幕末の悲しき漂流民

幕末_WITH_LOVE玄関<幕末<悲しき漂流民,ジョン・万次郎,ジョセフ・ヒコ=浜田彦蔵,大黒屋光太夫と磯吉,小市,高田屋嘉兵衛と弟の金兵衛,ジョン・マシュー・オトソン,サンキチ={音吉、岩吉、久吉},九州肥後の力松他3名:庄蔵,寿三郎,熊太郎,力松,1853年ペリー艦隊来航とサム・パッチ=仙太郎,【楽天市場】

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幕末_WITH_LOVE玄関


こちらのコーナーからちょっと、ミニ談話(鎖国の下敷き・・・悲しき漂流民)

幕末の「悲しき漂流民」
・・・・祖国に帰りたい。帰れない・・・・!


  1. ジョン・万次郎
  2. ジョセフ・ヒコ=浜田彦蔵
  3. 小林伝吉
  4. 大黒屋光太夫と
    磯吉、小市
  5. 高田屋嘉兵衛と
    弟の金兵衛
  6. ジョン・マシュー・オトソン
    通称サンキチ=三人の吉
    ={音吉、岩吉、久吉}
  7. 九州肥後の力松他3名=4名
    :庄蔵、寿三郎、熊太郎、
    力松
  8. 1853年ペリー艦隊来航と
    サム・パッチ=仙太郎

あらかじめ、このお話、
宗教のことではなく、幕府時代
特に、幕末懊悩した人々に
スポットしてます。

  • モリソン号事件
  • 遣日使節_
    アダム・ラクスマン
  • ゴローニン事件
  • 福沢諭吉達とオトソン
  • 日英交渉の際現れた男
    通訳_J・M・オトソンとは
  • ジョナサン・ゴーブル
  • 他にも
    • 1845浦賀に22名
      マンハッタン号
      対応は中島清司と通詞の堀達之助、対、
      船長クーパー


幕府の鎖国政策もいいけれど、気丈なご発言「異国船打払令」も勝手だけれど、
おかげで、数多くの漂流民達が、失意のもと、異郷の地に、埋もれて死んだ。

船乗りの宿命といえば、そうかもしれないが、遭難して大海を彷徨い、漂流。
もはや絶望か・・という時、なんと、助けられたのは、異人さん。

中にはとても親切に扱ってもらえて、そのまま帰郷を諦め、
知られざるまま、異郷に骨を埋めた者もいる。
また、絶望のどん底に沈んでいた時、神父に巡りあい、
キリスト教が、彼らの心の支えになったケースも非常に多い。

しかし、そうなると、今度は絶対に日本に帰れない。

当時鎖国下の日本に於いて、
キリシタン弾圧は、皆様ご存知のとおり。

しかしながら、やはり、日本人なのだ。
どうしても、再び、日本の土を踏んで、日本で暮らしたい。

彼らの多くは、一縷の望みに架けて、見知らぬ国の丘、過酷な労働に耐えながら、
しきりにチャンスを掴もうと、頑張って日本行きの船に乗船させてもらえる機会を狙っていた。
教会に助けを求めれば、飢えから離脱できる。その宗教は、なぜか、この心の悲しみからも
解放してくれるものだとも聞き知る。しかし、多くはその葛藤に打ち勝った。

異郷の宗教観念を己に受け入れる時、それはまさに踏み絵の瞬間と同じだったという。
信じてはならない。けっして。したたかに生きればよいのだ。今飢えを凌ぐための口実として・・。

しかし、その教えは、けっして強要されるわけでないにもかかわらず、心と裏腹に浸透してくる。
なぜならば、その神とは、許しの神だという。
生きるための口実、満腹を得るためにだけに、偽りで語った卑劣なYESを、お見通しだという。
それでも許してくれるのだと言う。

その教えに心底傾倒する時、彼らは皆、それに伴って、己自身の中で、前提の罪を背負い込んだ。
心から慕う神父にさえ語れない闇の部分を身に蒙った。




漂流民の発生は、徳川時代自体がとても長いため、多種多様だ。
そのため、時期によっては、キリシタン弾圧の怖さを身に沁みて解っているだけに、
本気で恐れ脅えた者もいる。助けようとした神父に暴言を吐いた者もいる程だ。
ただ、幕末の時期に至っては、生まれ育った地域による影響で、多少の差はあるにせよ、
彼らの多くが、遠い昔の事件として、父母から聞いた程度の者が圧倒的に多い。

とはいえど、恐ろしい事には他ならない。首を打たれた。拷問された。そう聞いている。
なんにせよ、日本で禁止されている行為だから、他所の国の宗教に身を染めてなるまい。
禁教を背負って帰れば、父母が泣くだろう。
JAPAN特有の「THE_やせ我慢の精神」が彼らを支配した。

歯を食いしばって頑張った者がいた。
何年も何年も頑張った。日本に帰れる・・なんとしてでも、その船に乗らなければ・・・!

