小笠原長行,行動事情経緯1,幕末箱館戦

幕末,箱館戦争,小笠原長行,峠下の少年散華_三好胖の壮絶終焉,唐津藩の事情,小笠原長行辞世の句,共に行動した唐津藩士(江戸脱走、脱藩、奥州参戦、蝦夷新撰組参加組),長行本人にとっての胖之助は甥なのか、弟なのか?の問題について,小笠原家_小笠原長行本人にスポット=近年の掛川藩時代からご案内,小笠原長行中心に見る「小笠原家一族&藩主」,小笠原長行_人生経緯と行動,小笠原胖之助について,蝦夷の初期戦:小笠原胖之助と同時期に散華した人々,【楽天市場】


小笠原長行、夢よ夢、夢は夢ならぬ夢!(七重戦
▲下記資料内容をストーリー&流れで読むには▲




サイトTOP 幕末_WITH_LOVE玄関 _函館戦争の余波<小笠原長行&小笠原胖之助について

資料編:小笠原長行&小笠原胖之助について_No.1
開国派_唐津世子_ 小笠原長行 ・・・ No.2

現在の頁内ガイド:資料編_No.1(現在の頁)< No.2 ストーリー風に流れで読むには

小笠原長行、享年70歳、その老人が、この句を詠んだ。

ma.jpg変人、隠遁、聾唖の廃人・・・
なんと言われようと、黙して語らず、

そんな一人の男、
ついにその魂が爆発した!

夢よ夢 夢てふ夢は夢の夢
  浮世は夢の 夢ならぬ夢

A
■奥州へ来た者は、追いかけてきた者
を含むと当初44人位居た。
B_1
■奥州で江戸に帰れた者2人、■病死1
人(奥州?蝦夷?場所不明)、
B_2■奥州会津方面で死亡8人
B_3:■会津で7人死亡、
___■庄内で一人死亡、
A-B=蝦夷行き
■蝦夷へは23人(内蝦夷で死亡4人
=33すでにあわない。がB_2とB_3を
別の数値と考え、蝦夷側近2人を考慮す
るとだいたい合う。
それぞれの枠内当該地で死亡が明確な者= 赤字
(◆=箱館で死亡、■=慶応元年8/21母成峠で戦死(墓:大龍寺)

長行チーム

江戸の別邸脱走の時従った者18人
1868年(明治元年3/3)

江戸の邸宅に居た者、近習、馬周(親衛隊
)、家老、用心家の若者、国許から書生と
してきていたもの
同じく船に乗って動いた者と
ちょろちょろと陸を移動した者とある。

  1. 大野右仲(又七郎)
    =大野肯堂の子
  2. 尾崎和一郎=尾崎嘉右衛門の子、
    変名、白井勇、堀川慎、
  3. 尾崎堀川▲同一か?▼
  4. 慶応3年のパリ万博随行の尾崎俊
    蔵と同一なのか、親族なのか不明。
    パリ万博のメンバー帰国は長行失
    踪3/3より後だから、追いかけない
    ことには、俊蔵は無理。
  5. 中沢格太
  6. 前場喜司馬
  7. 小林幸二郎◆


  8. 西脇源六郎
  9. 野辺小作
  10. 山久知文次郎
  11. 米渓彦作
  12. 吉倉冕三郎■

親子や兄弟が多いため苗字が一致するから
といって必ずしもソレと断定し難いところ
もある。考察材料としてUP


胖之助の遺骨について
遺骨騒動

曽根鈔三郎
は後に達蔵と改名。工学博士となった人。
談話「故小笠原版の助格子の御事績」
大正15年10月の新聞記事:佐久間退三翁
の名である。この佐久間イコール曽根
とも、 佐久間とも

