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林忠崇,幕末戊辰,脱藩大名_林忠崇(4編
幕末,戊辰戦争,箱館戦争,林忠崇資料編,脱藩大名:上総請西藩主:林忠崇,脱藩大名_上総請西藩主_林忠崇,若き純情:青いりんごとフランス人形_No.4,林忠崇の参戦~自首降伏までの経緯,降伏後の人生、その軌跡を追う,【楽天市場】
林忠崇,脱藩大名:上総請西藩主:林忠崇
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幕末_WITH_LOVE玄関
_函館戦争の余波<箱館戦争脇役者達SERIES
<脱藩大名_上総請西藩主_
林忠崇
(若き純情、青いりんごとフランス人形):No.4(現在の頁)
幕末の・・・若き純情_上総請西藩主__
林忠崇
(_No.4
脱藩大名の青いりんごとフランス人形
林忠崇
(SEIRES:
No.1
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No.2
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No.3
<
No.4
(現在の頁)<
No.5
この頁内ナビ
(大脈と精神的なもの)
■謹慎の後人生No.1_夢のこと(母の夢、家老_北爪の夢)
■謹慎の後人生No.2_戦争とフランス人形
詳細表は別途こちらの頁にあります。
(経過)
■経過_1:謹慎、農民、下級官員,■経過_2:答えはNO!,_榎本武揚と人見勝太郎
■経過_3:_最果ての函館暮らし、そして流浪
■経過_4:救世主とふたつの血族【◇かつての家臣「広部周助」の子、広部精、◇我が子、ミツ】
■経過_5:辞世の句は二度ない
謹慎の後人生No.1_夢のこと
この前の部分から読む
)
林忠崇は随分、長く生きた。戊辰に戦った男が、昭和まで生きた。
謹慎時代は、何度も同じ夢を見て魘された。彼は手記に書いた。
この頃、頻繁に夢を見た。死んだ母に呼ばれて目が覚めるのだ。
夢枕に立った母は、泣きながら、彼を呼ぶ。
もう良い。それで良い。充分頑張ったのだから、もう良い。
それ以上、苦しみを背負うな。早く、来い。
しかし、この頃、昭和になると、かつてと異なり、夢枕に亡き母が立って
呼ぶことはなくなっている。
ところが、会津に残した家老、
北爪貢の夢
を見るのは稀ではなかった。
とはいえ、当時既に老人であったことから、仮に尋常な暮らしにあったとて、
とっくの昔、明治の初期には落命するであろう者である。
明治初期の頃、忠崇は、馬鹿げた空想と自嘲しつつ、存命を祈っていたものだった。
出るに出られぬ無様な体になったとて、何処かで身を隠して静かに暮らしていて
くれたならば、それで良い。祈る思いが、夢に繋がった。
しかし、それにしても、夢の時、人は皆、無防備なものだ。
日頃忘れていることも、夢の中では、蘇っては、
それに動揺したり、悲しんだりする己の姿は無様なほどに露骨だ。
しかも、いい年をして、あきれたことに、
夢に登場する己は少年の時だったりする。
今日に至っても、
本当は罪を感じている!後悔している!彷徨っている!
