幕軍&松前えとせとら4,箱館戦争

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幕軍&松前えとせとら

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諏訪常吉のさらなる懊悩(追記)


会津遊撃隊長_諏訪常吉の懊悩について・・本文はこちら
幕末のオーバーザレインボー
敵に置手紙を残した彼。
  • 「戦争など、もうやめようではないか。これ以上血を流し合って
    いったい何になるのだ・・・」・・・行動に至るまでの経緯、経験から考察

■駐屯地、福山(松前城近郊の福山という地名=備後福山でなく、蝦夷です。)での事件

諏訪常吉には次から次へと苦悩が天から降って沸く。

京都時代も会津公用方として頭の痛い仕事ばかりやってきた彼。彼は文武でいえば文の人。
剣も立つが根本的に文なのだ。割切って鬼になればよいものを、なんとかしようといつも苦しんで
ばかりいる。


兵力増強の為に、榎本軍では地元採用を行い、頭数という意味で質を選びきれない実情だった。
そのため、一部に浪人や浮浪者なども混入していた悲しい実情だった。

諏訪は、福山駐屯中の彼らの隊は極めて民に対する処遇に気配りを怠らなかった。
侵略も強奪も、もちろん許されない。そのため、徐々に町の民にも理解が得られ、
紳士的な諏訪は評判が良かった。兵達も優秀だ。規律などなくてもわかりきったことだった。

だというのに、下らない事件が起きた。事件は低俗ながら、尊い人命が犠牲になり悲惨。
諏訪氏、寿命蝋燭の火がまたしても小さくなってゆく。

中略・・詳細はこちら



他にも諏訪常吉の苦しみ:

彼は京都守護職、藩主松平容保について京都で公用方の仕事をしていた。

外交(他藩や他組織、朝廷など各種)の仕事だが、トラブル調整のボリュームが高い。
この頃、京都では野蛮な天誅が続出。それをやっつけるのが新撰組。他に京都見廻り役
などもあるが、藩主容保を心から支援する会津の者は度々援兵に出ていた。

諏訪はそれらをすべて手配して、そこに生じたトラブル解決も必須だった。

しかし、この仕事、実に辛い。
新撰組のように、斬るか斬られるかよりマシではないかと一見思えるようでいて、
実際この立場なら、・・・誰しもたまらない。

現代におきかえてみるならば、空路や、陸は陸でもレールの巨大な交通機関をちょっと想像して
みてください。(現代のことを追及したり非難したりしないので、一応参考として)

ひとたび、事故が起きるとスケールが大きい。当然人命にかかわることだから、
事故対処係が特設される。組織の企業体力があっても、携わる人は生身の人間。
遺族の悲痛な訴えを生の身で受け、真面目であればあるほど、罪の呵責に苦しみ、
さりとて立場上発言に神経を使う。実際、今となっては、だいぶ古い例になったが、
事故対処係が密かに自殺してしまったこともあった。

とはいえ、現代の世では、この係が永遠に続くこともなければ、同一の人物を長時間連続で
対処させたりはしないが、諏訪さんの時代は、そんな世の中でない。

この人は、京都時代、永遠に生身でそれに曝されていた。その後、自藩の悲しい結末、
蝦夷での部下の死、そして、ついに手紙で敵への平和交渉に踏み切り、これまた、ますます
悲しい方向へと発展してしまう。そして悲しきかな天命は己の死に至るという悲壮な人。
詳細: 幕末のオーバーザレインボー
下記メモは、ずいぶん略式で書いてしまいましたが、とりあえずご参考まで、宜しければ
ご覧下さい。


■京都時代発生の「頭が痛い事件解消一例」

(その1)
明保野亭事件:元治元年(1864)6/10:対土佐藩&会津藩


当時、京都は天誅が横行。不審者情報が入った。新撰組と共に現場急行した会津の柴司。
彼はこのどざくさで、犯人の一人を斬った。ところが、 なんとこの人物は、土佐の麻田時太郎と
わかった。麻田は一命をとりとめていた。あわてた会津藩は詫びに行くなど最善を尽くしたが
土佐との間に歪みが生じた。間もなく、土佐は辛うじて命をとりとめた麻田ながら、不信な浪士
と行動を共にしていたことから 潔く土佐の責任を明確化するという意味で、この麻田に切腹を
命じた。こうなると、会津も同等の責任が強いられる。

