが、当時の子持ち女性の状況である。そこで、実母の出番、や、なんやかや。があるが、、それこそ、すでに母がいないあたしは、誰も教えてくれなかった。のだ。自営業としての道、を選択する。何でも自分で背負うので、ハチャメチャに忙しかったが、健康に恵まれてなんとか過ごした。何でも自分で背負うので、言われるとおりの労働を他者に提供する、という道ではなかった。何でも自分で背負うので、リスクは当然生じる。失敗もした。何でも自分で背負うので、だから、、2億円には、程遠い。程遠い。どうかすると、、計算してないが、、マイナスかもだ。。(ま、それはないで、、とは思う)程遠いが、、得たものは、、得たものは、、プライスレスだと思っております。ハイ。感謝!
2024年05月16日
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手のひらで手相、を見るわけだが、随分前に、中指か薬指の下あたりに、3本線があると、金運、最高の相、とあり、キャー!と喜んだことがあった。そんなこともあったっけ?こないだは、、あなたの手相は守護霊に守られており、最強です。この3つの印があれば、、というのがあって、どれどれと眺める。神秘の十字、仏眼、と、あと、手首の近く中央部の三角、である。この3個がある人は霊感が強く、占い師や、霊媒師?などの仕事に向いています。などと書いてあった。(興味のある方は自分で調べてね)実はあたしは、、この3点セット、手のひらに持っているのだ。(仏眼は、左のみ、あ、これは、、親指第一関節の線の中央部に眼のように線が2つに分かれてまた一つになる感じ)金運の時とは違い、へー、となった。だが待てよ、。守護霊、という言葉はどこから出ているのか?と調べたら太古の昔からではなく、英語のガーディアン・エンジェルズ、を、日本語に訳して、守護霊としたのが最初、とあり、ここ100年以内。英語からであるから、基本キリスト教であろう。一方、手相の歴史は、かなり古い。いやかなりどころじゃない事は確かだ。こじつけ、とまでは言わぬが、なんだかなあ、だ。。背後霊、みたく、青寂しい(あおさみしい・造語)感じでないのが救いだな。単に、加齢による皺が増えたことかもしれぬ。ガハハ。ま、良しとしておきます。昨日は遠路はるばる、きさんが来訪。駅にお迎えに行き、最初に交わした言葉、、一体何年振りでしょう!どうも、昔に田舎家を借りていた頃だったらしい。するってえと、、35年ぶりくらいか?ということになり、、車を発進!お城まで案内し、ロマン館でランチした。ロマン館、はえらい事になっており、にわかカフェ、に変身している。カウンターの背後にある、カップボードだけが、ロマン。まさに背後。予算が無いのはすぐわかるが、急ぐとこうなるか。いや、図面描いた方に申し訳ないけど、これでは、、高校生でも出来まっせ。。。大いに落胆のぼちぼちである。ランチはお味変わらずだったが、。。きさんには、子育て中、ご夫婦ともにお親しくしていただき、本当に懐かしかった。あたしの、居住&仕事空間を見て、、「最高じゃん!」と感想を下さる。世間には知られてないデザイナー、、(あたしのこと)密かに留飲を下げましたとさ。
2024年04月18日
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ウロウロしているが、結局、自宅での法事に決まる。法事、というにはあまりに、、記憶、、というにはあまりに、、こないだなので背中が・・引き締まる。ごく最近、出会った同じ年の友人は、(同じく寡婦である)そういう関係は(仏事等宗教的な事)一切ゼロ!と言ってたのでなんだか、気分がホッとしたものだ。こないだから少し、ディアナとメールのやりとりをしていて、彼女が、思いやり溢れる文言を書いて寄こした。感謝。しかも、、夫の命日が、彼女の誕生日であることが判明する。平らかに受け止めても、やはりここは、、感慨深い。日本語には、、袖すり合うも他生の縁、、という言葉がありますけど、そういうめぐり合わせに思いを致さずにはおられない。今日の行事をはじめとしてこの週は、予定満載にて、来週は、移動を含め慌ただしい。自分の可能性?にヨロシクね!と、ある意味、鼓舞している。ささやかなひそやかなあたしの独白なれど、、いちいち日本語を英語に変換して、読んでくれる人がいるなんて!そう、ディアナの、感想。最近では、、あの、カメムシ(あ、思い出した。クサムシ、とメールに書いてしまってる・・)Diana! Sorry.I wrote about bug you remember, I missed the name of bug.Because, these insects anyway, horribly smells.Kame means turtle.ディアナの感想。ぼちぼちさんの、カメムシの死んだふり、、のは、最高に面白かった。と、書いてくれている。(死んでいると思って、指を差し出したらガッ!としがみつかれた話)2年前に夫とは、突然の別離となり、あたしの精神にも大いに影響した。その局面は正しいとか間違ってるとかあんまりやとか、ちょっとそれはないんじゃないとか、、様々な感情を超えて、とにかく、別れたのだ。生きているか、そうでないか、という別れ方で。。。人生で一番動き回っていた時期に比べると、半分くらいしか出来ないなあと最近考える。その半分の中で、やっぱり、、その中で、回していく?というか、、やるっきゃないわけだな、。。人種差別の習慣 人種化された身体の現象学 [ ヘレン・ンゴ ]読み始める。
2024年04月06日
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思い出の屑籠 (単行本) [ 佐藤愛子 ]早々に読了。これで、図書館の読書手帳は、11冊完了である。1冊当たり72冊の本名をシールで貼って、満たしていく。こちらに来てから、(16年)792冊、読んだのだ、は、違って、この倍ほどになる。2016年、夫の大怪我で、我が家を再び大改造しなくてはならなくなり蔵書を、半分にした。夫は、1年8か月入院していたので、その間に、改造をしたというわけ。向かって右の本棚は、今の様子。残りの本はこれだけになった。あたしは、本を読まない若者だった。このように、趣味の一つが読書になるきっかけは、、妊娠出産である。年子で、静かにしていないといけない時期が長かったため、(その後の子育ては怒涛の時代となるが)推理小説をば、、と読み始めた。もちろん、文庫で、最初は松本清張からだと記憶する。なぜこの話かと言えば、、実はこの、文庫本を、昔々、夫の会社の同僚の方が下さったからなのだ。すでに、45年前くらいになる。夫の会社の方々は親しく我が家に頻繁に?来てくださっていたので、食事の際に本の話をしたのだろう。いさん(名前の最初の音だけを書くのがぼちぼち流です)が、高木彬光の推理本を沢山持って来て下さったのだ。覚えている。(今、その当人が、長崎からメールをくれたそうだ。と、きさんが、、転送してくださる。わはは)で、急遽、ブログにこの事を書こうと思い立った。餌付け、したけど、やっぱ、、お別れだよね、。と、思っているが時々訪問してくれるネコちゃん。
2024年03月27日
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じゃあね、またね!と、スマホを置いたときの記憶の蘇りは、久しぶりの何とも言えない柔らかい光だった。こういうのも、、たまにはいいもんだな。高校時代の同級生だったはさんと、長電話。彼女とは、美術部で一緒だったそうだ。(あたしの記憶は定かでない)もっとも、あなたとは違って(?)あたしは熱心じゃなかった。と言う。あたしも、熱心じゃなかったのに?はさんとは、学校を離れて別の場所にデッサンを習いに行ったのだった。だから、その名前を言った時、そうだったわねー!と思い出してくれたのだ。池田文庫のデッサン教室。O先生、エッチングの専門で、夜のデッサン教室だった。薄暗いその教室の中に入っていくシーンを、今も思い出すことが出来る。でもあたし(はさん)、すぐ止めたのよ。だって、あの先生、怖かったもの。そうそう、あまり長く続かなかったよね。えー?怖かった?あたし(ぼちぼち)は怖くなかったけど。実を言うと、O先生の、眼、は怖かったけど。(と独白)彼女は、性的に怖かったのだと。そうか。一年も続かず、いや、半年も続いたかどうか、。。一緒に入り、一緒に止めている、、ぽい。この日記にもかつて、書いたことがあるが、。「美しいものに謙虚であれ」とのたもうた、M先生。このデッサン教室にも通った。次に(二人で)行ったところ、と思い込んでいた。ところが、彼女は、大阪の大きな美術系の予備校の名前を二つばかりあげて、あたしはそちらの方でやってたから。M先生のところは?行ってない。じゃあ、あたしは、一人で通っていたのか。。石橋2丁目から、石橋4丁目のM先生宅(アトリエ)まで、。。歩いてか?おそらくそうだろう。結局、彼女はデッサンがうまく行かず、早々に諦めて、音楽の方(ピアノが上手かった)に進路変更!と相成った。あたしは、このM先生の行っておられる(当時教授)大学を受け、落ちて、浪人となり、翌年、別の大学に行くことになった。一人は音楽方面に、一人は美術方面にと、進路が別れたのだ。以来、60年。。。やっぱ、感謝。電話のいいところは、声だけなので、何十年経っても変わらない彼女の声(あたしも変わっていない)を、聞いて、昔話が出来ることだ。でも、会って話そうという事になったが、実現するかどうか。お互い大阪に出る体力はあるにせよ、予定のすり合わせが何となく面倒だな、。でもでも、ネコのお世話のご指導も仰ぎたいし、プッシュしてみよう。電話の後、「池田文庫」が気になり、サイトで見てみた。ご立派な建物がバーン!と映っている。まだある。昭和24年(1972年)開設。とあるのだ。昭和24年開設なら通うことが可能。だけど、1972年ならここはあたし達の高校時代には無かったことになる。で、お問い合わせ、をする。お答えは来るだろうか・・。先日来からのトイレの空間提案の仕上げ、つまりどこにその建物を置くか、周りとの兼ね合いはどうするか、これをば、詰めないとやったことにはならない。頭の片隅に宿題のように漂っているが、前に進めなかった。今朝、あるアイデアがひらめく。それで行ってみようか?と、思った。小さな、紙の建物を作ろうか、と思った。
2024年02月27日