夢などという余計な現象のおかげで、
そんな自分を不快ながら、認めざるをえない。
会津に残した北爪と広部のうち、広部が生き延びてくれたのは、比較的早期に知った。
それどころか、彼にこうして安定の晩年を授けてくれた発端は、広部の息子、広部精なのだ。
その一方で、北爪に関しては、この時期に至っても、今だ、情報は入手できなかった。
広部精らのはたらきで、ほんの少しだけは情報を得た。
「北爪は、敗色濃厚の明治2年8月下旬、新政府へ降伏謝罪に出向くところだった。」
広部精の父、広部周助は、北爪に接した最後の男だったからだ。しかし解ったのはそれだけ。
あの頃:明治元年の夏~秋:
若い藩主_忠崇は正義感に燃え、歯を食いしばっては、
東へ西へ必死で走り回る。
さりとて戦況は鳴り止まぬ。会津の宿命も目に見えている。
(史実は9/22会津降伏)
それまで、_
林忠崇
(の命令で会津に残された家老の北爪は、腹をくくった。
他藩の例から、家老の首ひとつで、藩主は、たとえ地位や富は奪われても、命だけは救われる。
その実態を踏まえて、自ら首を討たれる為に向かったのであろう。しかし、消息が途絶えた。
■「戦亡殉難者志士人名禄」というものは存在していたが、一般人が、行方不明の親族探しの為に、
発想が簡単にこの本に向くものではない。しかも、明治、大正、昭和は戦争ばかりやってる時代故、
通り過ぎた江戸時代の過去を掘り返す暇は、皆になかった。順次世代が移行するに及んで、
多くは風化して消えた。おそらく、林忠崇は、北爪の結末を聞き知ることはなかっただろう。
■尚、謹慎期間の実情とは
これは、人によって両極端。預かり先が、内心同情している場合、表向き大人しく屋敷に幽閉された形式で、
実はこの間、山盛り勉学に勤しめたタイプの者も居る。後は其の反対。劣悪環境。林は後者。内心死ねばよいという
ような非人道的な閉じ込めではないのだが、実に厳しい。年齢が若い事から、仕置きとして完全に名実共に謹慎。
ひたすら反省させられており、本も勉学もダメ。朝から晩まで正座させられて、心で反省するを徹底された。
普通人なら、下半身不随になってしまうが、不幸中の幸い、彼の体は頑強。健康状態だけは侵食されずにすんだ。
しかしながら・・・これじゃ、確かに夢枕に冥土の母が立つはずだ。
戦亡殉難者志士人名禄に見る北爪貢
請西藩家老 藩情嘆願の為、上野利根郡戸倉関門に至る。
警備兵(前橋、吉井藩)の為、とらわれ、
明治元年 9月2日、同処にて惨殺さる。
「戦亡殉難者志士人名禄」
やはり、新政府へ降伏謝罪に出向く途中だったというのは事実だったことが解る。
上野利根郡戸倉関門とは、群馬県。北爪は何処へ向けていたのだろう。
江戸へ向いたか、途中、嘆願に助力を得られる伝を求めての移動だったのか。
つまらぬ相手に降れば、大義(=藩情嘆願&藩主存命嘆願)を無視され、
下らぬ手柄欲しさに首だけ討ち取られるのが関の山。
犬死してなるものかと、降るべき相手を選んでの旅道中だったのだろうか。
たった2行の文章から、それ以上解らない。
しかし、結果は無残。典型的な犬死にされてしまった。
謹慎の後人生No.2_戦争とフランス人形
彼は、散々な人生を彷徨ったが、明治18、及び20年頃から、
「二つの血族」
に救われる
運を得て、人並みに幸せな暮らしになった。90歳を超えても、腰も曲がらず、元気なのだ。
頑張り屋の娘、ミツは女社長。彼女が経営するミカド商会は、とんとん拍子。
この会社は、当時としてはなかなかの注目商品、フランス人形の製造販売を行った。
惜しげなくありとあらゆる高級素材を用い、心を込めて作られた人形。
手の込んだ細工を散りばめた人形は絶品である。
大手デパートに卸して、陣取り、安定したシェアを獲得していた。
薄利多売のばたばた商売と異なり、特殊商品であることから、
一部の富裕層に絶賛され、収益にぐらつきがなく、
この会社は実に堂々としたものだった。
ところが、戦争が、なにもかもだめにした。
英語、洋語の撤廃令が降って沸いた時代のこと、
フランス人形販売までご法度。
(
時代背景、当時の様子については、こちらの頁をどうぞ
。)
異人人形は忌み嫌われ、商売を畳み、哀れ、在庫の人形は撤収された。
鬼の女社長とて、女は女。その昔、少女だったのだ。
つぶらな瞳の可憐な人形。幾つか、ミツは家へ連れ帰った。
しかし、嘆いている暇はない。商売を畳んだ後、ミツは早急に対処してアパート経営に路線換えした。
昭和15年、92歳と老齢の
林忠崇
(も、娘の経営するアパート、
豊島区高田南町1丁目1番地の高田荘の一室に引越した。
気丈を装うミツ。あいかわらず、てきぱきと動き回る。
しかし、夜、家で座り込んでいる時には、
ふと空虚な気持ちに取り付かれてしまう。
ぼんやりしていると、
可憐なフランス人形の目線にぶつかる。
「貴女は、今、きっと、悲しいのでしょう。」
人形まで、今にも泣き出してしまそう。