事情がなんであれ、会津が土佐を斬った・・・ではすまされない。
諏訪は涙をのんで、暗黙に『会津に当然のごとく求められた解決手段』を決行せねばならなかった。
正義のために、皆のために、己の命も厭わずに頑張って出動した清い青年、 柴司 は切腹を
申し付けられる。しかし、彼は偉い。責任を全うした。享年21歳だった。

この時、彼の介錯をつとめたのが、本人の実兄。 柴外三郎
無念の弟。肉親だからこそ、本当は誰よりも褒めてやりたかったはずだ。男兄弟だから普段はまさか
可愛いなどと思うことはないが、こうなると無償に可愛い弟。なんといっても21歳なのだ。だからこそ、
赤の他人ではなく、己がせめて可愛い弟の餞に・・・介錯をつとめた。
これは苦しい。

もちろん、兄の柴外三郎は諏訪氏を責めたりしない。
しかし、こうした事件のたびに、諏訪氏の精神は拷問状態である。自責、自責、罪の呵責。

互いに腹を斬りあって、血を流して終わらせる。こんなやり方、つくづく、もう御免だった。

■柴 司:会津藩士:弘化元年2月14日(1844/4/1)~ 元治元年6月12日(1864年7月15日)
・諱:次正(つぐまさorつぎまさ)、幼名:又四郎
・父: 柴友右衛門次直 、母:西郷氏。兄:◇幾馬次俊,◇寛次郎次久,◇外三郎次元=3人
兄弟柴五郎
同じ会津。血縁有り親戚と思われるが、それに関して明確に著された本
今のところ存じません。ご興味のある方、系譜遡ってみて下さい。
中井けやき著:『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』
兄弟の父: 柴佐多蔵 。会津戦争によって祖母・母・兄嫁・姉妹は総自刃。
生き残り家族は流刑同然の陸奥国斗南へ。

一体、なんのためなんだ・・・!!諏訪常吉の苦しみは深まるばかり。
数え切れない程多くの懊悩を背負い込んでゆく。

(その2):元治元年(1864)8月
新撰組_永倉達の「近藤勇局長リコール」事件と、葛山武八郎の切腹


永倉氏は、剣も立つし、仕事もできるタイプ。しかし、ちょいと煩いのが玉に瑕。
武田 観柳斎のヨイショに舞い上がって、すっかり殿気取りの近藤(・・ということになっている。)
そこで、こんな状態ではいけない。その上、自隊内での処罰も厳しすぎて気違い染みている・・・
などの理由で、 斉藤一、原田左之助、島田魁、小関雅次郎、葛山武八郎 、永倉本人の他に
合計五名をブレーンに巻きいれ、京都守護職、松平容保に近藤勇の局長不適任=リコールを直訴した。

江戸の松前藩邸で勤める父を持つ永倉、諸手続きに係る段取りを欠いたりしない。
(そのへん、非常に知識有。だから近藤、土方、カチンとなっても限界まで手放さない。)
だてに乗り込んだりしても門前払いを受ける。
そこで、建白書を出すべき相手、諏訪と同じ職場、同じく 会津公用方_小森久太郎 に渡す。

しかし、なぜ、ここで具体的に人物を名指しで引き出せたか・・・となると、これは
永倉の力ではない。使える人物を使っている。
会津内部に精通した者・・・運悪く、居た!!

葛山武八郎 は新撰組の隊士。しかし、この人物は会津藩出身なのだ。つまり
取り次ぐべきルートと顔の確保はここに生じた。

結果として、容保は近藤を呼び、場を調整して穏便に丸めた。

場は丸まっても当然、水面下で尾を引いた。(最終的には、永倉脱退事件でピリオドなのだが)
近藤、顔で笑って、心は青い炎。当然だ。長に恥をかかせた。しかし、永倉、仕事ができる。

近藤とは義理兄弟の杯を交わした土方、鬼になる。そのかわり、この人は判断を間違えない。
新撰組は強くなくてはならない。近藤の悔しさ以上に悔しいが、永倉を処罰しない。