有名な漂流民達、強く生きた人


1、 ジョン・万次郎

漂流民といえば、なんといっても、土佐の ジョン・万次郎 が有名。
皆、知っている人物。彼は強い精神力をもって、危険をおかして、再度日本の土を踏んだ。
溢れ出る彼の知性が身を救った。しかし、やはり、運もある。有名なので詳細略。

2、 浜田彦蔵

明治の時代、帰ってきて活躍した ジョセフ・ヒコ=浜田彦蔵 も、まっとうならば帰れなかった。

現代の感覚で考えるとどうして?と不思議になるのだが、
たとえ事故による被害者張本人だとしても、あたかも犯罪者のごとく、厳しい取調べが
行われる。有能、価値有りと解れば、運に拾われて、転ずることもあるが、
並の精神力ではもたない。実際、それが原因で、せっかく帰ってきたのに、取調べ中に死んで
しまった者(例:下欄の磯吉、小市)もいる。

また、無事拾われて通詞になったとたん、クレイジーな尊王攘夷派の者に、
異人斬り同様に、何もしてないのに、突如襲われて斬り殺された例もある。
その名は▼
  • 3、 小林伝吉 :出元は土佐の漁師。中浜万次郎と同時説と別説有。漂流後、救助され、
    日本には、イギリス公使オールコック付きの通訳として。さっそく攘夷派の刃に斬られて死亡。

ジョセフ・ヒコ は、はやる気持ちを抑えて、冷静に機会を調整して、ひたすら待った。
しかし、その彼とて、一度は完全に絶望。どん底に落ちた。

1837(天保8)年、アメリカ商船モリソン号浦賀到来事件を、当事者である力松から聞いた時だった。
目の前に、すぐそこに日本があるのに、上陸すらできない状態だったと聞いたのだ。
同じく漂流民である彼らは、ここマカオにて交流があったのだ。(モリソン号事件は現頁下側枠に詳細有

しかし、彼は、まだ諦め切れなかった。

時代が明治にかわって、新政府だから、堂々と帰れるかと思いき、全然だ。
その上、キリシタン弾圧は江戸時代の事だと一般に伝わっているが、明治も実のところ、節操ない。

策を練った。アメリカ国籍の日本人としてTRYした。なんと、通った!
がんじがらめの石頭のJAPAN。一種、法の盲点があったのだ。後に「新聞王」といわれる程、
彼は輝かしい功績を残した。

帰るに帰れず、異郷で暮らし続けた者たちから見ると、実に羨ましい人物に見えたことだろう。
しかし、その彼とて、死後、その屍の取り扱いはというと、外国人として青山の外国人墓地に葬られた。
無論、本人とて、依存はなかっただろう。様々なケースを知り尽くしているのだから。
なんとなく、あの丘で、こう言っているような気がしてならない。

「悲しくなんかない。悲しいわけなど、あるわけないさ。ここに、日本がある。
私は、今、そこに居るのだから・・・」頑張り屋さんの彼が、そう言っている気がする。

4、 大黒屋光太夫

  • 天明2年(1782年)、三重県の「神昌丸」が漂流。アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着。
  • 船頭:大黒屋光太夫
  • メンバー:合計17名。1名は漂流中に死亡。16人は力をあわせて暮らす。
  • 大黒屋光太夫が時の皇帝エカチェリーナ2世謁見に漕ぎ着け、奇跡の大健闘。帰国許可。
  • しかし、苦しい生活。さらに11名が命を落とす。残りは、5名。
  • 帰国許可を得た時、2名は結婚及びキリスト教に身を染めていたことから、帰国を諦める。
  • 大黒屋光太夫は、磯吉、小市の二人を連れて帰ってきた。17名いたのに、たったの3名だ。
  • しかも、折角根室の地を踏んだのに、小市はここで死亡。
  • 磯吉について、ふたつの説があってどっちが正解か解りません。一つ目:皆の中で一番若く、光太夫よりも長く
    生きた。二つ目:不運に、江戸で死んだはず・・とする説。彼は船の重要ポジション=操縦士=舵取
    の三五郎の倅。父を途中で亡くしたが、悲しみに打ち勝って頑張って帰国。
  • ひとまず、大黒屋光太夫と磯吉が江戸へ送られた。
大黒屋光太夫は遭難した三重県の「神昌丸」の船頭。強靭な精神力と共に、博学多識。
その上、柔軟な折衝能力、なんといってもそのセンスがある。
貧しい生まれから身を起こし、まずは船の賄いやら雑用やらの末端の席から、早々に頭角を発揮。
なんと、船頭にのしあがった者だ。不屈の精神がある。

天明2年(1782年)、「神昌丸」が漂流。アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着。
当時蝦夷はロシアの脅威に震えていた。しかし、彼の堂々たる態度と知性は異国人にもなぜか
伝わった。首都ペテルブルグに赴き、時の皇帝エカチェリーナ2世に謁見させてもらえたのである。