幾度もそんな錯覚に襲われた。
ある意味で、父のほうが、あの年で、
今だ、私よりも強いかもしれない。
ふとそう思った。
林忠崇
(は、夜寝る時、昔と同様に、やや横向けの不自然な形で就寝する。体調を崩し、熱があろうが、
風邪をひこうが、絶対、この姿勢で寝る。けっして普通の「仰臥の姿」を見せたことがないのであった。
かつて、彼女はストレートに父にその訳を尋ねたことがある。父は娘に答えて言った。
「この姿勢はのう、即座に刀を持てる体勢じゃ。武士は、みすみす刺客ごときに
やられてはならぬ。武に生きる者は、眠る時とて、油断してはならんのじゃ。」
この話を聞いた時、ミツは今よりずっと若かった。完全に呆れた。
おそらく岡山に居た頃であろう。当時、彼女は新妻。少女時代、父と暮らした経験は無きに等しい。
事情で、両親はすぐ離婚したからだ。嫁ぎ先に父を引取って暮らした。
しかし、今ミツは、つくづく、父の強さを思い知った。
昭和16年、93歳にもなる忠崇は、今だ、その「武士の就寝の姿」とやらを、やめようとしないのだ。
父は、きっと、まだまだ生きれるにちがいない。
「お父さん、頑張れ!」
そう思うと、やっと、自分にも元気が蘇ってきた。
ところが、昭和16年1月、東条英機の生き恥曝さず散華すべし発言の後、忠崇は風邪をひいた。
寝間へお粥を運ぶ時、彼女は初めて、仰向けに床についている父を見た。
悲しかった。やはり老いたのだ。痛感せずにはいられなかった。
しかし、そう思うも束の間。数日後、あっけなく、逝った。
林忠崇
(は、昭和16(1941)年1月22日午前11時、93歳で生涯を閉じた。
世は戦争一色に染められていた。
長く生きただけ、最期に戦争の余計な世界を見てしまった。
人生を振り返る:経過と、人との巡り合いについて_(1~5)
経過_1:謹慎、農民、下級官員
謹慎生活は、遠縁の江戸唐津藩邸に始まった。
次は、忠弘の家に移された。しかし、これは、最悪の苦悩である。この頃、忠弘は
命だけ救われたも同然で、全領地を取り上げられ、一文無しのどん底生活。
この宿命を強いられるに至ったは、他の誰でもなく、脱藩藩主、
林忠崇
の行いが原因である。
林忠崇
はとてもこの家に居れる状態ではなかった。
一人、帰農生活となった。かつての己の領地、皮肉にも農民となったのである。
農民達は、いてもたってもいられなかった。かつての忠崇の姿が瞼に焼き付いている。
藩主の地位を捨ててまで、徳川の為出陣した慶応4年閏4月3日の朝。
正義感に燃え、神々しいあの若き藩主様の姿。(
注:慶応4年:閏4月は4月の次で、5月の前月
)
彼ら農民は、他藩にはない日本一の藩主様と慕い、その勇気を讃え、皆土下座して、
涙ながらに見送った。それが今、この変わり果てた姿。
さっそく走り回って世話をした。彼に随行した藩士達もこの時期まだどん底。
表立って、身動きできない頃だった。彼らの世話で、妻を得た。
本人も、このまま埋没の人生をひとたび認めたようだ。子も生まれ小さな幸せが・・・と
いう時、早世されてしまった。
随従した家来達も同様に最下層を這い回っている。しかし、食うや食わずやの彼らながら、
先に、忠弘の名誉回復には奔走してくれた。
明治2年11月、忠弘は、極小ながら領地が認められ、辛うじて士族という肩書きだけは得た。
明治6年、12月には、家臣達の伝で、どうやら、大久保一翁の配慮らしいとのことだが、
遅れて忠崇も、やっと東京府の十等属下級官員の座を得ることになった。
せっかくの話だったが、長くは続かない。
就職先の学務課に於いて、当時楠本正隆と喧嘩辞職。楠本は遊撃隊と戦った経緯がある。
経過_2:答えはNO!_榎本武揚と人見勝太郎
既に、遊撃隊の人見勝太郎も、榎本艦隊御大将、榎本武揚も許されて、官職についている時代だ。
あまりの苦しみ、ついに、忠崇は救援を求め手紙を送った。
しかし、ここに、彼にとっての第二の地獄が始まる。
手紙の回答は、無視という形で、完全に拒絶されたのであった。
仙台で降伏してしまった忠崇を、彼らは許せなかったのだろう。
一方、
林忠崇
は、そうとは知らなかった。
確かに仙台で、己の降伏決意を書状を受けた時、榎本の反応は怒りに満ちていたにちがいない。
しかし、立場変われば、己とて、そうであったにちがいない。笑顔で、ああそうかと言うわけはない。
強く誓い合い、共に戦い続けた仲間なのだ。あの日の怒りは、時が解決して、仲間意識は
存続されているものと思っていたようである。
仲間だと思っていたのは、夢幻だった。
世間では、「賊仲間にさえ、見捨てられた男」と後ろ指さされた。
治元年10月3日、
林忠崇
が、仙台でついに屈辱の降伏をして、
11月7日、縄を打たれて、仙台から東京へ護送された 時詠んだ辞世の句を参照。
真心のあるかなきかは、
ほふり出す腹の血しをの色にこそ知れ
切腹の覚悟で自首した彼は、降伏したからといって、己は徳川に忠義を欠いた卑怯者などではない!