永倉が近藤について出張している間に、れいの鬼の副長_土方発揮。処罰断行。
切腹させられたのは、なんと下っ端。 葛山武八郎だった。 同年9/6のことだった。


出張から帰った永倉怒る。切腹はない。ちょっとだけ謹慎。しかし、精神は生き地獄。
「二度とやるなよ。」なんて誰も言わない。しかし、それ以上の効果。土方さん
強いお方。凄いお方。(その土方さんとて、 本音を漏らした哀れ場面 もある。一例)

(この近藤&永倉の江戸出張)
その際も、実は永倉の力。 永倉の父 は上記のとおり、江戸藩邸。その上、この時期、
松前藩主、 松前崇広 は江戸で目下出世街道まっしぐら。
■元年(1864)7/7:老中格兼陸海軍総奉行、■慶応元年(1865)9/11:陸海両軍総裁
上記2種類の役職は改称の意味もあるので、純粋には昇格ではないが、この後、11/10に
は老中になる。作法や仕来りの煩い世界で、近藤とて一人では何もできない。
永倉の組んだ段取り、悔しくても頼らなければ先に進めなかった。

というわけで、上記、被害者ともいうべき存在の葛山武八郎は、諏訪氏にとっては
不幸中の幸いと言っては不謹慎だが、一応、この時点で席は会津藩でなく、新撰組だから
対面上支障は生じない。

しかしながら、諏訪氏の性格は、これ幸いと割切れる冷淡さを持っていない。

藩主の判断に従うべき立場上、まさか新撰組に抗議もできない。
むしろ、新撰組の活動が円滑に行えるように支えるのが仕事。

諏訪氏、またしても寿命を磨り減らしている。

諏訪氏は結局、悲壮な死に至りますが、どうやら、地元(駐屯していた福山近郊)では誰かが
この人物の気持ち解ってくれたようです。
会津人の墓が官軍に暴かれないように、官軍の墓として保護されたものがあります。
また、墓石の名前のところが人為的に削り取られている部分があるのですが
誰かの勢力争いや、怨恨による悪戯と考えるだけでなく、経緯から考察するなれば、
官軍によって幕軍の墓が暴かれるのを誰かが防ぐために消した可能性もあるとおっしゃる方
もいらっしゃいます。となると、結局、この件の事実関係は、不明ですが、
考えてもわからない、調査しようにも不可能なことについては、この際、人の心はもともと
善なのだから・・・・と考えることにしてます。


上記の内容に直接関連するシリーズはこちらです。

幕末のオーバーザレインボー




苫小牧の古い怪談話で、夜な夜な出てくる若い女の幽霊の話がある。
これは根拠ない作り話でなく、(といってもオバケが出るというのは嘘だと願いたい。)
実在した親子の悲劇に発端を生じている。

若い夫婦に子が生まれた。 こちらの頁 内容のとおり志の高いのブレーンだから、今年辛くても、
今頑張ったぶん、来年は今年よりも土地の地質は改善されているだろう。
来年はもっと努力して、必ず豊かに、そして、子が育つころにはそれ以上にと頑張っていた。
そんな夫を深く愛し慕った妻は貧しく食べ物も悲惨な状態だったが、愚痴のひとつも言わず
身重の体で一生懸命夫の作業を手伝った。


「大根は新芽を鹿が全部食っちまったが、秋には粟が採れるな。
馬鈴薯が楽しみだ。辛いがなんとか凌いでくれな。
お前には苦労をかけてすまん。」

「何をおっしゃいますやら。私は幸せです。
馬鈴薯があれば充分贅沢というものですよ。」

愛し合う二人は幸せだった。

実りの秋を待った。

しかし、なんと!!晩夏の頃、嵐がやってくる。日照り不足の上、ついに川が氾濫。
何もかも押し流された。

やがて、激寒の冬。臨月。難産。どうにか出産した。
ところが、栄養不足の体。乳が一滴も出ない。

米は彼らに限らず、入手困難な夢のシロモノなのだが、夫は家宝の刀まで売り払って、
米を入手。妻と赤ん坊に飲ませるおもゆを作るために。しかし、底をついた。

夫は屈強の精神、志とプライドを栄養のごとく、草の根を噛んで凌ぐ状態だが、
なんとか粘っている。積雪を掘り起こし、蕗など食の代わりになりそうなものを
苦心して運んだ。

