金の魚 - ル クレジオ (未承認翻訳)


J.M.G ル クレジオ

魚よ、小さき金の魚よ、汝を守り給え!この世界には汝を狙う網や釣り針のようなものがあるのだから。



私が6歳か7歳の時、私は誘拐された。私は小さかったので、誘拐について私は何も覚えていない。このおぼろげな記憶のままこれまで生きてきたといっていい。ほとんど夢のようであり、かすかな、たちの悪い悪夢のようであり、夜のみならず日中にも私を苦しめることがある。白亜の太陽の光線が埃の中を素早く走り、青空が見え、黒い鳥の鋭いさえずりが聞こえ、突然人の手が私を大きな袋の中に押し込み、息が苦しくなる。ララ アスマが私を買いとったのだ。

だから、私は自分の本当の名前や、私の産みの母、父親の名前、生地を知らない。知っていることといえば、ララ アスマという女が、彼女の家に夜に着いた時に私のことをライラ -夜- と名づけたことだ。私ははるか遠くのおそらくもう存在しない南の国に連れられたのだった。私にとっては埃っぽい道と、黒い鳥と袋の前には何もなかったのだった。
そうして、片方の耳が感じなくなった。邸宅の戸の前にある道で遊んでいた時に起った。バンが私を轢いて、左耳の骨から血が流れたのだった。
私は暗闇と夜が恐かった。何回も夢で見て自分でわかっていたのだ。冷たい蛇のように恐怖が体の中に入ってくるのを感じこわかった。息もできなかった。そんな時、私は女主人のベッドに入って、厚い背もたれを背にして、何も見ないように、何も感じないように努力した。私はララ アスマを起こしたに違いない。しかし、一度たりとも私を追い払うことはなかったことから、彼女は本当に私のおばあさんのようなものだったと思う。

長い間私は道というものがこわかった。庭に出ようともしなかった。だから道に通じる青い大扉を通りぬけたいとはぜったい思わなかった。そして、外に連れ出されようとすれば、私は叫び、壁にしがみついて泣いたり、走って家具の中に隠れたりしたものだった。そんな時はひどい頭痛がして、空の光で目がくらましされて体の芯まで貫かれたようになったものだった。

外の音も私を怖がらせた。路やメラーから聞こえる足音や壁の向こう側から聞こえるうるさい話し声なんかもそうだ。しかし、私は夜明けに聞こえる鳥のこえ、春に屋根の近くで聞こえる鳥の叫び声が大好きだった。村では烏は全然いなくて、鳩も大鳩がいるだけだった。時々、春に白い渡り鳥が壁の上にとまって嘴をぎりぎりいわせていた。

こうした年月のうちに、邸宅の小さな離れでほかの誰にも会わなかった。ただララ アスマの「ライラ!」と私の名前を呼ぶ声だけが聞こえただけだった。前に言った通り私は自分の本当の名前を知らないので、あたかも私の母がつけてくれた名前のように女主人がつけた名前に慣れていたのだった。しかし、誰かが私の本当の名前を呼んでいた日のことを想い、ふるえてくるのだが、それでも思い出そうとしてみる。
ララ アスマというのは女主人の本当の名前でもない。アチェマというのが彼女の名前で、ユダヤ系のスペイン人だった。ユダヤ人とアラブ人が世界の端っこで戦争が勃発してから彼女はひとりになって、ずうっとメラーの住民だ。青い大きな扉の後ろをバリケードして、外出を全くしなくなった。
私は彼女を「先生」と呼んだり「おばあちゃん」と呼んだりした。フランス語とスペイン語の読み書きを習ったのは彼女からだったし、暗算や幾何学を教えてくれたのも、「主よ、神が名を持たないところでは私の名もありません、あなたをアラーと呼びます」というイスラム教の祈りの言葉を捧げてくれたのも彼女だったから「先生」と呼ばれるのが好きだった。彼女は聖人の本の一節を読んでくれて、食べる前にするお呪いや、パンをさかさまに持つこと、左手で火をつけることなど、しなければならないことを全て教えてくれた。いつも正直であること、毎日爪先から頭まできれいにしなくちゃならないことなどもしなきゃいけないことだ。

お返しに私は彼女のために朝から晩まで邸宅で、箒ではいたり、薪のために林を切ったり、洗濯をしたりして働いた。私は洗濯を干しに屋根に登るのが好きだった。そこからは、道や近所の家の屋根や、歩いている人や、車などが見え、壁の合間からは青いおおきな河の一部が見えた。そこはずっと静かなところに思えた。そこは私にとって遠すぎるように思えた。