明治5年、幕府軍を弔った罪で、宝琳寺は
移転させられる。新政府が墓を暴く前に
連絡をくれた可能性有。ちなみに墓
は唐津の近松寺にある。

それを裏付ける内容として▼

西脇謙三郎(旧名、鳥羽丹治)
旧唐津藩士
が明治6年夏に七重村に行って、
遺骨を引取るとある。



高仲重二郎=高仲則順について

◇江戸生
◇変名:天野十郎,高野十郎(五郎
◇高仲幸蔵の長男,母=カマ
◇七重で首に怪我,以降会計係

老人説72歳説があるが、別資料の生没
資料と矛盾するが調べる価値有
天保12/1/19~大正11/7/7
  • 怪我後会計係とは、上記生没年
    だと26歳で若い。若者が会計係
    では戦力として勿体無い。
■終焉時には戦うがそれまで会計専門
やはり若くないかも?72歳が仮に、真実と
立証できたら(或るいは他誰か別の隊士が
老齢だとすれば 新撰組老隊士とは伝説
なくなる。

■また新撰組裏切り派=高円寺党の
安部十郎と変名が似ていることから
混同視されてる資料も有るかもしれない。

安部十郎:変名(高野十郎,天野十郎,
高野五郎,高埜十郎)とやはり一部
ダブる。

江戸の藩邸や他に潜伏していた者の内
後に脱藩してきた者


  1. 前場小五郎
  2. 山岸峰二郎(曲淵一郎右衛門)
  3. 山田寛司(変名、堀尾金吾)
  4. 綿(渡)貫七之助
  5. 宮川丈之助
  6. 白水良二郎=奥州で死亡
  7. 山際平三郎
  8. 鶴岡雄助
  9. 佐藤権太郎

他にも気になるなまえ
  1. 水野忠右衛門(友枝が変名
  2. 高須大二郎■
  3. 吉倉冕三郎=郁太郎の弟■
    将軍山=母成峠で戦死。
  4. 吉倉郁太郎=冕三郎の兄



庄内降伏の後、分領地にいた桑名も
捕まって降伏。そのメンバーに
応援に行っていた8名の唐津の者も
同時に生き残っていた者は捕まる。
下記8番白水氏以外が全部生きたか不明
この枠内で生きたが明確な者


  1. 水野栄松
  2. 吉倉郁太郎
  3. 曽根
    曽根鈔三郎 は後に達蔵と改名。
    工学博士となった。
    談話「故小笠原版の助格子の御
    事績」大正15年10月の新聞記事
    :佐久間退三翁の名である。こ
    の佐久間≒曽根とも、 佐久間とも
  4. 足立錬三郎
  5. 香山五三郎
  6. 綿(渡)貫七之助
  7. 宮川丈之助
  8. 白水良二郎=戦死。

小笠原胖之助=三好胖 の死亡状況

◇死亡10/24午後4時頃、(鳴川野、中須
田)方面でのでき事。
◇胸、腰に各被弾(時計の鎖が体内に
食い込む深い被弾)
◇刀傷9箇所(そのうち1件は顔
眉から顎にかけて大きな傷血が流れる
◇指3本切断
◇刀こぼれ10箇所
◇刀つばに8箇所傷
◇突貫は計3回説有


胖之助チーム
一行は全部で18人。彰義隊で戦った為
そのうち11名は親王の護衛隊。
松平太郎の斡旋で長鯨丸で奥州へ。

  1. 曽根鈔三郎
  2. 足立錬三郎
  3. 高須大二郎■
  4. 高須熊雄
  5. 水野栄松
  6. 水野忠右衛門■
  7. 吉川七之助■
  8. 吉倉勉( )三郎■
  9. 香山五三郎
  10. 栗原仙之助◆
  11. 市川熊雄■
  12. 田辺銕(鉄)三郎■
  13. 西川春洞(多分医者)
    長行の手医師:西川玄仲の子