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わが国の公立図書館の平均図書資料等購入費の平均は、1990年には1354万であったが、2021年には、823万円となっている。と、文科省のデータで知ることが出来る。30年の間に、本、というものの世の中の位置がわかる。いつも、リクエスト、と称していろんな本を図書館で探すが、新刊本の場合は、あたしの場合、有難い事に打率80%くらいで、入手することが出来ている。感謝。借りる、のが前提であるのでこれを繰り返しているとははん。何でも手あたり次第に購入、、には至らず、何らかの会議などのフィルターがあるのか、、と想像していたので、ちょっと、気になり、調べた。そんな貸し出し本でも、中には古いものがあって、今回のように【中古】 満天の星 勇気凛凛ルリの色 / 浅田 次郎 / 講談社 [単行本]【メール便送料無料】【あす楽対応】みたいに、随分古いものがあって、これは、ウチの図書館の蔵書であった。ラッキー。(書庫からすぐに出てきたが、この本より前に出版されたシリーズ物2冊は、他の図書館から借りて下さるそうだ)惜しみつつ、読み進めるが、中に、著者のスキー歴についての章があって、途端!にあたしのスキーの思い出が、その文章に絡みつき、二色(ふたいろ)のねじり飴となり脳が活性化した。そうそう、ヒッコリー!とか、夜行列車の満員状態!とかである。初めてのスキー板は、ヒッコリーだった。(木の種類、なので、木製)先端部に乾燥用の紐の通し穴があって、穴の部分だけ四角丸く抓めるくらいに飛び出ているアレ。なんと、子供用で、中古である。父母が、どういうイキサツで、この中古の子供用のスキー板、(しかも、あたしと3歳違いの弟用、ということだから、同じ長さでなく、LとMのように微妙にサイズに大小があった。のを、)調達したのかは不明。カンダハ―、という金具だった。(その次はドロミテ、だったか)当初は、スキー靴はゴム長靴を使用。ほどなく、紐の革靴になった。立って、手を上げてその手先まで、が適正なスキー板の長さという事であたしと弟は、嬉々として、直立し手を掲げたものだ。母が、板用に袋を作ってくれた。小学校、6年くらいか、したがって弟は3年生。明日はスキーに行く、という前夜、、銀パラ、と呼ぶ滑りをよくするワックスを、熱した鏝でスキー板に塗るのだ。父がしてくれたが、あたしたちは、そのワックスが硬いまま、コリコリと板に塗りつけた。リュックサックには各人用にこの、銀パラを入れる。板はケースに入れて担ぎ、リュックも担ぎ、夜の明けやらぬ自宅を出発。阪急石橋駅から、宝塚まで。宝塚でJR(当時は国鉄)に乗り換え、(同じく当時)キカンシャで、福知山線で、和田山経由八鹿(ようか)まで行く。八鹿から全但バスで、神鍋山へ。夕刻までスキー、である。リフトは禁止で(おそらく予算的な問題だと思う)、ひたすらラッセルし、丘を登り、滑る。の繰り返し。禁止のリフトは1回だけは許されて、最後は上の方まで行って、「御鉢参り」(火口を一巡り)をして、滑り降りる。食堂は禁止(これもおそらく予算的な問題と思われる)で、お昼時は、ゲレンデの隅に3人固まって、お弁当を食べた。おかずは決まって、牛肉のしぐれ煮で、おむすびだったと思う。竹の皮だ。滑って、ラッセルで上がる。父は、これまた人の入っていない斜面に、ジャンプ台を作って、子供たちにそこを滑らせた。ピヨン、としか飛ばなかったけど何度もやってると、飛距離が伸びた。勢いをつけるのを覚えるわけだ。この、日帰り神鍋スキーは3年くらい続いたか・・。合わせて、父の勤め先などのスキーバスで、行くことが多かったのは、マキノスキー場。神鍋、マキノ、花背(はなせ)に通う。サンケイバレー(すでにこの名前じゃないかも)などは、ずっと後に出来る。)そして、、中学2年の時に初めて、信州に行った。妙高高原である。3泊ほどしたと思うが、ヒッコリーの板、締め具、スキー靴などは変わらなかったかしら、、もう、新しいスキー板になったかしら。。ただ、各自の持ち物は厳格にそれぞれが持って運ぶのが鉄則だった。夜明けの(信州には夜行で行く)高原の雪景色、群青色に明けていく純白の雪原を見たときに、ふいに、涙が溢れたのを覚えている。本当に美しい自然の景色だった。乙女の涙。である。以来幾星霜・・・、あたしは今、後期高齢者である。。さ、薪ストーブの火をおこすのだ!
2024年02月11日
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1月17日早朝5時46分の揺れは、ひどかった。何度も、この1月17日が来るたびに思い出す。そして今年1月1日に、能登地方で大きな地震があった。日を追うごとに、被害の甚大である事、自然の営みのスケール、能登地方の半島の在り方、などがニュースで取り上げられて、気持ちが落ち込む。今朝のニュースでは、輪島市の中学生が集団で100キロほど南の施設に集団で一時移動、とのこと。こないだは、神戸大学名誉教授の災害専門の先生が、今回の地震の行政の対応について、自身も反省しているとしながら、かなり、批判的なご意見を述べられていた。つまり、初動が、ダメだと。。阪神大震災の教訓が全く生かされていないと、嘆かれている。原発の場所がこの地震の起きた中にあるし、被害状況の把握が難しいとか、危険が危ないとか、いろいろ言われている。ある程度は、さもありなん、、とか想像したりする。現地にえらいさんが、視察?に来るのが遅いのじゃないかとかだ。ただ、2週間経過して、周辺の救援体制は整いつつあるような印象だ。災害の専門家のご意見と、中学生の集団移転を掛け合わせると、まず、阪神大震災は、29年前に起きた。ほぼ30年。10年が3回だ。あたしは、当時46歳である。能登地方に比較すると、阪神間は都会である。全く違った被害があるとしても、(例えば高速道路高架がなぎ倒されたとか)自然との関わり合いが全く異なる。4mも海岸が隆起して、港湾が使用不能になるとか、海岸線が200mも海方向に延びて、陸地が広くなるとか、天然のダムが沢山できてしまうとか、海沿いの道路がすっかり無くなってしまうとか、、とてつもない変化が能登半島先端部で起きている。しかも、10年間を3回過ごした後である。我らは、生きて、こうして見聞きするが、ざっくり、40代の時のことと、70代の時のことではまったく、状況は違うのではないだろうか・・。違う、そう、しんどさが。。30年前に50代60代であった人が、もう、80代90代になっておられる。日本は平均的にみても、全体が老いているのだ。その割には、、と言っては何だがお若い世代が頑張っておられるという印象だ。シュリンク(縮み)していくのは、ある程度やむを得ないであろうが人の手が入っていない自然豊かな能登半島をまた、賢く、復興して欲しいものだ。大阪の人工島に現在鋭意建設中の木製リング。費用は350億円と言う。ここはひとつ、分解、解体を含めて、そのエネルギーを能登半島に注いでいただきたい、と思うのはあたしだけだろうか・・。
2024年01月16日
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を書こうとしているが、能登半島の大地震、加えて羽田空港の大変な事故、と、新年早々世の中慌ただしく、オーストラリアのディアナからもお見舞いのメールが来たりして、慌ただしい以上のことのようだ。波乱の幕開け、、である。さて、途中で切られた昔の話。ばあば不在の子育て家庭の主婦として、生きていたあたしは、いくらなんでも可哀想、との感情を親戚周辺に起こしたのだろう。余裕があり、ほぼ平和な、そして、地理的にも近い大叔母の婚家、U家が折に触れ、救いの手を差し伸べてくれた事については散々ここにも書いている。箕面時代のお隣さんの一人であるささんも、そうであったが、(今思い出しても本当に有りがたかった)年末年始となれば、さすがにささんもご自分ちのことで一杯になり、その周りも静かになって来る。(若い夫婦は実家に帰省など)12月20日過ぎになると、電話が入り、あんた、おせちとか、いつ取りに来る?と、大叔母。じゃあいついつね。と約束し、出かけていたものだ。その家は、当初は敷地2000坪のお蔵もあった大豪邸で、その土地をデヴェロッパーに売り、マンションを建てて1階部分を取得、マンションになってからも、おせちを取りに行く、のは続いていた。さて、大豪邸は大昔で、マンション時代も昔のことである。空の、その前年に貰ったおせちのお重を持参して、座卓に並べられているお料理を順番に詰めていき、お重が満杯になれば、次にタッパーにお雑煮の材料を入れ、両手に重い、その食料品一式を貰って帰る。どうぞよいお年を!と、挨拶して・・。これは、助っ人のお手伝いさんが来なくなるまで続いたのだ。おせちを自分で作り始めて、このディケイドもカタマリとして記憶している。店をしていた時代はその流れであった。田舎暮らしを始めてもその習慣はあった。なんせ、おせちの最重要献立の黒豆の有名産地であったし。(だから梅干しに続き、黒豆味噌も作り始めている)夫の退職に伴う暮らしの変化、そして、姑の在宅介護、施設入所と忙しい年が続いて、ある年に、一度は買ってみようか、とおせちのお重を初めて購入、したのは、そうだ、。夫が大怪我した年だったかも。。。この、みやまのおせちは、、4回目か5回目。(昨年は夫の忌中でお休み)計算が合わないのは、旅行か何かか??さて、今年の準備はどうなるだろう。。
2024年01月03日
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大晦日の恒例行事に、U家におせちを取りに行く。というのがあった。箕面に住まいしている時から、隣の県に越しても続いていた。U家には、長らくお手伝いさんが居て、彼女が辞めてからもそのお正月準備のおせち作成だけは、遠方のそのお手伝いさんがU家にやってきて、年末の最終週は逗留してねじり鉢巻き、おせち作成に従事した。そのおせち、黒豆を水につけて、数の子の皮を取ったり、野菜類の下茹でなど、、下ごしらえから始まり、日がな一日、だいどこはホットである。おせちのお重、子供たち5人の家分と、後数個、、になるので、合計は7-8セットとなり、お重は3段なので、壮観である。ふすまを外した和室に、長方形の座卓を3個並べてお重を広げて、出来上がった料理を大鍋から順番に移していく。持って帰る方は、欲しいもの、、というよりは、、伝統にのっとり一の重、二の重、三の重、と重ねて、風呂敷で包んで・・と言う作業と、お雑煮の中身の野菜類をタッパーに入れるのと、もしお餅が欲しければそれも、、と言う具合に自分の取り分を紙袋に入れる。ほんの少し、余裕があれば、早い目に行って、お手伝い。ただ、チーフ(お手伝いさん)がとんでもなく手際のよい方なので、手を出し兼ねたり・・。おそらく、、当時は、主婦とは言え、キャリア10年ほどだと、未熟者め、と思われただろう。しかしそこは、他人である。ホンマ、助かりましたー!のお声があったのは、言うまでもないが。そんな、、昔のことを、みやまに今年のおせちを貰いに行って、紙袋を下げて、お店を出たときに空を見て、思い出したのだった。
2024年01月02日
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映画のタダ券があると娘が言う。それは行かねば!何を観たいか。と尋ねられ、「THE PERFECT DAY」と答えた。カンヌで金獅子賞を取った映画だ。ドイツ人の監督で、役所広司さん主演。調べてくれ、、箕面でやっていると・・。ちと、遠い。箕面は、思い出の地。かつて、住まいしていた街。もう、何十年も前になる。ひとつ、冒険しましょうかと、、年末なのにやってきた。箕面駅のホーム。ここまで、80分かかった。次いで、バス、と言うものに乗る。これも久しぶり。着いたところは、工事中。来年3月末に開業の新駅。北大阪急行。「かやのさんぺい橋」も。工事中だった。娘は、かやの小学校に入学し、そして次の年に宝塚市に転居している。懐かしい!!映画は、当たり、だった。フランス映画の「僕のオジサン」を思い出した。この監督は日本の小津安二郎監督に惚れていると宣伝されてはいたが、あたしの想起したのは、あの「僕のオジサン」(フランス映画)だった。お腹が空いて、千里中央まで行ってから、にゅう麺を食べる。そして、モノレールで蛍池駅へ、次いで阪急電車で宝塚、JRで、篠山口へ。壮大な、遠足だった。
