戊辰の影,萱野権兵衛と西郷頼母の各倅

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西郷頼母の倅と、萱野権兵衛の倅
幕末WITH_LOVE玄関 <戊辰,箱館戦争の影
SERIES_1_西郷頼母の倅と、萱野権兵衛の倅: Sec.1_萱野権兵衛と倅 Sec.2_西郷頼母と倅
SERIES_2_立待岬、箱館の地:二人の「会津の男」(現在頁)
・<Sec.3_ 西郷頼母の弟、山田陽次郎:2度目の箱館:悲劇の会津遊撃隊頭取_山田陽次郎
・<Sec.4_ 立待ち岬に眠る雑賀孫六郎:4度目の箱館
西郷頼母の倅と、萱野権兵衛の倅
No.1_会津の罪を背負って責任自刃した家老_萱野権兵衛と、子、郡長正(14歳)の自刃




万事終わった。
潔く散って、
終わらせたはずだった。

しかし、冥土の父は、なんとその
僅か二年後、齢14歳の幼い我が子を
迎え入れねばならぬ。

あの世で再び受難の宿命を負った。
会津の犠牲、萱野権兵衛



明治2年4月9日
の箱館戦争終焉(2/5/18)を
前にして、新政府側では、
本格的な戦犯処理が断行された。

いうなれば、
奥州A級戦犯の処刑である。


鳥羽伏見以来の戦犯処理、各藩の首謀者責任追及は既に、下記のとおり、一段落ついている。
首の犠牲_譜代小藩&代官所



最終的に恭順したものの、奥州の要。
仙台の責任追求は半端ではなかった。

奥州列藩回状を取り成し、
司令塔であった以上、有無を言わせない。
・・・加えて、世良修蔵暗殺事件責任。

明治2年4月9日:処刑
  • 和田織部、遠藤吉郎左衛門(主税)、玉虫左太夫、若生文十郎、安田竹之助、
    粟村五郎七郎、斉藤安右衛門
明治2年5月9日:処刑_・但木土佐、坂英力。要の大物がついに首討たれた。

h.jpgこの他、家督没収投獄などは、五十余名。


そして、またしても、
闇の掟が、始まった。

散らして、さらにまたも
散らす血の色花びら。

この頃、東京の久留米藩邸にお預けとなり新政府による沙汰を待つ身、
会津藩家老_萱野権兵衛の元に、ついに、その沙汰が届いた。

明治2年5月18日
「一藩の責任は、藩主にあらず。我に有り。」
罪を一身に負い、見事な切腹を成し遂げた。

会津藩家老、萱野権兵衛。享年42歳。

ここに、藩主、松平容保父子を助命を成し遂げた。


皮肉にも、史実はこの日、明治2年5月18日は、
箱館戦争に身を投じた榎本武揚以下全員、蝦夷地に架けた雄者達の
魂がついに瓦解。降伏となった日でもある。


仙台の犠牲

■仙台の但木土佐の活躍_奥羽27藩の家老に回状を送った。
奥州列藩
1:南部、2:秋田、3:津軽、4:二本松、5:守山、6:新庄、7:八戸、
8:棚倉、9:中村、10:三春、11:山形、12:平、13:松前、14:福島、
15:本庄、16:泉、17:亀田、18:湯長谷、19:下手渡、20:八島、
21:一関、22:上ノ山、23:天童、24:新田、25:黒石
+ 26:米沢、27:庄内、 + 28:会津、+(29:仙台:自藩)

■世良修蔵暗殺事件(慶応4年閏4月20日)
:首謀者
・仙台藩家老但木土佐発令、以下実行隊
・仙台藩:瀬上主膳・姉歯武之進、
・福島藩:鈴木六太郎、
・目明かし浅草屋宇一郎他:計十余名
会津の犠牲、責任切腹「萱野権兵衛」


本来なれば、順位からすると、当該は、萱野権兵衛ではなく、西郷頼母。
ところが、西郷頼母は行方不明。それもそのはず、榎本軍に飛び込んできている。
また、筆頭家老の田中土佐・神保内蔵助の両人は自刃して既に果てた。
しかし、彼は、極めて穏やかに、いつもと変わらぬ落ち着いた表情で、運命を受け入れた。