新撰組に入った者と蝦夷へ行った者

1_新撰組

■函館で4人死亡
彼らの変名については、後日また追加
  1. 小笠原胖之助=三好胖◆
  2. 大野右仲(別名▼
    ・大野又七郎,興宗,煕宗,
    ・孝孫,松川精一
  3. 前場小五郎(別名▼
    ・行景,大久保与一郎景利
  4. 前場喜司馬(別名▼
    ・景理,川勝謙二郎
  5. 山久知文ニ郎(別名▼
    ・高義,田邊斧次,斧治,
    ・義利,田山文吉
  6. 佐久間銀次(太)郎(別名▼
    ・土岐善次郎=退三
  7. 市橋秀松
  8. 高仲重二郎=高仲則順(別名▼
    ・天野十郎,高野十郎(五郎)
    ・七重で首に怪我,江戸生
    以降会計係,高仲幸蔵の長男,
    母=カマ
  9. 印具馬作(変名▼
    ・馬之助,〃官悦,〃三治,
    ・帆足徹之助
  10. 多賀男也:福与男也
  11. 多岡≒多賀(権太郎)
    • 15歳位、皆より釈放早い
      1854年(嘉永7年生?男也
      と親子か兄弟か親戚?
  12. 中沢格太(務 )
  13. 西脇源六郎(別名▼
    • 勝貞,大西玄蕃,
      大西源八
  14. ▼西脇乾三郎(別名▼
    ・〃乾次(二)郎 ,小西田造
    西脇謙三郎(旧唐津藩士)
    (旧名、鳥羽丹治)

    が明治6年夏に七重村にいたり、
    遺骨を引取るとある。
    同一人物か?西脇鳥羽家に親戚
    関係か、養子か?要考察
  15. ▲鳥羽多喜松
  16. 高須熊雄:高須直勝
    (高須大二郎と別人か?
  17. 鶴岡雄助(健四郎 )〃鎌四郎,
  18. 小久保清吉◆ 22歳(七重で死
    • 弘化4~明治元10/24
      小久保弥吉の長男,中島登
      は25歳と書いているが
      22歳が正解.彼の父は三好
      胖の父の家来.幼い時から
      家来兼遊び相手
  19. 明石覚四郎
  20. 佐藤(権山、権(房)太郎
  21. 栗原仙之助◆ 23歳:M2/5/11死
    小林大怪我の後間もなく死亡
    重之助,仙之助と記資料も有
  22. 野辺小作(別名▼
    • 〃民雄,鬼々大作,〃實
  23. 山際平三郎
  24. 小林幸二郎◆
    降伏後の病死:弘前謹慎仲死
2_家来として随行許可された者
  1. 米渓彦作
  2. 尾形俊蔵≒尾崎

3_家来として随行許可された者と
別に、もう一人、この人物も居る。


■尾崎■
尾崎とは、現在頁左枠参照。
和一郎と、尾崎堀川、パリ万博随行の
尾崎俊蔵の3とおり考えられるが、
尾崎俊蔵が追いかけて合流していた
可能性がある。とすれば、上記の
尾形俊蔵=尾崎俊蔵となる。


小笠原家 _小笠原長行本人 にスポット=近年の掛川藩時代からご案内
  • この家系:
    転勤続きで借金増えた。藩主の早世=幼少藩主は、実質上、力無しと判断されて
    国替えされる。また転勤費用かかる。そんな歴代遍歴で困窮。その上、長行本人の父(=長昌)が、
    再び28歳で若死。長行本人は当時1歳。父の顔を知らぬ子である。
    またもや国替命令を食らうと辛い。家来達が鳩首。
    長行はハンディがないにもかかわらず、聾唖の廃人として、出生届けを出されなかった。
    それは、もう少し年齢が上の者を養子にして継承させておくため。
  • 聾唖の廃人としてとしておけば、仮に発覚しても、言い訳がつく範囲。家来達の苦肉の策だった。
    しかし、この出生誤魔化しが、壮年時期に於いて、何かと不便な場面を幾多と迎えることになる。
  • 長行は自分という存在がありながら、自分を素通りして、目の前で4代も藩主が移行する姿を
    冷ややかに見つめている。
  • ★印のついた上欄2名が榎本艦隊合流。長行本人&胖之助。胖之助は箱館戦争で死亡。
  • 長行本人にとっての胖之助は甥なのか、弟なのか?の問題について
    ◇書面の上では、長行の父:長昌が養子にした子=長泰(=胖之助の父)だから、 理屈上は甥
    胖之助の父:長泰は、 長行の父:長昌と比べると10歳しか離れていないし、縁戚。
    長行にとっておじさんの子という感覚はあるものの、父が養子にした子の子=自分の兄弟の子
    とは、感じ難い。
    ◇その一方で、心の中では自分は初代藩主の子なのにと思っている長行にとっては、自分より少しだけ
    年上の他所から連れてこられた人達が、自分を通過して、順次藩主になってゆく。
    そんな中、胖之助だけは、他所で生まれた存在ではなく、久々に我が家に生まれた子として愛着を
    持てる存在となった。「我がいろと=弟の意味」と言ったり、書いたりした本人の気持ちは頷ける。