怒りに震えている。
手紙を送ったが、答えはNO!
つまり、時が流れて、時代がかわっても、心と心の絆は蘇らなかった。
経過_3:最果ての函館暮らし、そして流浪
その後、どうしたものか、妻と離別して、函館で番頭生活が開始された。
豪商仲栄助に雇われ、彼の経営する箱館の店で番頭として働いた。
函館と聞くと、やはり榎本が動いたのか?とふと勘ぐってしまいそうだが、
本人の記録にはみつからないところをみると、関係ないのだろう。
しかし、栄助の死亡後、
その後は、まるでジプシーのごとく
、暫し心も住居も彷徨った。
これまでの人生、数回の縁、新たに巡りあった妻とも
別れることになり、とても人らしい幸せにはつながらなかった。
本人が手記に書いて明確なのは、座間市時代である。
神奈川県座間市の龍源院住職 の世話になって、表向き寺男のように住みついて、世話になった。
■
謎の期間
・・・官の仕事、番頭、寺男、農民・・・各時代、&謎の時期
専門家の見解では、どう考えても、計算のあわない不明な時期があるそうだ。
官の仕事は、上記の他に、もう一度あったが、そうした世間体の良い仕事の他、
番頭時代も、寺男時代も、農民時代も、この人物は手記に残している。
それでいながら、やはり、つきつめると謎の期間があるそうだ。
よほど、後々、思い出したくない辛い時期だったのかもしれない。
経過_4:救世主とふたつの血族
『かつての家臣:
広部周助の子、広部精
』と『我が子、ミツ』
【1】広部周助&広部精、【2】我が子、ミツ「林ミツ(元、妹尾順平の妻)」
【1】救世主1■_かつての家臣:広部周助の子、広部精
明治18年、4回目の幸せか?当時38歳になった忠崇は、再び結婚。娘も生まれた。
ところが、真の幸せとは、何なんだろうか?この後の行程で、別に嫌いでなかったはずの
夫婦に別れがやってくる。
明治20年代になって、本格的な救世主が現れた。
広部精
である。
奥羽参戦に従軍した家臣、広部周助(≒与惣治)の三男。
この頃になって活発に動き出した理由は不明。助けるための経済力であれば、
もう少し早期に確立されていた人物なのだ。何かの縁で、結びつきが強まったのが、
この時期だったと推定される。知っていながら、放置していた人物が、
こんなに助けてくれるわけはない。
ひとつ推定されるのは、
彼の父(広部周助)の死亡は明治19年
であることから、
遺言の可能性
。
父は生きて帰ったが、日陰の暮らし。表立って殿の名誉回復運動等の行動が、
できなかったのではなかろうか。その張本人、広部精も、全力投球で、忠崇の救済に当たり、
明治42年、死亡した。忠崇よりも、ずっと早く死んでしまった。
勝てば官軍、負ければ賊軍。その賊本人達のその後である。
そのため、堂々と本人達がその経緯や動機を書いたりはしない。官に生きる者の家系では、
ひたすら、それを伏せて、隠し続けた時代のことだ。古い資料では、
広部精
と
広部周助
の
関係は、一族であっても直接的な関係でなく、遠いと記載されたものも散見したことがある
ほどだ。本人達も、面倒事を回避する為に、OPEN状態でなかったのだろう。
しかし、結果として明確なのは、この事実だった。
忠義に徹した男、広部周助の息子が、忠崇を助けてくれた!!