飯野藩保科家下屋敷にて自刃である。
罪状は刎首の処遇であったが、座敷内での切腹を許可された経緯について、
一節には、薩摩、桐野利秋による武士の情けともいう。

萱野は溝口派一刀流有段者。切腹前に井深宅右衛門を呼び、奥義伝授。この段階では既に
帯刀の上実践指導できる自由な身ではないため、火箸を用い口頭伝授を為した話は有名。

しかしながら、本物の犠牲というべき存在は、
彼、萱野権兵衛自身ならずや、

運命は、この後、二年後。過酷にも
その子の世代、「郡長正」14歳の命までが、天上の彼方へ。


萱野権兵衛にこの宿命が訪れる前までの動き、松平容保の動き

萱野権兵衛の子、郡長正の自刃

この後、会津の生き残りは、老若男女を問わず皆、流刑同然の斗南へ送り込まれる。
萱野家に於ける家名は断絶となった。当該の子、長正は、萱野権兵衛の次男であるが、長男を除く
他兄弟と同様に、姓を郡と名乗る。
極めて優秀な彼は、明治3年、豊津藩校育徳館留学。

しかし翌年4年5月1日、
突然の自刃を遂げた。享年、僅か14歳。

期日5/1について、遺族には5/18と伝わる説もあり、
もし、そうだとすれば、・・・

父、萱野権兵衛の切腹と同一日となる。
突然の自刃を遂げた。享年14歳。

萱野権兵衛の切腹は、
僅か2年前明治2年5月18日ことだった。




7人の留学生とは

郡長正、神保巖之助、木村新治、斎藤徳治、
佐瀬豊太郎、山川徳治(旧姓徳力徳治)、馬場興三郎

通説を覆す衝撃の証言!
会津降人を東京へ護送したのは小倉藩。
長正君は、その秘事を知った。

神保巖之助
尚、この時、切腹した長正君の介錯を
つとめた少年は神保巖之助
(同じく斗南の友:神保内蔵助の三男。
兄は神保修理(慶応4/2/22悲劇の切腹)、
北原雅長。このうち、 兄の北原雅長は、
萱野権兵衛の切腹立会いの上弔いにも尽力。
その為、巖之助も責任を感じ任務を果たし
たつもりなのだろう。しかし 山川浩
ぼろかすに言われた。それならお前も
死ねばよかったじゃないか!

会津の罪を、一人背負って潔く散った父。誰よりも尊く勇ましい父。尊敬してやまぬ我が父。
しかし、現実は、賊の子、罪人の子。流人同然の斗南の子。長正君の無念を思えば、胸が痛い。
上の本は、それらの通説を覆す。現在頁一番下に、 会津、戊辰系BOOKコーナー あります。お好みでどうぞ。
▼私的にも上記本の新説に頷く。「藩主様にお詫びしたい!」少年の心は如何に!
:春光願寺に文武館【香春思永館】として再建、明治2年藩庁は錦原移転。翌3年1月、錦原を豊津と改め。香春思永館は
育徳館として開校。この年、豊津藩は戊辰戦敗者会津から最果ての斗南に移封させられた彼らの子をあえて引き受。
No.1_完
会津の罪を背負って責任自刃した家老_萱野権兵衛と、
子、郡長正(14歳)の自刃


西郷頼母の倅と、萱野権兵衛の倅_No.2
No.1_萱野権兵衛と倅 No.2_西郷頼母と倅 (現在のセクション)<No.3__ 西郷頼母の弟、山田陽次郎 (NEXT頁
■西郷頼母,■西郷隆盛,■西郷吉十郎(保科有隣),■志田四郎,■沢辺琢磨,■大山捨松,■山田陽次郎,■雲井龍雄



なよ竹の
風にまかする身ながらも
たわまぬ節は
ありとこそきけ

【妻:千重子_辞世の句】
妻子、老母他、一族二十一人の自刃は
後の世も、皆の涙を誘った。

西郷頼母は、戊辰が終了して赦免された後 、保科頼母と名乗る。
明治4年、早々1月には、己と共に榎本軍と蝦夷へ渡り、会津遊撃隊の頭取として活躍した弟、
山田陽次郎(西郷直節)を失った。
そして、明治12年には、なんと、たった一人生き残った子、吉十郎をついに失った。
享年21歳。明治12年8月9日のこと。