    自分も多分大名になれない身。胖之助も、半ば浮いた存在=隠居の子。しかも母は商家であり完全に
    妾の子扱い。ほっとけなかった。可愛かった。(母は薄化粧で大変しとやかと伝わるが身分社会の時代

    ◇胖之助にとって
    唐津五代藩主長国時代に、以前隠居としては今だ生きていた長泰に子が生まれた。それが、胖之助。
    母は江戸の商家。江戸藩邸で生まれた。この頃、長行は江戸に居た。
    江戸育ちの胖之助にとって、唐津の現況藩主長国よりも、物心ついた時からずっと居る優しいお兄ちゃん
    の長行のほうに当然懐く。9歳で実の父を失った彼は、30歳の年齢差がある長行は、ある意味で
    第二のお父さん。




小笠原長行
(ながみち
壱岐守

父親=長昌
母について右列
妻=長国の子、満寿姫
側室=美和

■長行の育て役
:小川正直
■著書:
「夢のかごと」
文政5年5月11日(1822/6/29)
~明治24年(1891年)1月25日
・箱館戦争参戦時46歳
  • 名:幼名は行若,長若,
    元服して、敬七郎
  • 箱館戦争時の変名は
    大井除(余)介、山中静翁、
    三好寛介(齋)、
藩主でなく世子:従五位下、老中格
図書頭 、壱岐守、
号:明山、天全、洗耳、遠清
初代唐津藩主としての初代_長昌の子(但し妾腹の子)
生母=松倉(島原の乱でとりつぶされた旧島原城主、松倉氏の一族か?)
嫡母=水野織部正忠光の次女お連の方、



長行本人が1歳の時、文政6年(1823/11/1)に父・ 長昌
が死去。後継の藩主には順次4人の養子が慌ててIN。
しかし皆早世か不適切。長国でやっと落ち着いたが、
自分がこの時19歳やればできる年齢なのに、また、
よそから養子が来た複雑な気持ち。

後に、第5代藩主_長国の娘を娶るため、紙面上は
婿養子にもなるが、義理父と10歳しか離れていない。辻褄あわせとして、藩主の娘でなく一門の娘という形
で調整された。
享年
69歳
父・ 長昌

小笠原胖之助
変名:三好胖
嘉永5年11月?日(1852)~
明治元/10/24(1868/12/7)
胖之助は、父_長泰の4男で末っ子
父は56歳まで生きたが、病弱で政治手腕不足で早めに
隠居させられている。父46歳の時の子。胖之助10歳の
時、父死亡。病弱な隠居である父の姿しか知らない。
箱館戦争初期戦、七重で死亡。
享年
16歳
11ヶ
長行の義理甥
箱館戦争参戦時16歳
父・長泰
小笠原家は小藩の譜代大名:もとから唐津ではない。彼らの宿命はいわば転勤族。
小笠原長行本人 にスポットのため、関連の後半:掛川藩時代から
小笠原家時代に
おける藩主
藩の
地名場所
関係。memo
掛川藩_譜代 6万石 :1711~1746
35年間
長煕(ながひろ