ギブ&テイク。平等に友好的に・・。彼の態度と発言は非常に高く評価された。長く滞在する間、
実際貢献を果たした。そのため、帰国を願い出たところ、許可どころか応援してもらえたのだ。

漂流から約9年たった。あしかけ、10年だ。
寛政4年(1792年)、大黒屋光太夫と共に、磯吉、小市が、遣日使節 アダム・ラクスマン に伴われ、
根室港入りして帰国達成。

しかし、現実は、恐ろしい事態となった。

あんなに日本を愛して、こがれて帰ってきたというのに、扱いは犯罪者。
馬の背に乗せられて、市内護送の姿は、引き回しのごとく人々が特有の目で見る。その後、取調べ。
原因は、彼ら漂流民返還は、イコール、日本にとって余計な宿題「通商条約」提携だったからだ。

今日の感覚では本当に解り難いのだが、マジとんでもない糾問がふってきた。

「そなたはこの日本を売国したのか?」「そなたは、帰国と称して、諜者ではないのか?」
「そなたは、そうではないと申すが、禁断の耶蘇教に身を染めているのでないか?」
「本音は何なのだ?何を探ろうとしている?」
「なぜ、押し黙る?さては・・・怪しい!」

九年も異国で暮らしたのだ。日本語の細かいニュアンスを伝える表現どころか、単語も
時々ど忘れしている。それだというのに、糾問続きで、寝せてもらえない。
だんだん、おかしくなった。哀れ、体力が限界になった「小市」は、ここで命を落としてしまった。

地役人にとっては、嘘か誠か見当がつかないながらも、大黒屋光太夫だけは、なんと
時の皇帝エカチェリーナ2世に謁見したという。これがもし、誠なら、早々に江戸に送って
お偉いさんに判断を仰がぬことには、我が身が危ない。
大黒屋光太夫と、磯吉は江戸に送られた。

「皇帝エカチェリーナ2世に謁見したという人物とは誠か?」
なんと、大黒屋光太夫は、幕府の老中・松平定信に謁見となった。
大黒屋はもちまえの知性で、事情をきちんと話せる。人を説得できる人物なのだ。

売国するのでなく、むしろ日本を救う。そして有利に交易メリットを活かす。
この人物は堂々と、しかも解りやすく、詳細を伝えた。

幕府のお偉いさんには珍しく、先送り主義で逃げない「松平定信」
彼の説得に心を動かし、全責任を被って、ロシアとの交渉を目論んだ。
・・・しかし、これはみごと死角にはまった。失脚!!!!!

松平は失脚したものの、幸い、大黒屋光太夫は、命まで奪われうことはなかったが、
一切、発言や行動は慎んだ。蘭学貢献の人となり、静かに人生を全うした。

5、 高田屋嘉兵衛
  • 兵庫県洲本市五色町の農民出身。漁業、船員を経て、1790年に樽廻船の水主から、船頭と出世。
  • 資金をためて、庄内で辰悦丸を建造。蝦夷地経営へ進む。
  • 蝦夷で、 近藤重蔵や間宮林蔵、最上徳内などの幕府役人に会う。択捉航路を開き、蝦夷地物産売捌方となる。
  • 人も羨む大金持ちになった。33歳、「蝦夷地常雇船頭」を任じられ、苗字帯刀を許されれている。
  • 文化8年(1811年)ロシアに拿捕されて、幽閉される。
  • 文化9年(1812年)ゴローニン事件。ロシア船ディアナ号艦長ヴァーシリー・ゴローニン他8名が、日本に
    よって拿捕&幽閉。一足速く帰国していた嘉兵衛が平和解決のキーマンとなる。ゴローニン帰国。
この人物の精神力も尋常じゃない。いわば、幕末のスーパーマンだ。
飛ぶ鳥も落とす勢いの出世。つまり、妬みを食らった。足もすくわれた。
それでいながら、晩年も、心打ち砕かれることなく、蝦夷での商売の権利は全て、弟の金兵衛に譲り、
故郷淡路島で、骨をうずめた。

弟の金兵衛は兄から伝授された鉄の家訓を守り頑張った。兄の頃ほどの財ではないにせよ、
たゆみない努力は、やはり大黒柱をしっかと支えていた。・・がまたしても、足をすくわれる。
蝦夷は、松前抱えになったり、幕府の直轄になったり、一部直轄になったり、ぐらぐら揺れる歴史
なのだが、そのたびにお抱えになる商人も暗転する。主かわれば、従もひっくり返る。
ご新規お抱えを狙って、巨大な袖の下。その上、現役商の者が、いかに悪いヤツか・・・という話を
持ち込んで足を救う。