【会津の戦犯責任】
幹部としては、当該の田中土佐も、神保内蔵助も、既に切腹で果てている。
階級的には、西郷頼母が切腹を負わねばならぬ身。確かに、彼はもとから、藩主に恭順を進言しており、
抗戦派ではなかった。しかし、彼は榎本軍に駆け込んでいたため、その段階で、行方不明。

その為、犠牲は、 萱野権兵衛 。彼一人が、切腹を申し付けられ、万事背負い天へ飛び去った。
しかも、萱野権兵衛の死は、明治2年5月18日。皮肉にも、蝦夷の榎本軍降伏の日と同一日だった。

西郷は、榎本軍敗れて捕縛&釈放後も、
蔭では、いつも知らずして、
卑怯者の謗りを身に受け、人生は針の筵だった。

彼は、一人、74歳まで生きた。
この時、老人の掌には、一体何が残されていたことだろう。


西郷頼母(保科頼母)について:略歴は辞典サイト等で簡単に検索できます。略。但し謎の多い人物で詳細は多説あります。
ご興味のある皆様は、現在頁一番下戊辰BOOKコーナー、または、上側に本バナーあります。自由キーワードで色々ご覧に
なってみてくださいね。 以下は、西郷頼母を「父としての彼」、「兄としての彼」の目で見て感じたこだわり単項目です。)
赦免後、西郷頼母とその倅
嗚呼、風にたわまぬ節は何処!
■西郷頼母と西郷隆盛。■西郷頼母と倅。■父とは。■西郷頼母の実の倅と養子(姿三四郎のモデル)。
■西郷頼母の実倅と琢磨。■ 西郷頼母の弟、山田陽次郎
西郷頼母:文政13/閏3/24日(1830) ~ 明治36年/4/28日(1903)、会津藩家老


西郷頼母の兄弟姉妹は、いわゆる一ダース。この時代珍しくないにせよ、やはり多い。
ところが、弟が3人居るのみで、残りは姉妹。
子は7人居たものの、榎本の元へ、西郷頼母本人が手を引いて連れた吉十郎を除く全員は、
それより二日前、悲劇の一族自決を遂げ、全て失っている。

西郷頼母は、赦免後 明治4年1月、弟の 山田陽次郎(後述) を失うが、屈することなく5年、
伊豆の謹申学舎塾塾長で教鞭を取り、8年には宮司。
ところが、同10年、西南戦争勃発と共に彼は再び暗転。11年宮司を解任された。西郷隆盛加担嫌疑だった。
西郷隆盛と西郷頼母
ルーツ を辿ると確かに遠縁。かつて、会津戦争の最中、頼母が子の手を引いて城を出、
榎本軍に合流するまでの道中、西郷の軍が密かに警護したとの説も有。実際なんらかの縁があった
のは事実で、後述の弟の一件についても、組織の裏にやはり西郷隆盛が絡むとする説有。

実は、西郷頼母は箱館降伏の日、既にそこに居ない。萱野権兵衛が腹を斯き切って
死ぬ瞬間、西郷頼母は、ちゃんと本州の地に上陸している。


そして、明治12年、運命の時。長男吉十郎をついに失う。
この頃、吉十郎(1858~1879) は、 保科有隣 と名乗っていた。
・・・(病死説と、西郷絡みで西南の役による説と双方有り不明。別途留学説も有り。(後述)

この時、彼は、やはり、かつての面影は完全に消え失せた。

たとえ、卑怯者の謗りを身に受けようと、
恥知らずの武士の風上にも置けぬ屑と、
罵られようと・・・

己には子が居てくれた。
たった一人生き残ってくれた可愛い我が子が居た!

恥も屈辱も万事、子の面影を思うが故耐えて今日。

砲煙立ちこめた戦場を突破して、駆けに駆けてやっと辿り付いた仙台。
11歳になったばかりの幼子。我を忘れて必死であの時、手を引いて逃げた。

あの子はもう居ない。
小さな手の温もりが今だ忘れられない。

■頼母は、会津で浮き、榎本軍内でも同様。何もせずに妾を
囲いなんたることぞ。冷たい風が吹き抜けていました。

傷心の頼母。翌明治13年(1880)、旧藩主松平容保の御厚情に、いつになく素直に甘えた。
この時、頼母は、当時、日光東照宮の宮司となっていた 旧藩主松平容保の傍ら、
禰宜として、同宮に仕え、今度こそは鞘に収まったかに見えた。