長庸(ながつね

長恭(ながゆき
掛川藩
(静岡県)
小笠原家3代
長恭時代に
左遷
(長庸時代)長庸23歳若死
(長恭時代=3歳で藩主:父=長庸若死のため)
白浪五人男事件。日本左衛門=浜島庄兵衛の事件。
藩の面目アウト。左遷。5歳の時、棚倉へ移される。
・・幼少で事件解決能力がないため左遷
長庸時代
23歳若死
藩主
藩の
地名場所
関係。memo
奥州棚倉藩_譜代 65000石 :1746~1817年
表面は6.5万石だが、そのうち2万は近江。
71年間
長恭(ながゆき
(上記同一人物
奥州棚倉藩
(福島)
小笠原家3代
掛川藩から
移転
長庸の長男
(長恭時代)=5歳の時、掛川藩から移転
長堯(ながたか
長恭の長男
実力派
長昌 (ながまさ
(1796~1823)
長堯の六男
長行本人の父
兄がいずれも早世の為1812年16歳で藩主,
時の権力負け。父が隠居させられて本人は若い。
1817年21歳で唐津へ移封
藩主
藩の
地名場所
関係。memo
唐津藩_譜代 6万石 (1817年~1871年)
・・・4代連続病弱不適任&若死
54年間
列内の数字は何か?というと

上行数字(例1841)=当該藩主即位の年号、
下行数字(例19歳)=藩主が即位した時、 長行本人が何歳だったかを表現
1
長昌
(上記同一人物
在職12年で死
唐津藩
小笠原家5代
1817

-
同上
棚倉から移転されため藩主経験は前藩で5年。
改めこの藩では、21歳で唐津藩主。
しかし、28歳で死亡。
棚倉時代の莫大な借金のために藩財政が窮乏化
文政6年(1823年)9月29日、28歳の若さで死去。
実子・長行は1歳で幼少だった。
28歳若死
2
長泰(ながやす
在職10年隠居、(1806~1862)
1823
1歳
・長昌の養子
・小笠原胖之助
_の父
出羽国庄内藩主・酒井忠徳の子
1823年、17歳で藩主になるも、27歳で隠居。
56歳まで生きたが病弱だったために精力的な藩政に
着手できず、税を高める等で凌ぎ、適切ではない。
早めに隠居となった。小笠原胖之助は長泰の4男
56歳
3
長会(ながお)
在職3年で死
1833
11歳
・長泰の養子
23歳で藩主。小笠原長保(旗本)の次男
長昌の外甥
27歳若死
4
長和(ながかず
在職4年で死
1821生の人物
1836
14歳
・長会の養子
15歳で藩主
大和国郡山藩主・柳沢保泰の九男
20歳若死
5
長国(ながくに
1812生の人物
1841
19歳
・先代より年上
の為、先代以外
の家門の養子
29歳で藩主。
信濃国松本藩主・戸田松平家の松平光庸の次男
この長国時代に、以前隠居としては生きている長泰
に子が生まれた。それが、胖之助。
娘を長行に嫁がせた為、長国は「長行の妻の父」に該
当するが、長行は自分より僅か10歳年下。
辻褄あわせを行った。 この娘満寿姫は、婿の長行と
30歳位離れている。(年齢的には胖之助と同じ位の娘)
列内の数字は何か?というと

上行数字(例1841)=当該藩主即位の年号、
下行数字(例19歳)=藩主が即位した時、 長行本人が何歳だったかを表現
唐津藩_小笠原家の事情
文政元年唐津に移転:唐津の小笠原家は小藩の譜代大名。わずか6万石。
周囲は、筑前前田、肥前鍋島、肥後細川:数十万石クラスの大藩外様。
奥州と小笠原家の関係
胖之助の父、長泰は庄内藩酒井家からの養子
白河郡棚倉は小笠原家の旧領。
長行の自藩内仕事ぶり