蝦夷の交易は、松前が直轄を試みたり、幕府が乗り出したりしたものの、所詮、武士の商法。
いつの時代も同じく、赤字になって頭を打つだけのこと。
松前は特にそれに懲りていたから、アイヌの人々の人権を疎かにするという点で、実にまずいのは
わかっていながら、他に手段がない。結局「場所請負制」に落ち着く。手間隙かけずに、損金
出さずに、商人に任せておいて、リベートとりあげるほうが率が良いからだ。

「場所請負制」とアイヌの人々


うまく商売を成立させるためには、やはり、大変いけないことだが、アイヌの人々の撫育
・・・というやつがからんできた。

商人達が行ったその仕打ちたるや・・・とんでもない。
アイヌの乙女は妻になると、口のまわりに特有の刺青をするのだが、この前に捕まえられる。
妾にされる。若妻は、夫を強制的に遠い漁場へ出張させられて、その間に手篭めにされてしまう。

また、交換と称して、数を誤魔化す。ひとつ、ふたつと数えてる最中に、わざと、話しかける。
その魂胆を知っている賢い者は無視する。されば妻子を殺すぞと脅す。あいや、ちょっと言い過ぎた。
悪かったな。となだめて、彼らの大好きなタバコや酒を少々与えて機嫌を取る。どこまで数えたか
すっかり忘れた彼らは、どうせ損していると知りつつ、酒に騙されて、また、いちから数え直す。
こんなことばっかりやっているから、反乱は何回も昔から起きていた。
例、■ コシャマインの乱 、■ シャクシャインの乱

というわけで、次回の商益独占を狙う別の商人は、体制が変動になる以前にさっさと知恵を
働かせては、現役の商人の足を引っ張る。
「現役のやつは、こんなことばっかりやってますぜ!」

金兵衛が被った災難は、そのパターンとはちょっとちがうのだが、陰謀であることには、
なんらかわらない。密貿易の疑いをかけられ、全財産を没収されて高田屋は没落した。

これは、下記に兄の話を補足する時点でもう少し、詳しく説明しますが、
簡単にちょっとだけ。

密貿易の疑いとは

ロシアのゴローニンを助けた兄の嘉兵衛。そこで、ロシアと日本の関係自体は緊迫の最悪状態
なのだが、高田屋だけは特別扱いをする・・暗黙の約束が海上では実行されていた。
日本船はロシア船に襲われて身包み剥がれて、時には命も落とす状態ながら、高田屋の船は
海上で、高田屋の旗を振ると大事に至らないのだ。見逃してもらったお礼と称して、自ら、たくさん
の積荷をプレゼントしてしまう。そんなにたくさんくれるから、暴力沙汰にはならない。

これが、余計なところで漏れた。
「密貿易嫌疑により、全財産没収!」恐怖の御触れが下った。

再び、話を漂流民としての「高田屋嘉兵衛」=上記金兵衛の兄に戻します。

松前はてんやわんや。幕府が直轄で北方固めに走っていた。樺太、択捉、国後、
このへんでは血腥い殺傷事件が勃発している。国交せよとロシアが暴力を
使わずに再三アタックしてきていたにもかかわらず隠蔽されたり、
長崎に行けとか言って場を逃れたり。散々悪化した暁なのだ。

当時絶好調だった高田屋嘉兵衛。捉航路を開き、「蝦夷地物産売捌方」となり、「蝦夷地常雇船頭」
を任じられ、苗字帯刀を許されていた。ところがその彼がロシアに拿捕された。

その背景にはこの事件があった。

ゴローニン=ゴロヴニン事件

1811年(文化8年)、松前藩は千島列島へ訪れていたディアナ号を
国後島で拿捕し、艦長ゴローニンら8名を捕らえ抑留した。

今度は日本がおかえしを食らった。
1812年(文化9年)国後島沖で廻船商人の高田屋嘉兵衛らの
乗船した観世丸が拿捕&抑留された。

しかしながら、この人高田屋嘉兵衛は、
異国にあっても、堂々と振舞った。
知識もさることながら、武士とは異なる、
「互いに儲ける」駆け引きの巧妙さと、
滅多やたらに血を流さずに事すすめることの
重要さを諭し、日本側の折衝にも力を
惜しまない姿勢が評価される。
帰国を許される。さっそく彼は、
ロシア側に侵略の意図が無いことを
納得させ、人質解放に尽力した。

翌1813年(文化10年)9月、
ゴローニンは高田屋嘉兵衛と
捕虜交換により解放され、
ロシアへ帰国。

悲しき漂流民達、埋もれて泣いて、消えた人


多くの者は、生まれ育った故郷、日本の地を二度と踏むことなく、
心は故郷に暮らす父母を思い、頬を涙に泣き濡らしつつ、虚しく異郷の彼方、命を落としていった。

もはや、その祖国、日本は、彼らを受け入れてはくれなかった。
ある意味で、日本への未練を捨てて、完全に見も心も改宗できた者は
むしろ幸せだった・・といえるかもしれない。