私が屋根の上でゆっくりしすぎているような時は、ララ アスマは私の名前を大声で呼んだ。彼女は一日中大きな皮でできたクッションで休んでいた。それで授業をするといって本をほおり投げた。そのクッションの上で私に読んで聞かせて、前の授業に関する質問をした。それから私に試験を受けさせた。この代償として居間で彼女の隣に座ることを許されて、蓄音機の針をお気に入りのレコードにかけたのだった。ウーム カルスーム、ザイード ダーウィッチ、ヒビバ ムシカ、特にファイルーズ人の重厚でかすれた声、「ヤ クウドスウ」を歌ったファイルーズ美人のアル ハラビヤなどだ。そしてララ アスマはエルサレムという言葉を聞くたびにきまって涙を流した。
一日に一回、青い大扉が開かれて、子無しでゾフラという褐色の気が利かない感じの女のひとを家に入れた。彼女はララ アスマの義理の娘だった。彼女はちょっと女主人のために料理したりしたが、特に家をチェックするのに関心があるようだった。ララ アスマはゾフラが家をいつか相続することになりそうだからチェックしているのだと言っていた。

ララ アスマの息子はめったに来なかった。彼の名はアベルといった。背が高くて強そうな感じの男で、目の覚めるように完璧な灰色の服を着ていた。お金持ちで、公共工事を承る建設会社を経営していて、スペインやフランスといった外国にも旅行していた。でもララ アスマによれば、アベルは思いやりがなくて河向こうのニュータウンに住みたがる見栄っ張りなので、彼の奥さんはおばあさんとおじいさんの家に住まざるをえなくされているそうだった。

私はアベルには気を許さなかった。私が幼い時アベルが家に来たら、私は物干し台の裏に隠れたものだった。「なんて恥ずかしがり屋なんだろ!」と彼は私の態度をみて笑った。もう少しおおきくなってからは、彼にあまり泣かされることはなくなった。アベルは私が彼のお人形さんであるかのように見ている傾向があった。ゾフラも私を泣かせたけど、それはアベルとはまったく違う方法だった。例えば、ある日、私が庭で塵を拾っていたら、血がでるまでつねって「小さい乞食、親無し子、箒もないの?」といった。私は泣きながら、「親無し子じゃないわ。ララ アスマは私のおばあさんよ。」といったら、ゾフラは私の言ったことに対しては追求しなかったけど、私をからかった。

ララ アスマはいつも私の側に立ってくれた。でも彼女は年を取っていたし弱っていた。足は腫れ上がっていて、血管が浮き上がっていた。ララ アスマが疲れていたり、機嫌が悪そうな時は「おばあさん、調子が悪いの?」と聞いたものだった。ララ アスマは私を真ん前に座らせてじっと見詰めた。彼女はお気に入りのアラブの格言を、少しだけおごそかに、毎回フランス語にどう訳したらいいのか考えて「健康というのは病気のことばかり考えてる健常人の王冠のようなものなのよ」などと言ったものだった。
最近はララ アスマは読書や勉強をたくさん私にさせないが、聞き取りだけはさせるようにしているようだ。彼女は一日中家具もなんにもない部屋で過ごし、テレビの画面を見ていた。そうして私に宝石のはいった籠とか現金箱を持って来るように言う。ある時、ララ アスマは金の耳飾りを見せて「ごらん。ライラ。私が死んだ時にはこの耳飾りはあんたにあげるからね。」なんて言って、私の耳に耳飾りをつけた。その耳飾りは古くて、使いこんであって、空に浮かぶ最初の三日月の形をしていた。ララ アスマが耳飾りの名前のヒラルといった時、自分の名前を呼ばれたように思えたし、私がメラーに着いた時付けていた耳飾りだと想像した。

「よく似合っていること。あんたはセバの女王のバルキスにそっくりだよ。」
私は耳飾りを手に載せて、指でなぞり、ぎゅっと握ってみた。
「ありがとう。おばあさん。本当にいいひとね。」「何言ってるんだよ。失せな。」ララ アスマは冷たく言った。「あたしゃあ まだ死んでないよ。」

私はララ アスマの旦那を写真以外では知らなかった。その写真を彼女は応接間の動いていない振り子時計の横にある小物入れに置いていた。その男の人は厳しそうで、黒い服を着ていた。彼は弁護士でとてもお金持ちだったらしいけど、女たらしで、彼が亡くなった後には、メラーの家と事務所にあったちょっとだけの現金以外は何も奥さんに残さなかったそうだ。私がメラーの家に来た時に彼はまだ生きていたらしいが、私は小さすぎて覚えていない。