逸話
藩政改革:悪政排除&目安箱の設置
■藩士は俸禄の2割引システムがあり生活が苦しい。
内職をしたり自分で畑を耕したり。そのため、農民達に減税を餌に賄賂を請求していた。
■農民は、結局苦しい。
■解決:2割引システムを取っ払い、藩士の生活を向上させたかわりに、目安箱を置いて、
賄賂請求した藩士を農民がチクって良いとした。=一石二鳥=領民も藩士も救われる。

榎本艦隊に入り、完全賊軍となったため、藩主=妻の父=小笠原長国から
養子関係を絶縁される。
名1852
補足
関係。memo
解説
備考

■人生経緯と行動

小笠原長行年齢
人生経緯と行動文政5年5月11日(1822年6月29日). 死没, 明治24年(1891年)1月25日
2歳

父長昌死亡
父親長昌が江戸藩邸で死亡。
  • 相続が間に合わないとお家取り潰しは皆知っているから、ふつうなら幼くても継続
    させるが転勤族の場合、それだけではことたりない。藩主が幼いと、実質左遷。
    既に国替続きで借金だらけ。またしてもでは困る。家老達が鳩首して策を練った。
    子はいるが、 『聾唖の廃人』ということにしておいて、出生届を出さなかった。
    本当は全くハンディはない。
21歳:江戸へ
江戸に出た。
36歳
安政4年9月

政界へ
デビュー:聾唖
の廃人説撤収
36歳でデビュー:聾唖の廃人説撤収
  • 家臣達は、長行が優秀なので、浮いた存在(『聾唖の廃人』扱いで生まれてないこと
    にしてある経緯)から離脱させたいが、藩主と10歳しか異ならないので、養子にする
    では辻褄があわない。 小笠原茂手記 の次男ということにしてデビュー。
  • バックアップしたのが土佐の山内容堂。挨拶に来いと再三使いをやるが、ひねくれ者の
    本人は何回目かにやっと登場。当然山内怒って席を外す。頭に来て退場した山内に
    対して、本人は「折角膳の用意を頂き、これでは恐縮。一箸つけさせて頂いて
    てから帰ります。」と冷静。ゆっくり食べて帰った。この様子を家臣に聞かされた山内。
    可愛くないが、大物の予感に納得。
41歳
文久3年
1863

生麦事件
の独断賠償金
支払い事件

奇行とされる
クーデター
生麦事件の独断賠償金支払い事件

独断で生麦事件の賠償金を払った。ということになっているがそんなわけはない。
そんな多額の金、やはりバックヤードはいる。その証拠に、謹慎は形式的だった。
が事情を知らぬ者、攘夷派による天誅が非常に危なかった。
黒幕は水野忠徳 とも言われている。

奇行とされるクーデター

金を払った後が凄い。払った足で、軍を引きつれ、横浜港を立った。
6/1に大阪に到着。そのまま京都へ進軍。400以上の洋式隊や騎兵役150人、歩兵を含め、
約1200の兵力。メンバーには、 勘定奉行:水野忠徳 をはじめ、外国奉行、井上信濃守清直、
目付、向山栄五郎、同、土屋民部正直、町奉行井上清直
なども居る。

6/6には、板倉周防守勝静達が登場してやっと彼らを引き止めた。
この騒ぎで、6/7京都に人質同然だった家茂が江戸に帰ることになった。
一応役に立っている。
威圧のデモンストレーションではあったのだろうが、切腹覚悟は本気だったと思われる。