異国船打払令の教訓

上記のとおり、幕府は先送り主義で、もたもたやっていたのもあるが、鎖国はいいけど、
軍力のレベルが低すぎるならば、話にならない・・・という点を古くから、林子平の
「開国兵談」などでいわれているにもかかわらず、レベルアップ実行は鈍かった。
頭打って、お初に少々お目覚め。

1837(天保8)年、アメリカ商船モリソン号浦賀到来。

「打ち払え!ぶっぱなせ!」はよいが、日本は必死で砲撃したが、
射程距離は800メートル。ちゃんちゃらお笑い状態。全然、届かない。
これが軍艦だったら、日本はこの時点でアウトだったかもしれない。

しかし、幸いにして、モリソン号は完全に
武装解除した商船だった。
物騒なので、浦賀方面上陸を諦めた。

この時、艦上では、七人の男達が涙に泣き濡れていた。
せっかく、ここまで来たのに。帰ってきたのに・・・

悲しき漂流民達_モリソン号の場合


モリソン号の貿易商キングは、日本の漂流民7名を通商交渉のお材として
同艦に乗せ、連れて来ていたのだ。


「モリソン号に乗っていた日本の漂流民7名」
  1. 尾張、知多半島小野浦「宝順丸」の音吉他2名=3名
    通称サンキチ=三人の吉={音吉、岩吉、久吉}
    彼らの出身地は知多郡美浜町。

  2. 九州肥後の力松他3名=4名:庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松


そこで、キングは方針を転ずる。浦賀方面は、とにかく砲撃が来る。危ない。
しかたなく、薩摩へ回り、島津斉興に手紙を渡す。

しかし、いやな予感は的中した。回答はろくでもない。
幕府の答えは、「オランダを介して、人だけ返しなさい。」と
アメリカへのメリットゼロ%の回答。

おかげで、7人は、日本に帰ることができなくなってしまった。


1_宝順丸に乗っていたサンキチ=三人のキチ(岩吉、音吉、久吉)

天保3年(1832年)10月、 彼らをのせた宝順丸が漂流。
宝順丸はなんと、14ヶ月間も洋上で彷徨うが、やっとアメリカ太平洋側、
ケープアラヴァに漂着。13人中、皆死んで、生き残ったのは3人。

助けられたはよいが、なんと売り飛ばされた。しかし、それは逆に幸いした。
イギリス経由で、マカオにたどり着く。日本への帰国チャンスがこの港に
はある。そう聞いたのだ。カールギュツラフ宣教師神父に出会い、
翻訳等に従事することからスタートして、なんとか帰国を果たそうと、長年
努力するが、ついに・・・夢は捨てざるをえなかった。

悲しき漂流民達、埋もれて泣いて、消えた人_その1
モリソン号編: 本望_魂の帰郷_尾張の「音吉」


音吉の大奮闘 _ 我が子に託した魂の帰国
  • 文政2(1819)年尾張国知多郡小野浦に生まれる。
  • 天保3年(1832年)10月、 彼らをのせた宝順丸が漂流。
  • 漂着したアメリカ太平洋側、ケープアラヴァから、イギリスへ、
    そしてマカオ。転々とする。
  • 1837(天保8)年3月、九州肥後の漂流民、力松ら4名と合流する。
  • 1837(天保8)年、6月、7人は、那覇へ向かうというイギリス船
    ローリー号に乗って、マカオを出発。ここで、モリソン号に移乗し、
    日本へ向かう。
  • ▲やっと帰れるぞ!皆が歓喜した。しかし待ち受けていた現実は▼
  • 日本へTRY_その1
    アメリカ商船モリソン号が浦賀に到来した時、
    上記のとおり、乗船していたにもかかわらず、日本の土を踏めなかった。
  • 1838年(天保9年)アメリカ合衆国へ行く。
  • 上海に渡り、デント商会に勤める。
  • 日本へTRY_その2
    1849年(嘉永2年)イギリスの軍艦マリナー号で浦賀へ来た。
    (今の日本は情勢が悪い。それに、恩人にも迷惑をかける。
    冷静に踏みとどまり、ポーカーフェイスで帰ってゆく)
  • 日本へTRY_その3
    1854年9月にイギリス極東艦隊司令長官スターリングの長崎来訪。
    日英交渉の際、再度来日の上、通訳を務めた。
    その名は、ジョン・マシュー・オトソン。【オトソンとは音吉だから】
    この段階で彼は既に悟りを開いている。日本への未練に動揺しない。
    立派に任務を果たして、去って行った。
  • マレー人と結婚。
  • 1862年(文久2年)上海を離れ、シンガポール移住。
  • 同年、同地で幕府の遣欧使節団の通詞_森山栄之助、福沢諭吉
    らに会っている。(彼らが、ここに一時寄港したため)
  • 涙の遺言
    1867年(慶応3年)、病に倒れる。息子への遺言。
    「自分の代わりに日本へ帰って欲しい」その一言を残し、
    シンガポールに眠る。享年49。