妻は赤ん坊に与えたい一心で、夫に内緒で、実はほとんど食べてない。
出産後、体調が優れぬ妻はどんどん衰えてしまった。

骨皮同然の若い女が赤ん坊を抱いて
里を歩き回った。「どなた様か、どうぞ、お願い・・この子に乳を」

皆貧しく、食を恵んでやることはできない。しかし人情である。
どこかで誰かが、どうにか多少は赤ん坊に乳を与えてくれた。

その夜、若いこの人妻は、ついに力尽きて死に至る。赤ん坊は生きていた。

夫は・・・
愛する妻を失い、乳がなければ明日にも恐らく落命するであろう赤ん坊を
抱いて、号泣していた。



八王子千人同心は釧路白糠にも入った。ある時期では、なんと生存率1/3というとんでもない数値。
生まれてすぐ死んだ赤ん坊などはそもそも多すぎてこの数値に恐らく含まれていない。
だから現実にはもっと大きい数字。

それはさておき、1/3といえば、年寄り子供の数値ではなく、つまり、「むくつけき男」まで
死んでしまうの証。飢えと寒さはもちろんなのだが、 ビタミンである。
当時、無論ビタミンなんて言語すらないのだが、 冬の野菜不足 で、原因不明の水痘。
丈夫な男、頑強な体の男、以外な者が一杯死んだ。

また、会津など幕末、幕府の命令で赴任していた者達にも、これは共通の状態。
彼らは、藩費で動いているから、千人同心のように貧しくない。ちゃんと食べている。
白米も食べている。それでもバタバタいった。・・・ビタミンだった!!
それは、ずっと後の時代に解明された。

ビタミンって何だ!発見して抽出&立証したのは1910年。鈴木梅太郎博士。(関連: 果物価値と人の体健康

・・ちょっと脱線しますが、ここにこんな話。蝦夷奇病の原因がピタミンだと解らなかったから、
幕末の蝦夷奉行は、外国人の巧みな口車?!「湿疹はコーヒー飲んだら治ります!」
山盛買い込んだ。その実、蝦夷赴任中の会津藩他、担当藩の皆さん、支給されたか、買わされたか、
確かに持ち込んでいる。(関連: 杉浦誠 :杉浦誠コーヒー事件:(蝦夷ラスト奉行))

コーヒーなんて買う前に、ハスカップ摂取すればよかったのに・・・。(関連: ハスカップについて

上枠内追加解説_苫小牧といえば、ウトナイ湖

■蝦夷の八王子千人同心、函館近郊と苫小牧方面、どっちが幸せだったか??

苫小牧といえば、ウトナイ湖。現在の世では、ラムサール条約、鳥達の楽園、
美しい大自然の湿地帯・・・と輝かしいイメージ一杯。

しかし、これは裏を返せば、人間達が飛んでも跳ねても手をつけようがない
「とんでもない湿地」だった・・・から、この素晴らしい環境が偶然残ったようなものだ。

このとんでもないところに降り立ったのが、上枠内の人々。
どんなに頑張っても、歯を食いしばっても、結局だめだった。
結果からすると、何ひとつ生み出すことができなかった。
ご子孫はもちろんいるけれど、多大なる犠牲を出して、ある意味で、
「全滅に等しい」といっても過言ではあるまい。本当にかわいそうだ。

同じく八王子千人同心移住隊でありながら、函館近郊である七重や峠下は
あんなに苦労ばかりしているようでも、実はこの苫小牧方面に比べると
地質という点では、余程マシだった。しかし箱館戦争で多くの命が散った。
(▲ 函館近郊である七重や峠下方面の八王子千人同心移住隊

こうなってくると、どっちがいいのか、ついにわからない。

family.gif
蝦夷の ジャガイモ と、八王子千人同心蝦夷移住隊

ihijikata.gif拙者、土方歳三。箱館戦争の英雄と言い伝えられるものの、蝦夷には、
いい思い出ないよ。なんせ、死んじまったんでね。拙者と同じルーツ、
八王子千人同心が、蝦夷に移住隊として居てね、仲間同士、敵味方、
戦う宿命負ったよ。彼ら移住隊の初期隊長、原半左衛門達は、厳しい
自然環境と戦いながら、ジャガイモの生産にも貢献したんだ。