クーデターを図ったのではないかとされているのは、この事件のこと。
クーデターの目的が定かにされていない。
「来た理由は金を払った理由の説明をする為だ。」と言っているが、武力隊をもっての
進軍理由を曖昧にしている。しかし、本当の黒幕といえば、やはり、慶喜。
慶喜が乗船する予定のライモン丸を土壇場でキャンセルした事実が浮上している。
火中の栗を拾わされた。
43歳
慶応元年
1865
10月
老中となる。
44歳
慶応2年
1866
2/4
幕府の全権委任を受け、長州藩に対する領土10万石削封、藩主父子蟄居処分通達の為、広島
へ向かう。この時、新撰組の近藤勇ほか伊東甲子太郎、篠原泰之進、尾形俊太郎が先行して
広島出張。しかし、近藤と尾形は別行動で、長行に面談したのは、伊東と篠原(新撰組
裏切りの後高台寺党チーム!)
45歳
慶応3年
1867
10月
大政奉還、同年12月、王政復古大号令
脱走&奥州参戦&榎本艦隊入隊
46歳
1868年
明治元
2月
小栗罷免のあと、明治元2/7日辞表。2/10日には罷免。
3月
明治元/3/3:藩には秘密&行方不明の形で深川高橋の別邸を脱走。奥州棚倉から順次移動、
仙台で榎本艦隊合流=蝦夷へ
47歳
1869年
明治2年
4月
23日
脱走劇は明確でない。3殿といわれるチーム(桑名:松平尊定敬、備中:板倉勝静)と同時期
なのか、やや遅いのか不明。有力説では、備中松山の板倉勝静と同時。その際、3人の
従者がついたという。仙台経由の船で乗り換えて横浜INなのかも不明。
説多数で、判断できない。しかし、下欄経緯から、事前にこの脱走劇の協力者をゲットして
いたようだ。当時箱館港は国際港の為、外国船キャッチは可能だった。
潜伏時代:終焉の榎本軍を脱走、江戸に潜伏



年~明


47歳
1869年
明治2年

知人宅を転々
■実は匿ってもらっていた。知人に迷惑をかける為、晩年に至っても本人は曖昧にしている。
・本人は「越後の農家でまぐさにまみれて寝た」などと誤魔化し書いている。

・新発田藩士の 大野誠(賢次郎)(古い漢学の友・当時宮内庁?)
古本屋:和泉屋金右衛門 に潜伏したらしい。
・本当に ▼穴の中で暮らした時期 がある。
  • これはこの本人金右衛門が死んだ後、後家さんが語った。
    縁の下に穴を掘って、女中さえわからぬ状態 で匿ったという。
    本人の息子、小笠原長生の話でも、ここに一番永く居たらしいとあるから合致する。
明治2・3・4
の?年~
明治5年

湯島妻恋時代

この時代に
家臣達の働き
でなんとか
世に出て、謝
罪されるまで
を確保。
その後、湯島妻恋に一戸を借り入れて潜伏。かつて御家人の隠居が住み捨てた小さな荒屋式。
  • 女中を雇い、 太田俊介 が厄介人に扮して二階に住んでいた。
    太田は小倉戦争で長行が富士山丸で脱出した時の従者でもある。
    明治時期の本名は 太田俊【左側辺はにんべんでなく田】太郎 か?
  • 先に釈放された二人の家来は、「公はアメリカに逃げた」と言ってカモフラージュ。
    ■二人とは:米渓と尾崎は、以来、アメリカに為替でおくる。
    ■米渓彦作は蝦夷にも随行している。(新撰組編入組でなく、専用家来としての
    _下記、尾形俊蔵≒尾崎と共に)
    ■尾崎和一郎=尾崎嘉右衛門の子、(変名、白井勇、堀川慎)は奥州随行している。
    ■尾崎堀川という名も奥州随行の記入有り。同一人物か▲
    ■尾崎俊蔵ならば、パリ万博帰りで小笠原を追いかけて合流&蝦夷で新撰組
    _編入チームでなく家来として随行した者(多分当該はこの人物)
  • 上記二人=米渓と尾崎は、あたかも、アメリカに本当に居るように装うために、
    為替を使った。知人のアメリカ人にまず為替で送る。その証拠を残す。
    今度はそのアメリカ人が、太田に渡す。太田がそれを長行の生活費として手渡した。
    といっても本人は外出不可の為、そのお金で太田が必要な物を購入支払いした。
  • 安全確保の為、一部の家来達のみぞ知る状態。家族にさえ内緒状態で徹底していた。
  • 家来達が要人に諮り周到な証拠作りの上、安全確認の上シナリオが実行された。
出現