  • 本望、念願_魂の帰国

    息子のジョン・W・オトソンは1879年(明治12年)、父にかわって
    日本に帰国。横浜で入籍。名は「山本音吉」。


福沢諭吉達とオトソンこと、音吉の会話。

「本当は、帰りたいのでは、ないのか?」
「そうでもないさ。もう諦めた。
それに、ここにはここの暮らしがある。」
・・・・
いつも笑顔をたやさない彼。
しかし、遺言は、まさに魂の帰郷だった。

親子の絆が、それを、みごと達成した。

・・・きっと魂は今も、このJAPANに安らかに眠ることだろう。
・・・何十年もかかってやっと達成した夢の帰国。


悲しき漂流民達、埋もれて泣いて、消えた人_その2
泣けて、泣けて・・・しかたない!哀れ、「漂流民サム・パッチ」


「漂流民サム・パッチ」=仙太郎

1853(嘉永5)年、浦賀にペリー艦隊来航

ところが、この時、一人の日本人がここに乗船していた。
帰国の夢破れて、泣きに泣いた人が居た。・・・そんなことは、どっかにふっとんでいるのが歴史。

この時に、吉田松陰が乗り込もうとして失敗、入牢・・・暗転!そして、やがて、恐怖の刑死。
これは、近年では、あっちこっちで言われています。
・・・(当サイトにも関連有:吉田松陰の弟子_堀眞五郎&品川弥二郎の事, 懊悩、命の報恩_長州編

なぜ、歴史の時間に習わない?あんまり言われない?
答えはひとつです。この人物は、なんにも歴史を動かせなかった普通の人で終わったから。

なんにもできない人で終わった。だけど、とても悲しんだ。とても苦しんだ。
だけど、この「何の役にも立たなかった人」扱いにされてる彼、
その彼は、ひとつだけ、偉大なおしごとをした・・・そう思っています。

それは、一人の人物を動かした!!


びくびく、おどおど、ダメ男のサム・パッチ


ペリー艦隊の乗組員の中に、一人の日本人がいた。サムと呼ばれていた。
  • 彼の名は仙太郎。
  • 現在の広島県豊田郡瀬戸田町福田の出身。漁師の子、やがて船乗りになる。
  • 1850(嘉永3)年10月29日、他16人の船員達と共に、「栄力丸」で漂流。
  • 漂流生活、約1ヶ月半。アメリカの帆船オークランド号に救助され、サンフランシスコへ。
  • セントメリー号で、ハワイ経由香港へ。ここで、仲間の一人、 万蔵が 死亡。
  • セントメリー号は、香港経由マカオへ、そして、サスケハナ号へ移乗。
    (ペリー艦隊によると、日本に帰国できるらしい。労働は過酷だが、頑張った。)
  • マカオ滞在。他の日本人漂流民{ ジョセフ・ヒコ (上記)、 音吉 (上記)達}と出会う。
  • 1853年、ペリー艦隊に便乗して、いよいよ日本へ。
    • ペリーは、彼の帰国の旨もちゃんと、日本の役人に交渉。しかし、交渉は難航。但し、船を降りることはできるようです。それでいて、安全の保証はない。自己の選択だと
      いうことです。交渉のネタとして彼の人生を拘束する気はないのです。
    • 彼はマカオで、 1837年に悲しい思いをしたモリソン号の話を音吉(上記)達に聞いて
      います。 音吉は漂流民のボランティア的仕事もしてましたから、彼の話はとても信頼できます。
    • それどころか、恐怖の尊王攘夷派だかが突如やってきては、殺されると言うのです。
      それが原因で、一緒にマカオに着いた仲間達は今日というチャンスを諦めたのです。
  • ここは日本です。夢にまで見た日本 。現に日本人の役人が
    この船にも乗ってきている。臆病者のサムはヤドカリみたいに隠れました。
  • もし、うかつに降りて、殺されたらどうしよう!!上陸拒否
    • なんと、彼は、このまま日本に帰ることを拒否します。
    • 船員達も、この船の場合、皆親切。しかも、一人、外人さんなのに
      弟のように心配してくれる優しいお兄さんがいます。
    • サムはペリーの判断に脅えています。どうしても置いてくと言われたらどうしよう?
    • ところが、合衆国としての判断は、そんなサムを結果として救います。
      遭難者である彼が、今自己の判断で帰国を拒否したのだから、強制的に
      日本側へ引き渡す必要はない。我がアメリカが保護すべきだという判断。
  • サム、アメリカで暮らす。
    • 船員達の中で、もっとも親切なお兄さん、 ゴーブル は真剣にペリーに相談
    • 連れて帰ってやりなさい。ということになった。語学で役立つ存在になるかもしれない
      から、教育もしてやりなさい。
    • ゴーブルは、サムをハミルトンの自宅へ連れて帰る。
    • サムはゴーブルに支援されて、学校へ通う。彼は熱心なキリスト者であるゴーブルに
      勧められて、洗礼を受けます。
  • 優しいお兄さん、ゴーブルの約束実行_日本へ帰国!!
    • ゴーブルは、本当に約束を実行してくれました。
    • 結婚したゴーブル一家と共に、サムは再び、1860(安政7)年4月1日、横浜へ到着。
    • ゴーブルは、家族と共に、成仏寺近郊に住居を為す。
    • ところが、臆病者のサムは、「幕府のお咎め!」と人斬りを脅え、一ヶ月近く、船の
      お手伝いを口実に、船から絶対に降りてきません。
    • ゴーブルが説得。一人で放り出されるわけではないと解りやっと下船。
  • その後、サムの功績は極小ながら横浜居留地と、静岡。
    • 当初横浜居留地にへばりついてばかり。日本人だと解って、誰かが声を掛けると、
      脅えるか、反抗的な態度を示したかと思えば、結局逃げる男といわれた経緯有。
  • サム、病気、入院 :東京新橋近くの東京府府下病院に入院
  • サム、無念の死亡 :1879(明治7)年10月8日死亡。
偉人、中村正直氏が墓を法華宗の本伝寺に。墓名は「三八(サムパッチだから)君墓」
いつも脅えて心配ばかり。some_patch。
そんな彼はひとつだけ、大きなお仕事をした!と前項に書かせて頂いた理由は
コレです!彼は、人を動かした。ゴーブルという人を動かした。