アベルを信頼しない理由が私にはある。私が11歳か12歳の頃、めずらしくゾフラがお婆さんのところから外出していた。理由は医者に会うか授業に出るためだったと思う。アベルは私が完全に隠れる前に家に入って来て、建物の後ろの洗い場や物干し台などこまごまとしたものの中にいるのを見つけた。
彼は大きくてたくましくかったので戸を完全に壊してしまい、私は身を守ることができなかった。私はこわくてこの事件の間体を動かすこともできなかった。アベルは私を組み敷いた。せっかちで暴力的だった。もしかしたら彼は私にしゃべりかけたかもしれないが、私は意識的に左耳のほうに頭を動かしたためか何も聞こえなかった。彼はおおきくて、広い肩で、禿げ上がった額が光っていた。彼は私の前にかがんで、私の服をいじり、太股と性器を触った。彼の手はセメントで硬くなっていた。冷たくて乾いた二匹の動物が服の下に入ったような気がした。私はこわくて喉の中で心臓が鳴っているように感じた。突然、白い路、袋、頭部への衝撃を思い出した。それから、私を触っていた手が、お腹を押したから気分が悪くなった。私はどうなったか分からない。恐かったから犬のようにちびったのだと思う。そして彼の体が離れ、手を洗っている時、彼の横から飛び出すことに成功した。本当に動物みたいな感じですり抜けて、泣きながら庭を横切って、鍵を閉めれる唯一の場所である浴室に閉じこもった。私は、胸をどきどきさせて耳を戸に押し付けながら待った。

アベルが来た。彼は最初指で静かに、それから拳で強くばんばん叩いた。「ライラ!開けてくれよ!そこで何してるんだよ?開けろよ、何もしないからさ!」そしていなくなった。私はタイルの上に、アベルが母のために作った大理石のふろを背にして座りつづけた。

大分時間が経ってから、誰かが戸の前にやって来た。声を聞いても、だれがしゃべっているか分からなかった。もう一度ノックがしてララ アスマの手だと分かった。戸を開けた時、私があんまり怖がっているから彼女は私を抱きしめた。「何してたの?何がそんなに恐いの?」私はゾフラの前を抜けて彼女にしがみついた。でも私は何も言わなかった。ゾフラは「彼女はちょっと変になったのよ。それだけよ」と言った。ララ アスマはそれ以上質問しなかった。でもその日から、アベルが家に来た時は私をけっしてひとりにしなかった。

ある日、私がララ アスマのスープに入れる野菜を洗っていたら、家の中で重いものがお風呂に当たったり、椅子に落ちるようなおおきな音が聞こえた。走って行ってみると、お婆さんがぺったりと倒れていた。ララ アスマが死んでしまったと思ったから、うめき声を聞いてほっとした。彼女は気を失ってはいなかった。ララ アスマは転んで、椅子の角で頭をうって、額から黒っぽい血が流れていた。
彼女はがくがく震えていて、眼は上向きになっていた。私はどうしたらいいかわからなかった。しばらくしてから、ララ アスマにそばによって顔に触った。彼女の頬はぶよぶよしていて、変な具合に冷たかった。しかしながら、ララ アスマはびっしょり汗をかいており、胸が盛り上がり、吐息が唇をうがいをするようにこっけいな感じで震わせており、いびきをかいているようだった。
「ララ アスマ! ララ アスマ!」と私は彼女の耳の近くでささやいた。その時、私は彼女が私の声が聞こえると思っていた。ただ、しゃべれないだけなのだろう。白目のうえに半開きになった瞼が震えるのをみて、彼女が聞いているとわかった。「ララ アスマ!死なないで。」
ゾフラはこの時点でやって来たのだが、私はララ アスマのゆっくりとした呼吸にかかりっきりだったので、彼女が入ってきたのに気が付かなかった。
「この馬鹿、小犬女、彼女に何したんだ?」
ゾフラがあまり乱暴に私の袖を引っ張ったので、服が破れた。「医者を探してきな!あたいの母さんがひどい状態なのによく見てたもんだ!」ゾフラがララ アスマを母親としてしゃべるの聞くのははじめてだった。私が門の辺りでうろうろしているのを見て、彼女は履き物を脱いで投げた。「行けよ!何待っているんだい?」
庭を横切って、重い青扉を押してどこに行くかわからないまま道路を走り始めた。外に出るのは初めてだった。私はどこに行けば医者が見つかるのかさっぱりと見当がつかなかった。手当てをしてくれる人を見つけることができなかったために、ララ アスマは死んでしまったことが私のせいにされることになるとは、この時は知らなかった。私は息もつがずに、太陽で麻痺された長い道を走りつづけた。とても暑くて、空はすっからかんで、家の壁はとても白かった。



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