50歳
1872年
明治5年
4月
突如今まで行方不明だったが、只今、アメリカから立ち戻ったということにして
飄然と東京に姿をあらわした。もちろん嘘。シナリオ実行。
7月
新政府に自首(家来達の計らいで多分許されるだろうの形にセットした上での自首
8月
8月4日に赦される。
※世捨て人の隠遁生活



年~明

24
駒込動坂時代

50歳
1872年
明治5年

70歳
1891年
明治24年
明治5年(1872年)8月:駒込動坂のあばら家に住む。農夫のような百姓か植木屋さんみたいな。
明治9年(1876年)11月従五位に叙任され、
明治13年(1880年)6月、従四位に叙任された。
明治24年(1891年)1月25日、駒込の自邸で死去した。
  • 息子と同居。
    松平容保が来ても、松平春嶽が来ても、隠れる、居留守する。会わなかった。
    家臣の 大野右仲 にさえあわない。しかし、彼には呵責がある。手紙でとぼけている。
    「もう年取ってぼけた。何も思い出せない程惚けた。とても人に会えない位に
    惚けた。悪く思わないでくれ。」・・と手紙を書ける位だから惚けてないのが明確だが、
    大野なら、怒るところか、きっと泣いただろう。結局大野のほうが先に死んでしまった。
    • 大野右仲 :蝦夷では新撰組で土方歳三の右腕になって活躍した重要人物
  • 散々家来に世話になっていながら、しまいには彼らにも会わなくなった。
シナリオを計画&実行できた訳

  • 忠誠の家臣と仲間&知恵者による有力者のゲット
  • 外人ルート:開国派の長行は顔があった。
    • 逸話では、交渉の際、やって来る男が誰かを彼ら外人が双眼鏡で覗いて見ると、小笠原で
      ないと解った時はがっかりしたという話がある。
表1をご参照下さい。奥州方面で随行していた家来が何人か捕縛された。
生き残りの者は蝦夷に随行して永く捕縛された者よりも、早く自由の身になり動きやすかった。
  • 早期釈放組と随行できなかった者
    • 尾崎和一郎=尾崎嘉右衛門の子(変名、白井勇、堀川慎)は奥州随行している。
      ■尾崎堀川という名も奥州随行の記入有り。同一人物か▲
      ■太田俊介が厄介人に扮して二階に住んでいた。
      太田は小倉戦争で長行が富士山丸で脱出した時の従者でもある。
  • 蝦夷随行組:己が釈放された後は殿救済に走った。
  • 学問仲間:優秀でありながら、出生の絡みで藩主になれず、長らく部屋住み暮らしを
    強いられた身の上の長行は、漢学仲間とのつきあいも長い。信頼できる友がいた。
    • 新発田藩士の大野誠(賢次郎)
      古本屋:和泉屋金右衛門(学問好きの長行は長年多数本を買って付き合いも長い。

■潜伏を続け、自主しなかったのはなぜ?

殿様の自主はいいが、たいてい家臣の首犠牲が出ている。抗戦派代表として、会津も桑名も
切腹を強いられた者が発生。血で贖っている。
自主せず潜伏した理由は、家臣の犠牲を恐れたのかどうかは不明。しかし、この人の場合、殿達と異なり、
長州征伐軍を率いた経歴もあれば、文久3年1863の「生麦事件の独断賠償金独断支払い事件」、「謎の進軍、
奇行とされるクーデター」など、官軍の目から見ると、お育ちの良い松平ファミリーが勇気を振り絞って
闘いに挑んだ・・・のとは大分違って、かなりの曲者。本人処刑の確立は高い。
蝦夷では、客員として、窓際族だったが、東北では、偽名を使っているが、軍を指揮している。

上記内容をストーリー&流れで読むには▼
小笠原長行、夢よ夢、夢は夢ならぬ夢!(七重戦



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文章解説(c)by rankten_@piyo、
写真等、素材については頁下表示


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