ゴーブル、頑張れ!

ジョナサン・ゴーブルについては、上記、サムと違って、功績はちょっとあります。
しかし、教科書に書いてもらえるほどでは、残念ながら・・・。
キリスト教宣教師として幕末から明治の日本に生きた人。下記に、功績として書いてみました。
  • 明治4(1871)年日本で初の聖書印刷
    ※この段階で日本は、まだ「キリシタン禁制」!法改正はこの2年後だから、命掛けです。
  • 上記のとおり、当時軍艦サスケハナの船員だった彼は、日本の漂流民であるサムを自費&
    自力でなんとか帰国させてあげようと、宣教師となり、再び日本に連れ帰ってくれた人。

恐縮ながら、立派過ぎる人、雲上人のように完璧な神父さんならば、実は、あまりここで宣伝
したい気持ちになれませんでした。ゴーブルさんは、根っからの苦労人。そして、真っ直ぐで
ピュア。そのかわり、随分、不器用なところが見え隠れ、コテコテの人間性が溢れるからこそ、
なんだか好感をもってしまいました。
彼はお金持ちでもなければ、ぐんと上の地位にある神父さんでもありません。
しかも、「かわいそうな漂流民を助けた。」といえば、普通、熟年の神父さんご夫婦を想像して
しまうわけですが、彼はサムに巡りあった頃、独身の若いお兄さん。それどころか、実は
大変な貧乏・・・でした。


道端に立ち尽くす可愛そうな子犬。近寄ると、半分嬉しそうに尻尾をふりつつ、
悲しそうな目をして、触ろうとすると、突如脅えて、反射的に逃げる・・・
それでも、淋しそうにクンクン鳴いて・・・
裕福でないから、仔犬を飼ってる場合じゃないのだけれど、放置できなくて・・・・

そんなご経験のある皆様、どこぞにいらっしゃらないでしょうか?

サムを仔犬にたとえてしまって、サムさんに申し訳ないのですが、なんとなく、サムのために我を
忘れて、夢中になってしまったゴーブルさんを語ろうとすると、どうしても、ソレを書かずに表現
できなくなってしまいました。