2023年12月30日
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先週、NETFRICSで、「第2次世界大戦」を観た。ドキュメンタリーである。体力精神力を要した。途中で止めるわけにはいかなかった。だから、最後まで観た。また、同じ時期に、朝日新聞の武田鉄矢さんのお父様に関する記事を読んだ。これも、シリーズもので、第二次世界大戦時、中国、インドネシアに戦争に行って、復員し、「骨の髄まで軍国主義」の父を持った家族の歴史について、長い語りであった。あたしの父も、復員兵である。武田鉄矢さんとあたしは同い年だ。もっというと、、タケシさんとも同い年。タケシさんのお父様も復員兵、あたしの父もそうだ。ウチのおとーちゃんは、、と言う、語り手が、老いているという事だ。「ウチのおとーちゃん」は、暴力とは無縁だった。さて、その、違いはなにか。に関して、考え続けた。答えは出ないかもしれないけど考え続けよう。一つの事が今朝、浮かんだ。きっかけは、本。(イキサツは割愛)父が、フェンシングの面を、持っていた事。あたしの父。もちろん、剣も。幼い時に見たことがある。コメカミに傷があって、それを問いただしたとき、試合でパックが当たったから、と答えている。そう、アイスホッケー。これは、ホッケー用のスケート靴を見たときである。実は今もあたしが持っている。オークションなどには、、出せないよなあ、、とか思ったりしながら・・。ウインタースポーツについては、ごく小さいときから連れまわされている。器械体操の大車輪をしている写真も見たことがある。土佐堀のYMCAの体育館で、吊り輪や、あん馬もあった。やって見せてくれた。(運動神経、並外れていた?そうかもしれぬ)実際、バドミントンでは、ナショナルチームの監督として、その前は選手?として、東南アジアや、香港に試合に行ってる。彼の復員後、いったい何が起こっていたのか。。スポーツと、YMCA、。。。回りまわって、あたしは、父から暴力は受けなかった。のだろうか??それとも、戦争のトラウマを乗り越えることが出来ていたのか?あたしの想像は、スポーツは、癒しになるのではないか?という考え方である。つくづく、、今現在のオリンピックの組織の堕落が悔やまれる。しかし、水は滞留すると腐る、という格言にもあるように、必然であるのか。。あたしが中学生のころ、父が、「足首を見せて」と言ったことがある。足首を身体の横から見て、あーこれは、、運動神経あかんなあ、、(キュッと足首が締まっていない状態)と言った。以来あたしは、体育の授業は、いい加減に受けている。見込みが無いのだから、、という思いだった。最近、スイミングを始めて、当たり前に出来ることが人さまより多いと感じる。特に、平泳ぎでは、蹴る力が強いようだ。運動神経は良くないかもしれないけど、、父の遺伝子を少しは受け継いでいるみたい。
2023年12月13日
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王立美術建築・・・いや何だったか?どれどれ・・THE ROYAL ACADEMY OF ART SCHOOL OF ARCHTECTUREが、学校のタイトルだな。王立芸術アカデミー建築学校 と訳した。丁度、入学して50年になった。修了証書を見た。仕事コーナーにしている土間の壁に貼ってある。家具科に入学を許されたあたしは、デンマーク語の授業を嫌い、あわてて、英語で授業している都市計画学科に変わったのだ。ここでも、住宅やインテリアデザインは学べます。と、言ってもらって。オーレ・トマッセンが、ゼミの教授だった。その最初の授業の前に、配布された冊子が、マルクス、だった。まだ持っていると思って探そうとしたが、通り土間が寒いのでやめた。厚さは3ミリほどの小冊子で、最初の授業までに読んでおくように。とのことで。ただし、、英語である。最初の2ページさえ、読むことが出来なかった。それほど、あたしの英語力は貧しかった。それでも必死のパッチで辞書片手に徹夜して、、なあんてウソ。そのまま、授業に突入。オーレの最初の授業のスライドは、イギリスのマンチェスターかリバプールの、プロレタリアの集合住宅である。その答えは、、以下にあった。50年後、あたしは、これを読んだ。甦る『資本論』 若者よ、マルクスを読もう 最終巻 [ 内田 樹 ]ふううむ。読み進めるほどに、昔のこと、、が想起された。ライブの余韻がようやく落ち着いてきている。屈託は、12月3日の発表会に移動している。そろそろ、、クリスマスリースの季節。その前座、、というと、失礼だが、お友達のはさん作成のオーナメントを飾った。コペンハーゲンでは、夜が長くなるこの季節、街を行く人々の胸にはお揃いのGOD YULE! の字を抜いた赤いハートマークのシール。
2023年11月24日
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その昔、ラジオで聞きかじったことを思い出した。話者は、落語家さんだった。業界人、つまり落語界での技量のことか、芸のことかで、、うまいなあ!(自分より)競争相手やなあ、、と思う人は、届かぬお方。うっつかっつ(そこそこ、、まあ同じくらい、、自分と)やなあ、と思う人はあなたより相当うまい。あ、これは、、イマイチ(自分より)、、と思う人は、、あなたと、同じくらい。(のレベル)と言う話だった。言いえて、妙。その時は、へえ、そういうもんかいな。。と話半分に聞いたように記憶するが、今現在は、、しっかと、納得している。本当に、自分を冷静に評価するって、難しいのだ。また、今は亡き、やしきたかじんさんの、ラジオでのお話。リスナーの質問。なかなか上手に歌えません。どうすればいいですか。に答えて曰く・・。一万回、(同じ曲を)歌いなさい。だった。もう、彼の歌を生で聴くことは叶わないけど、、彼は上手かったなー。。。
2023年11月07日
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関東では、女性専用車、関西では女性専用車両、と呼ばれているとの事。明治時代からあるとのこと。当時は婦人子供専用車輌、と表記がある。この歴史的文化的広がりについて、あたしは全く関心が無かったので知らなんだ。なので、へー、へー、と驚いてばかりでしばし、ウィキに酔う。女性専用車の栄枯盛衰については、それぞれ、確認されたし。でまあ、この女性専用車両、2000年代から続いているらしいが(JR)、こないだ、大阪天満宮まで出かけた折り、期せずして往復ともこの女性専用車だった。さてと、。最近は夜の電車に乗ることがトンと無かったので、75歳になって乗ったわけだが、前はいつだったか、考えたが、分からなかった。女性ばかりで満載のこういう電車・・。夜、の電車ねえ・・。自動的に、成人してからの通学、通勤、独身時代、結婚してからの夜の外出、旅行、などなどなどのシーンが、走馬灯のように頭上30センチをグルグル回る。特記すべきは、今は皆スマホ。そして、、女性の様変わり。一様に、みなさま、、落ち着いておいでである。(大きくなったのねえ、って感じだ)そうか、。と感慨無量。ライブで、今回の挑戦として、フランス語の歌を歌う事にしたので、その地固めの一環として、個人レッスンに伺ったが、そのレッスンが夕方5時からだった。帰宅8時台。猫は待っていた。(餌をやり始めてから、初めていつもの時間にはやれなかったけど)最近判明したことだが、実はパスカルは、オスではなく、ヤンママだったこと。大黒、中黒、って感じで2頭いるのだ。中くろを、レゾ、と呼ぶ。(フランス語で葦、)いつの日からか、納屋の奥の照明が点かなくなり、片付けに不便だよな、、と思っていた。電球を変えてもダメ、スイッチ触ってもダメ、さっぱりなので、越して来た時からの配線にタコ足にしていることもあって、漏電も心配だし、いっそ思い切って、チェックしてもらおうと、電気屋さんにお願いする。原因が判明する。何のことは無い手元のスイッチがダメだった。(後は正常)このスイッチは、いつから使用かは不明、従いまして、16年以上は経過。越してきて16年になったもの。。正常だからと言ってもタコ足はタコ足なので、元から配線やり直しし、コンセント新設。照明は、LEDの蛍光灯2灯にやり替え、という事にする。くまなく明るくなり、片付けも出来そう。
2023年10月18日
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つくづく思う。片付けには体力も要るが、精神力も要るなあ。まっこと、ブラックホールである。 エントロピー増大の法則はざっくりいうと「物事は放っておくと乱雑・無秩序・複雑な方向に向かい、自発的に元に戻ることはない」という法則。という、エントロピー、という単語のことを思い出し調べる。そうだよなあ、、放置、だもの。。それにしても乱暴だね、子育てに関しての行為に、放置、という単語がご登場とは。次いで、シューカツ、という言葉が思い浮かび調べると、、なんと、世の中には、終活カウンセラー協会、なるものがあって、終活カウンセラー2級、などという資格もあって、と、朝から驚いた。なんとか活、の言葉が溢れていて、大半は略語、らしいので、終活、って何の略語だろうと思ったのがきっかけだ。サイト中に以下の文章を発見。↓「終活」は「就活」の「就職活動」、「婚活」の「結婚活動」などのように「〇〇活動」の省略語ではないので、ズバッといかないですね。そうですか。省略語ではないと。。見事に、そそくさ、、じゃないちゃっかりかな?高齢化社会の渦中にあり、この人生の大きな問題、、哲学的なとでも言えるほどの人はいかに人生をまっとうするか、てな課題に関しても、商店街のクリーニング屋さんのような軽い社会化、が進んでいるではないか。(いえなに、クリーニング屋さんだって、大事なお仕事)へえ、2級終活カウンセラー、、ねえ、。。昨日は、亡夫の作業机の上の、最近目につく、ステンレスのボウル、、蜜ろうで、汚れまくりのやつ、、が気になってそれをキレイにするというミッション。蜜ろうは、本当に拭い去るのが大変で、台どこで一度、蜜蠟採集作業をやって懲りたので、以来、納屋の夫の作業机でやってた。ミツバチも、夫も、不在となった今は片付け作業に入らないといけないがこれが気持ち的には、ブラックホール。昨日のように、気まぐれに、、ボウルひとつ、、って感じでまた、現場、通りすがりに何かをピックアップして、、くらいにしか、イメージがわかない。ま、それしかないけどね、。。今のところは、。。。とてもじゃないが、怖すぎて、終活などと自覚は出来ない状態だ。で、気が付いた。ボウルの掃除は、本来は、夫の終活だった?んじゃないの??