・・・・血族の力であり、血族の誓いではなかろうか。
広部(廣部)精の活躍
大阪に当時住んでいた忠崇は、東京へ呼び寄せられて、本格的な名誉回復がなされた。
そればかりではなく、長年忠崇への恨みが消えず歪みが生じていた忠弘には、その根源である
彼の借金を、広部精自身が全額肩代わりした上で、忠崇にも再会させて、復縁を呼びかけてくれた。
忠弘とは:(
詳しくはこちらの頁
)
■実質、忠崇の甥(忠崇の父忠旭の弟:忠交の子)しかし書面上弟
■忠崇が参戦の際、藩主の座を譲られる予定だったが、忠崇が
自ら参戦している事実が新政府に発覚したため、全領土没収され、転落。
■明治2年11月10日(1869) 禄300石&士族と為されるも、既に借金地獄。
■当然、忠崇を恨まざるをえない。
■広部周助&広部精について
■廣部周助
:(文政4(1821)年-明治19(1886)年);享年65歳:上総請西藩士。
林忠崇(17代)の前代藩主にも仕えている。
【 林忠旭(15代:忠崇の父)、林忠交(16代:血の上では忠崇の叔父。但し父が弟を養子に
入れているため、忠崇は兄上と呼んでいた。):
林家資料はNo.5
】
藩主林忠崇に従い、遊撃隊と行動を共に徳川の為、官軍と抗戦。(経緯は本文からどうぞ:
本文No.1
)
林忠崇は会津若松に2名を残し、仙台に向かい、最終自首。この時の2名の一人。もう一人は、
犠牲の家老「北爪貢(現在頁上側及び前頁に表記)」。この時、廣部周助は逃げ切る。
その後の動き詳細は不明ながら、潜伏の身で金策に走るなど。
林忠崇が命許され謹慎に入った後の軌跡は、根岸村在住。後年、俳諧に「守黒」の名が残る。
山岡鉄州との縁があったと言われる。この人物の死亡は明治19年。
▼
この頃、今だ、林忠崇はどん底。廣部周助は、かつての殿に、名誉回復を祈りつつ、力及ばなかった。
さて、そこで上記文章内に、「恐らく、父の遺言ではないだろうか?」と記入した訳は、
ここにあります。倅の「広部精」が画期的に、林家の名誉回復に動き始めた軌跡が見えるのが明治20年。
「広部精」は、明治19年、林忠崇の名誉回復を夢みつつ虚しく果てた父を見た。その翌年が明治20年。
▼
広部精は、林忠崇を助けるのみならず、義弟の「林忠弘」との歪み回復の為に、忠弘の借金全額肩代り。
この全面犠牲的な姿、並の決意では、まずできないこと。やはり、「遺言」の可能性大。
但し、本人がそれを語らぬ原因についても、延々本文内に記載していますが、これも典型的、賊側家系
にしか解らない「枷を背負った賊側家系」の運命。賊側家系では悲しみと、生活苦悩を子孫に伝承
させぬ為に、子にさえ語らず冥土入りの例は実に多いのです。(関連:
賊側家系の明治
)
■廣部(広部)精
安政元(1854)年7月11日~明治42(1909)年8月15日:享年55歳
上総国請西藩士「廣部周助(上記ご参照)の三男
。
漢学、中国語の教育者。但し、時代背景上、彼の人生は「陸軍人」の功績履歴が多い。
<行動>
■明治8年:日清社(東京尾張町)創設。■明治10年12月:日清社廃業。
■明治12年6月~13年8月:『亜細亜言語集』刊行。
しかし、そこから先は、明治14年~明治39年迄「陸軍人」。
主に陸軍施設の教育部門に携わる期間が長く、林忠崇救済活動に画期的に動き始めた明治20年は、
幸い東京に居る。しかし、明治38年の日露戦には従軍で大陸へ。無事帰還は翌年明治39年。
これにて、やっと軍から解放されて、明治41年、孔子教会設立の上、評議員となる。
やっと彼らしい人生を手に入れたが、運命は翌年。明治42年8月15日惜しくも死亡。
尚、孔子教会設立時の同士には、大隈重信、渋沢栄一等が居た。
【2】救世主2■_忠崇の我が娘、ミツ
林家の名誉回復と、金銭的な致命傷から救出してくれたのは、上記の広部精。
しかし、この人物は、明治42年に死亡してしまった。この後、林は忠崇、我が子「ミツ」に
救われたことになる。
林家に於ける血族の力といえば、最期の妻チエとは別居、実質離婚となったが、
心は繋がっていたらしく、この後、生涯
林忠崇