【養子をむかえ、西郷絶家から脱する】
明治17年(1884)、当時16歳の志田四郎を養子となして、後に21年、
西郷四郎(慶応2年2月4日(1866)~ 大正11年12月22日(1922))と名乗らせる。
この人物が、小説「姿三四郎」のモデルである。

ところが、その直前にも、再び揺れている。
明治20年(1887)、 日光東照宮の禰宜を辞し、大同団結運動に加わったが失敗。

会津に戻り、再び霊山神社の宮司。宮司の傍ら教鞭をとったり、武芸と陰陽道を学んで
極め伝授する等。やがて老いて、職を辞し、会津へ。

揺れに揺れた彼の人生。

「なよ竹の風にまかする身ながらも
たわまぬ節はありとこそきけ」
・・・
そう詠んで先立った妻の元、
明治36年、74歳の彼が、
ついに眠る。

長い人生。随分
長かったことだろう。
たとえ一時とて、
「たわまぬ節」に
めぐりあえたのだろうか。

▲西郷頼母と西郷隆盛。▲西郷頼母と倅。▲父とは。▲西郷頼母の実の倅と養子(姿三四郎のモデル)。
▼西郷頼母の実倅と琢磨。■_ 西郷頼母の弟、山田陽次郎
倅の手を引いて_西郷吉十郎(保科有隣)


慶応4年8月、会津戦争の最中、
思想的に皆と食い違った頼母は、表面上は伝達の任務に付随して、そのまま城を抜け出した。
(脱出に至るの経緯、問答、原因などは多説有。実質上の追放ともいう。)
いずれにせよ、異色の存在。藩主と共に皆と同様に、とても篭城できる状態ではなかった。

その脱走時、彼は、倅:吉十郎の手を引いて、榎本艦隊を目指した。11歳になったばかりの子である。
他の子は皆、愛妻や老人と共に自刀して果てている(8/22)。


頼母にとって唯一の心の支え、可愛い我が子、吉十郎。
その吉十郎が、残念ながら21歳で死亡した件は上記のとおり。

父である頼母自身は、榎本軍降伏に際して、やがて赦免された後も暫し謹慎生活を送る。
■その際、子、吉十郎は、箱館ハリストス正教神父・沢辺琢磨に預けられたといわれる。
■但し、別説もあり、実は西郷隆盛が預かったとするものもある。

沢辺琢磨だとすれば、客観的には、神父に預けられたのだから良かった
・・とふと安心してしまいそうなところ、 当時の沢辺琢磨の状態から考察。

この頃、沢辺琢磨は、表向き職業は宮司。禁教下、隠れキリシタン期のはずと思う。

・・・だとすれば、頼母は、さぞ心細く、祈る気持ちだったことだろう。
バックヤードが教会とはいえ、不安定な男に依頼せざるをえない・・・。


■, 沢辺琢磨 について
  • ■山本数馬=山本琢磨=沢辺琢磨:土佐藩士。
    • 坂本龍馬の従兄弟。(龍馬の父の兄の子:龍馬の父は養子INしている。)
      武市瑞山半平太の親戚。(数馬の母の姪が武市瑞山の妻)
    • 安政4年(1857)8月、拾った時計を質屋に売り飛ばす失態から失踪。
      東北を経て、箱館へ。
    • 安政5年(1858)には箱館に居る。神明宮の養子婿となり宮司となり、沢辺琢磨と改名。
    • 攘夷主義の彼は、当時、箱館に居たロシア正教会のニコライ神父殺害を謀るが、逆に説得
      されてしまう。
      (略意)私を悪と見なして殺害するのであれば、この教えが如何なるものかを知った上で
      為すべきではないのか。知った上で、もしそれが悪なれば為せば良い。
    • 慶応4年4月2日(1868)、密かに洗礼を受ける。
      この時、日本は完全に禁教下。その上、彼の職業は宮司である!!
ここで洗礼を受け、後に日本初の日本ハリスト正教会司祭となる沢辺琢磨・・・ではあるものの、
当然、己が婿養子で入った沢辺家では、大混乱が発生する