2023年10月14日
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くがつにじゅうはちにち。という、発声音を、プールで、平泳ぎをしている時に、隣りのはさんとお醤油の美味しいところはとかの、情報交換している時に、あ、はさんがこの、日にちの発音をした。チャーリー、死んで3年やわ。あ、そうなん?3年か、。。と、はさんも返してくれる。彼女のワンは、ついこの間、交通事故で後ろ足の骨をコッセツした。複数の獣医に通い詰めだったそうだ。まだ、歩き方はヘンやけど、良くなってますわ。と。一気に思い出した。週に3回の点滴に通った。40分くらいかかったと思うが、どうやって、待っていたのだろう。2週に1回、免疫療法でさらに長い点滴、、というかそういう装置をつけて動かないように傍でなでていたんだっけ・・。療法食(高い!)をネットで購入し、その後、イオンに置いていることが分かって、ペットコーナーに通う日々。そして、洗濯。それも、バスタオル類。散歩は、ベビーカーに乗せて、。治らない、と獣医に言われてから一年くらいだったか・・。覚悟して、鉢巻き〆て飼い主も頑張ったと思う。安楽死も承知しているが(そういう道を選んだ友人も多い)あたしは、そうではなかった。出来る限りのことをしてやりたい。そして、最後まで一緒にいよう。暮らしのプライオリティーが、この時期は、本当に愛犬第一だった。(デフォルトがそうだったんですが何か?と傍観者は言うかも)いやあ、決算業務が終わって、郵便局に行ってホッとして、あんな状態(犬の介護)で、決算もしてたのか?と、自分で自分のこと、すごいと思った。お散歩仲間だったゴウ君、ピピちゃん、そして、サガちゃん、みんなと天国で遊びまわるチャーリーを、想像した。あの黒い両耳が、パスカルになって降りて来たみたいだ。
2023年09月30日
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給湯器関連の対面実地調査を仕事の一部としていた時代。それはずっと昔である。手順はこうだ。大手エネルギーの会社から委託を受けて、孫請けとして個人のデザイン事務所であるウチが、当該給湯器を購入して使用している顧客のリストを渡されて、その調査に協力してくださるユーザーに電話連絡し(当時は携帯電話は無い)、礼金と、調査内容を提示し、訪問アポイントを取り、時間通りにそのお宅を訪問して、インタビューと、簡単な図面作成をする。というものだ。今思ったのだが、その当時、写真は撮ったか?忘れているくらい昔のことだ。礼金は、かなり高額であった。もちろん、調査する側も結構な金額となった。顧客の電話番号リストは、近畿一円、滋賀県から京都府、大阪府、兵庫県、奈良県、、くらいだっただろうか、。しかし、電話アポだけで、お宅の水回りを見せてもらって、インタビューに応じて下さるユーザーさん、、実はなかなかいない。そこで登場するのがお礼、である。日がな一日、電話かけ続けても、数件出ればいい方。それでも、調査対象を取りまとめて、なんとか、実行にこぎつける。調査する側も資格は建築士や、コーディネーター、プランナー、その会社の住宅アドバイザー、など全員女性である。あたしもその調査者の一員として動く。まとめる側であったので、落穂拾いの様に、離れているところや、ポツン、のところ、クルマでないといけない所などを受け持つ。クルマの後部座席には紙の折り畳みの地図帳(市別)をわんさか積んでいた。この調査の仕事を通じて、学んだことや経験したことはとても大きい。(それ以前に、事故なく過ごせたことは本当に感謝である)行くところは、もちろん初めてなので、地図頼りに動くわけだが、数を重ねると、カン、が良くなって、地図の見方もうまくなる。頭の中に地図が乗り移り、目の前の道と、繋がり出す。徹底した実地訓練である。運転技術もさりながら、、ユーザー様のキッチン、水回りを見せていただく、という事はほぼ、その方の暮らし、を見せていただくという事である。当時は、キッチンシステムのコンサルもしていたので大いに参考になった。こちらは、、今現在もあまり変化がない、キッチンライン、にーごーごーれい。2550(長さ、ミリ)のシンプル基本キッチンには、日本の料理文化に関係する道具たちは、到底収まらない、という主張をしつつ、、デザインに勤しむ。だから、モノがあふれている、、整理が出来切らない、キッチンには、寛容であった。つまり、片付かないキッチン、と格闘している、、女性同士感、、というものがあった。(今現在は、少しは事情が違うかもだが、当時の生活時間調査(当方、サンプル数50)では、男性の家事担当時間はわずか8分。従いまして、主たる家事担当はほぼ女性)迷宮と化すキッチンもそれなりの数があった。その中で、テーブルの物たちを避けて、インタビューである。思ったことは、、なんだ、世の中で宣伝してるキッチンの写真は、皆、絵空事なんだ。と言う感想と、あたし達が提案する方向は間違ってないなあ、、と言う確信と。一般的にはそうなのだが、、しかし、百に一つ、清潔なキッチン、ピ!としたキッチン、はやはり存在した。今でも、忘れない。そのキッチンに出会った時、あたしは、本当に平伏したのである。もう、どこのどなた様かは忘却の彼方ではあるが、。そうか、、工夫次第で、そして、動き方(人の方)次第で、事は解決するかも。今は(当時のあたし)時間的に無理が多いが(子育て中)、きっと、いつかは、このように美しいキッチンを自分も目指そう!と、心に留め置く。この写真と何の関係があるのか。続き在ります。でも、今回はこれで。
2023年09月24日
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1998年にあたしは、はじめて自主ライブをしている。その時は、トリオで。探せば、そのチラシ?は作っていない。。プログラムはあるはず。手書き、そして、コピー機使用、そして、表紙をノリで貼った。ご来場の皆様に当日配布。バックバンドは、京都から来てもらった。ジャズボーカルの教室が京都烏丸にあったためだ。25年前である。趣味として、ボーカルを続けている。と言えるだろう。今日のお題、ひとまえでかぶおんぎょくをすることまかりならぬ、、というのは、1998のライブの時、トリオのうちのメンバーである、くさんが、自己紹介をマイクでした時に突如、言い放った言葉である。まかりならぬ、、というのがウチの家訓でございまして・・と続く。印象深い言葉である。さて、。田舎暮らし始めて以来、このライブ。小さいものは数限りなく、声掛けしてくださるのに、マメにいそいそと参加、を続け、大きいところでは、2年半、、になるか、、市民センターで4人でしている。なんと200人近い方がご来場。有難かった。あたしは造形やデザインの方面では、プロとして仕事をして来ていたので、この、音楽方面は、まさに、ママちゃんアートならぬ、ばーちゃんちーぱっぱ。つまり、おカネの方向が真逆なのだ。プロの場合は、アクションする方におカネが流れる。アマチュアの場合は、アクションすると、おカネが出ていく。おカネを頂く方、おカネを払う方で、立ち位置がすっかり違う。音楽、というものの使い方が違うのである。アート、という言葉に差し替えるとよい。アマと、プロの違いと言うヤツ。あまり、深く考えない。最近は。もう、ひと前でアートでも、音楽でも、好きなようにしてください。(世間はあなたのことはすでに視界の外ですので)かしらね、。。さて、コロナ問題も変化してきて、いよいよ、今度は、二人でやる。この秋だ。フライヤーも仕上がり昨日出稿。夏に、孫に会った時、こういう事が得意だと話してくれていたので、じゃあ、チラシのデザインお願いできる?と言ってみた。いいよ。と二つ返事。アルバイトでね、。と、ちゃんとおカネを払った。これが9月のはじめ、。出来たよ、とメールしてきて、数日やり取りがあって、。。ああ、「孫」がねえ・・。何とも曰く言い難い幸福感である。一人で、泣いたのだ。
2023年09月17日
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当ブログ20年、としてテーマを設定したのに、書き上げたら暮らしを楽しむ。になっておる。ダメだなあ、、こりゃ。
2023年09月09日
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20年前の9月7日、あたしは、この楽天ブログを日記として書くことを始めた。以来幾星霜・・。(と遠い目)感無量。生きていることに感謝。ほぼほぼ健康でいることに感謝。継続は力なり。テーマも作ったので、20年選手の方々、どうぞ、ご参加を!