を支えることになったのは、別れた妻チエ
との間に生まれた子、次女ミツであった。
裕福な家に嫁ぎ、父である忠崇もその嫁ぎ先、岡山へ。大正11年、娘の夫、妹尾順平
が暗転する。まもなく、娘は離婚。しかし、ひとつだけ、会社経営の権利を得て、離婚した。
忠崇83歳の時、娘と共に再び、東京へ。
■
ミカド商会とフランス人形
:
・・・▼内容は現在の頁、上枠:
謹慎の後人生No.2_戦争とフランス人形
と重複
娘は、ミカド商会を経営。この会社は、当時としては
なかなかの注目商品、フランス人形の製造販売を行った。大手デパートに卸し、
また、特殊商品であることから、一部の富裕層に喜ばれ、安定したシェアを獲得していた。
フランス人形の他、注目の新商品、ママー人形も扱い、たちまち豊かな貴婦人層をとりこにした。
人形を特定の角度に曲げると、「ママー!」と喋る人形なのだそうだ。
とんとん拍子が続いていた。既に時代はとっくに昭和。完全に老齢の忠崇であるが、この人物は、
幸い、体がかなり強靭にできている。背筋も曲がらず、あいかわらず元気。
さんざん苦労したり、仲間に絶望したり、血の繋がる親族にも恨まれたり、
つらい人生だったが、天は彼に唯一の贈り物として、『健康』を与えたのだろう。
経過_5:辞世の句は二度ない
■辞世の句は二度ない
かつての家来達も、もう既に皆死んだ。
義理堅い家系では、その子の代が、殿への忠義を引き継ぎ、時折挨拶に来てくれる。
その子らとて、いつまで己が生きれるか、そろそろ自信がない。
「そろそろ、我らが義理を欠いて、いつ先に逝ってしまうか解らない。今のうちに、
辞世の句をお願い致したい。」
すると、暫し間を置いたものの、忠崇は、笑って答えた。
「辞世はもうやったぞ。あれは明治元年9月21日、仙台でやった。辞世の句は二度ない。」
それは、屈辱の降伏の瞬間。死を覚悟した・・・あの時の句だった。
「真心のあるかなきかははふり出す腹の血しをの色にこそ知れ」
晩年は、皆のおかげで幸せな暮らしを得た忠崇。
人生は裏切りや絶望ばかりではない。血族と、永久の忠義を誓ったかつての家臣。
彼らの子の代にまで、ささえられた。
ここで、晩年の彼が詠んだ狂歌(概略)をひとつ。:下行の岡田斧吉の句と比較してみて下さい。
冥土から、もしも迎えが来たなら88を過してから
冥土から、またも迎えが来たなら99までは留守だと答え
それでも来たなら、いやだといえばいい
ここには、インテリ老人のユーモアが漂う。晩年幸せになれた様子も自然に伝わってくる。
しかし、この惚けた狂歌だが、ことによると、己自身の戯言でなく、
己よりも、先に逝ってしまった皆を思い、今、誰か体調思わしくなく、弱気になっている人物への
励ましの言葉であったようにも解釈できる。
そう感じた理由は、この句は、あくまで、お惚けだが、彼、忠崇が、かつて死の境地から救われたと、
絶賛したの
遊撃隊頭取改役_岡田斧吉の銘スピーチ
に形態が、ある意味で似ている。
我らの志は、徳川の回復のみ。悪戯に憤死するは愚か。
海に出て再挙を諮るべき。
■房総に敗れんか、
■奥州に敗れんか、
■蝦夷に往いかん。
箱根の大苦戦の際、このスピーチのおかげで、皆自刃を思いとどまった。
古来日本独特の一種、『NEVER GIVE UP!! 』が感じられてしかたない。
けっして軽々しいものでなく、血みどろになってどん底を這い回った苦い経験者ならではの
晩年、それらを超越した上で、お惚けという名のオブラートに包んでいる。
そして、上記のとおり、
林忠崇は、昭和16(1941)年1月22日午前11時、93歳で生涯を閉じた。
林忠崇
SEIRES_完
幕末玄関
<
林忠崇
SEIRES:
No.1
<
No.2
<
No.3
<
No.4
(現在の頁)<
No.5
林忠崇
おまとめ資料:行動年表&藩、人物、家来達
文章解説(c)by rankten_@piyo、
写真等、素材については頁下表示
▼林忠崇ショートコラム(徹底資料は真上NEXTボタンです。)
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