今日でこそ、ジャガイモ王国、北海道!
・・・しかし、その定着まで、様々な死闘が展開された。

箱館総攻撃_土方歳三終焉
箱館総攻撃
ジャガイモ の歴史

ジャガイモ
ジャガイモ の発祥は?
  • 馬鈴薯はナス科。原産地は南アメリカ:ボリビヤのチチカカ湖付近。
ジャガイモ の日本伝来は? ・・・日本への伝来は、説が2~3有る。
  • ■1576(天正4)。伝来は長崎。
    ■1598(慶長3)オランダ船によって長崎へ。
    しかし、この説には反論があって、オランダが通商を求めたのは1609(慶長14)だから、
    この年ではないかともある。
    ■上記のとおり、初上陸の年号は説が2~3あるものの、だいたい1500年代後半~
    1600年代初期には違いない。
    ■初上陸の地も、長崎が定説。
ジャガイモ の名、その由来は?
  • 持ち込まれたルートは、現在のインドネシヤのバタビヤやからオランダ船で。
    そんなことから、ジャワが訛って、 ジャガタラ芋=ジャガイモ と呼ばれたという。
ジャガイモ の蝦夷伝来と生産の歴史は?
  • 本格的に生産が開始されたのは、明治維新による北海道開拓使。お雇い外人技師によるから、
    翌1869(明治2)
  • 蝦夷に登場したのは、1838(天保9)といわれつつ、実際はもっと古い。
  • 1706(宝永)2月、江差九艘川町の高田松兵衛という者、ヒタルベシナイ(現在の瀬棚)に
    移住の際、持ち込み、作り始めた。このあと、奥尻等に普及した。
  • 1718(享保3)、手宮町高島村でアイヌに馬鈴薯栽培を普及させた。
  • 八王子千人同心蝦夷移住隊と馬鈴薯
    1799(寛政11)、前年幕府が東蝦夷直轄になり、北辺の守りとして、八王子千人同心を送り込む。
    警備と開拓双方担当。組頭:原半左衛門、弟の新助が頭。100人連れてきた。
    半左衛門は白糠。弟側は、50人を連れて鵡川。兄側_半左衛門が白糠で馬鈴薯を
    生産した報告書がある。
    (彼ら移住隊は、二度に分かれて来ている。その後の隊の一部は、
    上記 八王子千人同心蝦夷移住隊とジャガイモの・・・悲しい話 :若い夫婦の悲劇。
    彼らは現在の苫小牧ウトナイ入植。不毛の地。悲惨な結果となった。

北海道で本格的にじゃがいもが栽培されたのは、やはり明治維新の
開拓使パワー=お雇い外人技師達の力。しかし、上記のとおり実は、随分昔からあった。
ところが、昔北海道は、どんなに頑張っても米が生産できず、本州から移入。

当然、そんな高価なものは下層階級の人民には得られない。
米に飢えた人々は、僅かばかりの米を、普通お粥にしたり、雑穀や菜っ葉を混ぜたり、
8割方は米以外のモノが混入した「まずいご飯」を主食としてて食べた。

どうも、 ジャガイモ の食べ方が悪かったようで、旨くない食い物としての認識が強く、江戸末期、
外国人達専用に生産する迄 、誰も本気で改良したり、食べ方の工夫をしたりしなかったのがイケナイ。

まずい食べ方とは、上記のとおり、ご飯の増量作戦として、
ミジン切りにして、米と一緒に炊いて食べて たようだ。どう考えても、そりゃ、旨いわけがない。



ここに、八王子千人同心蝦夷移住隊が巻き込まれます。▼
敵への報恩長州編_堀眞五郎の箱館戦争

上記の内容に直接関連するシリーズはこちらです。

幕末のオーバーザレインボー

文章解説(c)by rankten_@piyo、
写真等、素材については頁下表示

現在の頁は「幕軍&松前えとせとら」 Vol.1 Vol.2 Vo.3 Vo.4 現在の頁< Vo.5 ・・・・

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牛飼いとアイコンの部屋 :農場イラスト
ATNET :土方アニメ;


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