2023年09月09日
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撮るのに手間取っていると、ツクツクボウシは飛んでった。居たのですぞ。たしかにこの欅の若木に。ツクツクボウシは、単にツクツク、と呼んでいた。これをゲットした子供は、神だった。。子供のころ。夏休みの子供のする事と言えば、あたしたちの時代、蝉取りである。栗の木、榎、欅、竹藪の周りに、そして、山の端に、川の傍にいろんな大きな木があって、上ばかり見て、その辺をうろつくと、、虫かご一杯になる。蝉で。大体が、油虫、じゃなくて、アブラゼミ。茶色いので少し大きい。そして、翅が透明な、クマゼミ。これは、しゃんこ、と呼んでいた。シャンシャンシャン・・と鳴くでしょう?シャンコの言い方のアクセントは、シャン、につくのではなく ン、に付くのです。クマゼミはアブラゼミの10分の一くらいだったか、。あいつ、今、シャンコ取ってんでー!へー、どこどこ?ほんまや―、シャンコや!とか。夏本番の前に、ニイニイゼミがいた。翅がまだらで小型。これは、値打ちが下がった。なんや、ニイニイか。ニイニイのアクセントは、どこにもつかず、、横棒読み。間違ってもトップの二、などにはつかない。でも、ツクツクは、滅多にいなかった。シーズンの終わりごろに出る。ヒグラシなど、ツクツクよりもっと上で、、数年に一度くらいしか、お目にかからなかった。網は、手作り。直径7-8センチの輪っかを針金で作り、その大きさに合わせた長さ20センチくらいのビニール袋を口に回して、長く細い竹をつける。これで出来上がり。木の下に立ち、上を見て、、鳴き声の方を見る。そして、やおら、、竿の先を・・被せるのだ。オッケー!「やっぱり都会人やわ」と、。こないだのウオーキングでこういう話(網の手作りで充分距離を稼いだと思えば)をしていたら、きさんが、、あたしら、蜘蛛の巣よ、知ってる?と、マウントしてくる。ハハ―!豊かな老後である。地球にすれば、少々気温が高いくらいで何ですか?って感じなんだろう。地球上に住むか弱い生き物は、この、数度、が問題になるというのに。しかし、ちゃんと、稲刈りは始まった。
2023年09月04日
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「君たちはどう生きるか」サウンドトラック [ 久石譲 ]あたしが、これを観よう!と決めたのは、世の中のこの映画に対する評判が、面白かったからで、それと、同行者(娘)もたまたま、観たい、と言ったからで、孫の京都行の時間を待って過ごすのに(大阪で後合流)ちょうどよかったから。非日常の時間、ってのにも映画館がいいなあと思ったし、。もともと、どう生きるか、、という言葉がタイトルに入っている限りは、もう、ほとんど生きてしまっている人間としては、いささか、時すでに遅し、感もあるわけだし。どう生きるか、に関してあたしなりに、君たち、、に伝えたいことがこの映画によって生じる可能性も否定はできないが、万一、そういう事が起こったとして、じゃあ、あたしはどう伝えようか、、と思ってしまうし、。などと、考えつつ、映画を観たのです。書き記すことと言えば、まず、ははん、スタッフへのオマージュなのかも、と思ったこと。膨大な、これまでのアニメの作業、集大成と言った感じで、各シーンそれぞれに、由来が想起された。氷山の水面下のカタマリを、潜ってカメラで、グルグル回る感じ。素晴らしい。あ、これはラピュタだ、これはナウシカだ、これは宅急便だ、これは、ニモだ、、これは、千と千尋だ、、これは、、と、飽きないのである。そして、特筆すべきは、、久石さんの音楽。どこかの黒企業のえらいさんが、単語連発の文字群を投稿したあの、漢字群。(音楽音楽音楽・・・、と書きたいくらい。しかしその方法は、幼稚すぎる。)あたしは、吹き替えの主(登場人物各人)が、これは誰、これはそれ、、とすぐには想起できなかったけど、どこかで聞いた事のある声ばかりだった。このヒトでないと!という感じは持たなかったが、脚本の話し言葉が、なんと美しいこと。こういう言葉ばかりで、世の中の日本語が満たされていくと、どんなに、世界が浄化されて行くかしら、と思うほどに美しかった。(ということは、、、今の世の中、言葉が汚いわけだし。特に政治の世界)なるほど、、。君たちは、、というだけあって、僕は(宮崎)、、こう生きている。というテーゼをプレゼンしておられるようで。。映画館に長い間行ってなかった。どのくらいの期間か、、計算した。ま、かなりの期間だ。その間、あたしは老いた。翌日、太ももの筋肉痛である。そういうことだ。
2023年08月15日
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ご縁とご恩、、先ごろ有名になった言葉だが、この言葉をニュースで見たとき、真っ先に思い出したのが、佐藤さんのことだ。もうすでに40年以上も優に経過した思い出なので、時効だろう。実名をあげました。佐藤さんは、あたしより15歳くらい年上で、40年前に同じマンションの2階と4階の隣人になった方だ。入居の時期もほぼ同じ。新築だったので。当時あたしは、1歳と2歳の乳飲み子のママ。孤立無援の新米ママだった。佐藤さんは、専業主婦、2人のお嬢さんは高校と短大の学生。ご主人はNTTにお勤め。4階に住むあたしは、ベビーカーと、上の子を歩かせて下の子を抱いての階段の上り下り。2階の佐藤さんは、ドア越しのあたし達に目をとめて下ったのがお出会いの「ご縁」の始まり。以来、折につけ、、というよりはほぼ毎日のようにおしゃべりし、お互いの家の行き来が日常になるまで、一か月くらいは要したか、、急速に親しくなった。それからというもの、、親戚のようになにくれとなく、育児関連では手を差し伸べて下さった。「ご恩」である。あたしが、二十歳になる前に実母と死別していること、父が再婚して、実家との交流がふっつり途絶えてしまっていること、夫の実家は東京にあること、夫の母は、働いていること、姉妹はいなくて、弟が一人いるが、彼の家庭もちょうど子育てで忙しいこと、、などなどなど、、話したものだからぴぴぴ・・と、佐藤さんのアンテナが活性化し、いざ!出陣!と、たすき掛け、裾からげ、片手には薙刀、の臨戦態勢になって下さったのだ。一層親しくなると、、佐藤さんのご実家は、心斎橋の大店のお嬢様、かたや、あたしの母は、堂島のお嬢、と、大阪にゆかりのある景色を2人で見ることが出来たりした。2人の子の誕生日には、いち早くおめでとう!とささやかなプレゼント、事あるごとに小学校の、教材、、こういうの、、皆持って行くのじゃない?とお習字セット、お絵かきセット、を頂戴した。今でも、忘れられない。その7年後、あたしたち家族は引っ越すのだが、それからも、電話での交流は続き、二人のお嬢さんがご結婚、ご出産、のころまで、仲良くして頂いた。さて今度はあたしが、手を差し伸べる番である。遠く及ばないが心がけてはいることだ。あの、、大阪平野を一望できる箕面の山肌の5階建てのマンションで、佐藤さんに出会って、本当にお世話になった事を、しみじみ思い出だすのだ。「ご縁」と、「ご恩」である。今日の日記は、「ご縁とご恩」、この言葉にインスパイアされて、という事だがもう一つ、異次元の少子化対策、という言葉にもあたしの記憶が反応したことも、書いておこう。何が、異次元じゃ!とか、思っているのだ。。
2023年07月23日
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納屋の掃除(全体では3分の1)をして、自分の作品を、今度地元の小学校に展示させてもらうのに、塩ビシートで、カバーを作成。なんせ、大昔のものなので、劣化が激しい。切り貼りしたもので、剥がれ落ちている部分を足したり、汚れを取ったりして、B全判のパネルに、覆いをかける。これが、、2個。全部で、6点。(内額装1点)埃被りまくりの模型もあって、これは、さる企業の研修センターからもらい受けたものであるが、捨てられずに、飾っていた。置いとく場所がある、といえばあるからだけど、何とかどこかで役立つことは無いかと考えないでもなかった―ので、、置いていたんだ。。平面の作品と一緒に持って行こうかと思ったけど、、ちと、小学生にはもったいないような気がして、、思い切って、突然だけど地元の高校にどうですか?してみようと思っている。建築科はないが、その高校、今年度、何かの住宅デザインのコンクールで最優秀賞を取ったとこれまた何かのローカルな記事で読んだので。プールに行って、買い物のついでに、立ち寄ってみよう。
2023年07月03日
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この日の、メーンエベント―、は、シャンソンのお稽古で2回目の歌い合い会。あたしは、「夢の中に君がいる♪」と、「ボン・ヴォアイヤージュ♪」に決めた。生ピアノ伴奏で、教室の生徒の皆さんの前に出て歌う。先生は横に立っていらして、ワンポイントコメントを出される。歌詞のお勉強して、皆で歌ってみて、(フランス語)と何度もするが、いざ、一人でマイクを通して歌うとなると、あやふやなところ、聞き取れないところ、ばかりになってしまい、畢竟、自宅で練習を余儀なくされる。しこしこ稽古するしかない。あ、お燈明当番だった。と、近くの神社に。シャンソンと同時進行で、今の自分のミッションは、「糸♪」と、「童神♪」のピアノ譜だ。なかなか、音符から離れられないで、指だけの稽古となるとピアノに向かわないので、音符読めるのは大いにインセンティブな事、と何かの記事で読んで、とにかく、鍵盤を触らんと、、と、オタマジャクシが読めるのだから、と言い訳して、、楽譜を前に置いている。楽譜を前にしても、曲の流れがなかなか覚えられない。ひたすら、慣れよう!と、ガシガシ弾く。一呼吸おいて、、フランス語。これも、紙があって、読みながらお手本と歌う。ふう!ちょいと、ネトフリ?そうだね、。。と観たのがボリウッド。原題は「チョップスティック」。(スがついていたかどうかは忘れました)タイトルは「DUO」。もうビックリした。アーティスト、という詐欺師の名前でご登場の俳優さん。業界ではかなりの大物みたいだ。その彼が、ヒロコのダンナにそっくりなんだ。ヒロコは、半世紀前の留学時代のクラスメート。ダンナになった人もクラスメート。時間的には、、息子さん?(の年齢)位かな?と思った。思考って、言語が要素になるでしょう?観終わっても、このそっくり衝撃が続き、俳優さんの名前も調べたくらい。というのが、、、ヒロコのダンナ、、としか、あたしは思い出せなかったので。。えーと、彼の名前はなんて言うのだっけ。。こういう場合、しばらくの思考の逡巡の後、あ、そうだった。と、水底からピンポン玉が浮かんでくるように出てくるはずが、、一向に出てきてくれない。当時のクラスメートの名前は、手繰り寄せることは出来るが、そのダンナ、だけが、あの、駅前の、顔抜き看板のように、丸く抜かれている。真っ白なんである。ヒトのダンナ、とはいえ、大切な友達である。なぜ、彼の名前だけが思い出せないのだろう。と思った。映画が、あまり似ているので、その衝撃だったか、あたしが、ピアノにのめりこみ過ぎか、フランス語に御熱だからか、、きっと、脳細胞が足りないのだろうとか、、これは、認知症の傾向があるのではないか、とかなぜに、特定のその人の名前だけが、記憶から失われてしまったか、、と、考え続けしばらくして、、そうだ、もう、思い出そうとする作業はこれくらいにしないと、、(電車の時間が迫っておった)試験勉強(本番)もしなくちゃ、、考えれば考えるほど、、焦ってしまうし、キモチワルイ。。あ行から行ってみようか、、とまで思ったのだから相当特定名称記憶喪失症状に縋りついておった。みなさん、あたしも一時はどうなることかと思ったのですが、、おかげさまで、、思い出したのです。彼の名前は、、「Bardev」でした。オツカレ、自分。そして、歌い合い会の日が始まった。