■ キリスト教が日本に於いて、禁教が解かれるのは明治6(1873)年。
■沢辺琢磨が晴れて、堂々、司祭になるのは ずっと後で、明治8年または、
大正2年(1913)のこと。(日本ハリストス正教会、初の日本人司祭。)

この段階で琢磨は、箱館神明宮に婿INしているため、表向き宮司のままに暫しつなぐが、
それは長く続かない。ついに人々の前公言して、妻の家と大トラブル。宮司を辞すはいいが、
当然、妻子と不穏。禁教下、周囲の目も。ノイローゼ状態に陥った妻が家に火をつける
事件も発生した。まもなく家を飛び出し、東北に出て、禁教下の伝道、捕縛されたり。
不安定で賛嘆たる人生に至る。

だからといって、吉十郎を一時的に隠し引取っていないとは言えない。

琢磨は、他にも、大山捨松(旧姓:山川咲子=の子※)も一時的に預かったとされる。
会津の者が皆、斗南に移住する時、元会津藩士山川浩は幼い妹を琢磨に依頼して、フランス人家庭に
引き取ってもらっている様子。やはり、琢磨の名が出てくる。上記のとおり、琢磨自身は不安定ながら、
バックヤードにハリストス正教会があるからなのだろうか。

■ 大山捨松 【※】明治4年(1871)の岩倉使節団随行の女子官費留学生として、初に選ばれた者の一人。後に 大山 捨松。会津藩家老_山川尚江重固の子。重固は死亡。
兄の山川浩が引取っていた。関連:
山川捨松が語った悲壮:究極兄嫁の「斬首の依頼」


西郷隆盛が預かった説

もとより、頼母と交友があった西郷隆盛は、ルーツを辿るなれば同じ西郷一族に於ける「会津西郷」を
絶やすはならぬとして、西郷逃走の際、密かに護衛の兵を付け、吉十郎を引き受けた。
この場合、吉十郎は榎本艦隊に同乗していないことになる。
留学説は、島津啓次郎ら、明治3年に発った薩摩藩費留学生に同行説。
島津啓次郎も若くして、西南の役に没している。


西郷は、密命の為城を去ったということになっている。
確かに、命の発信元は、梶原平馬(主戦派)。恭順説の西郷の始末を決断。
命とは、 萱野権兵衛(=上記のとおり後に責任切腹)と、上田学太輔兼教(戦後塩川謹慎)への伝達事。
「この両名は、越後方面から、城に引き揚げてくるはずだから、引上げず、そのまま留まり防戦せよ。」
と伝えて頂きたい。

ところが、梶原は、刺客として下記2名を放つ。(関連: 遊撃隊
■ 砲兵隊頭:大沼城之助、及び、遊撃寄合組隊組頭:芦沢生太郎(蘆澤生太郎(後直道))

しかし、この両名は見失ったと偽り、西郷を見逃した。

よって、西郷を討とうとしたのが梶原平馬。救おうとしたのが、大沼城之助と、芦沢生太郎。



誰しも、本当はどうなんだ?史実は?追求したいのが当然。

これは小説じゃなくて資料だから大丈夫とばかり、すっかりその気になって
いたら、別の資料を見て、コケたり、頭、こんがらがったり。
いくつ読んでも、食い違う。まさかその時代に生まれていたわけじゃないから、
誰しも、答えはわからない。資料系BOOK&小説を掛け算式に、複数読み合わせ
頂けましたら光栄です。

謎の多い人物、西郷頼母。
晩年にあえてスポットして発掘系




_ _ _ _


【駄談】
今となっては故人となった人生の大先輩達の時代に書かれた古い解説書も、個人的には好き。
現在では、新たに解明されているが故、そこに書かれた事柄のうち、ひとつふたつ「あれっ?」があったらあったで
頭置き換えて気にしない。著者のご先祖さんが、東軍だったか、西軍だったかで、定着した観念が異なって当然。
著者達のお爺さん、もしくはお婆さんは、たとえ当時幼少だったにせよ、幕末を見た人。

時には小説もいい。小説はあくまで小説。だけど、心情は、小説じゃなければ、ひしひしと胸に迫ってこない。
途中、行程にある敷石が小説なだけであって、最終的に一番大切なもの、
人物の心情だけは、案外「まさしく本物」・・・かも?しれない。

文章解説(c)by rankten_@piyo、
写真等、素材については頁下表示


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薫風館 :和風イラスト


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