実は、そんなにまでして、無理して頑張って、赤の他人を
助けようと頑張ってしまったゴーブルさんには・・・訳がありました。


★苦労人、ゴーブルさん

  1. 1827(文政10)年3月4日、ニューヨーク州ウェイン村で誕生
  2. 幼少時父死亡。母は再婚。貧乏暮らし。
  3. 極貧生活。食べる物もない。十代の時、貧しさのあまり、強盗未遂罪で2年間服役。
  4. 服役中に、靴職人としての技術を得る。神の教えにも熱心になる。
    ・・・なんだか、ジャンバルジャンみたいな・・
  5. 出所後、洗礼
  6. 1851(嘉永4)年、ペリー艦隊に入隊して、海兵隊員となる。
  7. 1853(嘉永6)年、ペリー艦隊、浦賀来訪【彼はミシシッピ-号乗船】
    • この時、漂流民、サムと出会う。ちなみに、ゴーブルは26歳の青年。
  8. 脅えて帰国を拒否したサムをアメリカの自宅に連れて帰る。
  9. 生活は苦しいが、船員時代の僅かな貯金と、靴職人のアルバイトなどで頑張って学費を稼ぐ。
    • この時、学費は二人分稼いでいる。なぜならば、上記のとおり、貧しかったゴーブルは
      まともに教育を受けさせてもらっていない。自分も一緒に就学する。
  10. サムにも洗礼を受けさせて、本人も熱心に宗教活動をする。
  11. 結婚&子にも恵まれるが、サムへの思いやりは変わらない。
  12. 1859(安政6)年、日本伝道区宣教師として任命される。
    • 同年、妻子とサムを連れて、サンフランシスコで募金活動・・・失敗。
    • 1860年、ハワイで同活動。成功。応援と資金を得る。やっと旅費ができました。
      この人ゴーブルはいつもスッカラピン一文無し。
  13. 1860(安政7)年4月1日、やっと日本到着。
    • 一家は成仏寺近郊に住居を得るが、臆病者のサムは、1ヶ月近く船から降りず脅えている
      ため、てこずる。やっと説得。船から引き摺り降ろす。
  14. 1861年位までは、教会からの援助金があったが、南北戦争で送金切れ。どん底の貧乏。
  15. 1862(文久2)年の初め、サムの健康も気になり、いちはやく、居留地に引越し。ここなら、
    臆病者のサムとて外を多少歩ける安全地帯。
  16. 英語スクールも始めたことで、少しだけ暮らしがマシになり、伝道活動。
    • 娘ドリンダコレラで死亡。(4歳)
    • 1870(明治3)妻エリザ病床。極度悪化の前に、愛妻はゴーブル
      を一人置いて、二人の娘と共にアメリカへ帰国
  17. 聖書翻訳活動を開始して、 明治4(1871)年日本で初の聖書印刷
    • とはいえ、禁教政策下、売れもしなければ、利益も無し。出費だけ。
  18. サム、なんと!死亡 :1879(明治7)年10月8日脚気で死亡。
    • いかに宣教師といえど、こんなに悲しい思いをどうしてしなくては
      ならないのか・・と、きっとさぞ嘆いたことでしょう。
      家族を全部失って、一人ぼっち。でも、サムを幸せにして
      あげられるなら、その日まで頑張ろう!・・・そう思っていたのに、
      最後の望みの綱も切れてしまった。ゴーブル50歳。

  19. サムを失った彼。その僅か2ヶ月後には、自ら試練の旅へ。
    1879(明治7)年12月、ABSの日本支社支配人ギュリックの雇員となる。
    といっても仕事は、「聖書販売人」。全国を自家製の大八車みたいなのを引き摺って。
  20. しかし、家族の絆は消えてたわけではなく、病気勝ちになったゴーブルは、
    1883(明治16)年、迎えに来た家族と共に帰国。万事終焉。
  21. 1896(明治29)年死去。享年69歳。




極貧の窮地に立たされて、たった一度、少年時代に罪を・・。それならば、しかたのないこと。
誰もそれを咎めない・・・のだけど、この人は、一生涯、苦しい人を救うために無茶苦茶己に無理をした。

なんとか助けてあげたい!守ってあげたい。サムを祖国に帰してあげたい。サムのような可愛そうな
存在を生んだ「心の貧しさ」をこの国民から救ってあげれば、皆きっと幸せになる
・・・と頑張ったのでしょうか。

禁教下の日本で、命がけの伝道。頑張りすぎて、熱心すぎて、熱すぎて、・・・
どうも布教活動も販売も順調ではなかったようです。あんまり熱っついと日本人はビビります。
とてつもなく素敵な人なのに、どっかで、ツルッと滑ってしまいそうな不器用面が、見えてしまうだけに、
彼になんともいえない愛着を感じてしまいました。

ペリー艦隊の中、26歳の青年が、自分の生活さえ困窮しているというのに、
いてもたってもいられなくなって、サムを連れて帰ろう!そう決心した若き彼の姿が目に浮かびます。

この子だけは、なんとしてでも幸せにしてあげなくては・・・!
僕の時みたいな思いをさせるぐらいなら、
死ぬ気で頑張ってやる!なにがなんでも幸せにしてやるゾ!!


日本人の一人として、ゴーブルさん、ありがとう。
サムはきっと、幸せだったでしょう。

そして、ゴーブルさん、
貴方をそこまで偉大な人にしてくれたのは、
きっと、脅えてばかりの「サム・パッチ」の
清く澄んだ瞳
・・・穢れなきあの瞳だったのではないでしょうか?
じっと見つめるとあわてて逃げてしまう。
それなのに、とても美しい瞳。



拙いながら、物語風にゴーブルさんを書いてみました。

ゴーブルさんの大八車

サムは実績を残した男という程にはなれませんでしたが、通訳の仕事として実際は歴史の表舞台に
名の挙がった人物の側に多少。それについては最後にチョロッ。物語風仕上げですから、後半の「ミニ活躍」
の件略で簡単に書いています。歴史嫌いさんも読めるタイプ


少年と猫、猫に教わった平和への願い

文章解説(c)by rankten_@piyo、
写真等、素材については頁下表示


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