2023年06月22日
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名古屋城が、現在老朽化激しく建て替えようとの計画があるようで、設計図もまだ、創建当時のものがバッチリ残っているとかで、はじめに建てた時と同じものを木造で、再建しようとの動きがあり、先日、公聴会が市内で行われたとの事。その会の中で、バリアフリーに関しての意見が白熱をおびて、、ニュースになった。それで、あたしも、この名古屋城が古くなり、建て替えの時期なのか?と思った次第。(付随するニュースも沢山出ているので、ご興味あられる方は、随時ご参照願います。)この図面が残っている=当時は木造である=木がある=作ろうと思えば作れる=ということなんだろうが、、技術者としての熱意とか情はわかるけど、建てた時代は、江戸時代初め、1609年である。こちら、篠山城も同じ時期だ。1604年かくらい。築城400年を記念して、木造?で再建されている。ただし、こちらは、平屋。しかも、大書院のみで、あとの建物は図面を拡大しただけのお庭。((庭に、ポイントを作り、こちらが、、お部屋ねー、、こちらが、、台所ねー、、みたいな)潤沢な予算があった時期なので大書院は復元された。そしてそれは、時々時代劇の映画に登場している。))見た目は、二条城に似ている。一方、名古屋城は堂々たる5層。天守閣もある高い建物だ。この一番上まで、身体に障害がある人達、エレベーターで昇れるか、という問題だ。完全再建(建設当初の図面)では、それは無理。こないだ、大阪の滴水美術館で、江戸時代の茶室が再現されたのを拝見したが、秀吉の金まみれのお茶室を、脳内変換できるくらいだった。(見た目には金はどこにも使ってないけど、さぞやこれは、、途方もないお金がかけられていると、、直感した)それで、あたしは、、当時の平均寿命を調べてみた。建てられた当時の日本人の平均寿命は、30歳を少し出るかくらいの年齢で皆、亡くなっている。400年経過して、今日本人の平均寿命は80歳を少し超えているのだ。図面を描いた人、まさか、現在のありさまを考えて買い手はいない、じゃなくて、描いてはいない。ま、体格もそうだし、したがって、モデュールだって小さめ?になるはず。図面そのまま再建、には他にもいろいろ障害があるだろうし、ましてや、公(おおやけ)。当事者のみなさまは、もうすでにそういう事々はご理解されているはずである。市長が、世間の耳目を集めたいと思われたか、予算の問題で手順を急がれたか、ピカピカの木造名古屋城のイメージを、ある一定の近未来の日付付きの写真で想像して逆算して、公聴会は2023年初夏、に設定されたのでは?と勘ぐっている。今現在の一部コンクリート造のお城だって、捨てたもんじゃない。少しこれを修正して、補修して、キレイにしてあげるのだって、一つの案じゃないのだろうか。歩けば床が抜けそう、、とかは無いのだから。。。こないだ、香住に応挙の絵画展が、大乗寺であった。観に行ったが、このお寺は築後270年。あたしたちが行った日、入り口に、、2階部分は床が抜ける心配があり、急遽見学中止になりました。とかで、2階には上がれなかった。絶え間ざるお手入れが必要なんである。IT技術も発達していることだし、あたしがここで言うまでも無いだろうが、木造再建は無理そう。。(アーキテクトは、建てたいと思うだろうね。)ユニバーサルが、デフォルトであってほしいよね。
2023年06月19日
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先週は、トライやるウイークだった。知らなかったが、知っていたが、兵庫県独自、らしい。↓<「トライやる・ウィーク」とは、学校・家庭・地域が連携し、「心の教育」の充実、「生きる力」の育成を目指し、平成10年度から実施されている、兵庫県独自の取組みです。 市内の公立中学校・特別支援学校中学部の2年生・義務教育学校の8年生が、福祉体験、職場体験、地域文化体験など様々な体験活動に取り組みます。>まだ、田舎暮らしをする前、店をしていた頃、たまたま、この企画を、任される立場にいて地元の中学生を沢山引き受けた。受け入れの方、出来たばかりのショッピングセンター(つまり商店会)。それで、彼らに、入店者、退店者、各出入り口からの人の動き、時間別に。(確か出入り口が9個ほどあったので)そのデータを手分けして取ってもらう、そして、それを、表にして、センター内の各商店主に発表する。という取り組みをしてもらった。まだ、スタートしたばかりのことで、混乱はあったが(例えば、、自転車通学が認められていない地区の子供が、自転車で来てもいいか?とか)参加する際に、お揃いのTシャツ着用、それには、「CAT'S HANDS 」と印刷した。記念品として持ち帰っていただくつもり。結構、素直にそして、自主的に彼ら彼女らはいそいそと、取り組んだ、、と思う。学校から、外に出て、近くの商店街に通うのは、良い経験であったと思う。とにかく、事故もなく無事に5日間が過ぎたのは何よりだった。データは、まさに、生きたデータで、各店舗の経営者にも役立ったと思う。いささか、ワンマンショーになったきらいはある。あたしはその商店会の会長だったので。子供たちへの説明、指導はお手の物であったが、大人たち、つまり商店会のメンバーには、理解を得るのが難儀であったと記憶する。最終日には、生徒たちと反省会をした。感想文も書いていただいた。一人、とっても大人びた少年がいて、始めから終わりまで静かな印象の生徒だったが、発言があって、驚く。「僕は、、今まで学校で受けていたどの授業よりも、楽しかったし、勉強になりました。」と言ってくれた。四半世紀前である。彼はもう、40代に差し掛かる年齢だ。元気でいるか♪(と遠い目)ウキウキしておったあたし。だけど、次年度から、教育委員会からの依頼が止んだ。やり過ぎたのだ。(他の事情があってかもしれないので、単なる思い込みかも。でもあたしはそう思った)この話を書くのは初めてである。もう時効だよね。。なぜ思い出したか。今年度から、地元の小学校に週一、数時間出向いている。児童数は少ないが、楽しく過ごせている。あたし一人じゃなくて、教諭の方が一人とで、2人態勢。伺って3回目か4回目に、その教諭の方が(理科の先生だが)、「ぼちぼちさんに、感謝です。」と。え?と聞くと、、、上から目線で、怒ってばかりしていましたが、あなたの子供たちへの態度を見せていただき、本当に、勉強になります。と、、。まったく、本当に、期待していなかった言葉を晴れがましくも、頂戴した。人は誰でも、褒めてもらうと嬉しいものだ。キラ、キラ、と、こんな経験(てか記憶)は、心にコロン、と落ちて、暗い全容(心の世界って、暗くない??)光り続け、かつての、光っていたものと光りあってその周りを明るくし、静かに少し、周りが明るくなる。ええ感じ。梅雨の夜明けに、思い出話。
2023年06月11日
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国費留学生の試験にチャレンジしたものの、、落ちた。これは52年前である。そうか、。デンマーク大使館の試験官は、「そういう勉強したいのであればヘレ・クリントさんのデザイン事務所に働きに行けばいいのでは?」と、ニコニコしていた。この面接時、あたしは、ヘレ・クリントがどう言う人かは知らないし、名前も初めて聞いている。コペンハーゲンに行って、学校が決まってからさて、アルバイトしなくちゃ、と、訪ねたのが、ヘレ・クリント・デザインオフィスだったのだ。なにしてるこっちゃ。留学先のアカデミーは、受かれば無料である。だけど、奨学金無しでは、暮らして行けない。生活費、ってのがいるじゃないか。じゃあ、今から貯金しなくては。貯金って、、どうするのさ・・。お給料だけじゃあ貯まらないじゃん。。会社で働きながら、実は、電子オルガンの講師は続けていた。(ここまで書いて、、ホンマ、ヒトって性格変わらんなあ、と思う)当時、その会社では商品開発室、勤務であったので、繊維製品としての生地は豊富にあり、個人買い(いわゆる社員向け廉価販売)もできたので、、感じのいい生地を選んで、反買いする。(切り売りじゃない)小物や、エプロンをデザインして、知り合いの縫子さんたちに縫ってもらい、(決して、会社の関係ではありません)アルバイト代を払い、こちらで、袋詰めなど体裁を整えて、、土日に、三宮や元町の老舗に卸す。小物なら、カゴに入れて置かせてもらう。売れた分だけ決済します。というわけ。このおろし店舗を営業して増やしていき、、確か4-5店にはなったと思う。せっせか、土日営業である。ちゃんとした、商品の体裁を整えるための作業には、、ブランド名、が必要だった。やっぱ、おされなのがいいよね・・。と、フランス語辞典を出してきて、決めたのが、、「la veille」これを、ハンコで作って、デッサン用紙のかっこいいのに虹色のスタンプ、ぺこぺこ押してた。穴開けて、色紐遠し、、と、内職である。たった一人の「夜更かし」である。(ら・ヴぇいゆ)は夜更かしの意味。自分しか知らない自分史だ。この商いでお金が溜まった。充分じゃないけれども・・。ところが、昨日、この、自分しか知らない自分史を思い出させてくれる出来事があった。はいぼちぼちさん、次の所読んで。。とシャンソンの先生。この、veilleが出てきた。あたしは、正直に、ヴぇいる、と読んでいる。(んな事すっかり忘れておったのだ)即座に、イーあいえるえるイー、と書かれている場合は、いゆ、と読むのです。とご指導。ここで、、その、夜更かし、の顛末を思い出すぼちぼちでんがな。。そうだ、。そんな事もあった、、と。ああ、らヴぇいゆ、という言葉もありますね。などと、言ってしまった。物知り顔で言うぼちぼち。ダメなあたし♬あ、そうです、クリスマスの夜に遅くまで起きるとかに使いますね。と、本格フレンチびと、の先生。テニスのボレーのように、ポンポンと会話。表面的には、、。だけど、あたしは、エプロンを思い出したのであって、単語そのものの由来とか知っていたわけじゃない、ただ、辞書から探しただけですが、、とは、、言わなんだけど。。誤解の元を作るのが得意なあたしなんです。。ふう!
2023年05月18日
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高校時代の同級生、めさんが久しぶりに電話してきた。めさんは、結婚して、はさんになっている。名前の方は、たちゃんである。あと5分で、本番始まるのよ。。と、ホールの外に出て、30秒、じゃあ、頑張ってね!あとは、夜にね。と彼女。高校時代、クラスの定期テスト、ビリと、ビリから2番目を争った仲である。あたしは、フラの発表会に行って、昼ご飯を食べ損ね、帰宅後、がつがつ食べ、満足して、そして、彼女に電話して、、、何と90分。色んな近況報告のうち、甥っ子が、直木賞を取ったんだよ。などと言うのだ。へー、すごいね。お名前よかったら教えてくれる?ちょっと待ってね、。。砂川文次、というの。そうなんだ。今調べたら、、直木賞じゃなくて、芥川賞だった。こういう感じの友達である。今度図書館に行ったら、見てみよう。あたしは、途中で(読むのを)やめたけどね。とは、たちゃんの言。
2023年05月13日
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1969年のカルチェラタンから始まった学生運動は、燎原の火のように欧州全土に広がって、大陸の北端、デンマークまで及んだ。そして、この、王立美術アカデミーだけが今では、その、学生自治の理想を実践していると言えるのだよと、ひろこは言ったのだ。1973年の秋である。時間的には符合する。へえ。そんで?としか言えなかったあたしである。あたしはその時、校内の家具デザイン科に、受かって、毎日教室に行き、オリエンテーションを受けていた。同時に、日本人同士の(と言っても、レンゲ畑の白レンゲくらいに少ない)日本語での会話が、ほんの少し混じる位で、同じ年ごろと思しき、ひろこの話が、印象に残る。その、燎原の火の証拠として、毎週、学生自治会本部(かどうか今となって走る、じゃなくて知る由もない)、、月曜だった。薄いパンフレットのようなものが(表紙は黄緑)配布されて、その中のどの講義が、教授は誰で、内容はこうで、いつか以降になるか、じゃなくて、何時開講なのか、書いてあるのだが。英語だったから、中身は理解できた。理論の事もあり、リストレーション(と呼ばれていた要するにリノベーション)の実技であったりする。スラムの実測のこともあったし、田舎の倉庫の構造の講義もあった。家具科は全部、デンマーク語でやる。国際クラスは、英語でやる。DANIDAという政策上の制度があって、外国人留学生のためのコース、というのも置かれていた。最初、このDANIDA、と聞いたときに、ダニだ!と、聞いてしまっている。だから、今も覚えている。こんなもんなのだ、あたしの程度は。この国際クラスの授業の中で、連絡事項がまず助手からあって教授の講義が始まるが、2回目か3回目の時に、フィアット社が、今度開発する車のインテリアのデザインをやってみたい人、いませんか?と、言われたとき、ああ、そういうことね、と、この、連絡タイムのことが分かった。今、観ているデンマークのドラマで、放送局のシーンが出てくるが、クルーの打ち合わせタイムをいつもドラマの中でやるのだが、あたしは、この、50年前の連絡タイムの事を思い出したのだった。世界中どこでもやってる事っぽいが。また、このドラマの登場人物で、脇役ながら存在感のある男性の俳優さんがいるのだが、その人が、その、あたしの通った大学の自治会長にそっくりなのだ。シリウス、と彼は呼ばれており、。。どこでこんな話が出来るか、?このブログくらいしかないではないか。ねえ。。風の強い数日である。今日は、天気は下り坂みたい。
2023年05月06日
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多田神社は、源氏発祥の地。JRから、乗り換えで、山方向に能勢電鉄という阪急の支線がある。一時代前の、でもピカピカの、車輛と、ピカピカじゃないけどほっこりする駅舎。駅名表示も、絵本のよう。「きぬのべばし」「うぐいすのもり」・・・「ただじんじゃ」・・終点は、半世紀前の今は昔の、夢っぽい新興住宅地の「日生ニュータウン」などが広がる。あたしが子供の頃、「鶯の森」駅すぐに、そばを流れる猪名川の幅広の所を整備して、水泳場があった。あたしは、池田市にいたけれど、川西市は隣町。子ども同士の情報で、「鶯の森」に、泳ぎに行こう。ということになり、母に許可を求めると、即座に「ダメ!」。ウチは、とにかく、「ダメ!」が多かった。大阪弁では、ウグイスは、ウグ、のところにアクセントがあるんだけど、ウグイスの森、に関しては、グイス、を音を上げて東京風に読んだ。ウグイスの森、と言うごとに、なにやら、ちょっとメルヘンチックになった。のせでんのアナウンスも、当時と変わらず。猪名川の広いところもまだある。山並みの入り口に、五月山(さつきやま)があって、つつじの名所。あ、櫻も。そのふもとには、「呉羽座」(くれはざ)という映画館があり、小学校時代、池田市から徒歩で、映画を観に行ったことがあった。今はその呉羽座も石のプレートだけになってしまい、高速道路の真下になっているが、。能勢電に乗って、多田神社まで行き、高校の時の同級生のほさんが、駅前のビルでNPOを始めたってんで、見学に。ちょいと、知りたいことがあり、講義をしてもらった。この日は、風がすごいきつくて、。時間があれば、多田神社も立ち寄ろうと思ってたけど、結局、講義だけしてもらい、また、能勢電に乗って、帰る。帰途、ウグイス、と、ウグイスの森、を脳内で呟く。
2023年04月12日
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生きているあたしの手元から、犬が死んでしまい、いわば、相棒の一種でもある犬の席を、空席にするという状態を受け入れなければならない、と決めたのは、(人生途上ではずっとその席はほぼ、いつも塞がっていた―犬を飼っていた)飼い主側の事情による。そして、思いがけず夫が去年亡くなった。怪我をして障害が残っても、環境整備してうまく行くように整えて、過ごしていた。あたしは、その時点よりもっと、不自由になるかもしれないと(例えば車椅子)、バリアフリー改築の際、伏線を引いている。テラスの階段をゆるやかにしたのはその事もあった。階段ではなく、スロープに出来るようにしていた。角度も計算して。車椅子のまま、家の中から外のクルマに乗る際の動線も考えていた。掃き出し窓が多くなったのはそのためである。義足の事も、今にITのロボットが出来て、もっと簡単に装着でき、使用できるようになると思っていたので、情報を集めていた。アイスランドのズール社が、世界の最先端(義足では)の会社であることも知っていた。北海道に家族旅行した際には、脳内シミュレーションを始めている。このまま、この暮らしがうまく行けば、アイスランドにひょっとすると、、行けるかも?と妄想を膨らませてもいた。日本の技術も捨てたものではなく、かなり高度な研究をされていることもウチに来られた技師さん(彼の病院の提携先の会社の)とも話したりしていた。。踏面の長いデッキテラスの階段を見て、思い出していることだ。毎日の暮らしの他に、こういう時の穴、があいてしまった。一年という、一つのくくり、穴を見ないでとにかく前に、と過ごしたが、それはそれで、あたし的には納得して生きてきているが、次、の2年目、はどうしようかと考え中。有難いことに、お仲間がいて、ほぼ日常の発語も十分で、経済が急にダウン、という事もなく一回りして来たが、今月は、さすがに、停滞した。動き出すための停滞と思っている。死が二人を分かつまで、を地で行った夫婦である。いろいろ瑕疵はあるにせよ。結婚指輪をしていない夫婦であった。当初、調達資金が無かったからである。途上、指輪を買おうとか、そういう事も話には出なかった。そこんところが、思いを共有していた、、と思い出している。結構、その日暮らしでオッケー、の感覚は二人に共通であったのだろう。さて、答えが出た。その日暮らしでオッケー!
2023年04月11日
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満開の桜や色づく山のもみじをこの先いったい何度 見ることになるだろうひとつひとつ 人生の扉を開けては 感じるその重さひとりひとり 愛する人たちのために 生きてゆきたいよ (竹内まりあ・人生の扉より)きついきつい、、と思いながらの今日この頃ではあったが、夫の亡くなった日になった。朝は、穏やかな日差しで、目が覚めて、そうだ、今日はシャンソンだ!と用意する。いつもの事だが、早めに家を出るのに、どうしてか、駅に着くと電車の時間ギリギリになってしまうので反省して、ぐっと早めに出発。そして、充分早く大阪に着いたと思ってうろついてぼんやりしていると教室に駆け込むことになるので、今日は直行で、文化センターに。(いや、数分ではあったが、大阪駅の時の広場で、旅行者と思しきご夫婦が、写真を撮ろうとしていらして、奥様がカメラを構えて、、で、シャッター押しましょうか?あらそれは嬉しい、お願いします。とゆーわけで、ツーショットを。彼らは、、スマホでなく、キャノンのデジカメだった。遠い国からの旅人である。ご夫婦ともに大柄だった。)えねちけー文化センター、1クール3か月コースの、2クール目の最初の講義。プリントを配って下さる。本日の課題曲は、、アダモの、夢の中に君がいる ってのと、ボン・ヴォワイアージュ、の2曲。初めて歌詞を見た。帰途は、ダイヤ改正のおかげか、すんなり丹波路快速に乗ることが出来て、爆睡した。殊勝にも、彼の好物の魚の煮付をお供えしようとメバルを買う。(お供え後、頂きますです)今は、雨。清明の、雨である。帰りのクルマでちょうど、「人生の扉♪」が流れてきた。♪満開の桜や色づく山のもみじをこの先いったい何度 見ることになるだろうひとつひとつ 人生の扉を開けては 感じるその重さひとりひとり 愛する人たちのために 生きてゆきたいよ (竹内まりあ・人生の扉より)
2023年04月05日
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神戸の桜満開、当地も、今日は桜満開。予期せぬことではあったが、娘と孫が、家に来るそして一泊して東京に帰るという。言ってなかった聞いてなかったそのどちらでもないのだろう。とにかく、法事の当日、食事後、一緒に帰宅する。六甲ライナーに久しぶりに乗った。おそらく、、(きっと)母一人、の様子のチェックに違いない。買い物して、帰宅するなりいつも手伝おうともしないのに、買い物袋を整理して、気が付くと必要品は冷蔵庫に入っておった。暮らしの危うさは、まず、冷蔵庫に現れる。へへん。そういう事もあろうかと、片付けて出て行ったのである。何も見てません、検査していません、の姿勢を保ち、しっかり監視である。見上げた心がけじゃ。褒めてとらせる。内々とは言え、法事をしたので、親戚からは一通りお供えが集まった。粗供養の用意をする。ために、大体お幾らくらいか調べなくては・・。婿殿のご実家からは、孫に持たせてくださったおろうそくの詰め合わせだった。渡月橋のお菓子と。思った以上に高価なので、お茶だけでは、、の心境。その手描きのお花たちの美しいこと!【ロウソク】蜜蝋入りローソク「夢扇」(碇型 8本入り)★贈答用にも最適ローソクです。★環境に優しいローソク★絵付きローソク ロウソク ローソク ろうそく キャンドル 絵入りローソク 蜜蝋ローソク 進物用ローソク ギフト用ローソクお花見ドライブして、ランチして、おしゃべりして、娘と孫を駅まで送る。こうして、朦朧として、櫻、との対話が過ぎて行く。
2023年04月03日
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ほんとうの定年後 「小さな仕事」が日本社会を救う (講談社現代新書) [ 坂本 貴志 ]読了。夫が亡くなっているので、単に一つの出来事、って感じだが、あたしは、自営業で、法人の代表戸締り役である。名刺を渡す時、名乗るときにしばしば、それもほとんど決まって、、夫の補佐、のような立場か?と、聞かれる、た。世の中の男性社会の反映である。いえ、夫は、会社員です。(それも、普通のサラリーマン)と、説明が必要だった。法人代表は、後付けにしても、自営で、仕事をする妻、、ってのがどうも受け入れられない傾向があった。過ぎた話である。読了して、、(遅い!ちゅうねん!)ああ、定年後、つまり被雇用者としての、老後、を書いてあるのか、、と気が付いたがもう遅かった。でもいいの。子どもの小さいころ、引っ越しをして、保育所にエントリーした時、市の窓口に相談に行くが、「自営業?そんなら、その辺に転がしといたら(子供をですぞ)ええのんとちゃいまっか」と確かに言われたのだ。えーっとこれは、、40年以上前だ。あたしは、長い手紙を書いて(市の保育所係)折角のあたしの才能を社会に還元したいのだからどうかお願い♪保育所に入れて。ちょうだいと。。言いましたがな。功を奏して、入所オッケーとなり、一件落着。子どもが小学校の時は、学童保育の制度が、通う小学校になかったので、鉢巻きしめてまた、市、(は保育所の市と違う)に駆け込んだ。その時、対応した職員が、「それでもねえ、お母さん・・」とこちらを説得にかかった時、「わたくしは、あなたのお母さん、ではありません。ちゃんと、名前があるので名前で呼んでください!」などと、ブイブイ言わして、学童クラス設置を勝ち取る。こういった、社会に対する異議申し立ては時に応じして、子育てをするが、考えてみれば、、当時夫は、子育て家庭に不在、、であった。愛人がいて帰宅しないとかそういうのではなく、ごく普通の核家族だった。。今となっては、夫に、そして子供たちに、感謝しかないのであるが。で、。小さな仕事が日本を救う、、とあるように、、あたしは、ずっと、小さいままで、小さな仕事をして来て、今も同じなので、なんだか、ホッとした。継続するコツ (単行本) [ 坂口恭平 ]読み始める。想像通り、、はじめに、の所で、継続することが出来ないから、この本を手に取られたのではないでしょうか?と、著者は宣う。そうか、継続できないと悩む方、なんとか継続したいものだが思うようにいかない、と考える方、がメジャーなのだな。あたしは、どちらでもいい派なので、もう少し、広い考えが中にあるかと思って読み始めてる。さて、。継続は力なり、の説得力や如何に。。
2023年03月11日
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【海外移住してみたい?ではまずコンビニなし、お菓子無し、生魚無し、市販の出来合い調味料なし、完全自炊生活+マクドナルド、この条件で数週間生活してください。これでだんだん元気がなくなる人は食に対するストレス耐性が低いです。日本の食環境に頼ってる人は海外ですぐ病みます。鬱は食事から。】あひるさん、と言う方のツイート。これを読むなり、留学時代の食生活のことを、かすかなもう消えつつある記憶の束をほどいて考えてみている。日本人の海外旅行、出獄時の、じゃなくて出国時のサムソナイトには味噌汁や海苔、梅干しなどは必須。と見聞きしていたが、あたしは何も持参せずだった。基本、米飯を欠いても、パンさえあれば満足だった。夏休みの始まろうという時期にまず、欧州に飛んで、数か月過ごし、9月の新学期に間に合うようにデンマークに行く。8月末。大学に願書を出す。落ちれば、帰国するつもり。だったが、合格した。それから、北欧暮らしが始まるのだが、。。コンビニ、は無い。しかも、お店は食料品店も夕方には閉まってしまう。お菓子、、はあった。トリアノン、という大きなそして、人気のパン屋さんがあって。生魚なし、、は魚屋さんがあって、ただし、ウナギもあったがぶつ切りだった。ほどなく、魚やさんは、卸もしているお店を見つけて、いか、タコ、に至るまで入手可能。しかも、安かったし。。市販の溺愛調味料無し、じゃなくて、出来合い調味料無し、、この出来合いは、今の感覚でなんだろう。つまりおろし玉ねぎ入りドレッシング、とかの。半世紀前でも、醤油や、味噌、米などは、中華系のグローサリーで手に入ったし。完全自炊生活+マクドナルド、、マックはコペンハーゲンでは行ったことがない。1990年になり、子供たちと欧州旅行した時に、ベルリンの駅前で入ったかしら、。の程度。マックよりは、春巻きなどの中華の点心を扱うお店が結構あったので、スプリングロール、はよく買ったものだ。要するにあたしは、食べられるものなら何でもいいです。という感じの人なのか。。相対的に、美味しいものが多かったように覚えているが、それも思い出の美化作用なのかしら。日本汚職環境に、じゃなくて、、日本の食環境に頼っている人はすぐ病みます。食環境と言うよりは、自立心の方が前に出るような、パーソナリティー、、とでも言おうか、、水と火と鍋があれば材料を自分の食べ物に変換できる能力、、をば醸成しておけば問題ないと思うが、どうか。今から、お昼ですが、、今日は、焼きそばです。
2023年03月07日
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雨水も過ぎたというのに朝からしっかり雪。しおれるどころか、アドレナリンが分泌されるあたしの脳。降り続くがワクワクして、前の道の雪かき。ウヒヒ。振り込みに出かけたら、お城もいい感じだった。先日、JAのお野菜売り場で壬生菜(みぶな・京野菜)を発見。あーなつかすい。子どもの頃、好き嫌いの激しい子だった。母も、食べ物には選り好みをする人で、あたしは全く彼女に付いて行ってない。ようやく、食事の際におかずとごはんと、、と食卓と言うものを認識したのは小学校の5年生か6年生になってからである。彼女は、川魚が好きだったし、練り製品も好んだ。しかも、美味しくなければダメで、蒲鉾は大寅(だいとら)、と決めていたっけ。。「壬生菜のおつけもん」は、よく登場した。後年になり、あたしが大人になってずいぶん経ってから、野沢菜、というものを知る。食感は、この、野沢菜に似ているが、グンと壬生菜の方が葉が細くシャキシャキ感はそのままで、繊細な感じである。お茶漬けには最高。今あたしは、玄米食なので、また白米で、お茶漬けを食べよう。と思い、浅漬けを作成。夏だと一日で仕上がるが、今は2日かかった。昼になり、さすが雨水。雪はどんどん解けるがまた降ったりして・・。窓ガラスが曇って早速拭いた。次の節季はもう、啓蟄なんだ・・。
2023年02月22日
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切腹屋 [ 岩井三四二 ]読了。読ませた。最後の方になり、、寝る時間になったので置いたが、夜12時ごろ、お隣の今の電気が付いているので(そうです。隣家!)明るく、、結局もう少し・・と思って、読み進む。読んでいる途中で、お隣の明かりが消えたが(ああ、寝はったんやわ)ストーリー展開に目が離せず、結局、、読了。(と言ってもそれから小一時間も過ぎてはいない)暴力の場面が少ないこと、当事者の間で亡くなる方が居ないこと。どぎつい性描写が無い事、登場人物の書き分けが上手いこと、などなどなど、、で結局、気に入った作家さんなのだ。時代の考証もちゃんとされている。知らない方であったが(著者)また、これからこの方の名を図書館の本棚で見つけたら読もう。と思った。あたしの住む田舎で、江戸時代に同じようなことが起こったのだろう。。元は〇〇、と言ったが、○○新田、に諸事情により別れたこの新田、の方に住んでいるのだ。〇〇と隣に○○新田、があるのだ。境は、川。大山川と薬師川、この薬師川の橋の名は、下馬橋、と言う。初めてこの橋の名を見たときに、、ああ、ここで、馬を下りた(つまり休憩とか?)、街道があって、宿場町なのだと、思った。かつての、賑わいが想像できた。
2023年02月20日
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ヒトの体感、というものは恐ろしいもので、今朝は少し暖かいぞ、と思って起きたら確かに、(外気温)-2度。10度は暖かいのである。起きてしばらくすると、やっぱり足の方がつめたあい空気なので、ストーブを点けなくてわ!などと、これを書いている・・。この日記にも書いたことがあるが、2016年から夫が入院して、自宅をすっかりバリアフリー(無理とに)にするために、大規模工事をした。その工事目的は、ただ一つ、夫の命、長らえるため。右足の大腿部半ばから下はもう無いし、人工肛門生活にもなったためである。設計施工管理はあたしの担当。まず、図面体、じゃなくて、図面からだ。事故から半年は、生還!(とにかく命は助かった)のことが気持ちのメインを占めて、自宅から神戸の日赤まで通う日々。日常生活を取り戻すにはどうすればいいか、本人と医者と家族の打ち合わせが続いた。本格的、、となれば予算が、、。保険会社と交渉し、受取人であるあたしは、亡くなった時は要らないので、それで。と。署名捺印する。なんせ片足はすでに、「埋葬」したのである。入院は一年半以上に及び、事故から13か月後には、ちょうど、ストーマのリハビリ中で、同じ市内の肛門外来のある病院に転院していたこともあり、お正月を自宅で迎える、というイベントがあったっけ・・。その、年が明けて一月の末に大雪があった。自宅を工事しながら、本格歩行リハビリに、県立中央リハビリテーション病院への転院、彼の運転免許更新などの世話(院内で運転してみるが、本人がその経験を通じて更新は諦めたのだが)、建築部材の支給のための仕事、県の補助金の申請、職人さんとの打ち合わせ、家の片付けなど、多くの方々の助けを頂いて、段取りしていく。。そこへ来て大雪だった。施行工務店が好意で貸してくれたテントが役立ったのだが、(家じゅうの家具や衣料、本、電化製品・・要するに引っ越しに近い)そのテントの屋根に」今回のような雪が積もって、ギイギイと音を立てるのである。雪下ろしをしないといけないと思い、朝から、エレクトーンの椅子に上って箒の柄でテントの中から屋根をつついて雪を落とそうと思うが、、、これが重たかったー!結局、となりぐみのささんのご主人が助けて下さったのだが、この雪下ろしをしなければ、、しなければ、、ウチの荷物はアウチ!になっていた事を思うと、本当によくやったよ自分。と、今更ながら思い出すぼちぼちでんがな。今朝はこのくらいにしといたるわ。
2023年01月28日
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先日、亡き夫の山仲間のしさんから電話が入り、墓参報告を受ける。トリスとエビス、墓石に注ぎ供養してきました。と。なんでも、その昔、飲み仲間でもあったそうで夫の、トリス好きが有名であったと。そういえば、、会社の方々もそんな話が多かったなあ、。怪我をしてからストーマ生活になったこともあり、事実上、アルコールはご法度に近かった。しさんは、墓参の日の夜遅く、メールも送って下さり、転送、として、夫のメールもその中にあった。あたしが記憶している亡くなる夜のもの。彼の人生最後のメールである。数時間前くらいか。山仲間との同窓会日程に関して。日程を5月10日・11日の方が良いです。とか、。しさんは、告別式に参列できなかったので、今回墓参して、気持ちが落ち着きました。と。本人、の幸せも何も、すでにこの世に居ないのでどうしようもないが、ま、お仏壇の写真に報告しておきましょう。お父さん、トリスはいかがだった?水面に浮かぶ浮きが、水中を泳ぐ魚に捉えられてピュッ!と沈むように気持ちが戻る。これからも、時々はそう言う事が起こるだろう。3年前には、二人と一匹家族であったのに、今は犬も、夫もいないので客観的には、人生の内で一番のストレスがかかっている。残された本人(あたしのこと)には、過酷である。過酷ではあるが、そういう実相なので、受け止めるしかない。そこから、始めないといけない。また、この日は、「あるお願い」が、あたしに齎せられる。そさんからである。暮らしが、根底から変わってしまいそうな「お願い」である。相手は、真剣。そこが怖い。しょうがないので、少し、その分野をお勉強した。肩が凝った。誰にも言えないことだし、子供2人にメールした。どう思う?と。日常のルーティンがあるので、助かった。一日中考えていた。迷った。夕刻に、、気持ちが定まる。お断りするとしよう。友情が壊れても致し方ない。で、電話をかけてまた、長話をした。電話に登場する複数の女性。。女性の、象限について、考えた。横軸に(宗教に)帰依するか、していない(特定の宗教を信じることを)か、縦軸に、倫理観の確立。(ま、学問とか、の話が通じるかどうかでもいいけど)そさんは、第一象限、あたしは、第二象限、そさんと電話で言い争いになった方はおそらく、、第三象限、そして、、残るは、第四象限である。もとより、第四象限の女性は、おそらく、今回の「お願い」とはご縁が無い。これはあくまで、2次元のことで、これに、時間、時代、の奥行きが加わる。横にスライスされるばかりの女性史である。やはり、男性の奥行きには、叶わない。これが、今後の女性の生き方の課題であることは確かだ。そんな事を考えておって、寝落ちして、良く寝た。ホイ。
2023年01月14日
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